瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
本日は二十四節気の雨水。旧暦正月(睦月)の中気にあたり、温かさに雪が雨にかわり、氷がとけ始める頃だという。
田園楽 王維
桃紅復含宿雨 桃は紅にして 復た宿雨を含み
柳緑更帯春煙 柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ
花落家僮未掃 花落ちて家僮掃はず
鴬啼山客猶眠 鴬啼きて山客猶ほ眠る
〔訳〕桃の花は紅く 昨夜の雨を含んで
柳は緑に しかも春霞をまとっている
花が散っても うちの下男は掃こうともしない
鶯が鳴いても 山中の人はまだ眠っている
夢渓筆談 巻13より 濠州武芸談
濠州定遠縣一弓手、善用矛、遠近皆伏其能。有一偷、亦善擊剌、常蔑視官軍、唯與此弓手不相下、曰:“見必與之決生死。”一日、弓手者因事至村步、適值偷在市飲灑、勢不可避、遂曳矛而鬥。觀者如堵墻。久之、各未能進。弓手者忽謂偷曰:“尉至矣。我與爾皆健者、汝敢與我尉馬前決生死乎?”偷曰:“喏。”弓手應聲刾之、一舉而斃、蓋乘其隙也。又有人曾遇強寇鬥、矛刃方接、寇先含水滿口、噀其面。其人愕然、刃已揕胸。後有一壯士復與寇遇、已先知睷水之事。寇復用之、水才出口、矛已洞頸。蓋已陳芻狗、其機已泄、恃勝失備、反受其害。
〔訳〕濠州定遠県〔あんきしょう〕に弓の狙撃兵で矛の使い手がいて遠近のものはみなその腕前に感服していた。ここにもうひとり刀の刺突がうまい盗賊がいて、いつも官兵を馬鹿にしていたが、ただこの狙撃兵とだけは意地を張り合い、「今にきっとあいつと生きるか死ぬかきめてやる」といっていた。
ある日、狙撃兵が用事で船着場に来た頃、たまたま盗賊が市場で酒を飲んでいる所に出会い、とうとう矛を取って戦う羽目になってしまった。見物人が垣根のように取り巻く中、しばらくは両方ともじっとにらみ合ったまま。狙撃兵が不意に盗賊に言った。
「警部が来たぜ。おれもお前も男だ。警部殿の馬前で生きるか死ぬか決めようじゃないか」
「よかろう」と盗賊が応えた途端、狙撃兵は盗賊を突き刺し、一挙に倒してしまった。盗賊の隙に乗じたのである。
またある人がかつて手強い賊に襲われて戦った。矛の刃がまさに触れようとした時、賊はあらかじめ口いっぱいに含んでおいた水を突然顔に吹きかけた。その人がはっとした時、すでに賊の刃は胸に突き刺さっていた。のちある壮士がまたこの賊とであったが、すでに前もって水を吹きかけることは知っていたから、賊が同じ手を用い、口からつと水を吹いた途端、矛はその頸(くび)を貫いていた。一度使ったらもう役に立たないものをまた持ち出した所で、そのからくりはもうばれているのだ。勝ち誇って用心を怠るのでは、かえってその害を受けるというものだ。
夢渓筆談 巻13より 地図
熙寧中、高麗人貢、所經州縣、悉要地圖、所至皆造送、山川道路、形熱險易、無不備載、至揚州、牒州取地圖。是時丞相陳秀公守揚、紿使者欲盡見兩浙所供供圖、仿其規模供造。及圖至、都聚而焚之、具以事聞。
〔訳〕煕寧年間〔宋、神宗の年号、1068~77年〕に、高麗が入貢した際、高麗の使者は通過する州県ごとに、いちいち地図を求めた。どこでもみな地図を作って送ったが、山川道路、地勢の険不険、すべて記入してあった。揚州に付くとここの州庁にも文書をよこして地図を求める。このとき丞相陳秀公が揚州の知事をしていたが、使者をあざむいて、両淅各州県で提出した地図を全部拝見してそれにならって揚州の地図を作って差し上げたいと言った。地図が届くと、全部を集めて燃やしてしまい、ことの顛末を朝廷に奏上した。
※陳秀公〔1011~79年〕は、本名は升之。宋の仁宗・神宗の時の人。神宗の初年に丞相となったが、王安石と意見が合わず、揚州に出向して知事をつとめ、秀国公に封ぜられた。当時宋は、北方の遼、西北方の西夏にしばしば苦しめられていたから、東北方、遼に接して国力を充実しつつあった高麗にも警戒の目を注いだのであった。
田園楽 王維
桃紅復含宿雨 桃は紅にして 復た宿雨を含み
柳緑更帯春煙 柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ
花落家僮未掃 花落ちて家僮掃はず
鴬啼山客猶眠 鴬啼きて山客猶ほ眠る
柳は緑に しかも春霞をまとっている
花が散っても うちの下男は掃こうともしない
鶯が鳴いても 山中の人はまだ眠っている
夢渓筆談 巻13より 濠州武芸談
濠州定遠縣一弓手、善用矛、遠近皆伏其能。有一偷、亦善擊剌、常蔑視官軍、唯與此弓手不相下、曰:“見必與之決生死。”一日、弓手者因事至村步、適值偷在市飲灑、勢不可避、遂曳矛而鬥。觀者如堵墻。久之、各未能進。弓手者忽謂偷曰:“尉至矣。我與爾皆健者、汝敢與我尉馬前決生死乎?”偷曰:“喏。”弓手應聲刾之、一舉而斃、蓋乘其隙也。又有人曾遇強寇鬥、矛刃方接、寇先含水滿口、噀其面。其人愕然、刃已揕胸。後有一壯士復與寇遇、已先知睷水之事。寇復用之、水才出口、矛已洞頸。蓋已陳芻狗、其機已泄、恃勝失備、反受其害。
ある日、狙撃兵が用事で船着場に来た頃、たまたま盗賊が市場で酒を飲んでいる所に出会い、とうとう矛を取って戦う羽目になってしまった。見物人が垣根のように取り巻く中、しばらくは両方ともじっとにらみ合ったまま。狙撃兵が不意に盗賊に言った。
「警部が来たぜ。おれもお前も男だ。警部殿の馬前で生きるか死ぬか決めようじゃないか」
「よかろう」と盗賊が応えた途端、狙撃兵は盗賊を突き刺し、一挙に倒してしまった。盗賊の隙に乗じたのである。
またある人がかつて手強い賊に襲われて戦った。矛の刃がまさに触れようとした時、賊はあらかじめ口いっぱいに含んでおいた水を突然顔に吹きかけた。その人がはっとした時、すでに賊の刃は胸に突き刺さっていた。のちある壮士がまたこの賊とであったが、すでに前もって水を吹きかけることは知っていたから、賊が同じ手を用い、口からつと水を吹いた途端、矛はその頸(くび)を貫いていた。一度使ったらもう役に立たないものをまた持ち出した所で、そのからくりはもうばれているのだ。勝ち誇って用心を怠るのでは、かえってその害を受けるというものだ。
夢渓筆談 巻13より 地図
熙寧中、高麗人貢、所經州縣、悉要地圖、所至皆造送、山川道路、形熱險易、無不備載、至揚州、牒州取地圖。是時丞相陳秀公守揚、紿使者欲盡見兩浙所供供圖、仿其規模供造。及圖至、都聚而焚之、具以事聞。
〔訳〕煕寧年間〔宋、神宗の年号、1068~77年〕に、高麗が入貢した際、高麗の使者は通過する州県ごとに、いちいち地図を求めた。どこでもみな地図を作って送ったが、山川道路、地勢の険不険、すべて記入してあった。揚州に付くとここの州庁にも文書をよこして地図を求める。このとき丞相陳秀公が揚州の知事をしていたが、使者をあざむいて、両淅各州県で提出した地図を全部拝見してそれにならって揚州の地図を作って差し上げたいと言った。地図が届くと、全部を集めて燃やしてしまい、ことの顛末を朝廷に奏上した。
夢渓筆談 巻13より 曹瑋の戦法
曹南院知鎮戎軍日、嘗出戰爭小捷、虜兵引去。瑋偵虜兵起遠、乃驅所掠牛羊輜重、緩驅而還、頗失部伍。其下憂之、言於瑋曰:“牛羊無用、徒縻軍、若棄之、整眾而歸。”瑋不答、使人侯。虜兵去數十裏、聞瑋利牛羊而師不整、遽襲之。瑋愈緩、行得地利處、乃止以待之。虜軍將至近、使人謂之曰:“蕃軍遠來、幾甚疲。我不欲乘人之怠、請休憩士馬、少選決戰。”虜方苦疲甚、皆欣然、嚴軍歇良久。瑋又使人諭之:“歇定可相馳矣。”於是各鼓軍而進一戰大破虜師、遂棄牛羊而還。徐謂其下曰:“吾知虜已疲、故為貪利認誘之。此其復來、幾行百裏矣、若乘銳便戰、猶有勝負。遠行之人若小憩、則足痹不能立、人氣亦闌、吾以此取之。”
