瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
列女傳 巻二賢明伝 「楚接與妻」 劉向
楚狂接輿之妻也。接輿躬耕以為食、楚王使使者持金百鎰、車二駟、往聘迎之、曰:「王願請先生治淮南。」接輿笑而不應、使者遂不得與語而去。
妻從市來、曰:「先生以而為義、豈將老而遺之哉!門外車跡、何其深也?」接輿曰:「王不知吾不肖也、欲使我治淮南、遣使者持金駟來聘。」其妻曰:「得無許之乎?」接輿曰:「夫富貴者、人之所欲也、子何惡、我許之矣。」妻曰:「義士非禮不動、不為貧而易操、不為賤而改行。妾事先生、躬耕以為食、親績以為衣、食飽衣暖、據義而動、其樂亦自足矣。若受人重祿、乘人堅良、食人肥鮮、而將何以待之!」接輿曰:「吾不許也。」妻曰:「君使不從、非忠也。從之又違、非義也。不如去之。」
夫負釜甑、妻戴紝器、變名易姓而遠徙、莫知所之。君子謂接輿妻為樂道而遠害、夫安貧賤而不怠於道者、唯至德者能之。《詩》曰:「肅肅兔罝、椓之丁丁。」言不怠於道也。
頌曰:接輿之妻、亦安貧賤、雖欲進仕、見時暴亂、楚聘接輿、妻請避館、戴紝易姓、終不遭難。
〔訳〕
楚の国の狂人接輿(しゅうよ)の妻の話である。
接輿は田畑を耕して暮らしていた。〔あるとき、〕楚王が使者に金二千両と四頭立ての馬車二輌を持参させ、彼を招聘使用としたことがある。使者は口上を述べた。
「王は先生に淮南(淮水以南)の地を治めていただきたいときぼうしております」
接輿は笑ったまま返答しない。使者は結局話し合いが出来ないで立ち去った。彼の妻が市場から帰ってきて言った。
「先生(あなた)はお若い時から節義を重んじていらっしゃいましたが、なんと、お歳を召して、お忘れになったのでしょうか。門の外には車の跡が、くっきりついていましてよ」
接輿は言った。
「王はわしが愚か者とは知りなさらん。あろうことか、わしに淮南を治めさせようとて、使者を遣わし、金や馬車を持参させて、招こうとなさったのじゃ」
彼の妻は言った。
「まさかご承諾なさったわけではありますまいね」
接輿は言った。
「富貴というものは誰でも欲しがるものじゃ。お前はどうして、わしのすることに目くじらを立てるんだ。ああ、承諾したとも」
妻は言った。
「義士は、礼の法則に外れた行動をとらず、貧乏の故に節操を破らず、賎しい身分の故に品行を汚さないものです。妾(わたし)が先生(あなた)にお仕えしてからは、田畑を耕しては食糧を得、糸を紡いでは着る物を作ってまいりました。腹がくちくなるほど食べ、暖かい衣服を身につけ、節義に従ってこうどうしていたのです。楽しさもわれわれ自身の手で作り出してきたのです。もし、人さまから高い俸禄をいただき、人さまが作った立派な馬車に乗り、人さまが調理した上等の肉や新鮮な魚を食べるようになりますと、妾といたしましては、お仕えのしようがなくなってしまいます」
接輿は言った。
「わしは承諾しなかったんじゃ」
妻は言った。
「主君の仰せに従わないのは、忠誠ではありませんし、仰せに従うと節義をわすれることになります。立ち去るのがいちばんです」
旦那は釜と蒸篭(せいろう)を背負い、奥さんは機織の器具を頭に載せ、姓名を変えて、遠くへ引っ越し、何処へ行ったのかわからなくなった。有識者は言う。
「接輿の妻は楽しみつつ道義を守り、災害から身を避けた。一体、貧賤を意に介さず、道義に励むのは、最高の徳を備えたものだけが為し得ることである。『詩経』に『肅肅たり兎の罝(あみ)、之を椓(う)つこと丁々(ちょうちょう)たり』というのは、道義に励む様を言ったものである。
賞賛の言葉。「接輿の妻も、貧賤を意に介さなかった。宮仕えを思い立ったものの、動乱の時世と見きわめてやめてしまった。楚の国は接輿を招聘したが、彼の妻は引越しを希望し、機織の器具を頭に載せ、姓名を変えたので、とうとう災難にあわずにすんだのである」
※ 劉向(りゅう きょう、BC77~BC 6年)は、前漢の学者、政治家。はじめの名は更生、字は子政。戦国策など多数の著作者で知られる。高祖劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。陽城侯・劉徳の第2子で、兄に劉安民が、弟(名は不詳)の息子に劉慶忌がいる。前漢の宗室の身分である。
詩経 国風 周南 兔罝
肅肅兔罝 肅肅(しゅくしゅく)たる兔罝(としゃ)
椓之丁丁 之を椓(たく)すること丁丁たり
赳赳武夫 赳赳(きゅうきゅう)たる武夫(もののふ)は
公侯干城 公侯の干城(かんじょう)
肅肅兔罝 肅肅たる兔罝
施于中逵 中逵(ちゅうき)に施(いた)る
赳赳武夫 赳赳たる武夫は
公侯好仇 公侯の好仇(こうきゅう)
肅肅兔罝 肅肅たる兔罝
施于中林 中林(ちゅうりん)に施る
赳赳武夫 赳赳たる武夫は
公侯腹心 公侯の腹心
〔訳〕 すき間もないわ 兔(うさぎ)あみ
杙(くい)うつ音も ちょうちょうと
武(たけ)きもののふ
君がまもり
すき間もないわ 兔あみ
道のちまたに めぐらせり
武きもののふ
君がよき伴(とも)
すき間もないわ 兔あみ
林の中に めぐらせり
武きもののふ
君が腹心(たのみ)
※ 杙(くい)を打ち込み、兔網を要所要所に張り巡らすことをもって、君の腹心、国家の干城なる武人を興する歌だとされる。
楚狂接輿之妻也。接輿躬耕以為食、楚王使使者持金百鎰、車二駟、往聘迎之、曰:「王願請先生治淮南。」接輿笑而不應、使者遂不得與語而去。
妻從市來、曰:「先生以而為義、豈將老而遺之哉!門外車跡、何其深也?」接輿曰:「王不知吾不肖也、欲使我治淮南、遣使者持金駟來聘。」其妻曰:「得無許之乎?」接輿曰:「夫富貴者、人之所欲也、子何惡、我許之矣。」妻曰:「義士非禮不動、不為貧而易操、不為賤而改行。妾事先生、躬耕以為食、親績以為衣、食飽衣暖、據義而動、其樂亦自足矣。若受人重祿、乘人堅良、食人肥鮮、而將何以待之!」接輿曰:「吾不許也。」妻曰:「君使不從、非忠也。從之又違、非義也。不如去之。」
夫負釜甑、妻戴紝器、變名易姓而遠徙、莫知所之。君子謂接輿妻為樂道而遠害、夫安貧賤而不怠於道者、唯至德者能之。《詩》曰:「肅肅兔罝、椓之丁丁。」言不怠於道也。
頌曰:接輿之妻、亦安貧賤、雖欲進仕、見時暴亂、楚聘接輿、妻請避館、戴紝易姓、終不遭難。
〔訳〕
楚の国の狂人接輿(しゅうよ)の妻の話である。
接輿は田畑を耕して暮らしていた。〔あるとき、〕楚王が使者に金二千両と四頭立ての馬車二輌を持参させ、彼を招聘使用としたことがある。使者は口上を述べた。
「王は先生に淮南(淮水以南)の地を治めていただきたいときぼうしております」
接輿は笑ったまま返答しない。使者は結局話し合いが出来ないで立ち去った。彼の妻が市場から帰ってきて言った。
「先生(あなた)はお若い時から節義を重んじていらっしゃいましたが、なんと、お歳を召して、お忘れになったのでしょうか。門の外には車の跡が、くっきりついていましてよ」
接輿は言った。
「王はわしが愚か者とは知りなさらん。あろうことか、わしに淮南を治めさせようとて、使者を遣わし、金や馬車を持参させて、招こうとなさったのじゃ」
彼の妻は言った。
「まさかご承諾なさったわけではありますまいね」
接輿は言った。
