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  中国には、古くから輪が九個のものがあり、九連環と呼ばれていた。材質は鉄か銅であったが、そのもとのものに石で作られた知恵の輪があった。中国の古い歴史の本『戦国策』の中に出てくる玉連環がそれだと言われている。話はこうである。
 戦国時代(BC403 ~ 221年)のことである。大国秦の始皇帝の使者が斉にやってきた。当時、斉では襄王が亡くなって、その后の君王后が政治を行っていた。使者は君王后に玉連環を献上してこう言った。
「斉には知恵者が多いと聞きました。ぜひこの環をはずしてみて下さい。」
 君王后は家臣の者に玉連環を渡したが、だれもはずすことができなかった。すると后は槌を取り寄せると、玉連環を打ち壊し、秦の使者にこう言った。
「謹んではずしましたよ」 (3月12日のブログ「君王后」を参照)
 一方では九連環は、「諸葛亮(181~234年)が、妻の無聊(ぶりょう)の退屈を慰めるために考案した」という伝説もある。孔明が開発したものには諸葛菜・銅弩機・木牛・流馬・紙芝居・諸葛錦・饅頭などなど、沢山ののものがあるが、そのなかでも孔明が開発したといわれる玩具に孔明鎖とこの九連環があるというのである。
 
2b441496.jpeg 九連環は、17世紀後半には、日本でもよく知られたパズルになっている。結構人気のあったことは、紋章に知恵の輪の紋(左図参照)まであることでも知られよう。また、『大坂独吟集(1675《延宝3年》刊、編者未詳)』の中にある「智恵の輪や 四条通に ぬけぬらん」という鶴永(井原西鶴、1642~1693年)の句などから窺うことができる。
 
 杉田玄白(1733~1817年)の『蘭学事始』の中には「明和6(1769)年、長崎のオランダ商館長(カピタン)Jan Crans(ヤン・クランス)が江戸の長崎屋に滞在した時、酒宴の席で平賀源内(1728~1780年)が金袋の口に取り付けられていた智恵の輪を苦も無くあけてしまったという記事が書かれている。(3月13日のブログ「カランスと源内」を参照)
 
 大数学者で、関孝和に対抗して最上(もがみ)流という一派を立てた会田安明(あいだやすあき、1747~1817年)は、数え年九歳(1755年)のとき、人から九連環をもらった。父親に見せると、昔やったことがあると言って、三つ四つ輪をはずしたが、それ以上はできなかった。これだけはずせるのなら、理詰めで全部はずせるはずだと安明が言うと、父親は「では考えてみなさい」と言った。それから安明は一晩寝ないで考え、とうとう知恵の輪の原理を解明した。彼はこれで自信を得て、数学の道へ進む決心をしたという。
 偉人のエピソードというものは後年の創作が多いが、この話は安明自身自叙伝の冒頭に書いているので、信用してもよいだろう。
 
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