〔訳〕曹南院〔曹瑋〕が鎭戎軍を治めていた頃、かつて出撃して軽く一戦をものし敵軍は兵を引いて去った。瑋は敵軍がすでに遠くに去ったことを確かめると、奪い取った牛羊輜重(しちょう)を追いたてながら、のんびりと帰途に着いたので、隊伍が乱れてしまった。部下が心配して、「牛や羊は使い道もなく、部隊の足手まといになるばかり、これを捨てて整然と隊伍を整えて帰った方がよいと存じますが」と、瑋に進言したが、瑋は黙ったまま斥候を出す。敵軍は数十里ほど兵を引いた所で、瑋が牛羊に気を取られて隊伍を乱したと聞いて、急遽取って返して瑋の軍の襲撃にかかる。瑋の方はますます行軍の速度を落とし、地の利のいい所をみつけると、そこに待機して敵軍を迎えた。
敵軍が至近距離に近づくと、使者をはけんして、「お前たちは遠くから駆けつけたので、きっと疲れていることだろう。相手の弱みに付け込むのは好まぬ。兵士も馬も一休みさせて、一息入れてから決戦することにしようではないか」と申し入れさせた。敵は折しも非常に疲れているところだったから、みな喜んで兵をまとめしばらく休息をした。瑋はまた使者を派遣して「一息入れた所で、さて勝負いたそう」と申し入れ、太鼓を打って各部隊を進攻させ、一撃で敵部隊を大いに破ると、牛羊を捨てて帰還した。ここで瑋はやっと口を開いて部下に言った。
「わしは敵がすでに戦い疲れているのを知っていたから、わざと欲に目がくらんだふりをして敵を誘ったのだ。再び追いついた時には、敵は百里近くも走り続けているわけだ。もしその勢いに乗ってすぐ戦闘に突入したなら、まだ相当戦えただろう。が、長距離は知ったものが、ちょっと一休みをすると、かえって足がしびれて立てなくなり、意気も挫けてしまうものだ。そこをわしは狙ってやったのさ」と。
※曹瑋〔973~1030年〕は、字は宝臣、諡は武穆(ぶぼく)。のち宋代において軍事を司る最高機関であった枢密院の次官〔簽書枢密院事〕になり、宣徽(せんき)南院〔宮中の祭宴を司る役所。大臣・枢密院官などの高官が担当する〕の官にもなつたので曹南院と呼ばれる。太宗の時、西夏軍に対する作戦を十九歳で担当し、その時すでに老将のように沈着であったという。真宗が即位すると、引き続き対西夏作戦にあたり、鎭戎軍の長官となって、西夏の太宗李継遷〔けいせん、963~1004年〕の軍をしばしば破った。以後40年間の先人生活で失策を犯したことがないという名称であった。
夢渓筆談 巻13より 王元澤の機転
王元澤數歳時、客有以一麞一鹿同籠以問雱:“何者是麞、何者是鹿?”雱實未識、良久對曰:“麞邊者是鹿、鹿邊者是麞。”客大奇之。
〔訳〕王元沢〔王雱(おうほう)〕が五、六歳の時、ある客が麞(のろ)と鹿とを同じ籠に入れて「どっちが麞でどっちが鹿だ?」と雱に聞いた。雱には実は未だその見分けはつかなかったのだが、ややあって「麞の隣にいるのが鹿で、鹿の隣にいるのが麞だよ」と応えたので、客は大いに感心した。
※王雱(1043~1076年)の字は元澤、王安石の子で少年の頃から才華に溢れ、元服前にすでに数万言の書を著したという。のち天章閣待制の官となったが、三十三歳にして父に先立ち世を去った。
※麞(のろ)は角が短い小型の鹿。肩髙70cmほど。夏毛は赤褐色で冬毛は淡黄色。臀部に大きな白斑がある。なおここで言う鹿はいわゆるニホンジカの類、すなわち肩高70~90cmで、栗色の毛に白斑をもち、冬には斑紋がなくなり、灰褐色となるもの。
曹南院知鎮戎軍日、嘗出戰爭小捷、虜兵引去。瑋偵虜兵起遠、乃驅所掠牛羊輜重、緩驅而還、頗失部伍。其下憂之、言於瑋曰:“牛羊無用、徒縻軍、若棄之、整眾而歸。”瑋不答、使人侯。虜兵去數十裏、聞瑋利牛羊而師不整、遽襲之。瑋愈緩、行得地利處、乃止以待之。虜軍將至近、使人謂之曰:“蕃軍遠來、幾甚疲。我不欲乘人之怠、請休憩士馬、少選決戰。”虜方苦疲甚、皆欣然、嚴軍歇良久。瑋又使人諭之:“歇定可相馳矣。”於是各鼓軍而進一戰大破虜師、遂棄牛羊而還。徐謂其下曰:“吾知虜已疲、故為貪利認誘之。此其復來、幾行百裏矣、若乘銳便戰、猶有勝負。遠行之人若小憩、則足痹不能立、人氣亦闌、吾以此取之。”
〔訳〕曹南院〔曹瑋〕が鎭戎軍を治めていた頃、かつて出撃して軽く一戦をものし敵軍は兵を引いて去った。瑋は敵軍がすでに遠くに去ったことを確かめると、奪い取った牛羊輜重(しちょう)を追いたてながら、のんびりと帰途に着いたので、隊伍が乱れてしまった。部下が心配して、「牛や羊は使い道もなく、部隊の足手まといになるばかり、これを捨てて整然と隊伍を整えて帰った方がよいと存じますが」と、瑋に進言したが、瑋は黙ったまま斥候を出す。敵軍は数十里ほど兵を引いた所で、瑋が牛羊に気を取られて隊伍を乱したと聞いて、急遽取って返して瑋の軍の襲撃にかかる。瑋の方はますます行軍の速度を落とし、地の利のいい所をみつけると、そこに待機して敵軍を迎えた。
敵軍が至近距離に近づくと、使者をはけんして、「お前たちは遠くから駆けつけたので、きっと疲れていることだろう。相手の弱みに付け込むのは好まぬ。兵士も馬も一休みさせて、一息入れてから決戦することにしようではないか」と申し入れさせた。敵は折しも非常に疲れているところだったから、みな喜んで兵をまとめしばらく休息をした。瑋はまた使者を派遣して「一息入れた所で、さて勝負いたそう」と申し入れ、太鼓を打って各部隊を進攻させ、一撃で敵部隊を大いに破ると、牛羊を捨てて帰還した。ここで瑋はやっと口を開いて部下に言った。
「わしは敵がすでに戦い疲れているのを知っていたから、わざと欲に目がくらんだふりをして敵を誘ったのだ。再び追いついた時には、敵は百里近くも走り続けているわけだ。もしその勢いに乗ってすぐ戦闘に突入したなら、まだ相当戦えただろう。が、長距離は知ったものが、ちょっと一休みをすると、かえって足がしびれて立てなくなり、意気も挫けてしまうものだ。そこをわしは狙ってやったのさ」と。
夢渓筆談 巻13より 王元澤の機転
王元澤數歳時、客有以一麞一鹿同籠以問雱:“何者是麞、何者是鹿?”雱實未識、良久對曰:“麞邊者是鹿、鹿邊者是麞。”客大奇之。
※王雱(1043~1076年)の字は元澤、王安石の子で少年の頃から才華に溢れ、元服前にすでに数万言の書を著したという。のち天章閣待制の官となったが、三十三歳にして父に先立ち世を去った。
夢渓筆談 巻11より 塩価安定法
陜西顆鹽、舊法官自搬運、置務拘賣。兵部員外郎範祥始為鈔法、令商人就邊郡入錢四貫八百售一鈔、至解池請鹽二百斤、任其私賣、得錢以實塞下、省數十郡搬運之勞。異日輦車牛驢以鹽役死者、歳以萬計、冒禁抵罪者、不可勝數;至此悉免。行之既久、鹽價時有低昂、又於京師置都鹽院、陜西轉運司自遣官主之。京師食鹽、斤不足三十五錢、則斂而不發、以長鹽價;過四十、則大發庫鹽、以壓商利。使鹽價有常、而鈔法有定數。行之數十年、至今以為利也。
〔訳〕陝西の顆塩(かえん)は、旧専売法では、役所がみずから運搬し、市場を設けて売りさばきまでしていた。兵部員下郎の范祥(はんしょう)が初めて塩鈔(えんしょう)を発行して商人に運搬売りさばきをさせる方法を採用した。商人が陝西の辺境に入るのに銭四貫八百文を収めさせて塩鈔一枚を与え、解池に着くと二百斤の塩と引き換えて、売りさばきはその自由に任せたのである。得た利益で辺境の警備を充実させることが出来、数十郡にわたる運搬の労を省くことも出来た。以前には手車やら牛やら驢馬やらみな塩の運搬にかり出され、そのために死ぬものが、年に万を数えたし、禁を犯して塩を私売して罪にふれる者も数え切れぬほどあったが、塩鈔の法が行われるようになってすっかりなくなった。
この法がおこなわれるようになってだいぶ経つ間に、塩の価格が時により高下するようになった。そこで都〔開封〕に都塩院〔塩価調整局〕を置き、陝西転運使がみずから担当官を派遣してこれを主管した。都で塩が一斤三十五文に足らぬ場合には、退蔵政策を執り塩を出荷せず、塩の価格が上って四十文をこえると貯蔵してあった塩を大量に出荷して、商人がぼろ儲けできないように値をおさえて塩価を安定させ、塩鈔の発行も定額を守れるようにしたのである。この方法を行って数十年、今に至るまでその恩恵を受けているわけである。