「富貴というものは誰でも欲しがるものじゃ。お前はどうして、わしのすることに目くじらを立てるんだ。ああ、承諾したとも」
妻は言った。
「義士は、礼の法則に外れた行動をとらず、貧乏の故に節操を破らず、賎しい身分の故に品行を汚さないものです。妾(わたし)が先生(あなた)にお仕えしてからは、田畑を耕しては食糧を得、糸を紡いでは着る物を作ってまいりました。腹がくちくなるほど食べ、暖かい衣服を身につけ、節義に従ってこうどうしていたのです。楽しさもわれわれ自身の手で作り出してきたのです。もし、人さまから高い俸禄をいただき、人さまが作った立派な馬車に乗り、人さまが調理した上等の肉や新鮮な魚を食べるようになりますと、妾といたしましては、お仕えのしようがなくなってしまいます」
接輿は言った。
「わしは承諾しなかったんじゃ」
妻は言った。
「主君の仰せに従わないのは、忠誠ではありませんし、仰せに従うと節義をわすれることになります。立ち去るのがいちばんです」
旦那は釜と蒸篭(せいろう)を背負い、奥さんは機織の器具を頭に載せ、姓名を変えて、遠くへ引っ越し、何処へ行ったのかわからなくなった。有識者は言う。
「接輿の妻は楽しみつつ道義を守り、災害から身を避けた。一体、貧賤を意に介さず、道義に励むのは、最高の徳を備えたものだけが為し得ることである。『詩経』に『肅肅たり兎の罝(あみ)、之を椓(う)つこと丁々(ちょうちょう)たり』というのは、道義に励む様を言ったものである。
賞賛の言葉。「接輿の妻も、貧賤を意に介さなかった。宮仕えを思い立ったものの、動乱の時世と見きわめてやめてしまった。楚の国は接輿を招聘したが、彼の妻は引越しを希望し、機織の器具を頭に載せ、姓名を変えたので、とうとう災難にあわずにすんだのである」
※ 劉向(りゅう きょう、BC77~BC 6年)は、前漢の学者、政治家。はじめの名は更生、字は子政。戦国策など多数の著作者で知られる。高祖劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。陽城侯・劉徳の第2子で、兄に劉安民が、弟(名は不詳)の息子に劉慶忌がいる。前漢の宗室の身分である。
詩経 国風 周南 兔罝
肅肅兔罝 肅肅(しゅくしゅく)たる兔罝(としゃ)
椓之丁丁 之を椓(たく)すること丁丁たり
赳赳武夫 赳赳(きゅうきゅう)たる武夫(もののふ)は
公侯干城 公侯の干城(かんじょう)
肅肅兔罝 肅肅たる兔罝
施于中逵 中逵(ちゅうき)に施(いた)る
赳赳武夫 赳赳たる武夫は
公侯好仇 公侯の好仇(こうきゅう)
肅肅兔罝 肅肅たる兔罝
施于中林 中林(ちゅうりん)に施る
赳赳武夫 赳赳たる武夫は
公侯腹心 公侯の腹心
〔訳〕 すき間もないわ 兔(うさぎ)あみ
杙(くい)うつ音も ちょうちょうと
武(たけ)きもののふ
君がまもり
すき間もないわ 兔あみ
道のちまたに めぐらせり
武きもののふ
君がよき伴(とも)
すき間もないわ 兔あみ
林の中に めぐらせり
武きもののふ
君が腹心(たのみ)
※ 杙(くい)を打ち込み、兔網を要所要所に張り巡らすことをもって、君の腹心、国家の干城なる武人を興する歌だとされる。
昨日メールを送信したHA氏から、着信の報せがあり、氏の作品が添付してあった。大垣市郊外の風景であろうか。
古いアルバムから、兼愛塾に勤めてもらっていた頃のHA氏の写真を探し出してみた。いずれも色があせてしまっているが、ブログに貼り付けてみた。
人日立春 羅隠
一二三四五六七 一二三四五六七
萬木生芽是今日 萬木(ばんぼく)芽を生ずるは是(これ)今日
遠天帰雁払雲飛 遠天(えんてん)の帰雁(きがん)雲を払って飛び
近水遊魚迸氷出 近水(きんすい)の遊魚(ゆうぎょ)氷を迸(ほとばし)って出ず
〔訳〕
一二三四五六七(正月七日が、今年は立春となった)、
すべての木が芽を出すのは、この今日である。
遠い空の帰っていく雁の列は、雲をはらうように飛んで行き、
近くの池や川の魚は、氷からほとばしるように飛びはねる。
※今年の立春は陰暦正月13日であるが、30年に1度位の確率で、旧暦1月7日と立春が重なることがあるらしい。
羅隠(らいん、833~909年)は五代の詩人。字は昭諫(しょうれん)。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐(せんりゅう、852~932年)に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠(852~912年、五代後梁の初代皇帝)に諫議大夫として召されるが行かず。
本日は1月7日、古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。
また、この日には7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七種粥となった。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝った。
さらに、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われている。
人日思歸 人日(じんじつ)帰るを思ふ
隋・薛道衡
入春纔七日、 春に入りて 纔(わづ)かに七日、
離家已二年。 家を離れて 已(すで)に二年。
人歸落雁後、 人の帰るは 雁(がん)の後に落ち、
思發在花前。 思ひの発するは 花の前に在り。
〔訳〕
年が明けてからわずかに七日。/家を離れてすでに二年になる。/私が帰れるのは雁の飛び立った後になりそうだ。/帰りたい思いは、花の咲く前から抱いているのだが。
薛道衡(せつ どうこう、540~609年)は、中国南北朝時代および隋の文学者。字は玄卿。河東郡汾陰(現山西省)の人。薛収(せつしゅう、592年 - 624年、中国の唐の文学者、政治家)の父、薛稷(せつしょく、649~713年、中国唐代の書家・画家)の曾祖父。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。
午後、西宮のYU氏から、お年賀として、清酒菊正宗「大輪田泊」が送られてきた。8日から始るNHKの大河ドラマ「平清盛」を記念して発売された清酒らしい。
大輪田泊(おおわだのとまり)は兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えたという。
岐阜県は大垣市在住で、兼愛塾教師をしてくださっていたA氏より早速にメールを戴いた。
「先日、日高先生のブログにコメントを書き込みましたHAです。/お察しのとおり、そちらで先生としてお世話になり、岐阜県大垣市で写真館を営んでいるAです。/その節には、何かとお世話になり有難うございました。先生も奥様もお元気そうで何よりです。/最近「年金なんとか便」なるものが国から送られて来て、その中には兼愛塾で働いていた期間と、日高先生のお名前も記載されていました。それを見てとても懐かし
