瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に編集し、まとめ上げた書物として前漢の劉向(BC77年~BC6年)が33篇の一つの書にまとめた「戦国策」の『斉策』に次のような件(くだり)がある。
齊閔王之遇殺、其子法章變姓名、為莒太史家庸夫。太史敫女、奇法章之狀貌、以為非常人、憐而常竊衣食之、與私焉。莒中及齊亡臣相聚、求閔王子、欲立之。法章乃自言於莒。共立法章為襄王。襄王立、以太史氏女為王后、生子建。太史敫曰:「女無謀而嫁者、非吾種也、汙吾世矣。」終身不睹。君王后賢、不以不睹之故、失人子之禮也。襄王卒、子建立為齊王。君王后事秦謹、與諸侯信、以故建立四十有餘年不受兵。秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環、曰:「齊多知、而解此環不?」君王后以示群臣、群臣不知解。君王后引椎椎破之、謝秦使曰:「謹以解矣。」及君王后病且卒、誡建曰:「群臣之可用者某」。建曰:「請書之。」君王后曰:「善。」取筆牘受言。君王后曰:「老婦已亡矣!」君王后死、後后勝相齊、多受秦間金玉、使賓客入秦、皆為變辭、勸王朝秦、不脩攻戰之備。
〔訳〕斉の閔王が殺されるや、その子法章は、姓名を変えて、莒(きょ)の太史の家の雇い人になった。太史敫(きょう)の娘は、法章の容貌風姿を奇(く)しと見、只者ではないであろうと、同情して、始終こっそり衣食を恵み、情交を通じた。やがて、莒をはじめ斉(首都臨淄)の姿をくらましていた臣下達が相寄って、王に立てようと、閔王の子を探しにかかった。そこで、法章は莒で自分から名乗り、臣下達はともどもに法章を立てて襄王とした(BC273年)。襄王は即位すると、太史の娘を王后に立て、子建(けん)を生んだ。太史敫(きょう)は、
「仲立ちなしに嫁いだ娘は、わたしの眷族ではない。わたしの生涯に泥をぬりおった」
と言い、終生あわなかった。が君王后はよく出来た婦人で、会ってくれぬからと、子としての礼を欠くことはなかった。
襄王が卒し、子建が立って斉王となった。君王后は、秦に仕えて恭謹、諸侯とは信義をもって交わった。そのため、建が立って四十余年というもの、侵攻を蒙らなかったのである。
秦の始皇帝が、使者を遣り、こういって君王后に玉連環(玉を組合わせた智恵の輪)を贈らせたことがあった。
「斉には知恵者が大勢おいでだが、この環をお解けかな?」
君王后が群臣に見せたところ、誰にも解き方が判らない。すると君王后は椎(つち)を引き寄せて打ち砕き、秦の使者に謝して言った、
「つつしんで、お解きいたしました」
君王后は、病んでいまわの際に及び、建を戒めて、
「君臣の中で、お用いになるべきは某」
と言った。建が、
「書き取らせてください」
と言うと、君王后は、
「いいよ」
と言ったが、いざ、書きものと書きしるす板とを持って待ち受けると、君王后は言った。
「おいぼれめが、はや忘れてしまいました」
君王后がみまかると、后勝〔こうしょう、未詳〕が斉の宰相となり、秦の間諜からしこたま金玉を貰いうけ、賓客たちを秦に送り込んだ。賓客達はいずれもおためごかしを言い、秦に入朝するように王に勧めて、戦の具えを怠らせたのであった。
齊閔王之遇殺、其子法章變姓名、為莒太史家庸夫。太史敫女、奇法章之狀貌、以為非常人、憐而常竊衣食之、與私焉。莒中及齊亡臣相聚、求閔王子、欲立之。法章乃自言於莒。共立法章為襄王。襄王立、以太史氏女為王后、生子建。太史敫曰:「女無謀而嫁者、非吾種也、汙吾世矣。」終身不睹。君王后賢、不以不睹之故、失人子之禮也。襄王卒、子建立為齊王。君王后事秦謹、與諸侯信、以故建立四十有餘年不受兵。秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環、曰:「齊多知、而解此環不?」君王后以示群臣、群臣不知解。君王后引椎椎破之、謝秦使曰:「謹以解矣。」及君王后病且卒、誡建曰:「群臣之可用者某」。建曰:「請書之。」君王后曰:「善。」取筆牘受言。君王后曰:「老婦已亡矣!」君王后死、後后勝相齊、多受秦間金玉、使賓客入秦、皆為變辭、勸王朝秦、不脩攻戰之備。
〔訳〕斉の閔王が殺されるや、その子法章は、姓名を変えて、莒(きょ)の太史の家の雇い人になった。太史敫(きょう)の娘は、法章の容貌風姿を奇(く)しと見、只者ではないであろうと、同情して、始終こっそり衣食を恵み、情交を通じた。やがて、莒をはじめ斉(首都臨淄)の姿をくらましていた臣下達が相寄って、王に立てようと、閔王の子を探しにかかった。そこで、法章は莒で自分から名乗り、臣下達はともどもに法章を立てて襄王とした(BC273年)。襄王は即位すると、太史の娘を王后に立て、子建(けん)を生んだ。太史敫(きょう)は、
「仲立ちなしに嫁いだ娘は、わたしの眷族ではない。わたしの生涯に泥をぬりおった」
と言い、終生あわなかった。が君王后はよく出来た婦人で、会ってくれぬからと、子としての礼を欠くことはなかった。
襄王が卒し、子建が立って斉王となった。君王后は、秦に仕えて恭謹、諸侯とは信義をもって交わった。そのため、建が立って四十余年というもの、侵攻を蒙らなかったのである。
秦の始皇帝が、使者を遣り、こういって君王后に玉連環(玉を組合わせた智恵の輪)を贈らせたことがあった。
「斉には知恵者が大勢おいでだが、この環をお解けかな?」
君王后が群臣に見せたところ、誰にも解き方が判らない。すると君王后は椎(つち)を引き寄せて打ち砕き、秦の使者に謝して言った、
「つつしんで、お解きいたしました」
君王后は、病んでいまわの際に及び、建を戒めて、
「君臣の中で、お用いになるべきは某」
と言った。建が、
「書き取らせてください」
と言うと、君王后は、
「いいよ」
と言ったが、いざ、書きものと書きしるす板とを持って待ち受けると、君王后は言った。
「おいぼれめが、はや忘れてしまいました」
君王后がみまかると、后勝〔こうしょう、未詳〕が斉の宰相となり、秦の間諜からしこたま金玉を貰いうけ、賓客たちを秦に送り込んだ。賓客達はいずれもおためごかしを言い、秦に入朝するように王に勧めて、戦の具えを怠らせたのであった。
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