※宋代の中国で産した塩には、淮南・淅江などの海岸で作られる粉末状の「末塩〔海塩〕」、山西省解州などにある塩池からとれる粒状の「顆塩〔池塩〕」、四川の塩井からなどから汲みあげて取る「井塩」、そして甘粛の土崖から取れる岩塩「崖塩」の4種があった。この4種の内で主要なものが淮淅の末塩と解州〔いまの山西省運城県、宋代にはこの地方は陝西路に属していた〕を主産地とする顆塩である。当時塩を販売しようとする商人は首都開封にある専売局「榷貨務〈かくかむ〉」に代価を納めて、塩鈔という現物引換券をもらい、これを産地にもっていって塩の払い下げを受けた。
※宋の仁宗の慶暦8(1048)年に范祥が解州塩法の改革を行ない、陝西の秦・延・鎭戎などの九つの折博務という専売支局で解塩の塩鈔を発行することにして、この利益は軍糧調達に用いられた。
陜西顆鹽、舊法官自搬運、置務拘賣。兵部員外郎範祥始為鈔法、令商人就邊郡入錢四貫八百售一鈔、至解池請鹽二百斤、任其私賣、得錢以實塞下、省數十郡搬運之勞。異日輦車牛驢以鹽役死者、歳以萬計、冒禁抵罪者、不可勝數;至此悉免。行之既久、鹽價時有低昂、又於京師置都鹽院、陜西轉運司自遣官主之。京師食鹽、斤不足三十五錢、則斂而不發、以長鹽價;過四十、則大發庫鹽、以壓商利。使鹽價有常、而鈔法有定數。行之數十年、至今以為利也。
この法がおこなわれるようになってだいぶ経つ間に、塩の価格が時により高下するようになった。そこで都〔開封〕に都塩院〔塩価調整局〕を置き、陝西転運使がみずから担当官を派遣してこれを主管した。都で塩が一斤三十五文に足らぬ場合には、退蔵政策を執り塩を出荷せず、塩の価格が上って四十文をこえると貯蔵してあった塩を大量に出荷して、商人がぼろ儲けできないように値をおさえて塩価を安定させ、塩鈔の発行も定額を守れるようにしたのである。この方法を行って数十年、今に至るまでその恩恵を受けているわけである。
※宋代の中国で産した塩には、淮南・淅江などの海岸で作られる粉末状の「末塩〔海塩〕」、山西省解州などにある塩池からとれる粒状の「顆塩〔池塩〕」、四川の塩井からなどから汲みあげて取る「井塩」、そして甘粛の土崖から取れる岩塩「崖塩」の4種があった。この4種の内で主要なものが淮淅の末塩と解州〔いまの山西省運城県、宋代にはこの地方は陝西路に属していた〕を主産地とする顆塩である。当時塩を販売しようとする商人は首都開封にある専売局「榷貨務〈かくかむ〉」に代価を納めて、塩鈔という現物引換券をもらい、これを産地にもっていって塩の払い下げを受けた。
※宋の仁宗の慶暦8(1048)年に范祥が解州塩法の改革を行ない、陝西の秦・延・鎭戎などの九つの折博務という専売支局で解塩の塩鈔を発行することにして、この利益は軍糧調達に用いられた。
夢渓筆談 巻11より 銭塘江の築堤
錢塘江、錢氏時為石堤、堤外又植大木十余行、謂之“滉柱”。寶元、康定間、人有獻議取滉柱、可得良材數十萬。杭帥以為然。既而舊木出水、皆朽敗不可用。而滉柱一空、石堤為洪濤所激、歳歳摧決。蓋昔人埋柱以折其怒勢、不與水爭力、故江濤不能為患。杜偉長為轉運使、人有獻說、自浙江稅場以東、移退數裏為月堤、以避怒水。眾水工皆以為便、獨一老水工以為不然、密諭其黨日:“移堤則歳無水患、若曹何所衣食?”眾人樂其利、乃從而和之。偉長不悟其計、費以鉅萬、而江堤之害、仍歳有之。近年乃講月堤之利、濤害稍稀。然猶不若滉柱之利、然所費至多、不復可為。
〔訳〕銭塘江は、銭氏の時に石で堤を築き、堤の外に大きな木材を十余列も打ち込んで、これを「滉柱(こうちゅう)」と呼んだ。宝元・康定年間〔いずれも宋、仁宗の年号。1038~40年〕に、滉柱を取れば良材数十万が得られるだろうと建議する者がいた。杭州の長官はこの建議を受け入れた。ところが古材木だから水中から抜き出してみると、みな腐っていて役に立たない。しかも滉柱がなくなってしまったら、石の堤は激しい大波に洗われて、年ごとに崩れていった。思うに昔の人は柱を打ち込んで怒涛の勢いを弱めて水勢が直接ぶつからぬようにしたから、銭塘江の大波も災いを及ぼさなかったのである。
杜偉長が転運使をしていた時、淅江の税関辺りから堤を数里退後させ、堰月形の堤を築いて激しい水勢を避けてはどうかと建議した人があった。堤防工事の職人達もみななるほどと言ったが、ただ一老職人だけは首を振らず、そっと仲間達に「堤を移したら毎年水害が起こらなくなる。お前たち何で食って行くんだ」とそそのかした。みなも堤防修理で得をしたほうが良いと、老職人の説に一同加担した。偉長はそんないきさつに気がつかなかったので、巨万の工費を費やしながら江堤の損害は依然として毎年起こった。
近年になってやっと偃月形の堤の利点を取り上げるようになり、大浪による害も少なくなったが、やはり何と言っても滉柱の良さには及ばない。しかし経費が大変なので二度と滉柱を打ち込むわけにはいかないのである。
※五代の時、淅江は呉越国(907~978年)の銭氏が領有していた。呉越国は唐末の動乱期に自衛団の杭州八都を背景として銭鏐(せんりゅう)が江南の主要地を支配して建国。土木工事・荒田開発に努力し、租税は重かったが戦乱がなかったので経済・文化にすぐれていた。貿易にもつとめ、契丹・高麗とも通交し、日本にもその貿易船が来航していると言う。
※滉柱とは深い水中にささっている柱のこと。銭塘江岸は土質が悪く波が荒いので、築堤には古来苦労したらしく、石を積んだり、蛇籠を用いたり、巨材を打ち込んだり、さまざまの工夫がなされた。
※宋の仁宗の頃の名臣杜杞〔とき、1005~50年〕は字を偉長といい、広西の蛮夷を征討したこと、諸伝を博覧し、陰陽術数の学に通じていたことで有名。宋代には各路〔州・郡の上にある地方行政単位〕に徴税や地方財政を統轄し中央への穀物産物輸送を主管する役所である転運司が置かれ、その長官を転運使といって、非常に多くの権限を握っていた。
錢塘江、錢氏時為石堤、堤外又植大木十余行、謂之“滉柱”。寶元、康定間、人有獻議取滉柱、可得良材數十萬。杭帥以為然。既而舊木出水、皆朽敗不可用。而滉柱一空、石堤為洪濤所激、歳歳摧決。蓋昔人埋柱以折其怒勢、不與水爭力、故江濤不能為患。杜偉長為轉運使、人有獻說、自浙江稅場以東、移退數裏為月堤、以避怒水。眾水工皆以為便、獨一老水工以為不然、密諭其黨日:“移堤則歳無水患、若曹何所衣食?”眾人樂其利、乃從而和之。偉長不悟其計、費以鉅萬、而江堤之害、仍歳有之。近年乃講月堤之利、濤害稍稀。然猶不若滉柱之利、然所費至多、不復可為。
杜偉長が転運使をしていた時、淅江の税関辺りから堤を数里退後させ、堰月形の堤を築いて激しい水勢を避けてはどうかと建議した人があった。堤防工事の職人達もみななるほどと言ったが、ただ一老職人だけは首を振らず、そっと仲間達に「堤を移したら毎年水害が起こらなくなる。お前たち何で食って行くんだ」とそそのかした。みなも堤防修理で得をしたほうが良いと、老職人の説に一同加担した。偉長はそんないきさつに気がつかなかったので、巨万の工費を費やしながら江堤の損害は依然として毎年起こった。
近年になってやっと偃月形の堤の利点を取り上げるようになり、大浪による害も少なくなったが、やはり何と言っても滉柱の良さには及ばない。しかし経費が大変なので二度と滉柱を打ち込むわけにはいかないのである。
※滉柱とは深い水中にささっている柱のこと。銭塘江岸は土質が悪く波が荒いので、築堤には古来苦労したらしく、石を積んだり、蛇籠を用いたり、巨材を打ち込んだり、さまざまの工夫がなされた。