く,「兼愛塾」で検索したところ、先生のブログにたどり着きました。/宏明君が亡くなったことは、以前にお聞きしましたが、弟さんまでが亡くなられたとは、親御さんもさぞ落胆されたことでしょう。お察し致します。また,年末には先生のお姉様がお亡くなりになったとか、、。/遅ればせながらお悔やみ申し上げます。/1月4日の先生のブログの写真は後列中央は奥様ですよね/え?? その右が宏明君の妹さんかと思ったのです。/私も今年は65歳になります。写真の仕事は最盛期の10分の1もありませんが、それでも写真は写しています。/あまりお金にはなりませんが、最盛期のときより中味のある写真を撮っていると自画自賛して、生きている証拠としています。/これからも先生のブログを楽しみにしています。/失礼します HA
日高節夫様」
すぐに返信メールをおくった。(ここには貼付写真は省略)
「早速のメール有難うございます。/アドレスを私のパソコンに搭載いたしましたので、テスト送信してみます。/貼付した写真は昨年暮れに撮りました「兼愛塾塾友会忘年会」の参加者全員です。毎年、12月にはこのように塾友が集まり、わいわい騒いでいます。中には記憶に残る顔もあろうかと思いますが、如何ですか。/これからも、時には近況等をメールで交換いたしましょう。/まずは、テスト送信旁写真貼付まで」
昨日のブログ、尭問篇にある楚の偽狂人接輿について、調べてみた。
論語 微子篇 より
楚狂接輿歌而過孔子曰:「鳳兮!鳳兮!何德之衰?往者不可諫、來者猶可追。已而、已而!今之從政者殆而!」孔子下、欲與之言。趨而辟之、不得與之言。
楚(そ)の狂(きょう)、接輿(せつよ)、歌って孔子を過(よぎ)りて曰く、鳳(ほう)や鳳(ほう)や、なんぞ徳の衰えたる。往(ゆ)きし者は諌(いさ)むべからず、来(きた)る者はなお追うべし。已(や)まんのみ已(や)まんのみ。今の政(まつりごと)に従う者は殆(あやう)し。孔子下(お)りてこれと言わんと欲す。趨(はし)りてこれを辟(さ)け、これと言うを得(え)ざりき。
〔訳〕
楚の気違い接輿(しょうよ)と渾名のある男が、孔子先生の宿所の前を通り過ぎた。その歌はこうであった。「鳳(おおとり)よ鳳よ お前の徳の何と衰えたことよ 過ぎし日の過ちは咎めるすべもないが 追えば間に合う未来がある 思い切れ思い切れ 今時 政治に手を出すのは危険だ」 孔子は堂を下りてこの男と語ろうとなさったが、彼は急ぎ足でこれを避けたので、この場の談合は出来なかった。
荘子 人間世第四 より
孔子適楚、楚狂接輿遊其門曰
鳳兮鳳兮、何如德之衰也! 來世不可待、往世不可追也。天下有道、聖人成焉;天下無道、聖人生焉。方今之時、僅免刑焉。福輕乎羽、莫之知載;禍重乎地、莫之知避。已乎已乎、臨人以德! 殆乎殆乎、畫地而趨! 迷陽迷陽、無傷吾行! 吾行卻曲、無傷吾足! 山木自寇也、膏火自煎也。桂可食、故伐之;漆可用、故割之。人皆知有用之用、而莫知無用之用也。
〔訳〕
孔子が楚の国に行ったおりのこと、楚の狂(きょう)接輿(せつよ)が孔子の門の辺りをぶらつきながら言った。
「鳳(ほう)よ! 鳳よ! など徳の衰えし
来世は待つによしなく、いにし世は追うべからず
天下に道あれば聖人の事も成り 天下に道なくば聖人はただ生くる
今の世にあたり、刑をまぬかれんことかたし
さいわいは羽よりかろくして、求むることを知らず
やんぬるかな やんぬるかな、徳もて人にのぞまんは
あやいかな、あやういかな、地をかぎりて歩まん
迷陽! 迷陽! わが歩みをそこなうなかれ
わがあゆみをとおくせば、わが足をやぶることなからむ
山の木はわれとわが身にあだをくわえ、
灯のあぶらはわれとわが身を焼く
肉桂は食べられるからこそ伐られ
漆は用いられるからこそさかれる
人はみな有用の用は知っているが
無用の用は知らない
史記 孔子世家第十七 より
楚狂接輿歌而過孔子曰:「鳳兮!鳳兮!何德之衰?往者不可諫兮、來者猶可追也!已而、已而!今之從政者殆而!」孔子下、欲與之言。趨而去、弗得與之言。
於是孔子自楚反乎衛。是歲也、孔子年六十三、而魯哀公六年也。
〔訳〕
楚の偽狂人の接輿(しょうよ)が歌いながら孔子の車前を通った。
鳳〔おおとり、孔子を指す〕よ 鳳よ
汝の徳も 衰えたるものかな
過去については 諌むるも詮なし
未来については 一言せん
やめよ 隠れよ
今の世の 政治する身の殆(あや)うきに
孔子は車からおりて語り合おうと望んだが、接輿は走り去ってしまって、語り合うことが出来なかった。かくして、孔子は楚から衛に帰った。この年、孔子は六十三歳で、魯の哀公の六(489)年であった。
「先日、日高先生のブログにコメントを書き込みましたHAです。/お察しのとおり、そちらで先生としてお世話になり、岐阜県大垣市で写真館を営んでいるAです。/その節には、何かとお世話になり有難うございました。先生も奥様もお元気そうで何よりです。/最近「年金なんとか便」なるものが国から送られて来て、その中には兼愛塾で働いていた期間と、日高先生のお名前も記載されていました。それを見てとても懐かし
く,「兼愛塾」で検索したところ、先生のブログにたどり着きました。/宏明君が亡くなったことは、以前にお聞きしましたが、弟さんまでが亡くなられたとは、親御さんもさぞ落胆されたことでしょう。お察し致します。また,年末には先生のお姉様がお亡くなりになったとか、、。/遅ればせながらお悔やみ申し上げます。/1月4日の先生のブログの写真は後列中央は奥様ですよね/え?? その右が宏明君の妹さんかと思ったのです。/私も今年は65歳になります。写真の仕事は最盛期の10分の1もありませんが、それでも写真は写しています。/あまりお金にはなりませんが、最盛期のときより中味のある写真を撮っていると自画自賛して、生きている証拠としています。/これからも先生のブログを楽しみにしています。/失礼します HA
日高節夫様」
すぐに返信メールをおくった。(ここには貼付写真は省略)
「早速のメール有難うございます。/アドレスを私のパソコンに搭載いたしましたので、テスト送信してみます。/貼付した写真は昨年暮れに撮りました「兼愛塾塾友会忘年会」の参加者全員です。毎年、12月にはこのように塾友が集まり、わいわい騒いでいます。中には記憶に残る顔もあろうかと思いますが、如何ですか。/これからも、時には近況等をメールで交換いたしましょう。/まずは、テスト送信旁写真貼付まで」
昨日のブログ、尭問篇にある楚の偽狂人接輿について、調べてみた。
論語 微子篇 より
楚狂接輿歌而過孔子曰:「鳳兮!鳳兮!何德之衰?往者不可諫、來者猶可追。已而、已而!今之從政者殆而!」孔子下、欲與之言。趨而辟之、不得與之言。
楚(そ)の狂(きょう)、接輿(せつよ)、歌って孔子を過(よぎ)りて曰く、鳳(ほう)や鳳(ほう)や、なんぞ徳の衰えたる。往(ゆ)きし者は諌(いさ)むべからず、来(きた)る者はなお追うべし。已(や)まんのみ已(や)まんのみ。今の政(まつりごと)に従う者は殆(あやう)し。孔子下(お)りてこれと言わんと欲す。趨(はし)りてこれを辟(さ)け、これと言うを得(え)ざりき。
〔訳〕
楚の気違い接輿(しょうよ)と渾名のある男が、孔子先生の宿所の前を通り過ぎた。その歌はこうであった。「鳳(おおとり)よ鳳よ お前の徳の何と衰えたことよ 過ぎし日の過ちは咎めるすべもないが 追えば間に合う未来がある 思い切れ思い切れ 今時 政治に手を出すのは危険だ」 孔子は堂を下りてこの男と語ろうとなさったが、彼は急ぎ足でこれを避けたので、この場の談合は出来なかった。