※宋の仁宗の頃の名臣杜杞〔とき、1005~50年〕は字を偉長といい、広西の蛮夷を征討したこと、諸伝を博覧し、陰陽術数の学に通じていたことで有名。宋代には各路〔州・郡の上にある地方行政単位〕に徴税や地方財政を統轄し中央への穀物産物輸送を主管する役所である転運司が置かれ、その長官を転運使といって、非常に多くの権限を握っていた。
夢渓筆談 巻11より 河工の高超
慶歷中、河決北都商胡、久之未塞、三司度支副使郭申錫親住董作。凡塞河決垂合、中間一埽、謂之“合龍門”、功全在此。是時屢塞不合。時合楷門埽長六十步。有水工高超者獻議、以謂埽身太長、人力不能壓、埽不至水底、礦河流不斷、而繩纜多絕。今當以六十步為三節、每節埽長二十步、中間以索連屬之、先下第一節、待其至底空壓第二、第三。舊工爭之、以為不可、雲:“二十步埽、不能斷漏。徒用三節、所費當倍、而決不塞。”超謂之曰:“第一埽水信未斷、然勢必殺半。壓第二埽、止用半力、水縱未斷、不過小漏耳。第三節乃平地施工、足以盡人力。處置三節既定、即上兩節自為濁泥所淤、不煩人功。”申錫主前議、不聽超說。是時賈魏分帥北門、獨以超之言為然、陰遣數千人於下流收漉流埽。既定而埽果流、而河決愈甚、申錫坐謫。卒用超計、商胡方定。
〔訳〕慶暦年間〔宋、仁宗の年号、1041~48年〕に黄河は北部〔宋の北京であった大名府、今の河北省大名県〕に属する商胡〔いま河北省濮陽県の東方〕で堤が切れて、長い間塞ぐことができなかった。三司度支副使〔全国の財政収支を管理する役所の副長官〕の郭申錫(998~1074年)がみずから赴いて工事を監督することになった。
そもそも黄河の決壊口を塞ぐ場合、いよいよ決壊口を締め切るという時に、決壊口に入れる最後のひとつの巨大な蛇籠を「合竜門」といい、これがうまくいって初めて締め切り工事は完成するのである。この時には何度も締め切ろうとしたが、その合竜門に用いた蛇籠の高さは六十歩〔約90m〕だったが、治水工事の職人である高超という男がこう献議した。
蛇籠が大きすぎて人力で押し入れきれず、河底まで沈まないので、決壊口の流れを止めることが出来ず、縄も切れてしまうものが多い。そこで六十歩を三部分に分け、各部分の蛇籠の高さを二十歩〔約30m〕ずつにし、各蛇籠の間を縄でつなげる。そして第一の蛇籠が底に着いてから第二、第三の蛇籠を押し入れればよかろうと。古顔の職人はこれに反対して、それは出来ない相談とばかり、「二十歩の蛇籠では決壊口を塞ぐことができず、むだに三個を使うことになり、費用は倍もかかり、堤を締め切ることは出来まい」と言った。超はこれに対して「第一の蛇籠ではたしかに水流を止めることはできないが、水勢は必ず半分に弱まるから、第二の蛇籠は半分の力で押し入れることが出来、水流もまた断ち切れぬとはいえ、みずが少しもれていると言う程度になる。第三の蛇籠は〔もう水面に出ていて〕平地の上で工事をするようなものだから、工事人の力を思う存分発揮できる。このようにして三個の蛇籠を据え付けてしまえば、上の二個の蛇籠には自然と泥土が堆積していき人力を煩わさずにすむ」と言うのであった。
申錫は前者の意見を採用して、超の説に耳を傾けなかった。この時、賈魏公〔宋の宰相になり英宗の時、魏国公に封じられた賈昌朝〕が北京大名府(だいめいふ)の留守〔りゅうしゅ、天子に代わって都を守る官)をつとめていたが、彼だけは超の言葉をもっともだと認めて、〔申錫の工事は失敗するであろうと考えていたので〕ひそかに数千人を下流に派遣して流されてくる蛇籠を拾いあげさせようとした。
さて、規定の計画通りに施行したところ、蛇籠は果たして流されてしまい、決壊口はますます大きくなり、郭申錫はこのため降格処分を受けた。結局、超の計画を用いて、商湖の決壊口はやっと塞ぐことができたのである。
※蛇籠とは、原文には「埽(そう)」とあり、刈り取った葦や柳の枝を重ねて敷き詰め、その上に土と砕石を載せ、さらに心棒として太い竹製の網を入れて、巻いて束ね、その上を竹で編んだ高さ数丈、長さはその倍もある巨大な竹籠。これを数百人から千人に近い人夫がひいて低湿地に積み上げ「埽岸(そうがん)」とよんだと、『宋史』河渠志にある。
慶歷中、河決北都商胡、久之未塞、三司度支副使郭申錫親住董作。凡塞河決垂合、中間一埽、謂之“合龍門”、功全在此。是時屢塞不合。時合楷門埽長六十步。有水工高超者獻議、以謂埽身太長、人力不能壓、埽不至水底、礦河流不斷、而繩纜多絕。今當以六十步為三節、每節埽長二十步、中間以索連屬之、先下第一節、待其至底空壓第二、第三。舊工爭之、以為不可、雲:“二十步埽、不能斷漏。徒用三節、所費當倍、而決不塞。”超謂之曰:“第一埽水信未斷、然勢必殺半。壓第二埽、止用半力、水縱未斷、不過小漏耳。第三節乃平地施工、足以盡人力。處置三節既定、即上兩節自為濁泥所淤、不煩人功。”申錫主前議、不聽超說。是時賈魏分帥北門、獨以超之言為然、陰遣數千人於下流收漉流埽。既定而埽果流、而河決愈甚、申錫坐謫。卒用超計、商胡方定。
〔訳〕慶暦年間〔宋、仁宗の年号、1041~48年〕に黄河は北部〔宋の北京であった大名府、今の河北省大名県〕に属する商胡〔いま河北省濮陽県の東方〕で堤が切れて、長い間塞ぐことができなかった。三司度支副使〔全国の財政収支を管理する役所の副長官〕の郭申錫(998~1074年)がみずから赴いて工事を監督することになった。
そもそも黄河の決壊口を塞ぐ場合、いよいよ決壊口を締め切るという時に、決壊口に入れる最後のひとつの巨大な蛇籠を「合竜門」といい、これがうまくいって初めて締め切り工事は完成するのである。この時には何度も締め切ろうとしたが、その合竜門に用いた蛇籠の高さは六十歩〔約90m〕だったが、治水工事の職人である高超という男がこう献議した。
蛇籠が大きすぎて人力で押し入れきれず、河底まで沈まないので、決壊口の流れを止めることが出来ず、縄も切れてしまうものが多い。そこで六十歩を三部分に分け、各部分の蛇籠の高さを二十歩〔約30m〕ずつにし、各蛇籠の間を縄でつなげる。そして第一の蛇籠が底に着いてから第二、第三の蛇籠を押し入れればよかろうと。古顔の職人はこれに反対して、それは出来ない相談とばかり、「二十歩の蛇籠では決壊口を塞ぐことができず、むだに三個を使うことになり、費用は倍もかかり、堤を締め切ることは出来まい」と言った。超はこれに対して「第一の蛇籠ではたしかに水流を止めることはできないが、水勢は必ず半分に弱まるから、第二の蛇籠は半分の力で押し入れることが出来、水流もまた断ち切れぬとはいえ、みずが少しもれていると言う程度になる。第三の蛇籠は〔もう水面に出ていて〕平地の上で工事をするようなものだから、工事人の力を思う存分発揮できる。このようにして三個の蛇籠を据え付けてしまえば、上の二個の蛇籠には自然と泥土が堆積していき人力を煩わさずにすむ」と言うのであった。
さて、規定の計画通りに施行したところ、蛇籠は果たして流されてしまい、決壊口はますます大きくなり、郭申錫はこのため降格処分を受けた。結局、超の計画を用いて、商湖の決壊口はやっと塞ぐことができたのである。
昨夜の内に横浜のYMさんからメールがはいった。曰く、
「YMです。このたびは、メールとお写真をありがとうございました。/お返事出すのが遅れてしまいすみませんでした。/日高先生の思いやりと行動力の速さには、本当に頭が下がります。/告別式にも参列できませんでしたから、未だに私の中では、信じられません。/日高先生が、書いていますようにきっとMさんの事は、語りつくせないのだと思います。/私でさえそう思うのですから、先生や、同級生の方々のことを思いますと、涙が出てきます。/心からご冥福を祈るとともに みなさんを思いやる日高先生 道子先生に感謝いたします。」
北宋末から南宋初期にかけて活躍した葉夢得(1077~1148年)の避暑録話のなかに「范文正公の奇怪さ」に付いて書いた一文を見つけたので、掲載しておく。
避暑録話 巻四より 范文正公の奇怪さ
陸龜蒙作《怪松圖贊》、謂草木之性本無怪、生不得地、有物遏之、而陽氣作於內、則憤而為怪。範文正公初數以言事動朝廷、當權者不喜、每目為怪人。文正知之、及後復用為西帥、上疏請城京師以備敵、曰:「吾又將怪矣。」乃書《龜蒙贊》以遺當權者、曰:「朝廷方太平、不喜生事。某於搢紳中獨如妖言、既齟齬不得伸辭、因乖戾得無如龜蒙之松乎?」時雖知其諷己、訖不能盡用其言。
〔訳〕陸亀蒙の「怪松図の賛」にいう、「草木はその本性として、も友と奇怪なはえ方はせぬ。ただ土地が所を得ず、その成長を妨げる何かがあると、生気が内にこもって、勃然として奇怪な形を作る」と。
范文正公は、当初しばしば意見を具申して朝廷をゆさぶったため、当路者はこれが気に入らず、いつも公を怪人〔奇っ怪な人間〕あつかいにしていた。公はそのことを知っていて、西帥となった時、意見書をたてまつり、国都の城壁を堅固にして夷狄(いてき)に備えるよう請願したが、その時公は「またしても怪人あつかいにされるさ」と言って、そこで陸亀蒙の賛を書いて当路者たちに送り届け、こう付け足した――「朝廷におかれては、時まさに太平のため、事を起こすことを喜ばれませぬが、それがしは公卿のなかで、ただ独り妖言をなしております。なにかとぎくしゃくとして申したきことも申せぬため、かくは亀蒙の松のごときひねくれ方とはあいなりましょう」。その時みな、自分たちがあてつけられているのだとは知ったが、ついに公の建言をすべて採用するには至らずじまいだった。
※陸亀蒙〔りくきもう、?~881年〕は中国、晩唐の詩人。字(あざな)は魯望(ろぼう)。蘇(そ)州(江蘇省)の人。科挙に及第せず、一時、地方官の幕僚となって出仕したものの、やがて松江(しょうこう)(江蘇省)の甫里(ほり)に隠棲(いんせい)して晴耕雨読の気ままな生涯を終えた。これは、彼と『松陵集』で詩を唱和しあった皮日休(ひじつきゆう)とともに、晩唐期における士人の新しい生き方を示したものといえる。詩風は穏やかな情感を詠じ、きわめて清麗と評される。詩文集はその隠棲の地にちなんで『唐甫里先生文集』20巻とも、松江の別名、笠沢(りゅうたく)にちなんで『笠沢叢書(そうしょ)』四巻ともいう。その雑文(小品文(しょうひんぶん))は比喩(ひゆ)や風刺に富み、後の魯迅(ろじん)によって鋭い現実批判の文章として称賛されたものである。
※范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身で、2歳の時に父を失って母が長山の朱氏に再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、成長して生家を知るとともに本姓にもどした。應天府に行って苦学し、1015年に大中祥符中進士に及第して広徳軍司理参事となり晏殊〔あん しゅ、991~1055年〕に薦められて秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて士大夫の気節を奮いたたせていた。仁宗が親政の時にあたって中央で採用され吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡〔りょいかん、979~1044年〕に抗論して饒州に左遷された。以後、彼を支持した余靖〔よせい、1000~1064年)・尹洙〔いん しゅ、1001~1047年〕・欧陽修〔おうよう しゅう100~1072年〕も次々と朝廷を去り、自らを君子の朋党と称した。1038年に李元昊が西夏〔タングート族〕をたてると、轉運使〔西帥〕として陝西をその侵攻から防ぎ辺境を守ること数年、号令厳明にして士卒を愛し、羌人は仲淹が龍圖閣直学士であることから「龍圖老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境を侵すことなく「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽修が推薦し枢密副使・参知政事となった。仲淹は富弼〔ふひつ、1004~1083年〕とともに上奏して、1.黜捗(ちゅっちょく)を明らかにし、2.僥倖を抑え、3.貢挙を精密にし、4.長官を厳選し、5.公田を均一にし、6.農桑を厚くし、7.武備を修め、8.恩信を推し、9.命令を重んじ、10.徭役を減ずる、などの十策を献じ施政の改革を図ったが、当時はすでに朋党の争いが弊害をあらわしており彼の案も悦ばれず、河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した。穎州に赴任する途上で没する。兵部尚書を追贈された。
「YMです。このたびは、メールとお写真をありがとうございました。/お返事出すのが遅れてしまいすみませんでした。/日高先生の思いやりと行動力の速さには、本当に頭が下がります。/告別式にも参列できませんでしたから、未だに私の中では、信じられません。/日高先生が、書いていますようにきっとMさんの事は、語りつくせないのだと思います。/私でさえそう思うのですから、先生や、同級生の方々のことを思いますと、涙が出てきます。/心からご冥福を祈るとともに みなさんを思いやる日高先生 道子先生に感謝いたします。」
避暑録話 巻四より 范文正公の奇怪さ
陸龜蒙作《怪松圖贊》、謂草木之性本無怪、生不得地、有物遏之、而陽氣作於內、則憤而為怪。範文正公初數以言事動朝廷、當權者不喜、每目為怪人。文正知之、及後復用為西帥、上疏請城京師以備敵、曰:「吾又將怪矣。」乃書《龜蒙贊》以遺當權者、曰:「朝廷方太平、不喜生事。某於搢紳中獨如妖言、既齟齬不得伸辭、因乖戾得無如龜蒙之松乎?」時雖知其諷己、訖不能盡用其言。
〔訳〕陸亀蒙の「怪松図の賛」にいう、「草木はその本性として、も友と奇怪なはえ方はせぬ。ただ土地が所を得ず、その成長を妨げる何かがあると、生気が内にこもって、勃然として奇怪な形を作る」と。
范文正公は、当初しばしば意見を具申して朝廷をゆさぶったため、当路者はこれが気に入らず、いつも公を怪人〔奇っ怪な人間〕あつかいにしていた。公はそのことを知っていて、西帥となった時、意見書をたてまつり、国都の城壁を堅固にして夷狄(いてき)に備えるよう請願したが、その時公は「またしても怪人あつかいにされるさ」と言って、そこで陸亀蒙の賛を書いて当路者たちに送り届け、こう付け足した――「朝廷におかれては、時まさに太平のため、事を起こすことを喜ばれませぬが、それがしは公卿のなかで、ただ独り妖言をなしております。なにかとぎくしゃくとして申したきことも申せぬため、かくは亀蒙の松のごときひねくれ方とはあいなりましょう」。その時みな、自分たちがあてつけられているのだとは知ったが、ついに公の建言をすべて採用するには至らずじまいだった。
※陸亀蒙〔りくきもう、?~881年〕は中国、晩唐の詩人。字(あざな)は魯望(ろぼう)。蘇(そ)州(江蘇省)の人。科挙に及第せず、一時、地方官の幕僚となって出仕したものの、やがて松江(しょうこう)(江蘇省)の甫里(ほり)に隠棲(いんせい)して晴耕雨読の気ままな生涯を終えた。これは、彼と『松陵集』で詩を唱和しあった皮日休(ひじつきゆう)とともに、晩唐期における士人の新しい生き方を示したものといえる。詩風は穏やかな情感を詠じ、きわめて清麗と評される。詩文集はその隠棲の地にちなんで『唐甫里先生文集』20巻とも、松江の別名、笠沢(りゅうたく)にちなんで『笠沢叢書(そうしょ)』四巻ともいう。その雑文(小品文(しょうひんぶん))は比喩(ひゆ)や風刺に富み、後の魯迅(ろじん)によって鋭い現実批判の文章として称賛されたものである。
登岳陽楼 杜甫
昔聞洞庭水 昔(むかし)聞(き)く 洞庭(どうてい)の水(みず)