荘子 人間世第四 より
孔子適楚、楚狂接輿遊其門曰
鳳兮鳳兮、何如德之衰也! 來世不可待、往世不可追也。天下有道、聖人成焉;天下無道、聖人生焉。方今之時、僅免刑焉。福輕乎羽、莫之知載;禍重乎地、莫之知避。已乎已乎、臨人以德! 殆乎殆乎、畫地而趨! 迷陽迷陽、無傷吾行! 吾行卻曲、無傷吾足! 山木自寇也、膏火自煎也。桂可食、故伐之;漆可用、故割之。人皆知有用之用、而莫知無用之用也。
〔訳〕
孔子が楚の国に行ったおりのこと、楚の狂(きょう)接輿(せつよ)が孔子の門の辺りをぶらつきながら言った。
「鳳(ほう)よ! 鳳よ! など徳の衰えし
来世は待つによしなく、いにし世は追うべからず
天下に道あれば聖人の事も成り 天下に道なくば聖人はただ生くる
今の世にあたり、刑をまぬかれんことかたし
さいわいは羽よりかろくして、求むることを知らず
やんぬるかな やんぬるかな、徳もて人にのぞまんは
あやいかな、あやういかな、地をかぎりて歩まん
迷陽! 迷陽! わが歩みをそこなうなかれ
わがあゆみをとおくせば、わが足をやぶることなからむ
山の木はわれとわが身にあだをくわえ、
灯のあぶらはわれとわが身を焼く
肉桂は食べられるからこそ伐られ
漆は用いられるからこそさかれる
人はみな有用の用は知っているが
無用の用は知らない
史記 孔子世家第十七 より
楚狂接輿歌而過孔子曰:「鳳兮!鳳兮!何德之衰?往者不可諫兮、來者猶可追也!已而、已而!今之從政者殆而!」孔子下、欲與之言。趨而去、弗得與之言。
於是孔子自楚反乎衛。是歲也、孔子年六十三、而魯哀公六年也。
〔訳〕
楚の偽狂人の接輿(しょうよ)が歌いながら孔子の車前を通った。
鳳〔おおとり、孔子を指す〕よ 鳳よ
汝の徳も 衰えたるものかな
過去については 諌むるも詮なし
未来については 一言せん
やめよ 隠れよ
今の世の 政治する身の殆(あや)うきに
孔子は車からおりて語り合おうと望んだが、接輿は走り去ってしまって、語り合うことが出来なかった。かくして、孔子は楚から衛に帰った。この年、孔子は六十三歳で、魯の哀公の六(489)年であった。
Mihoちゃんとその婚約者Mattから写真の貼付送信したお礼のメールが入った。曰く「節夫おじさん、道子おばさんへ。/早速写真を、送って頂きありがとうございます。/また、今日は短い時間でしたが、ありがとうございました。/今年も2人にとって、健康で幸せな年でありますように。/まだ、寒い日が続きますが、体に気をつけてお過ごしください。/日本で残った日を楽しみます。/また、シドニーに帰ったら連絡します。
thanks for the fast reply nice pictures and nice mazda !!!!! thank you matt../miho&Matt」
荀子 尭問篇第三十二 より
為說者曰:「孫卿不及孔子。」是不然。孫卿迫於亂世、遒於嚴刑、上無賢主、下遇暴秦、禮義不行、教化不成、仁者絀約、天下冥冥、行全刺之、諸侯大傾。當是時也、知者不得慮、能者不得治、賢者不得使。故君上蔽而無睹、賢人距而不受。然則孫卿懷將聖之心、蒙佯狂之色、視天下以愚。《詩》曰:「既明且哲、以保其身。」此之謂也。是其所以名聲不白、徒與不眾、光輝不博也。今之學者、得孫卿之遺言餘教、足以為天下法式表儀。所存者神、所過者化、觀其善行、孔子弗過。世不詳察、云非聖人、奈何!天下不治、孫卿不遇時也。德若堯禹、世少知之;方術不用、為人所疑;其知至明、循道正行、足以為紀綱。嗚呼!賢哉!宜為帝王。天地不知、善桀紂、殺賢良、比干剖心、孔子拘匡、接輿避世、箕子佯狂、田常為亂、闔閭擅強。為惡得福、善者有殃。今為說者、又不察其實、乃信其名。時世不同、譽何由生?不得為政、功安能成?志修德厚、孰謂不賢乎!
〔訳〕
ある論者は「荀子は孔子に及ばない」というけれども、そうではないのである。乱世に脅かされ、厳刑に迫られ、若いときに賢君に遇わず、晩年には乱暴な秦にでくわし、礼義がおこなわれず、教化も成しとげられず、仁徳ある者は困窮し、天下は真っ暗になり、立派な行いもそしられ、諸侯も次第に亡んでいったそういう時代では、知者もじゅうぶん考えることはできないし、有能者も事を治めることはできず、賢者も人を使うことはできない。こういうわけであるから、荀子も聖人になろうとする心を持ちながら、狂人のような風をよそおい、天下に愚人であるようにみせかけた。『詩経(大雅・蒸民篇)』に「既に聡明で英知があるから、その身を安全に保つ」と言っているのはこのことをいっているのである。このことが荀子の名声が明らかにならず、門下生も少なく、その輝きも広まなかったわけである。しかし今の学者が、荀子の残した言葉や教えを身につけることが出来れば、天下の模範となることができる。その教えのあるところはよく治まり、その教えの通過した所はよく感化される。荀子の善行は孔子でさえもこれを過ぎることはできない。世間の人はじゅうぶん知らないで、荀子は聖人でないというのは、何ということであろう。天下が平和にならなかったのは、荀子が時世にめぐりあわず、彼の説が容れられなかったからである。荀子の徳は尭・禹のように立派であっても世間の人は少しも知らないのである。荀子の論説は用いられず、人に疑われたが、その知は大変聡明で、道に従って正しく実践し、世の綱紀とすることができる。ああ、賢人だ。帝王ともなるべき人であるのに、天下の人は誰も知らないで、桀王や紂王を立派だとして、かえって賢人や勝(すぐ)れた人を殺した。殷の比干は心臓を割かれ、孔子は匡(きょう)の土地で苦しめられ、楚の接輿は世を避けて隠棲し、殷の箕子はいつわって狂人のふりをしたのに、斉の田常は叛乱を起こして斉を取り、呉の闔閭(こうりょ)は思いのままにその強力(ごうりき)を発揮し、悪いことをする者が福を得て、善人が害を受けた。今の論者は真実を明らかにしないでただその評判だけを信じているのである。時世が〔平和な時代と〕同じでなければ名誉はどうして生まれてくることがあろうか。政治を行うことができなければ、その功績はどうして遂げることができようか。志が修まり得が厚ければ、誰が賢でないといおうか。
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荀子 尭問篇第三十二 より
為說者曰:「孫卿不及孔子。」是不然。孫卿迫於亂世、遒於嚴刑、上無賢主、下遇暴秦、禮義不行、教化不成、仁者絀約、天下冥冥、行全刺之、諸侯大傾。當是時也、知者不得慮、能者不得治、賢者不得使。故君上蔽而無睹、賢人距而不受。然則孫卿懷將聖之心、蒙佯狂之色、視天下以愚。《詩》曰:「既明且哲、以保其身。」此之謂也。是其所以名聲不白、徒與不眾、光輝不博也。今之學者、得孫卿之遺言餘教、足以為天下法式表儀。所存者神、所過者化、觀其善行、孔子弗過。世不詳察、云非聖人、奈何!天下不治、孫卿不遇時也。德若堯禹、世少知之;方術不用、為人所疑;其知至明、循道正行、足以為紀綱。嗚呼!賢哉!宜為帝王。天地不知、善桀紂、殺賢良、比干剖心、孔子拘匡、接輿避世、箕子佯狂、田常為亂、闔閭擅強。為惡得福、善者有殃。今為說者、又不察其實、乃信其名。時世不同、譽何由生?不得為政、功安能成?志修德厚、孰謂不賢乎!