今上岳陽楼 今(いま)上(のぼ)る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南圻 呉楚(ごそ) 東南(とうなん)に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮(うか)ぶ
親朋無一字 親朋(しんぽう) 一字(いちじ)無(な)く
老病有孤舟 老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有(あ)り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北(きた)
憑軒悌泗流 軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流(なが)る
〔訳〕昔から話には聞いていた洞庭湖。
いま、その水を見渡せる岳陽楼に登った。
呉と楚は、湖によって東と南に引き裂かれ、
天も地も、日夜この湖に浮かんでいる
思えば親戚からも友人からも、一通の便りさえなく、
老いて病むこの身には、
ただ一艘の小舟があるばかり。
砦のある山々の北のほうでは、
いまなお軍馬の 蹄の音がしきりにする。
楼台の欄干によりかかりながら、
故郷に帰れない悲しみに涙があふれて止まらない。
望洞庭湖贈張丞相
(洞庭湖に望んで張丞相に贈る)孟浩 然
八月湖水平 八月湖水 平らかに
涵虚混太清 虚を涵して太清(たいせい)に混(こん)ず
氣蒸雲夢沢 氣は蒸す雲夢(うんぼう)の沢(たく)
波撼岳陽城 波は撼(ゆる)す 岳陽城(がくようじょう)
欲済無舟楫 済(わた)らんと欲するも舟楫(しゅうしゅう)無く
端居恥聖明 端居(たんきょ)して聖明に恥ず
坐観垂釣者 坐(そぞ)ろに釣を垂るる者を観(み)て、
徒有羨魚情 徒(いたず)らに魚(うお)を羨むの情(じょう)有り
〔訳〕 秋八月 洞庭はまんまんと水をたたえる
大空をひたし
末は水か天かみわけもつかぬ
雲夢(うんぼう)の沼からわきおこる雲
岳陽城をどよもす波
ここを渡ろうにも舟はないが
じっと坐っているだけでは聖明の天子にはずかしい
釣り糸を垂れる人をぼんやりと眺めるうち
むだとは知りつつ 私にも魚を欲しがる心がおこってくる

※洞庭湖を東北端岳陽の城壁から眺望した作。張丞相は宰相の張九齢で、詩の後半には九齢の援助を得て官途に就き、聖天子(玄宗)のもとで働きたい願望がこめられている。「魚を欲しがる心」は、「淵に臨んで魚を欲しがるよりは、あとへさがって網をむすぶがよい〔漢書、董仲舒伝〕」にもとずく。何かを希望するなら、それが実現できるような方法を考え努力すべきだという譬え。
昔聞洞庭水 昔(むかし)聞(き)く 洞庭(どうてい)の水(みず)
今上岳陽楼 今(いま)上(のぼ)る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南圻 呉楚(ごそ) 東南(とうなん)に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮(うか)ぶ
親朋無一字 親朋(しんぽう) 一字(いちじ)無(な)く
老病有孤舟 老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有(あ)り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北(きた)
憑軒悌泗流 軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流(なが)る
いま、その水を見渡せる岳陽楼に登った。
呉と楚は、湖によって東と南に引き裂かれ、
天も地も、日夜この湖に浮かんでいる
思えば親戚からも友人からも、一通の便りさえなく、
老いて病むこの身には、
ただ一艘の小舟があるばかり。
砦のある山々の北のほうでは、
いまなお軍馬の 蹄の音がしきりにする。
楼台の欄干によりかかりながら、
故郷に帰れない悲しみに涙があふれて止まらない。
望洞庭湖贈張丞相
(洞庭湖に望んで張丞相に贈る)孟浩 然
八月湖水平 八月湖水 平らかに
涵虚混太清 虚を涵して太清(たいせい)に混(こん)ず
氣蒸雲夢沢 氣は蒸す雲夢(うんぼう)の沢(たく)
波撼岳陽城 波は撼(ゆる)す 岳陽城(がくようじょう)
欲済無舟楫 済(わた)らんと欲するも舟楫(しゅうしゅう)無く
端居恥聖明 端居(たんきょ)して聖明に恥ず
坐観垂釣者 坐(そぞ)ろに釣を垂るる者を観(み)て、
徒有羨魚情 徒(いたず)らに魚(うお)を羨むの情(じょう)有り
大空をひたし
末は水か天かみわけもつかぬ
雲夢(うんぼう)の沼からわきおこる雲
岳陽城をどよもす波
ここを渡ろうにも舟はないが
じっと坐っているだけでは聖明の天子にはずかしい
釣り糸を垂れる人をぼんやりと眺めるうち
むだとは知りつつ 私にも魚を欲しがる心がおこってくる
浄土真宗では、故人は臨終と同時に仏(諸仏)になると考えるので、中陰期間は、故人に対する追慕、故人を通して「生と死」について考え、謹慎し求法の生活をする期間であるという。
甥のHNの報せによると、本日福岡の市内にある真宗本願寺派の西光寺において満中陰の法要を行ない、お骨は西光寺の納骨堂に納めると言う。
岳陽楼記 范文正
慶歴四年春、滕子京謫、守巴陵郡。越明年、政通人和、百廃具興。乃重修岳陽楼、増其旧制、刻唐賢今人之詩賦于其上、属予作文以記之。
予観夫巴陵勝状、在洞庭一湖。銜遠山、呑長江、浩浩蕩蕩、横無際涯、朝暉夕陰、気象万千。此則岳陽楼之大観也。前人之述備矣。然則北通巫峡、南極瀟湘、遷客騒人、多会于此。覧物之情、得無異乎。
若夫霪雨霏霏、連月不開、陰風怒号、濁浪排空、日星隠曜、山岳潜形、商旅不行、檣傾楫摧、薄暮冥冥、虎嘯猿啼、登斯楼也、則有去国懐郷、憂讒畏譏、満目蕭然、感極而悲者矣。
至若春和景明、波瀾不驚 上下天光、一碧万頃、沙鴎翔集、錦鱗游泳、岸芷汀蘭、郁郁青青、而或長煙一空、晧月千里、浮光耀金、静影沈璧、漁歌互答、此楽何極。登斯楼也、則有心曠神怡、寵辱皆忘、把酒臨風、其喜洋洋者矣。
嗟夫。予嘗求古仁人之心、或異二者之為何哉。不以物喜、不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、処江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。然則何時而楽耶。其必曰、先天下之憂而憂、後天下之楽而楽歟。噫、微斯人、吾誰与帰。
〔訳〕 慶暦四(1044)年の春、滕子京が左遷されて巴陵郡(湖南省岳陽)の太守となった。かくてその翌年には、ここの政治は行き届いて人々の間は平和に、多くの廃れていたものがいずれも復興した。岳陽楼の復讐もようやくおこなわれ、元の形に増築し、唐代のすぐれた人々、今の人々の詩賦を楼上に刻み、私に頼んで文章を書き残させたのである。
私の見るところでは、あの巴陵のすぐれた景色は、洞庭湖一つにかかっている。遠くの山脈(やまなみ)の影をうつし、揚子江の流れを呑みこみ、広々とうち広がって、どこまでも果てしがなく、朝日の光、夕ぐれのうす闇に、気象は千変万化する。これが岳陽楼からの一望であり、古人の述べつくしてきたところである。だからこそ北は巫峡の果て、南は潚水・湘水の果まで、流浪の旅人や憂愁の詩人たちの多くがこの地に集まったが、風物を眺めての心情が、さまざまであったのも当然であろう。
もし長雨が降り続き、幾月も晴れやらず、陰気な風が唸り声を上げ、濁った波が空をつき、日も星も光をかくし、峰々も姿をひそめ、行商人や旅人も進めず、帆柱は傾き楫はくだけ、夕闇が黒々と迫って、虎がうそむき猿がなくとき、この楼に登れば、後にした故郷を思い、人々の非難になやみ、目前のものすべてが物寂しく、感極まって悲しむものもあるだろう。
またもし、春おだやかに景色も明るく、波ひとつさわがず、天地に光みなぎり、万頃(広大な広さ)の広がりは碧一色、かもめが飛び交い集い、銀輪の魚が泳ぎ回り、岸辺の芷(よろいぐさ)、水際の蘭が、芳香を放って青々と伸び、あるいはまた、たなびくもやが空一帯にかかり、輝く月が千里を照らし、水面の光が金色におどり、ひっそりとした月影は湖水に璧を沈めたようにみえ、漁師の歌が互いに呼び合うとき、その楽しさは尽き果てぬ。このとき楼に登れば、心はのびのびと悦びに満ち、世の栄誉恥辱もみな忘れ去り、酒杯を手にして風に向かい、心にうれしさの満ち溢れる人もいるであろう。
ああ、私はかつて古代の仁者の心を探り求めたが、さきの悲喜二つのいずれとも異なる場合があるのは、何故であろうか。外物のことでは喜ばず、おのれのことで悲しまぬからである。朝廷の高いくらいにあるときは、おのれの民を憂い、人里離れた所に隠れ住むときは、わが主君のために憂う。進んで仕えていても憂い、退いて民間にいても憂うるのだ。とすればいつになれば楽しむのか。その人はかならず「天下の人の憂いに先立って憂い、天下の人の楽しみに後(おく)れて楽しむ」というであろう。そうした人がいなければ、私はいったい誰に帰依すればよいのか。
夢渓筆談 巻11より 范仲淹の飢饉対策
皇祐二年,吳中大饑,殍殣枕路,是時範文正領浙西,發粟及募民存餉,為術甚備,吳人喜競渡,好為佛事。希文乃縱民競渡,太守日出宴於湖上,自春至夏,居民空巷出遊。又召諸佛寺主首,諭之曰:“饑歳工價至賤,可以大興土木之役。”於是諸寺工作鼎興。又新敖倉吏舍,日役千夫。監司奏劾杭州不恤荒政,嬉遊不節,及公私興造,傷耗民力,文正乃自條敘所以宴遊及興造,皆欲以發有餘之財,以惠貧者。貿易飲食、工技服力之人,仰食於公私者,日無慮數萬人。荒政之施,莫此為大。是歳,兩浙唯杭州晏然,民不流徙,皆文正之惠也。歳饑發司農之粟,募民興利,近歳遂著為令。既已恤饑,因之以成就民利,此先王之美澤也。
〔訳〕皇祐二年〔1050年、宋、仁宗の年号〕呉地方は大飢饉に襲われ、道には餓死体がごろごろ転がっていた。このとき范文正〔989~1052年、仲淹〕は〔杭州の知事で〕淅江西部を治めており、穀物の放出および難民に仕事や食物を与えて救済するに当たって、非常に周到な処置をした。
呉地方の人は競渡(ボートレース)好き、仏事好きでもある。そこで、希文〔范仲淹の字〕は呉地方の人に思う存分競渡をさせ、知事みずから日毎西湖に船を浮かべて宴を開き、春から夏まで、市民は町を空っぽにして遊びで歩いた。また諸仏事の住職を集めて「飢饉の年には工賃がとても安いから、大いに土木工事をするがよかろう」と命じた。そこで寺々ではさかんに工事を始めた。また穀倉・官舎の新築をして、日に千人の人夫を使った。
監察官は、杭州の知事は飢饉対策を講ぜず、遊びに耽っており、しかも公私の建築工事を起して民力を消耗していると弾劾した。すると文正は次のように理路整然と応えた。
宴遊と建築工事をしたのは、すべて余分な財を動かして貧者にも恵もうとしたからである。商売人、飲食業者、職人、力仕事に携わる者などで、公私の宴遊・工事によって食を得た者は、日に無慮数万人にのぼる。これ以上の飢饉対策はあるまい、と。
この年両淅〔宋代には淅江は紹興のある東淅と杭州のある西淅とに分けられていた〕で、杭州だけが落ち着いていて、逃散(ちょうさん)する民もなかったのは、みな文正のお陰である。
飢饉の年に官庫の穀物を放出し、民を集めて利益になる事業を興すということは,近頃ではついに法令として成文化してしまった。飢饉から救った上に、それによって民の利をはかるということは、殷の湯王や夏の禹王のような昔の聖天子の善政にも比すべきことである。
※范仲淹(はんちゅうえん):字は希文、文正は諡。この飢饉の時文正は62歳であった。宋の仁宗の時の代表的名臣で、その語「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂〔天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ〕」は有名である。
皇祐二年,吳中大饑,殍殣枕路,是時範文正領浙西,發粟及募民存餉,為術甚備,吳人喜競渡,好為佛事。希文乃縱民競渡,太守日出宴於湖上,自春至夏,居民空巷出遊。又召諸佛寺主首,諭之曰:“饑歳工價至賤,可以大興土木之役。”於是諸寺工作鼎興。又新敖倉吏舍,日役千夫。監司奏劾杭州不恤荒政,嬉遊不節,及公私興造,傷耗民力,文正乃自條敘所以宴遊及興造,皆欲以發有餘之財,以惠貧者。貿易飲食、工技服力之人,仰食於公私者,日無慮數萬人。荒政之施,莫此為大。是歳,兩浙唯杭州晏然,民不流徙,皆文正之惠也。歳饑發司農之粟,募民興利,近歳遂著為令。既已恤饑,因之以成就民利,此先王之美澤也。
〔訳〕皇祐二年〔1050年、宋、仁宗の年号〕呉地方は大飢饉に襲われ、道には餓死体がごろごろ転がっていた。このとき范文正〔989~1052年、仲淹〕は〔杭州の知事で〕淅江西部を治めており、穀物の放出および難民に仕事や食物を与えて救済するに当たって、非常に周到な処置をした。
呉地方の人は競渡(ボートレース)好き、仏事好きでもある。そこで、希文〔范仲淹の字〕は呉地方の人に思う存分競渡をさせ、知事みずから日毎西湖に船を浮かべて宴を開き、春から夏まで、市民は町を空っぽにして遊びで歩いた。また諸仏事の住職を集めて「飢饉の年には工賃がとても安いから、大いに土木工事をするがよかろう」と命じた。そこで寺々ではさかんに工事を始めた。また穀倉・官舎の新築をして、日に千人の人夫を使った。
監察官は、杭州の知事は飢饉対策を講ぜず、遊びに耽っており、しかも公私の建築工事を起して民力を消耗していると弾劾した。すると文正は次のように理路整然と応えた。
宴遊と建築工事をしたのは、すべて余分な財を動かして貧者にも恵もうとしたからである。商売人、飲食業者、職人、力仕事に携わる者などで、公私の宴遊・工事によって食を得た者は、日に無慮数万人にのぼる。これ以上の飢饉対策はあるまい、と。
この年両淅〔宋代には淅江は紹興のある東淅と杭州のある西淅とに分けられていた〕で、杭州だけが落ち着いていて、逃散(ちょうさん)する民もなかったのは、みな文正のお陰である。
飢饉の年に官庫の穀物を放出し、民を集めて利益になる事業を興すということは,近頃ではついに法令として成文化してしまった。飢饉から救った上に、それによって民の利をはかるということは、殷の湯王や夏の禹王のような昔の聖天子の善政にも比すべきことである。
昨夜の内に3通のメールあり。
「日高先生、メールありがとうございます。/まだ、なんとも信じ難く、何も感じないというような感覚です。少年野球関係の方が大勢いらしていたので、お通夜もだれかのお父さんが亡くなったかのような錯覚にとらわれ、あまりちゃんとお別れを言えなかったように思います。/3人のお子さんに恵まれ、お孫さんまでいらして、前野さんはきっと幸せな人生を過ごされたことと思います。/短かったけれど、いつも全力で生きていた。私は、そう信じています。Y子」
「日高 先生、メール・写真ありがとうございます。/マイチの思い出は、やはり臨海での水泳部長です。
高校生のいつもニコニコしているマイチが私の中のマイチです。/まだ信じられなくて深い悲しみの中で初めての塾友の旅立ちをかみしめております。/御礼まで A美」
「日高先生、メールとお写真ありがとうございました。/マイチの訃報は、悲しいというより悔しいです。/追悼文を書いておきます。 Ⅰ朗」
夢渓筆談巻11より 劉晏式米価対策