〔訳〕
ある論者は「荀子は孔子に及ばない」というけれども、そうではないのである。乱世に脅かされ、厳刑に迫られ、若いときに賢君に遇わず、晩年には乱暴な秦にでくわし、礼義がおこなわれず、教化も成しとげられず、仁徳ある者は困窮し、天下は真っ暗になり、立派な行いもそしられ、諸侯も次第に亡んでいったそういう時代では、知者もじゅうぶん考えることはできないし、有能者も事を治めることはできず、賢者も人を使うことはできない。こういうわけであるから、荀子も聖人になろうとする心を持ちながら、狂人のような風をよそおい、天下に愚人であるようにみせかけた。『詩経(大雅・蒸民篇)』に「既に聡明で英知があるから、その身を安全に保つ」と言っているのはこのことをいっているのである。このことが荀子の名声が明らかにならず、門下生も少なく、その輝きも広まなかったわけである。しかし今の学者が、荀子の残した言葉や教えを身につけることが出来れば、天下の模範となることができる。その教えのあるところはよく治まり、その教えの通過した所はよく感化される。荀子の善行は孔子でさえもこれを過ぎることはできない。世間の人はじゅうぶん知らないで、荀子は聖人でないというのは、何ということであろう。天下が平和にならなかったのは、荀子が時世にめぐりあわず、彼の説が容れられなかったからである。荀子の徳は尭・禹のように立派であっても世間の人は少しも知らないのである。荀子の論説は用いられず、人に疑われたが、その知は大変聡明で、道に従って正しく実践し、世の綱紀とすることができる。ああ、賢人だ。帝王ともなるべき人であるのに、天下の人は誰も知らないで、桀王や紂王を立派だとして、かえって賢人や勝(すぐ)れた人を殺した。殷の比干は心臓を割かれ、孔子は匡(きょう)の土地で苦しめられ、楚の接輿は世を避けて隠棲し、殷の箕子はいつわって狂人のふりをしたのに、斉の田常は叛乱を起こして斉を取り、呉の闔閭(こうりょ)は思いのままにその強力(ごうりき)を発揮し、悪いことをする者が福を得て、善人が害を受けた。今の論者は真実を明らかにしないでただその評判だけを信じているのである。時世が〔平和な時代と〕同じでなければ名誉はどうして生まれてくることがあろうか。政治を行うことができなければ、その功績はどうして遂げることができようか。志が修まり得が厚ければ、誰が賢でないといおうか。
横浜のIN氏から、姉への弔いのメールが入った。曰く、「日高 節夫 様/遅まきながら、大宰府の姉上さまの訃報を、きょう久しぶりのブログで知りました。/年末の大混雑の中を、九州まで御夫妻で弔問の旅をなさった由。御苦労さま、そしてお疲れ様。/ここのところ、人に言うほどのことでのないことで、パソコンのドキュメントを使っているものだから、連日、ドキュメント以外は開く気がせず、君の年末の多忙に気がつかなかった。きょう山本君の、畏まったメールのやりとりが気になって、先月末まで手繰ってみて、姉上様の訃報を知った次第。/広島疎開の時の原爆体験始め、君との共通体験の多い方と伺っていたが、でもJICAのお孫さんが、今年の4月に華燭の典を挙げられるのを楽しみにしておられたことを読んで、さもありなんと思います。/私は、お目にかかったことはないけれど、君から戴いた印刷物には、しょっちゅう登場してこられた方だけに、心から哀悼の意を捧げます。 IN」
早速、返信メール。「 弔いのメール有難う。「残った3姉兄弟のうち一番元気で飛び回っていた姉だけに、甥から電話での報せを受けた時は、一瞬眩暈を感じるほどで、相手の声を聞くだけで涙が零れて返事ができませんでした。/まあ、86歳それに、長患いをしたわけではなく、元気のままポックリ逝ってしまったのは姉の仁徳だと思うことにしました。ただ、3月には89歳になる連れ合いの義兄の今後が気になりますが、心配するだけで私にはどうすることも出来ないのが残念です。甥や姪に任せるより致し方ありません。/昨日は下関から、兄貴が家で倒れという連絡が入り、あれやこれやとてんやわんや。結局A型インフルエンザで高熱のため意識不明となっただけで、入院することもなく家に帰り、今朝は口も利けるようなったということで一安心した所です。昨夕はオーストラリアから婆様の姪が婚約者を連れて帰国するというので、近所の中華料理店で会食するということになっていたのだが、婚約者のMが旅の疲れ吐気を催し、これもお流れになってしまい。正月早々あまりいい話はないようです。/まあ、それでも私ども爺婆は息災に、新年を迎えることができました。/まずは、メールのお礼旁、新年の様子お知らせまで 日高節夫」
Mihoちゃんの婚約者Mr.Mの旅の疲れも一晩で癒えたということで、昼前に我が家を訪ねてくれた。我が家の大家でもある婆様の姪のS家の一家も集まって積もる話に花を添えた。年末から落ち込んでいた爺であったが、みんなの明るい話に大いに気を取り戻すことが出来た。
早速、返信メール。「 弔いのメール有難う。「残った3姉兄弟のうち一番元気で飛び回っていた姉だけに、甥から電話での報せを受けた時は、一瞬眩暈を感じるほどで、相手の声を聞くだけで涙が零れて返事ができませんでした。/まあ、86歳それに、長患いをしたわけではなく、元気のままポックリ逝ってしまったのは姉の仁徳だと思うことにしました。ただ、3月には89歳になる連れ合いの義兄の今後が気になりますが、心配するだけで私にはどうすることも出来ないのが残念です。甥や姪に任せるより致し方ありません。/昨日は下関から、兄貴が家で倒れという連絡が入り、あれやこれやとてんやわんや。結局A型インフルエンザで高熱のため意識不明となっただけで、入院することもなく家に帰り、今朝は口も利けるようなったということで一安心した所です。昨夕はオーストラリアから婆様の姪が婚約者を連れて帰国するというので、近所の中華料理店で会食するということになっていたのだが、婚約者のMが旅の疲れ吐気を催し、これもお流れになってしまい。正月早々あまりいい話はないようです。/まあ、それでも私ども爺婆は息災に、新年を迎えることができました。/まずは、メールのお礼旁、新年の様子お知らせまで 日高節夫」
Mihoちゃんの婚約者Mr.Mの旅の疲れも一晩で癒えたということで、昼前に我が家を訪ねてくれた。我が家の大家でもある婆様の姪のS家の一家も集まって積もる話に花を添えた。年末から落ち込んでいた爺であったが、みんなの明るい話に大いに気を取り戻すことが出来た。
今日は婆様の誕生日。1935(昭和10)年1月3日生まれであるから、本年で77歳、世間では「喜寿」という。婆様は「周りはすべて正月気分で、まともに誕生祝なんてしてもらったことがない」という。まあ、世の中あげて誕生祝をしてくれていると思えばよい。
元日 宋・王安石
爆竹声中一歳除 爆竹(ばくちく)の声中(せいちゅう)に一歳を除き
春風送暖入屠蘇 春風暖を送り屠蘇(とそ)に入る
千門万戸曈曈日 千門(せんもん)万戸(ばんこ)の曈曈(とうとう)たる日
総把新桃換旧符 総(すべ)て新桃を把(と)って旧符(きゅうふ)に換える
(訳)爆竹の音が賑やかにして、年が明けた。
春風が暖気を送って屠蘇の中へと入り込む心地。
都の家々に初日の光りが射し込む下、
古いお札に換えて、桃の画を描いた新しいお札が、戸口に張り出され新年を祝う。
元日 宋・王安石
爆竹声中一歳除 爆竹(ばくちく)の声中(せいちゅう)に一歳を除き
春風送暖入屠蘇 春風暖を送り屠蘇(とそ)に入る
千門万戸曈曈日 千門(せんもん)万戸(ばんこ)の曈曈(とうとう)たる日
総把新桃換旧符 総(すべ)て新桃を把(と)って旧符(きゅうふ)に換える
(訳)爆竹の音が賑やかにして、年が明けた。
春風が暖気を送って屠蘇の中へと入り込む心地。
都の家々に初日の光りが射し込む下、
古いお札に換えて、桃の画を描いた新しいお札が、戸口に張り出され新年を祝う。
おみくじで大吉を引き当てる確率 ―― 正月といえば初詣で。初詣でといえばおみくじ。普段は神も仏も信じない!と強がっていても、このときばかりはゲンを担いでみたくなりますよね。できることなら「大吉」を引いて、気分よく新年のスタートを切りたいもの。とはいえ、これまでの“おみくじ歴”で「大吉」を引き当てたのはわずかに2~3回。いったい「大吉」って何パーセントくらい入ってるんでしょう?/毎年250万人以上の初詣で客で賑わう浅草寺によれば、「大吉は全体の17%です」とのこと。/「あくまでも浅草寺の場合ですが、上から大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、末吉、凶の7種類あって、それぞれ17%、35%、5%、4%、3%、6%、30%という割合です」/え? 凶が30%!? それってかなりの割合ですよね?/「そうですね。浅草寺のおみくじには凶が多いとよくいわれます。おみくじを最初に作ったのは比叡山延暦寺の僧、慈恵大師良源といわれています。今から約1000年も前のことですが、そのときに良源が決めた大吉、吉、凶、その他の割合を浅草寺では忠実に守っているんです」/ただし、おみくじは時代の世相に併せて改変されているものもあるので、寺社によって割合が違うこともあるとのこと。なかには吉凶を明示しない寺社や、凶を減らしている寺社もあるようだが、3割の確率で凶を引くと思うと、やっぱりちょっと高い気が…。/「誤解している方が多いのですが、おみくじは“これから悪いことが起こりますよ”と予測する占いではありません。今一度、自分の日々の生活を見直して、心を引き締めなさいという神仏からのお告げですから、もし凶を引いても落ち込む必要はありません。逆にたとえ大吉を引いたとしても、願望や健康、恋愛といった各運勢の項目には、必ず戒めとなる言葉が書かれています。吉凶だけに一喜一憂するのではなく、中身もしっかり読んで日々の生活に生かすのが大切です」/ちなみに、一般的に日本の場合は凶が出たからといってくじを引き直してはいけないそうだ。凶が出たらその戒めをあるがままに受け入れて境内の木などに結び、吉が出たら小さく折ってタンスの隅などに入れておくといいそうです。 (ニコニコニュース 2012年1月1日(日)11時00分配信)
歳日 元稹
一日今年始 一日 今年始まる
一年前事空 一年 前事は空し
凄涼百年事 凄涼たり 百年の事
應與一年同 応に一年と同じなるべし
元旦の今日より一年が始まり
過ぎ去った一年は 空しい過去となった
思えば 人の一生など空しく寂しいもの
人生は一年と同じ 瞬く間に過ぎ去ってゆく
元稹(げんしん、または げんじん、779~831年)は、中国・唐代中期の詩人、文人、宰相。字は微之。長安に生まれた。幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。虢州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎・同平章事(宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡したという。
昨夕、kanamiちゃん・chikaeちゃんのMurata姉妹が割烹『むらた』の「おせち折り詰め」を届けてくれた。
日頃何のお世話もしていないのに、ここのところ、恒例となってしまったようで、心づくしをありがたく思う。お品書きには「すっきりと 箸のとらへし 四方の春」と、元旦にふさわしい句がそえてある。
年末の九州行きで、正月の準備等何もできなかったのだが、朝は早速「むらたの御節」で今年の健康と幸運を祈って婆様と二人で乾杯した。
一日今年始 一日 今年始まる
一年前事空 一年 前事は空し
凄涼百年事 凄涼たり 百年の事
應與一年同 応に一年と同じなるべし
元旦の今日より一年が始まり
過ぎ去った一年は 空しい過去となった
思えば 人の一生など空しく寂しいもの
人生は一年と同じ 瞬く間に過ぎ去ってゆく
元稹(げんしん、または げんじん、779~831年)は、中国・唐代中期の詩人、文人、宰相。字は微之。長安に生まれた。幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。虢州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎・同平章事(宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡したという。
昨夕、kanamiちゃん・chikaeちゃんのMurata姉妹が割烹『むらた』の「おせち折り詰め」を届けてくれた。
日頃何のお世話もしていないのに、ここのところ、恒例となってしまったようで、心づくしをありがたく思う。お品書きには「すっきりと 箸のとらへし 四方の春」と、元旦にふさわしい句がそえてある。
年末の九州行きで、正月の準備等何もできなかったのだが、朝は早速「むらたの御節」で今年の健康と幸運を祈って婆様と二人で乾杯した。
kanamiちゃん、chikaちゃん本当に有難う。
水門会での友人MY氏からお悔やみのメールが入った。
◎日高 節夫 様
本日のブログで姉上様が逝去されたとのこと心よりお悔やみ申し上げます。姉思いの貴兄にとってはさぞお力落としのこととお察しします。/お元気だった頃の姉上様とはいつか浅草寺での法事のときにお会いしいろいろお話をさせていただいたことを思い出します。/先ずはご冥福をお祈りします。
中村恵理さんのスーダンでの活躍記事拝見しました。大したものだと感銘を受けました。/益々冷え込みが厳しくなってきました。奥様共々お体ご自愛ください。
▼早々のご丁寧なお悔やみのメール有難う。心よりお礼申し上げます。/思えば姉は君の甥のTH氏の高校生の頃からのファンであったらしいですよ。/僕の甥のHNは僕の姉の息子、そして君の甥っ子のTH氏は君のお姉上の息子さん。僕と君は門司高校での同期生、そして甥同士は小倉高校での同期生。何だか因縁めいたものを感じます。/終戦の年の1945年12月の年の瀬に親父は疎開先の仮住まいであった木小屋でなくなりました。そして、今はあの時の無惨さを知る姉と私のうち、姉は先立つよう東日本大震災の今年2011年の年の瀬に、逝ってしまいました。何だかとてもはかなく無常の風に晒されている気分です。/まあ、できればこんな悲しみは忘れてしまい、佳き元旦を迎えたいものと思っております。/貴君も奥様ともども佳き元旦を迎えらることを祈っています。/まずは、お悔やみのメールの御礼まで/日高 節夫
今日は大晦日。早や今年も暮れて新しい年になる。そしてその新しい年もやがては過ぎ去ってゆく。今年は東日本大震災、そして個人的には年末に姉との別離と悲しい出来事に出会ったが、来年はこの悲しみを乗越えて、老いと衰えを気付かずに過したいものである。
別歳 蘇東披
故人適千里 故人千里に適(ゆ)く
臨別尚遅遅 別(わかれ)に臨みて尚ほ遅遅(ちち)たり
人行猶可復 人の行くは猶ほ復(か)へる可し
歳行那可追 歳の行くは那んぞ追ふ可けん
問歳安所之 歳に問ふ安(いづ)くにか之(ゆ)く所ぞ
遠在天一涯 遠く天の一涯に在り
已逐東流水 已(すで)に東流の水を逐(お)ひ
赴海帰無時 海に赴ひて帰へる時無し
東隣酒初熟 東隣の酒初めて熟し
西舎豕亦肥 西舎の豕(こぶた)亦た肥ゆ
且為一日歓 且(しばら)く一日(いちじつ)の歓を為し
慰此窮年悲 此の窮年の悲しみを慰めん
勿嗟舊歳別 嗟する勿(なか)れ舊歳の別れ
行與新歳辭 行くゆく新歳と辭せん
去去勿回顧 去去回顧する勿れ
還君老與衰 君に老と衰を還(かへ)さん
〔訳〕
友人が遠い旅に出る時、いよいよ別れ際になっても、なお歩みは遅遅として捗らない。/しかし人は旅立って行っても、帰って来られるのに、年が行ってしまうのはどうして追いかけることができよう。/年よ、あなたに問う。「いったいどこへ行くのですか。」/「それは遠い遠い大空の彼方なのです。一旦、あの東へ東へと流れる川の流れにのって大海原へ出たら最後、もう帰ってくることはないのですよ。」/東側のお隣で、ちょうどお酒がうまく醸された頃だろう。西側のうちの豚小屋に子豚がまるまる太ったことだろう。/ともかく酒肴をそろえて一日の歓を尽し、この押し迫った年の瀬の悲しみを慰めようではないか。/古い年との別れを嘆くまい。いずれ新しい年とも別れる時が来るのだ。年よ、あなたはどんどん去って行って、後を振り返りなさるな。/君に老いと衰えをお返しするから、さっさと持って行ってくれたまえ。
皆さん! どうぞ佳き年をおむかえください。
◎日高 節夫 様
本日のブログで姉上様が逝去されたとのこと心よりお悔やみ申し上げます。姉思いの貴兄にとってはさぞお力落としのこととお察しします。/お元気だった頃の姉上様とはいつか浅草寺での法事のときにお会いしいろいろお話をさせていただいたことを思い出します。/先ずはご冥福をお祈りします。
中村恵理さんのスーダンでの活躍記事拝見しました。大したものだと感銘を受けました。/益々冷え込みが厳しくなってきました。奥様共々お体ご自愛ください。
▼早々のご丁寧なお悔やみのメール有難う。心よりお礼申し上げます。/思えば姉は君の甥のTH氏の高校生の頃からのファンであったらしいですよ。/僕の甥のHNは僕の姉の息子、そして君の甥っ子のTH氏は君のお姉上の息子さん。僕と君は門司高校での同期生、そして甥同士は小倉高校での同期生。何だか因縁めいたものを感じます。/終戦の年の1945年12月の年の瀬に親父は疎開先の仮住まいであった木小屋でなくなりました。そして、今はあの時の無惨さを知る姉と私のうち、姉は先立つよう東日本大震災の今年2011年の年の瀬に、逝ってしまいました。何だかとてもはかなく無常の風に晒されている気分です。/まあ、できればこんな悲しみは忘れてしまい、佳き元旦を迎えたいものと思っております。/貴君も奥様ともども佳き元旦を迎えらることを祈っています。/まずは、お悔やみのメールの御礼まで/日高 節夫
今日は大晦日。早や今年も暮れて新しい年になる。そしてその新しい年もやがては過ぎ去ってゆく。今年は東日本大震災、そして個人的には年末に姉との別離と悲しい出来事に出会ったが、来年はこの悲しみを乗越えて、老いと衰えを気付かずに過したいものである。
別歳 蘇東披
故人適千里 故人千里に適(ゆ)く
臨別尚遅遅 別(わかれ)に臨みて尚ほ遅遅(ちち)たり
人行猶可復 人の行くは猶ほ復(か)へる可し
歳行那可追 歳の行くは那んぞ追ふ可けん
問歳安所之 歳に問ふ安(いづ)くにか之(ゆ)く所ぞ
遠在天一涯 遠く天の一涯に在り
已逐東流水 已(すで)に東流の水を逐(お)ひ
赴海帰無時 海に赴ひて帰へる時無し
東隣酒初熟 東隣の酒初めて熟し
西舎豕亦肥 西舎の豕(こぶた)亦た肥ゆ
且為一日歓 且(しばら)く一日(いちじつ)の歓を為し
慰此窮年悲 此の窮年の悲しみを慰めん
勿嗟舊歳別 嗟する勿(なか)れ舊歳の別れ
行與新歳辭 行くゆく新歳と辭せん
去去勿回顧 去去回顧する勿れ
還君老與衰 君に老と衰を還(かへ)さん
〔訳〕
友人が遠い旅に出る時、いよいよ別れ際になっても、なお歩みは遅遅として捗らない。/しかし人は旅立って行っても、帰って来られるのに、年が行ってしまうのはどうして追いかけることができよう。/年よ、あなたに問う。「いったいどこへ行くのですか。」/「それは遠い遠い大空の彼方なのです。一旦、あの東へ東へと流れる川の流れにのって大海原へ出たら最後、もう帰ってくることはないのですよ。」/東側のお隣で、ちょうどお酒がうまく醸された頃だろう。西側のうちの豚小屋に子豚がまるまる太ったことだろう。/ともかく酒肴をそろえて一日の歓を尽し、この押し迫った年の瀬の悲しみを慰めようではないか。/古い年との別れを嘆くまい。いずれ新しい年とも別れる時が来るのだ。年よ、あなたはどんどん去って行って、後を振り返りなさるな。/君に老いと衰えをお返しするから、さっさと持って行ってくれたまえ。
皆さん! どうぞ佳き年をおむかえください。
12月26日(月)午後、甥のHから電話が入る。「26日未明、母が風呂場で倒れた。発見されたときは手遅れてあった。今後の予定が決まり次第、再度連絡する」と言うことであった。
五人の兄弟姉妹のうち、幼い時代を一緒に過した期間が一番長かった姉で在ってみれば、思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。原爆直後の廣島の街を母と姉と3人でさまよったこと、三次での疎開生活、父の死…… 戦後、門司に帰ってからも、姉が結婚するまでの間、何かと世話を焼いてくれた。僕が結婚してからも、母が東京で倒れた時も、一番最初に駆けつけてくれて寝ずの看病、そして母の死の時も一番力になってくれた。
夕刻、通夜と葬儀の予定が知らされてきた。「年末ではあるし、それに高齢でもあるのだから、無理をして出かけなくてもいいですよ」という甥や姪の声であったが、早速二日市のビジネスホテルに予約をとり、翌27日の前から予定されていたA医院の検診を終えて、午前10時女房と一緒に東京駅に駆けつけた。年末で下り新幹線はどれも満席に近い混みようなので、11時10分発の「のぞみ」グリーン車で駆けつけた。米原付近の降雪で10分遅れで16時23分博多着。鹿児島本線の快速に乗りついで、どうやら通夜の始る1時間前にホテルに着いた。すぐに会場に向かう旨、姪に電話を入れると、姪が甥の息子の運転で迎えに来てくれた。会場は筑紫野市の善光会館という。祭壇はこじんまりとして質素であったが、姉にお似合いのものと思った。
会場では誰と挨拶を交わすと、涙がこみ上げてきて言葉が出ない。通夜は尼さんの正信念仏偈の読経と蓮如上人の「白骨の文章」の読み上げ、そして参列者の焼香で終った。通夜ぶるまい(精進おとし)は親族だけで済まし、甥の息子がホテルまで送ってくれた。
翌28日は午前11時に斎場において、お斎(とき、葬儀前の故人との最後の食事)というので、姪と甥の息子がホテルまで迎えに来てくれた。昨日は慌ててホテルにカメラを忘れて通夜の参加となったが、斎場に着くと早速祭壇をカメラに収める。正午頃、下関の兄が内儀と息子を連れて3人で来訪。
13時より葬儀。若いサラリーマン風の坊さんがお経(多分〔阿弥陀経〕か〔大無量寿経〕?)と正信念仏偈の最初の部分、そして「白骨の文章」読み上げ、何となく在り合わせの商業仏教に感じた。そんなことより、同じ町内に住むというAさんという方の弔辞が心を打った。
火葬場へは親族のみの15・6人で行く。精進おとしの食事の後、大宰府三条台のに設えられた祭壇にお参りして、下関の兄一家とホテルに帰る。兄と暫しの間姉との思い出。
翌29日は親父の66回目の命日。姪のCがポイントカードで指定券がとると言うことで、朝9時ホテルに駆けつけてくれた。二日市から博多駅の「のぞみ」のホームまで見送ってくれた。何とポイントカードの指定券はグリーン車であった。
旅行中天気に恵まれて何よりであった。
帰宅後、今朝ほど姪のCから電話があり、初七日は元旦に当たるので、30日(本日)に法要を行うとの報告を受けた。
いやはや、5人兄弟姉妹の内、生き残っていた3人のうち一番元気であっただけに、あっけない死であった。せめて、長患いせず、元気のままポックリと逝ってしまったのは姉の功徳であったと思う。 南無!
26日に亡くなった姉は、来年4月1日に東京で行われる初孫恵理ちゃんの結婚式を本当に楽しみにして、電話の都度、「恵理ちゃんの結婚式にはみんなと会えるわね。それまでは元気にしててね」と言っていた。
JICAのニュースとお知らせから、恵理ちゃんの活躍の記事と東京新聞の12月18日「日曜版」の記事を掲げ姉への追悼としたい。
南スーダンの人々と一緒に国づくりを考えた -中村恵理JICAアフリカ部職員- 2011年10月28日
住民投票により、国民自らの手でスーダンからの独立を選び、7月にそれを実現させた南スーダン。国全体で整備された舗装道路は70キロメートルしかない。また、15歳以上の識字率は27パーセント(女性は16パーセント)、妊産婦死亡率は10万件中2,054人と世界最低の水準にとどまり、開発課題は山積みだ。そんな南スーダンで2009年6月から2年余り、国づくりを支えた。
・戦後復興の経験を共有したい
中村職員は、幼いころから、祖父母の戦争体験を聞いて育った。二世代で人々の暮らしを大きく変えた日本の経験を、紛争後の国づくりに取り組む開発途上国の人々と共有できるのではと漠然と考えるようになった。
大学院で国際公共政策を専攻し、紛争研究のゼミに所属。2006年に国際協力銀行(JBIC)に入り、インドの円借款事業を担当した。2008年10月の統合時にJICAに移り、希望の異動先に「パキスタン」「パレスチナ」「スーダン」と、紛争影響国を挙げた。JICAといえども、治安の不安定な国での勤務を希望する職員は必ずしも多くない。すぐに異動が決まり、常駐先は、北部スーダンよりも復興への道のりが険しい南部スーダンを選んだ。
周囲からは「大変なところへ行くんだね」と言われたが、本人にそんな気負いはなかった。実際、赴任してみると首都ジュバは治安もよく、街には穏やかな空気が流れていた。ルールを守って行動したからということもあるが、危険な目に遭ったことは一度もない。生活と仕事の拠点はプレハブ。暑さは厳しかったものの、エアコンがあったため、さほど苦にはならなかった。休日にはヨガや読書で息抜きをした。
・「JICAスタイル」への理解を求めて
しかし、2005年に南北スーダンの間で包括和平合意が締結され、南部スーダン自治政府が成立してからまだ日が浅い。そのため、仕事面では苦労が伴った。中村職員の仕事は、農業・農村開発、理数科教育強化などのプロジェクトのマネジメントだが、担当省庁の行政官には、予算を組み、計画を立て、それに基づいて業務を進めるといった基本的な行政運営の経験がなかった。また、「お金さえあれば、自分たちは何でもできる」と考える人も少なくなかったため、当初は、人材育成を重視するJICAの支援は理解されにくかった。
しかし、1年、2年と政府との対話に努め、能力強化を継続した結果、省庁のさまざまな会合に呼ばれて意見を求められるようになった。ある農業省幹部は「JICAは、政策にかかわる中央省庁から現場の畑にまで日本人を送り込み、技術やノウハウを提供してくれる」と評価する。
・コミュニケーションを大切に
現地の人々から学んだこともある。南スーダンでは、部族主義や汚職によって政府内部での競争が成り立たず、透明性も確保されていない。そのため、人々の行動や発言には、文化的、歴史的な背景だけでなく、このような社会的背景があることを理解し、彼らの本当の意図をくみ取る必要があるということだ。しかし、それは、たまに会議で顔を合わせるだけでは見えてこない。彼らをよりよく理解するため、なるべく省庁や現場に足を運んだ。
2011年10月に南スーダンから帰国し、JICA本部で同国を担当する中村職員は「長期にわたる紛争が影響しているからか、南スーダンの人々は、感情を抑えがち。さらに、新しい国の誕生に伴い世界中から援助機関やNGOがジュバに集まってきており、ともすれば現地の人々の声は、かき消されてしまっている。人々との対話を大切にし、ニーズを的確にくみ取って有効な解決策を提案していければ」と話している。 JICA 「トピックス:ひと模様」より
2011年(平成23年)12月18日 東京新聞(日曜版)よりスキャン
五人の兄弟姉妹のうち、幼い時代を一緒に過した期間が一番長かった姉で在ってみれば、思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。原爆直後の廣島の街を母と姉と3人でさまよったこと、三次での疎開生活、父の死…… 戦後、門司に帰ってからも、姉が結婚するまでの間、何かと世話を焼いてくれた。僕が結婚してからも、母が東京で倒れた時も、一番最初に駆けつけてくれて寝ずの看病、そして母の死の時も一番力になってくれた。
夕刻、通夜と葬儀の予定が知らされてきた。「年末ではあるし、それに高齢でもあるのだから、無理をして出かけなくてもいいですよ」という甥や姪の声であったが、早速二日市のビジネスホテルに予約をとり、翌27日の前から予定されていたA医院の検診を終えて、午前10時女房と一緒に東京駅に駆けつけた。年末で下り新幹線はどれも満席に近い混みようなので、11時10分発の「のぞみ」グリーン車で駆けつけた。米原付近の降雪で10分遅れで16時23分博多着。鹿児島本線の快速に乗りついで、どうやら通夜の始る1時間前にホテルに着いた。すぐに会場に向かう旨、姪に電話を入れると、姪が甥の息子の運転で迎えに来てくれた。会場は筑紫野市の善光会館という。祭壇はこじんまりとして質素であったが、姉にお似合いのものと思った。
会場では誰と挨拶を交わすと、涙がこみ上げてきて言葉が出ない。通夜は尼さんの正信念仏偈の読経と蓮如上人の「白骨の文章」の読み上げ、そして参列者の焼香で終った。通夜ぶるまい(精進おとし)は親族だけで済まし、甥の息子がホテルまで送ってくれた。
翌28日は午前11時に斎場において、お斎(とき、葬儀前の故人との最後の食事)というので、姪と甥の息子がホテルまで迎えに来てくれた。昨日は慌ててホテルにカメラを忘れて通夜の参加となったが、斎場に着くと早速祭壇をカメラに収める。正午頃、下関の兄が内儀と息子を連れて3人で来訪。
13時より葬儀。若いサラリーマン風の坊さんがお経(多分〔阿弥陀経〕か〔大無量寿経〕?)と正信念仏偈の最初の部分、そして「白骨の文章」読み上げ、何となく在り合わせの商業仏教に感じた。そんなことより、同じ町内に住むというAさんという方の弔辞が心を打った。
火葬場へは親族のみの15・6人で行く。精進おとしの食事の後、大宰府三条台のに設えられた祭壇にお参りして、下関の兄一家とホテルに帰る。兄と暫しの間姉との思い出。
翌29日は親父の66回目の命日。姪のCがポイントカードで指定券がとると言うことで、朝9時ホテルに駆けつけてくれた。二日市から博多駅の「のぞみ」のホームまで見送ってくれた。何とポイントカードの指定券はグリーン車であった。
旅行中天気に恵まれて何よりであった。
帰宅後、今朝ほど姪のCから電話があり、初七日は元旦に当たるので、30日(本日)に法要を行うとの報告を受けた。
いやはや、5人兄弟姉妹の内、生き残っていた3人のうち一番元気であっただけに、あっけない死であった。せめて、長患いせず、元気のままポックリと逝ってしまったのは姉の功徳であったと思う。 南無!
26日に亡くなった姉は、来年4月1日に東京で行われる初孫恵理ちゃんの結婚式を本当に楽しみにして、電話の都度、「恵理ちゃんの結婚式にはみんなと会えるわね。それまでは元気にしててね」と言っていた。
JICAのニュースとお知らせから、恵理ちゃんの活躍の記事と東京新聞の12月18日「日曜版」の記事を掲げ姉への追悼としたい。
南スーダンの人々と一緒に国づくりを考えた -中村恵理JICAアフリカ部職員- 2011年10月28日
住民投票により、国民自らの手でスーダンからの独立を選び、7月にそれを実現させた南スーダン。国全体で整備された舗装道路は70キロメートルしかない。また、15歳以上の識字率は27パーセント(女性は16パーセント)、妊産婦死亡率は10万件中2,054人と世界最低の水準にとどまり、開発課題は山積みだ。そんな南スーダンで2009年6月から2年余り、国づくりを支えた。
・戦後復興の経験を共有したい
中村職員は、幼いころから、祖父母の戦争体験を聞いて育った。二世代で人々の暮らしを大きく変えた日本の経験を、紛争後の国づくりに取り組む開発途上国の人々と共有できるのではと漠然と考えるようになった。
大学院で国際公共政策を専攻し、紛争研究のゼミに所属。2006年に国際協力銀行(JBIC)に入り、インドの円借款事業を担当した。2008年10月の統合時にJICAに移り、希望の異動先に「パキスタン」「パレスチナ」「スーダン」と、紛争影響国を挙げた。JICAといえども、治安の不安定な国での勤務を希望する職員は必ずしも多くない。すぐに異動が決まり、常駐先は、北部スーダンよりも復興への道のりが険しい南部スーダンを選んだ。
周囲からは「大変なところへ行くんだね」と言われたが、本人にそんな気負いはなかった。実際、赴任してみると首都ジュバは治安もよく、街には穏やかな空気が流れていた。ルールを守って行動したからということもあるが、危険な目に遭ったことは一度もない。生活と仕事の拠点はプレハブ。暑さは厳しかったものの、エアコンがあったため、さほど苦にはならなかった。休日にはヨガや読書で息抜きをした。
・「JICAスタイル」への理解を求めて
しかし、2005年に南北スーダンの間で包括和平合意が締結され、南部スーダン自治政府が成立してからまだ日が浅い。そのため、仕事面では苦労が伴った。中村職員の仕事は、農業・農村開発、理数科教育強化などのプロジェクトのマネジメントだが、担当省庁の行政官には、予算を組み、計画を立て、それに基づいて業務を進めるといった基本的な行政運営の経験がなかった。また、「お金さえあれば、自分たちは何でもできる」と考える人も少なくなかったため、当初は、人材育成を重視するJICAの支援は理解されにくかった。
しかし、1年、2年と政府との対話に努め、能力強化を継続した結果、省庁のさまざまな会合に呼ばれて意見を求められるようになった。ある農業省幹部は「JICAは、政策にかかわる中央省庁から現場の畑にまで日本人を送り込み、技術やノウハウを提供してくれる」と評価する。
・コミュニケーションを大切に
現地の人々から学んだこともある。南スーダンでは、部族主義や汚職によって政府内部での競争が成り立たず、透明性も確保されていない。そのため、人々の行動や発言には、文化的、歴史的な背景だけでなく、このような社会的背景があることを理解し、彼らの本当の意図をくみ取る必要があるということだ。しかし、それは、たまに会議で顔を合わせるだけでは見えてこない。彼らをよりよく理解するため、なるべく省庁や現場に足を運んだ。
2011年10月に南スーダンから帰国し、JICA本部で同国を担当する中村職員は「長期にわたる紛争が影響しているからか、南スーダンの人々は、感情を抑えがち。さらに、新しい国の誕生に伴い世界中から援助機関やNGOがジュバに集まってきており、ともすれば現地の人々の声は、かき消されてしまっている。人々との対話を大切にし、ニーズを的確にくみ取って有効な解決策を提案していければ」と話している。 JICA 「トピックス:ひと模様」より
2011年(平成23年)12月18日 東京新聞(日曜版)よりスキャン
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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