劉晏掌南計、數百裏外物價高下、即日知之。人有得晏一事、余在三司時、嘗行之於東南、每歳發運司和糴米於郡縣、未知價之高下、須先具價申稟、然後視其貴賤、貴則寡取、賤則取盈。盡得郡縣之價、方能契數行下、比至則粟價已增、所以常得貴。各得其宜、已無極售。晏法則令多粟通途郡縣、以數十歳糴價與所糴粟數高下、各類五等、具籍於主者。今屬發運司。粟價才定、更不申稟、即時廩收、但第一價則糴五數、第五價即糴第一數、第二價則糴第四數、第四價即糴第二數、乃即馳遞報發運司。如此、粟賤之地、自糴盡極數:其余節級、各得其宜、已無極售。發運司仍會諸郡所糴之數計之、若過於多、則損貴與遠者;尚少、則增賤與近者。自此粟價未嘗失時;各當本處豐儉、即日知價。信皆有術。
〔訳〕劉晏が国家の財政を司っていたとき、数百里外の物価の高低をその日の内に掴んでいた。じつは晏のしたようなことは誰でもできるのだ。わたしが三司につとめていたとき、東南地方〔江准地方〕でこれをやってみたことがある。
毎年、初運司が国庫の金を出して民間の米を郡県から買い入れる場合、まだ価格の高低をつかんでいないのに、各郡県から価格を申告させ、そこでその価格の高下をみて、高いのは買い入れを少なくし、安いのは大量買い入れることにきめていた。こうしてすべての郡県の価格がでそろったところで買い入れ数量を決定して各郡県に通達すると、その時にはもう穀物の価格は高くなっているから、いつも高価で買い入れることになってしまう。
晏の方法は、多量の穀物を郡県に運び集めさせるに当たって、数十年間の買入価格に照らして、買い入れる穀物の数量を、高下各五等に分けて、主官者――いまは発運司に属する――に記録させておいて、当座の穀物買い入れ価格を決めると、価格を民間から申し出などさせないで、すぐに買い入れてしまうのである。その場合、一番高価なものの買入量は最少量の第五位、五番目の最低価なものの買入量は最多量の第一位、二番目に高いものの買入量は第四位、四番目に高いものの買入量は第二位として、すぐ発運司に急報する。このようになれば、穀物の安い土地では自然と買入量が最も多く、その他は各段階で適当量を買い入れることができ、天上値段で買い入れてしまうことはない。発運司はなお諸郡が買い入れる量を合計し、もし多すぎるようであれば、高価なものと遠方のものの買入量を減じ、少ないようであれば、安価なものと近くのものの買入量を増す。こうしてから穀物の価格は当を失することもなく、各々の土地における産量に相応するものとなり、即日にして価格を知ることができた。このようにいい方法がちゃんとあるのである。
※劉晏〔715?~780年〕は唐代中葉の人、肅宗・代宗・徳宗3帝に仕え、塩鉄・租庸などを担当した有能な経済官僚であった。特に代宗の時、安録山の乱後の財政立て直しに当たり、戸部侍郎となり天下の財計をつかさどり、塩運については十五年間担当して縦横に才腕を振るい、大暦〔766~779年〕末には塩利千二百万貫を得て歳入の半ばを満たした。徳宗が立ち彼と意見の合わぬ楊炎〔727~781年〕が宰相となるに及んで、その讒言のため死を賜り、家族は嶺安に流され、連座する者も数十人にのぼったが、当時の人人はみなこれは無実の罪であるといったという。
※三司:宋代において、全国の財務行政を管理する役所で、塩鉄司〔塩と鉄の専売を担当〕、度支司〔財政収支の管理を担当〕、戸部〔税取立ての基礎となる戸籍をつかさどる〕の3部門に分かれており、三司使がこれを総括した。沈括は神宗の煕寧年間に権三司使をつとめている。
※発運司:宋代に主要米穀産地である華中・江南各地の財貨を調べ、首都に租税として米穀等を漕運する事務を担当する役所の長官のこと。
「日高先生、メールありがとうございます。/まだ、なんとも信じ難く、何も感じないというような感覚です。少年野球関係の方が大勢いらしていたので、お通夜もだれかのお父さんが亡くなったかのような錯覚にとらわれ、あまりちゃんとお別れを言えなかったように思います。/3人のお子さんに恵まれ、お孫さんまでいらして、前野さんはきっと幸せな人生を過ごされたことと思います。/短かったけれど、いつも全力で生きていた。私は、そう信じています。Y子」
「日高 先生、メール・写真ありがとうございます。/マイチの思い出は、やはり臨海での水泳部長です。
高校生のいつもニコニコしているマイチが私の中のマイチです。/まだ信じられなくて深い悲しみの中で初めての塾友の旅立ちをかみしめております。/御礼まで A美」
「日高先生、メールとお写真ありがとうございました。/マイチの訃報は、悲しいというより悔しいです。/追悼文を書いておきます。 Ⅰ朗」
夢渓筆談巻11より 劉晏式米価対策
劉晏掌南計、數百裏外物價高下、即日知之。人有得晏一事、余在三司時、嘗行之於東南、每歳發運司和糴米於郡縣、未知價之高下、須先具價申稟、然後視其貴賤、貴則寡取、賤則取盈。盡得郡縣之價、方能契數行下、比至則粟價已增、所以常得貴。各得其宜、已無極售。晏法則令多粟通途郡縣、以數十歳糴價與所糴粟數高下、各類五等、具籍於主者。今屬發運司。粟價才定、更不申稟、即時廩收、但第一價則糴五數、第五價即糴第一數、第二價則糴第四數、第四價即糴第二數、乃即馳遞報發運司。如此、粟賤之地、自糴盡極數:其余節級、各得其宜、已無極售。發運司仍會諸郡所糴之數計之、若過於多、則損貴與遠者;尚少、則增賤與近者。自此粟價未嘗失時;各當本處豐儉、即日知價。信皆有術。
〔訳〕劉晏が国家の財政を司っていたとき、数百里外の物価の高低をその日の内に掴んでいた。じつは晏のしたようなことは誰でもできるのだ。わたしが三司につとめていたとき、東南地方〔江准地方〕でこれをやってみたことがある。
毎年、初運司が国庫の金を出して民間の米を郡県から買い入れる場合、まだ価格の高低をつかんでいないのに、各郡県から価格を申告させ、そこでその価格の高下をみて、高いのは買い入れを少なくし、安いのは大量買い入れることにきめていた。こうしてすべての郡県の価格がでそろったところで買い入れ数量を決定して各郡県に通達すると、その時にはもう穀物の価格は高くなっているから、いつも高価で買い入れることになってしまう。
晏の方法は、多量の穀物を郡県に運び集めさせるに当たって、数十年間の買入価格に照らして、買い入れる穀物の数量を、高下各五等に分けて、主官者――いまは発運司に属する――に記録させておいて、当座の穀物買い入れ価格を決めると、価格を民間から申し出などさせないで、すぐに買い入れてしまうのである。その場合、一番高価なものの買入量は最少量の第五位、五番目の最低価なものの買入量は最多量の第一位、二番目に高いものの買入量は第四位、四番目に高いものの買入量は第二位として、すぐ発運司に急報する。このようになれば、穀物の安い土地では自然と買入量が最も多く、その他は各段階で適当量を買い入れることができ、天上値段で買い入れてしまうことはない。発運司はなお諸郡が買い入れる量を合計し、もし多すぎるようであれば、高価なものと遠方のものの買入量を減じ、少ないようであれば、安価なものと近くのものの買入量を増す。こうしてから穀物の価格は当を失することもなく、各々の土地における産量に相応するものとなり、即日にして価格を知ることができた。このようにいい方法がちゃんとあるのである。
※三司:宋代において、全国の財務行政を管理する役所で、塩鉄司〔塩と鉄の専売を担当〕、度支司〔財政収支の管理を担当〕、戸部〔税取立ての基礎となる戸籍をつかさどる〕の3部門に分かれており、三司使がこれを総括した。沈括は神宗の煕寧年間に権三司使をつとめている。
※発運司:宋代に主要米穀産地である華中・江南各地の財貨を調べ、首都に租税として米穀等を漕運する事務を担当する役所の長官のこと。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
02 | 2025/03 | 04 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 31 |
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター