瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は今年最初のは庚申(かのえさる)の日で、帝釈天の縁日であるという。古くから庚申信仰(こうしんしんこう)というのがあり、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰であるという。
本日のウェブニュースより
岐阜市元浜町の庚申堂、お色直し終わる ―― 岐阜城下町にある、戦国時代が起源の岐阜市元浜町の庚申(こうしん)堂のお色直しが終わった。くくりざるやつるしびななどの手芸品も堂内を飾り、初庚申の29日は午前10時からお勤めがある。/堂を守る美江寺観音(同市美江寺町)によると、1560(永禄3)年に斎藤道三の嫡男義龍が伝燈護国寺を建立。宗教騒乱「別伝の乱」で破却された後も堂は残り、延宝年間(1673~1681年)に東伝寺として再興された。現在は場所が少し南に移り、再建年代不明だが老朽化が激しいため、市の川原町地区の歴史的建造物群景観形成助成事業で昨年秋から屋根瓦を全面ふき替え、内部も畳を板敷きに改装した。/本尊青面金剛像と木造の三猿は年代物で、先人の信仰の厚さを物語る。手芸品は県生涯学習コーディネーターの山田マサ子さん(64)=同市中川原=が寄進。山田さんは「木挽町の地蔵寺、般若寺とともに城下町の三庚申参りを復活すれば町おこしになる。みんなで盛り上げたい」と話した。 (岐阜新聞web 2012年02月26日 11:20)
これまでも取り上げた葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148年)の『避暑録話』に、「庚申のまじない」についての記事があったので、掲載する。
避暑録話 巻四より 庚申のまじない
道家有言三屍、或謂之三彭、以為人身中皆有是三蟲、能記人過失。至庚申日、乘人睡去而讒之上帝、故學道者至庚申日輒不睡、謂之守庚申、或服藥以殺三蟲。小人之妄誕、有至此者。學道以其教言、則將以積累功行以求升舉也、不求無過、而反惡物之記其過、又且不睡以守、為藥物以殺之、豈有意於為過、而幸蔽覆藏匿、欺妄上帝、可以為神仙者乎?上帝照臨四方、納三屍陰告而謂之讒、其悖謬尤可見。然凡學道者、未有不信其說。柳子厚最號強項、亦作《罵屍蟲文》。且唐末猶有道士程紫霄、一日朝士會終南太極觀守庚申、紫霄笑曰:「三屍何有?此吾師托是以懼為惡者爾。」據床求枕、作詩以示眾曰:「不守庚申亦不疑、此心長與道相依。玉皇已自知行止、任爾三彭說是非。」投筆、鼻息如雷。詩語雖俚、然自昔其徒未有肯為是言者、孰謂子厚而不若此士也?
〔訳〕道家の説に、三尸(さんし)または三彭(さんぽう)というのがあり、すべての人の体内にこの三つの虫がいて、人の過失をちゃんと覚えいて、庚申(かのえさる)の日になると、人が寝込んだ好きに、天に昇って上帝にそれを讒言するのだという。そのため、道教を奉ずる人たちは、庚申の日になると一晩中値ない。それを「守庚申」と称している。あるいは薬を飲んで三虫を殺す人もいる。小人どものでたらめさも、ここまで来ては何をか言わんやだ。
道教を奉ずるとは、そのとく所の教えからすれば、修行を積むことによって昇天を求めることにあるはずだ。しかるに、過(あやま)ちなからんことことを求めようとはせずに、かえって己の過ちを覚えておるものを憎んだり、寝ずにそれを守(監視)したり、薬物でそれを殺そうとしたりするのは、実は過ちをやらかそうとする魂胆があって、それをうまく隠し通して上帝の目をくらませば、めでたく神仙になれるのだとでもいうのだろうか。上帝は四方をみそなわしつつ、三尸の隠密な報告を聞こし召されるのであるのに、それをしも讒言だとするとは、でたらめさ加減も極まれると言うべきだ。しかも道教信奉者はなべてこれを信ぜぬ者はない。あの柳子厚〔773~819年、中唐の文学者・政治家である柳宗元のこと〕は頑強な人物として音に聞こえているが、その彼でさえ「尸虫を罵る文」を作っているほどだ。
ただ、唐の末の道士で程紫霄(ていししょう)という人があった。或る日宮仕えの官員たちが、終南山の大極観へ守庚申をやりに集まった。紫霄は笑って、「三尸なんぞ有るもんですか。それはわが祖師たちが、悪をなす者を恐れさせるために設けられた方便ですじゃ」と言うと、寝台に凭れて枕を持って来させて、詩を作って一同に示した。――
庚申を守らず亦疑いもせず
此の心長(つね)に道と相依(なじ)む
天皇(てんのかみ)已(すで)に自ら〔わが〕行止(おこない)を知りたもう
爾(なんじ)らが三彭について是非(あれこれ)説くに任す
筆を投げ出すと、もう雷のようないびきであった。詩は通俗的な言い回しもあるが、しかし、これら道家の徒(ともがら)で、進んでこのような言を吐いたものは未だかつてないのである。いやはや、子厚でさえもこの道士には及ばぬとは!
※柳子厚とは柳宗元(773~819年)のことで、中唐の代表的文学者の一人。同時代の韓愈がその主義の主張と時勢への順応とを巧みに使い分けたのとは異なり、彼は苦境にあっても頑強なまでに己の主義を貫いた。その考え方には懐疑の精神と合理主義的な志向が著しい。こここで「その彼でさえ」といっているのは、戸のような彼の精神を認めてのことである。
本日のウェブニュースより
岐阜市元浜町の庚申堂、お色直し終わる ―― 岐阜城下町にある、戦国時代が起源の岐阜市元浜町の庚申(こうしん)堂のお色直しが終わった。くくりざるやつるしびななどの手芸品も堂内を飾り、初庚申の29日は午前10時からお勤めがある。/堂を守る美江寺観音(同市美江寺町)によると、1560(永禄3)年に斎藤道三の嫡男義龍が伝燈護国寺を建立。宗教騒乱「別伝の乱」で破却された後も堂は残り、延宝年間(1673~1681年)に東伝寺として再興された。現在は場所が少し南に移り、再建年代不明だが老朽化が激しいため、市の川原町地区の歴史的建造物群景観形成助成事業で昨年秋から屋根瓦を全面ふき替え、内部も畳を板敷きに改装した。/本尊青面金剛像と木造の三猿は年代物で、先人の信仰の厚さを物語る。手芸品は県生涯学習コーディネーターの山田マサ子さん(64)=同市中川原=が寄進。山田さんは「木挽町の地蔵寺、般若寺とともに城下町の三庚申参りを復活すれば町おこしになる。みんなで盛り上げたい」と話した。 (岐阜新聞web 2012年02月26日 11:20)
これまでも取り上げた葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148年)の『避暑録話』に、「庚申のまじない」についての記事があったので、掲載する。
避暑録話 巻四より 庚申のまじない
道家有言三屍、或謂之三彭、以為人身中皆有是三蟲、能記人過失。至庚申日、乘人睡去而讒之上帝、故學道者至庚申日輒不睡、謂之守庚申、或服藥以殺三蟲。小人之妄誕、有至此者。學道以其教言、則將以積累功行以求升舉也、不求無過、而反惡物之記其過、又且不睡以守、為藥物以殺之、豈有意於為過、而幸蔽覆藏匿、欺妄上帝、可以為神仙者乎?上帝照臨四方、納三屍陰告而謂之讒、其悖謬尤可見。然凡學道者、未有不信其說。柳子厚最號強項、亦作《罵屍蟲文》。且唐末猶有道士程紫霄、一日朝士會終南太極觀守庚申、紫霄笑曰:「三屍何有?此吾師托是以懼為惡者爾。」據床求枕、作詩以示眾曰:「不守庚申亦不疑、此心長與道相依。玉皇已自知行止、任爾三彭說是非。」投筆、鼻息如雷。詩語雖俚、然自昔其徒未有肯為是言者、孰謂子厚而不若此士也?
〔訳〕道家の説に、三尸(さんし)または三彭(さんぽう)というのがあり、すべての人の体内にこの三つの虫がいて、人の過失をちゃんと覚えいて、庚申(かのえさる)の日になると、人が寝込んだ好きに、天に昇って上帝にそれを讒言するのだという。そのため、道教を奉ずる人たちは、庚申の日になると一晩中値ない。それを「守庚申」と称している。あるいは薬を飲んで三虫を殺す人もいる。小人どものでたらめさも、ここまで来ては何をか言わんやだ。
道教を奉ずるとは、そのとく所の教えからすれば、修行を積むことによって昇天を求めることにあるはずだ。しかるに、過(あやま)ちなからんことことを求めようとはせずに、かえって己の過ちを覚えておるものを憎んだり、寝ずにそれを守(監視)したり、薬物でそれを殺そうとしたりするのは、実は過ちをやらかそうとする魂胆があって、それをうまく隠し通して上帝の目をくらませば、めでたく神仙になれるのだとでもいうのだろうか。上帝は四方をみそなわしつつ、三尸の隠密な報告を聞こし召されるのであるのに、それをしも讒言だとするとは、でたらめさ加減も極まれると言うべきだ。しかも道教信奉者はなべてこれを信ぜぬ者はない。あの柳子厚〔773~819年、中唐の文学者・政治家である柳宗元のこと〕は頑強な人物として音に聞こえているが、その彼でさえ「尸虫を罵る文」を作っているほどだ。
ただ、唐の末の道士で程紫霄(ていししょう)という人があった。或る日宮仕えの官員たちが、終南山の大極観へ守庚申をやりに集まった。紫霄は笑って、「三尸なんぞ有るもんですか。それはわが祖師たちが、悪をなす者を恐れさせるために設けられた方便ですじゃ」と言うと、寝台に凭れて枕を持って来させて、詩を作って一同に示した。――
庚申を守らず亦疑いもせず
此の心長(つね)に道と相依(なじ)む
天皇(てんのかみ)已(すで)に自ら〔わが〕行止(おこない)を知りたもう
爾(なんじ)らが三彭について是非(あれこれ)説くに任す
筆を投げ出すと、もう雷のようないびきであった。詩は通俗的な言い回しもあるが、しかし、これら道家の徒(ともがら)で、進んでこのような言を吐いたものは未だかつてないのである。いやはや、子厚でさえもこの道士には及ばぬとは!
※柳子厚とは柳宗元(773~819年)のことで、中唐の代表的文学者の一人。同時代の韓愈がその主義の主張と時勢への順応とを巧みに使い分けたのとは異なり、彼は苦境にあっても頑強なまでに己の主義を貫いた。その考え方には懐疑の精神と合理主義的な志向が著しい。こここで「その彼でさえ」といっているのは、戸のような彼の精神を認めてのことである。
夢渓筆談 巻20より 隕石
治平元年、常州日禺時、天有大聲如雷、乃一大星、幾如月、見於東南。少時而又震一聲、移著西南。又一震而墜在宜興縣民許氏園中。遠近皆見、火光赫然照天、許氏藩籬皆為所焚。是時火息、視地中有一竅如杯大、極深。下視之、星在其中、熒熒然。良久漸暗、尚熱不可近。又久之、發其竅、深三尺余、乃得一圓石、猶熱、其大如拳、一頭微銳、色如鐵、重亦如之。州守鄭伸得之、送潤州金山寺、至今匣藏、遊人到則發視。王無咎為之傳甚詳。
〔訳〕治平元〔宋、英宗の年号。1064年〕常州〔江蘇省武進県〕で、日暮れ時に天で雷のような大音響がして、月のような大きな星が東南の空に現れた。やがてまた一大音響を発して西南に移り、さらに一大音響を発して宣興県〔常州府に属する〕の許氏の園中に落ちた。遠きも近きもみなこれを目撃したが、火光はあかあかと天を照らし、許氏の屋敷はすっかり焼けてしまった。火がやんでから見ると、地中には杯ほどの大きさの穴が深々とあいており、その奥をよく見ると、星がきらきらと輝いている。しだいに輝きを失っていったが、でも熱くて近づくことが出来ない。またしばらく経って、その穴を掘ってみると、深さは三尺あまりであり、円い石が出てきた。まだ熱い。大きさは拳(こぶし)ほど、一方が少しとがっており、色は鉄と同じで重さもまた鉄と同じである。州知事の鄭伸はこれを手に入れると、潤州〔江蘇省〕の金山寺に送った。今でもこれを箱に入れてしまってあり、参観客が来るとあけて見せている。王無咎(おうむきゅう)がこの石について大変詳しい伝を書いている。
※中国に於ける隕石についての科学的な記録の最初である。隕石という語は『春秋』にも出てくるふるいことばであり、中国人は古くから隕石についての記録を残しているが、その多くは、天上の楽器が壊れて落ちてきたもの、という類のものであった。ヨーロッパでも隕石の落下現象が科学的に広く認められたものは、18世紀末Ernst Chladni〔エルンスト クラドニ、1756~1827年、〕らの学者の熱心な主張以来のことである。
※王無咎〔1023~69年〕は天台県〔淅江省〕の知事になり、のち官をすてて王安石にしたがって遊び、書を好み学問に努めたという人物という。
治平元年、常州日禺時、天有大聲如雷、乃一大星、幾如月、見於東南。少時而又震一聲、移著西南。又一震而墜在宜興縣民許氏園中。遠近皆見、火光赫然照天、許氏藩籬皆為所焚。是時火息、視地中有一竅如杯大、極深。下視之、星在其中、熒熒然。良久漸暗、尚熱不可近。又久之、發其竅、深三尺余、乃得一圓石、猶熱、其大如拳、一頭微銳、色如鐵、重亦如之。州守鄭伸得之、送潤州金山寺、至今匣藏、遊人到則發視。王無咎為之傳甚詳。
〔訳〕治平元〔宋、英宗の年号。1064年〕常州〔江蘇省武進県〕で、日暮れ時に天で雷のような大音響がして、月のような大きな星が東南の空に現れた。やがてまた一大音響を発して西南に移り、さらに一大音響を発して宣興県〔常州府に属する〕の許氏の園中に落ちた。遠きも近きもみなこれを目撃したが、火光はあかあかと天を照らし、許氏の屋敷はすっかり焼けてしまった。火がやんでから見ると、地中には杯ほどの大きさの穴が深々とあいており、その奥をよく見ると、星がきらきらと輝いている。しだいに輝きを失っていったが、でも熱くて近づくことが出来ない。またしばらく経って、その穴を掘ってみると、深さは三尺あまりであり、円い石が出てきた。まだ熱い。大きさは拳(こぶし)ほど、一方が少しとがっており、色は鉄と同じで重さもまた鉄と同じである。州知事の鄭伸はこれを手に入れると、潤州〔江蘇省〕の金山寺に送った。今でもこれを箱に入れてしまってあり、参観客が来るとあけて見せている。王無咎(おうむきゅう)がこの石について大変詳しい伝を書いている。
※中国に於ける隕石についての科学的な記録の最初である。隕石という語は『春秋』にも出てくるふるいことばであり、中国人は古くから隕石についての記録を残しているが、その多くは、天上の楽器が壊れて落ちてきたもの、という類のものであった。ヨーロッパでも隕石の落下現象が科学的に広く認められたものは、18世紀末Ernst Chladni〔エルンスト クラドニ、1756~1827年、〕らの学者の熱心な主張以来のことである。
※王無咎〔1023~69年〕は天台県〔淅江省〕の知事になり、のち官をすてて王安石にしたがって遊び、書を好み学問に努めたという人物という。
今朝のウェブニュースより
藤原新が五輪へ! 日本人トップ2位/東京マラソン ―― ロンドン五輪男子の代表選考会を兼ねた東京マラソン(東京都庁前発東京ビッグサイト着、サンケイスポーツなど後援)が26日、行われ、藤原新(30)=東京陸協=が日本人トップの2時間7分48秒で2位。五輪代表入りがほぼ確実となった。公務員ランナーの川内優輝(24)=埼玉県庁=は2時間12分51秒の14位に終わった。/レースは5キロすぎから外国人招待選手7人と藤原正和(30)=ホンダ=が抜け出してペースを作る。しかし20キロ手前で藤原正は先頭集団から脱落し、第2集団に追いつかれる。藤原新は26キロすぎに第2集団から抜け出し、日本勢トップに立つ。ペースを上げて32キロ過ぎには4位に浮上し、ラスト1キロで2人を抜いた。藤原新は「6分台を狙っていたけど、一人旅が長かったので、きょうはこのタイムで合格」と笑顔を見せた。/優勝はケニアのマイケル・キピエゴ(28)で2時間7分37秒。元世界記録保持者の“皇帝”ハイレ・ゲブレシラシエ(38)=エチオピア=は、レース終盤まで先頭を走っていたが最後に失速し4位に終わった。川内は給水に何度も失敗し、22キロ過ぎに第2集団から脱落した。 (SANSPO.COM 2012.2.26 11:25)
海老名市在住のchaboさんから、2枚の写真を貼付したメールが届いていた。曰く、「走る姿の撮影は難しいです。」
夢渓筆談 巻18より 活版の始まり
版印書籍、唐人尚未盛為之、自馮瀛王始印五經、已後典籍、皆為版本。慶歷中、有布衣畢昇、又為活版。其法用膠泥刻字、薄如錢唇、每字為一印、火燒令堅。先設一鐵版、其上以松脂臘和紙灰之類冒之。欲印則以一鐵範置鐵板上、乃密布字印。滿鐵範為一板、持就火煬之、藥稍鎔、則以一平板按其面、則字平如砥。若止印三、二本、未為簡易;若印數十百千本、則極為神速。常作二鐵板、一板印刷、一板已自布字。此印者才畢、則第二板已具。更互用之、瞬息可就。每一字皆有數印、如之、也等字、每字有二十餘印、以備一板內有重復者。不用則以紙貼之、每韻為一貼、木格貯之。有奇字素無備者、旋刻之、以草火燒、瞬息可成。不以木為之者、木理有疏密、沾水則高下不平、兼與藥相粘、不可取。不若燔土、用訖再火令藥熔、以手拂之、其印自落、殊不沾汙。昇死、其印為余群從所得、至今保藏。
〔訳〕書籍を木版で印刷することは、唐代ではまだあまり盛んではなかった。馮瀛王(ふうえいおう)が初めて五経を木版印刷で刊行して以来、伝統的に重要視されてきた書籍はすべて木版本になったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕になるとさらに平民の畢昇(ひっしょう)が活版を作り出した。その方法は厚さが銅銭の縁ほどの粘土に字を彫る。一字ごとに一活字を作り、焼いて硬度を高める。一方鉄板を用意し、その上に松脂・蝋と紙灰のたぐい〔の接着剤〕を塗り付ける。さて印刷となると鉄製のわくを鉄板の上に置いてから、活字をぎっしりと敷き並べ、一鉄わくで一活版ができると、火でこれを熱して接着剤を少し溶かしてから、平らな板でその面をおさえて、括字面を砥石のように平らにする。もし二、三冊だけ印刷するというのなら、この方法はあまり簡便とはいえないが、数十冊、数百冊、数千冊という本を印刷するとなったら、非常に手早く出来る。いつも二枚の鉄板を用意して、一枚の方で印刷し、一方が印刷し終わった時には、次の版が組み上がる。こうして交互に用いれば、またたくまに印刷ができるわけだ。活字はみな数本ずつ用意され、「之」とか「也」などの字になると二十余本も用意されて一版内の重複にそなえる。使わない時は活字を〔韻別に分類して〕各韻ごとに紙をはって韻を示し木の枠に入れてしまっておく。普段用意していないなうな特殊な珍しい字は、その度に粘土に刻(ほ)り、わら火で焼き固めれば、すぐさま出来上がる。〔粘土を用いて〕木を使わない理由は、木目の細かさには粗密があり、水にぬれると高さが不揃いになってしまうし、そのうえ接着剤によくくっ付きすぎて、取り出しにくいからで、粘土の活字のほうが良い。使い終わってから熱して接着剤を溶かし、手で払えば粘土活字はパラリと落ちて、少しも汚れないのだ。昇が死んだあと、その活字は一族中の兄弟達のものとなり、今に至るまで大事な所蔵品になっている。
※馮瀛王とは馮道〔882~954年〕のことで、五代の時に後唐・後晋・遼・後漢・後周五王朝の宰相になったため、後世節操がないとの批評が生まれたが、かれは歴代君主に愛民を説き、実際の行政上でもその実施に努めたので、当時の人々からは称揚されている。死後に瀛王に追封された。五経のの木版刊行は後唐の長興三〔932〕年に始り、後周の太祖〔951~53年〕の時に完成するという、十世紀の乱世の中で王朝の転変を乗越えて着々と進められた、まさに馮道ならではなしえぬ事業であった。これが中国における木版印刷の初めであるとされている。なお実際には五経でなく、九経〔宋以前の九経は礼記・左伝・詩・周礼・儀礼・易・尚書・公羊伝・穀梁伝〕を刊行した。
※畢昇(ひっしょう、生年不詳~1052年頃)は、中国・北宋の人物で11世紀に膠泥活字を用いて印刷を行ったとされる。膠泥を用いて活字を作り(膠泥活字)、印刷を行ったとされる。ただし、当時は木版印刷が主流であり、彼の印刷法が幅広く普及したわけではなかった。14世紀、元代になると木活字が愛用されるようになり、以後清朝の乾隆代〔18世紀〕には大小の木活字二五万余字を揃えて『四庫全書』が刊行される。中国で考案された活字の法は、早く朝鮮にも伝えられた。15世紀の初期から19世紀の中期まで、李朝歴代の王立鋳字所で銅を主とする鋳造活字が盛んに使われ、その活字本は日本にも伝わって、日本の古活字版刊行の基をひらいた。ヨーロッパでドイツのJohannes Gutenberg〔ヨハネス・グーテンベルグ、1398?~1468年〕が活字の母型と黄銅製の鋳型を発明し、Mainz(マインツ)で活版の印刷を始めたのは15世紀中期のことである。
藤原新が五輪へ! 日本人トップ2位/東京マラソン ―― ロンドン五輪男子の代表選考会を兼ねた東京マラソン(東京都庁前発東京ビッグサイト着、サンケイスポーツなど後援)が26日、行われ、藤原新(30)=東京陸協=が日本人トップの2時間7分48秒で2位。五輪代表入りがほぼ確実となった。公務員ランナーの川内優輝(24)=埼玉県庁=は2時間12分51秒の14位に終わった。/レースは5キロすぎから外国人招待選手7人と藤原正和(30)=ホンダ=が抜け出してペースを作る。しかし20キロ手前で藤原正は先頭集団から脱落し、第2集団に追いつかれる。藤原新は26キロすぎに第2集団から抜け出し、日本勢トップに立つ。ペースを上げて32キロ過ぎには4位に浮上し、ラスト1キロで2人を抜いた。藤原新は「6分台を狙っていたけど、一人旅が長かったので、きょうはこのタイムで合格」と笑顔を見せた。/優勝はケニアのマイケル・キピエゴ(28)で2時間7分37秒。元世界記録保持者の“皇帝”ハイレ・ゲブレシラシエ(38)=エチオピア=は、レース終盤まで先頭を走っていたが最後に失速し4位に終わった。川内は給水に何度も失敗し、22キロ過ぎに第2集団から脱落した。 (SANSPO.COM 2012.2.26 11:25)
海老名市在住のchaboさんから、2枚の写真を貼付したメールが届いていた。曰く、「走る姿の撮影は難しいです。」
夢渓筆談 巻18より 活版の始まり
版印書籍、唐人尚未盛為之、自馮瀛王始印五經、已後典籍、皆為版本。慶歷中、有布衣畢昇、又為活版。其法用膠泥刻字、薄如錢唇、每字為一印、火燒令堅。先設一鐵版、其上以松脂臘和紙灰之類冒之。欲印則以一鐵範置鐵板上、乃密布字印。滿鐵範為一板、持就火煬之、藥稍鎔、則以一平板按其面、則字平如砥。若止印三、二本、未為簡易;若印數十百千本、則極為神速。常作二鐵板、一板印刷、一板已自布字。此印者才畢、則第二板已具。更互用之、瞬息可就。每一字皆有數印、如之、也等字、每字有二十餘印、以備一板內有重復者。不用則以紙貼之、每韻為一貼、木格貯之。有奇字素無備者、旋刻之、以草火燒、瞬息可成。不以木為之者、木理有疏密、沾水則高下不平、兼與藥相粘、不可取。不若燔土、用訖再火令藥熔、以手拂之、其印自落、殊不沾汙。昇死、其印為余群從所得、至今保藏。
〔訳〕書籍を木版で印刷することは、唐代ではまだあまり盛んではなかった。馮瀛王(ふうえいおう)が初めて五経を木版印刷で刊行して以来、伝統的に重要視されてきた書籍はすべて木版本になったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕になるとさらに平民の畢昇(ひっしょう)が活版を作り出した。その方法は厚さが銅銭の縁ほどの粘土に字を彫る。一字ごとに一活字を作り、焼いて硬度を高める。一方鉄板を用意し、その上に松脂・蝋と紙灰のたぐい〔の接着剤〕を塗り付ける。さて印刷となると鉄製のわくを鉄板の上に置いてから、活字をぎっしりと敷き並べ、一鉄わくで一活版ができると、火でこれを熱して接着剤を少し溶かしてから、平らな板でその面をおさえて、括字面を砥石のように平らにする。もし二、三冊だけ印刷するというのなら、この方法はあまり簡便とはいえないが、数十冊、数百冊、数千冊という本を印刷するとなったら、非常に手早く出来る。いつも二枚の鉄板を用意して、一枚の方で印刷し、一方が印刷し終わった時には、次の版が組み上がる。こうして交互に用いれば、またたくまに印刷ができるわけだ。活字はみな数本ずつ用意され、「之」とか「也」などの字になると二十余本も用意されて一版内の重複にそなえる。使わない時は活字を〔韻別に分類して〕各韻ごとに紙をはって韻を示し木の枠に入れてしまっておく。普段用意していないなうな特殊な珍しい字は、その度に粘土に刻(ほ)り、わら火で焼き固めれば、すぐさま出来上がる。〔粘土を用いて〕木を使わない理由は、木目の細かさには粗密があり、水にぬれると高さが不揃いになってしまうし、そのうえ接着剤によくくっ付きすぎて、取り出しにくいからで、粘土の活字のほうが良い。使い終わってから熱して接着剤を溶かし、手で払えば粘土活字はパラリと落ちて、少しも汚れないのだ。昇が死んだあと、その活字は一族中の兄弟達のものとなり、今に至るまで大事な所蔵品になっている。
※馮瀛王とは馮道〔882~954年〕のことで、五代の時に後唐・後晋・遼・後漢・後周五王朝の宰相になったため、後世節操がないとの批評が生まれたが、かれは歴代君主に愛民を説き、実際の行政上でもその実施に努めたので、当時の人々からは称揚されている。死後に瀛王に追封された。五経のの木版刊行は後唐の長興三〔932〕年に始り、後周の太祖〔951~53年〕の時に完成するという、十世紀の乱世の中で王朝の転変を乗越えて着々と進められた、まさに馮道ならではなしえぬ事業であった。これが中国における木版印刷の初めであるとされている。なお実際には五経でなく、九経〔宋以前の九経は礼記・左伝・詩・周礼・儀礼・易・尚書・公羊伝・穀梁伝〕を刊行した。
※畢昇(ひっしょう、生年不詳~1052年頃)は、中国・北宋の人物で11世紀に膠泥活字を用いて印刷を行ったとされる。膠泥を用いて活字を作り(膠泥活字)、印刷を行ったとされる。ただし、当時は木版印刷が主流であり、彼の印刷法が幅広く普及したわけではなかった。14世紀、元代になると木活字が愛用されるようになり、以後清朝の乾隆代〔18世紀〕には大小の木活字二五万余字を揃えて『四庫全書』が刊行される。中国で考案された活字の法は、早く朝鮮にも伝えられた。15世紀の初期から19世紀の中期まで、李朝歴代の王立鋳字所で銅を主とする鋳造活字が盛んに使われ、その活字本は日本にも伝わって、日本の古活字版刊行の基をひらいた。ヨーロッパでドイツのJohannes Gutenberg〔ヨハネス・グーテンベルグ、1398?~1468年〕が活字の母型と黄銅製の鋳型を発明し、Mainz(マインツ)で活版の印刷を始めたのは15世紀中期のことである。
今朝のウェブニュースより
東京マラソンがスタート 3万5千人都心駆ける ―― ことしで6回目となる東京マラソンは26日、東京都庁前から臨海副都心の東京ビッグサイトまでのコースで行われ、3万5千人を超えるランナーが曇りの好条件の中、続々とスタートを切った。/ロンドン五輪男子マラソンの代表選考会を兼ねており、招待選手では五輪初出場を目指す公務員ランナーの川内優輝選手(埼玉県庁)や前世界記録保持者のハイレ・ゲブレシラシエ選手(エチオピア)らが出場した。マラソンブームで参加申し込みは28万人を超え、抽選は過去最高の倍率になった。 2012/02/26 10:18 【共同通信】
塾友の永田光広(52歳)君が、東京マラソンに出場した。以下はその記録。
ナンバー(Bib number):40231 氏名(Name):永田 光広
種目(Category):マラソン男子
地点名 スプリット(ネットタイム) ラップ 通過時間
Point Split (Net Time) Lap Time
5km 00:52:14(0:33:58) 0:33 :58 10:02:14
10km 01:26:11(1:07:55) 0:33:57 10:36:11
15km 02:00:01(1:41:45) 0:33:50 11:10:01
20km 02:39:05(2:20:49) 0:39:04 11:49:05
25km 03:22:40(3:04:24) 0:43:35 12:32:40
30km 04:15:16(3:57:00) 0:52:36 13:25:16
35km 05:00:17(4:42:01) 0:45:01 14:10:17
40km 05:44:00(5:25:44) 0:43:43 14:54:00
Finish 06:02:35(5:44:19) 0:18:35 15:12:35
光弘君! 完走おめでとう!
貴方の健闘に心から敬意を表します。
東京マラソンがスタート 3万5千人都心駆ける ―― ことしで6回目となる東京マラソンは26日、東京都庁前から臨海副都心の東京ビッグサイトまでのコースで行われ、3万5千人を超えるランナーが曇りの好条件の中、続々とスタートを切った。/ロンドン五輪男子マラソンの代表選考会を兼ねており、招待選手では五輪初出場を目指す公務員ランナーの川内優輝選手(埼玉県庁)や前世界記録保持者のハイレ・ゲブレシラシエ選手(エチオピア)らが出場した。マラソンブームで参加申し込みは28万人を超え、抽選は過去最高の倍率になった。 2012/02/26 10:18 【共同通信】
塾友の永田光広(52歳)君が、東京マラソンに出場した。以下はその記録。
ナンバー(Bib number):40231 氏名(Name):永田 光広
種目(Category):マラソン男子
地点名 スプリット(ネットタイム) ラップ 通過時間
Point Split (Net Time) Lap Time
5km 00:52:14(0:33:58) 0:33 :58 10:02:14
10km 01:26:11(1:07:55) 0:33:57 10:36:11
15km 02:00:01(1:41:45) 0:33:50 11:10:01
20km 02:39:05(2:20:49) 0:39:04 11:49:05
25km 03:22:40(3:04:24) 0:43:35 12:32:40
30km 04:15:16(3:57:00) 0:52:36 13:25:16
35km 05:00:17(4:42:01) 0:45:01 14:10:17
40km 05:44:00(5:25:44) 0:43:43 14:54:00
Finish 06:02:35(5:44:19) 0:18:35 15:12:35
光弘君! 完走おめでとう!
貴方の健闘に心から敬意を表します。
夢渓筆談 巻17より 正午の牡丹
歐陽公嘗得一古畫牡丹叢、其下有一貓、未知其精粗。丞相正肅吳公與歐公姻家、一見曰:“此正午牡丹也。何以明之?其花披哆而色燥、此日中時花也;貓眼黑睛如線、此正午貓眼也。有帶露花、則房斂而色澤。貓眼早暮則睛圓、日漸中狹長、正午則如一線耳。”此亦善求古人心意也。
〔訳〕欧陽公〔欧陽脩〕が、かつて群り咲く牡丹の花の下に猫のいる古画を手に入れたが、それがどれほどよく描けているか判っていなかった。欧公と姻戚の丞相(じょうしょう)正肅(せいしゅく)呉公は一目見てこう言った。
「これは午後の牡丹ですな。なんでそれが判るかって。花が開ききり、しかも色がかわいている。これは日中の花です。猫の目のひとみの穴も糸のようになっている。これは正午の猫の目です。露をおびた花なら花ぶさがすぼまっているし色もつややか、猫の目も朝や晩にはひとみの穴はまんまる、正午に近づくにつれて細くせばまり、正午だけ一本の線のようになるのです」
いやまたよく古人の筆意をつかんだものだ。
※正肅呉公とは呉育〔1004~58年〕のことで、字は春卿、諡が正肅。宋の仁宗の時、資政殿大学士・尚書左丞となる。若い時から博学であったと言う。
夢渓筆談 巻17より 遠近法
李成畫山上亭館及樓塔之類、皆仰畫飛檐、其說以謂自下望上、如人平地望塔檐間、見其榱桷。此論非也。大都山水之法、蓋以大觀小、如人觀假山耳。若同真山之法、以下望上、只合見一重山、豈可重重悉見、兼不應見其溪谷間事。又如屋舍、亦不應見其中庭及後巷中事。若人在東立、則山西便合是遠境;人在西立、則山東卻合是遠境。似此如何成畫?李君蓋不知以大觀小之法、其間折高、折遠、自有妙理、豈在掀屋角也。
〔訳〕李成が画く山上の亭館(やかた)や楼塔(たかどの)のたぐいは、みな高い軒を仰ぎ見るように画いてある。下から上を望めば、人が平地で塔を見上げるように、軒のたるきまで見えるものだから、というのであるが、この論は間違っている。おおむね山水を画く法というものは、人が築山を見るように、実際には大きなものを、実際より小さく見取るものである。もしすべて本当の山の大きさの通りに山々を画く法を取って、下から上をのぞんだら、山がひとつ見えるだけで、重なり合う山々を見渡すことはおろか、谷あいのこまごましたものまで見えるわけはない。また家屋について、その中庭や屋敷の後ろまで見えるはずはない。もし人が東側に立てば山の西側は遠方に位置するものだし、西側に立てば山の東側が遠方になるもの。これをどのようにして画にすればよいか。李成は、大きなものを小さく見取る法〔遠近法を取り入れた鳥瞰(ちょうかん)図法〕を知らないのだ。屋根のすみをはねあげるなどということではなくて、高さを按排したり、遠近を安排するところに画のうまみがあるのだ。
※李成(りせい、919~967年頃)、字は咸熙(かんき)。五代、北宋初期の山水画家。青州〔現在の山東省濰坊〕の人。唐の宗室とも言われる。営丘に移り住んだ事から李営丘ともいう。北宋初期には范寬、関仝と並んで「三家鼎峙(ていじ)」とも言われ、多く淡墨の山水を描いて「惜墨如金」ともよばれ、夢霧の如しとも言われた。のち、郭煕〔かくき、1023?~1085?年〕などがその画風を継承し、李郭派と呼ばれた。「喬松平遠図」が伝世の中で最もよくその画風を伝えるとされる。
歐陽公嘗得一古畫牡丹叢、其下有一貓、未知其精粗。丞相正肅吳公與歐公姻家、一見曰:“此正午牡丹也。何以明之?其花披哆而色燥、此日中時花也;貓眼黑睛如線、此正午貓眼也。有帶露花、則房斂而色澤。貓眼早暮則睛圓、日漸中狹長、正午則如一線耳。”此亦善求古人心意也。
〔訳〕欧陽公〔欧陽脩〕が、かつて群り咲く牡丹の花の下に猫のいる古画を手に入れたが、それがどれほどよく描けているか判っていなかった。欧公と姻戚の丞相(じょうしょう)正肅(せいしゅく)呉公は一目見てこう言った。
「これは午後の牡丹ですな。なんでそれが判るかって。花が開ききり、しかも色がかわいている。これは日中の花です。猫の目のひとみの穴も糸のようになっている。これは正午の猫の目です。露をおびた花なら花ぶさがすぼまっているし色もつややか、猫の目も朝や晩にはひとみの穴はまんまる、正午に近づくにつれて細くせばまり、正午だけ一本の線のようになるのです」
いやまたよく古人の筆意をつかんだものだ。
※正肅呉公とは呉育〔1004~58年〕のことで、字は春卿、諡が正肅。宋の仁宗の時、資政殿大学士・尚書左丞となる。若い時から博学であったと言う。
夢渓筆談 巻17より 遠近法
李成畫山上亭館及樓塔之類、皆仰畫飛檐、其說以謂自下望上、如人平地望塔檐間、見其榱桷。此論非也。大都山水之法、蓋以大觀小、如人觀假山耳。若同真山之法、以下望上、只合見一重山、豈可重重悉見、兼不應見其溪谷間事。又如屋舍、亦不應見其中庭及後巷中事。若人在東立、則山西便合是遠境;人在西立、則山東卻合是遠境。似此如何成畫?李君蓋不知以大觀小之法、其間折高、折遠、自有妙理、豈在掀屋角也。
〔訳〕李成が画く山上の亭館(やかた)や楼塔(たかどの)のたぐいは、みな高い軒を仰ぎ見るように画いてある。下から上を望めば、人が平地で塔を見上げるように、軒のたるきまで見えるものだから、というのであるが、この論は間違っている。おおむね山水を画く法というものは、人が築山を見るように、実際には大きなものを、実際より小さく見取るものである。もしすべて本当の山の大きさの通りに山々を画く法を取って、下から上をのぞんだら、山がひとつ見えるだけで、重なり合う山々を見渡すことはおろか、谷あいのこまごましたものまで見えるわけはない。また家屋について、その中庭や屋敷の後ろまで見えるはずはない。もし人が東側に立てば山の西側は遠方に位置するものだし、西側に立てば山の東側が遠方になるもの。これをどのようにして画にすればよいか。李成は、大きなものを小さく見取る法〔遠近法を取り入れた鳥瞰(ちょうかん)図法〕を知らないのだ。屋根のすみをはねあげるなどということではなくて、高さを按排したり、遠近を安排するところに画のうまみがあるのだ。
※李成(りせい、919~967年頃)、字は咸熙(かんき)。五代、北宋初期の山水画家。青州〔現在の山東省濰坊〕の人。唐の宗室とも言われる。営丘に移り住んだ事から李営丘ともいう。北宋初期には范寬、関仝と並んで「三家鼎峙(ていじ)」とも言われ、多く淡墨の山水を描いて「惜墨如金」ともよばれ、夢霧の如しとも言われた。のち、郭煕〔かくき、1023?~1085?年〕などがその画風を継承し、李郭派と呼ばれた。「喬松平遠図」が伝世の中で最もよくその画風を伝えるとされる。
夢渓筆談 巻14より 集句詩
古人詩有“風定花猶落”之句、以謂無人能對。王荊公以對“鳥鳴山更幽”。“鳥鳴山更幽”本宋王籍詩、元對“蟬噪林逾靜、鳥鳴山更幽”、上下句只是一意;“風定花猶落、鳥鳴山更幽”則上句乃靜中有動、下句動中有靜。荊公始為集句詩、多者至百韻、皆集合前人之句、語意對偶、往往親切、過於本詩。後人稍稍有效而為者。
〔訳〕古人の詩に「風定まりて花なお落つ」という句があり、これに対句をつけられる人はいないといわれていた。王荊公〔王安石〕がこれに「鳥鳴きて山さらに幽(しず)か」と対句をつけた。「鳥鳴きて山さらに幽か」というのは、もともと宋の王籍〔おうせき、生卒年不詳〕の詩であり、「蝉噪ぎて林いよいよ静か、鳥鳴きて山さらに幽か」という対になっていて、上下句はただ一つの意境を詠ったもの。「風定まりて花なお落ち、鳥鳴きて山さらに幽か」となれば、上句は静中に動あり、下句は動中に静ありとなる。
集句詩なるものは荊公がはじめて作ったものである。長い詩に至っては百韻にも及んでおり、すべて前人の句をつなぎ合わせたものであるが、語気といい対偶といい、しばしばもとの詩よりずっとぴったりしたものになっていた。その後をついでまねて作ってみる者も少々はいるようである。
※集句詩の詩形は明の胡震享が『唐音葵籤』で、「晋の傳咸(ふかん)がはじめ、唐の昭宗の時にも同谷子という者が集句詩を作って時政をそしっている」と述べているように、宋代以前にもあったものらしい。宋の蔡條(さいとう)の『西清詩話』でも「集句詩は宋初からあったがそう盛んでなかった。石曼卿〔992~1040年〕が機智に富んだ集句詩を作って以来盛んになった。王荊公が始祖ではない」と言っている。王安石が特に巧みであったので宋代集句詩の代表的作者とされ一般にも始祖とみなされてしまったらしい。
古人詩有“風定花猶落”之句、以謂無人能對。王荊公以對“鳥鳴山更幽”。“鳥鳴山更幽”本宋王籍詩、元對“蟬噪林逾靜、鳥鳴山更幽”、上下句只是一意;“風定花猶落、鳥鳴山更幽”則上句乃靜中有動、下句動中有靜。荊公始為集句詩、多者至百韻、皆集合前人之句、語意對偶、往往親切、過於本詩。後人稍稍有效而為者。
〔訳〕古人の詩に「風定まりて花なお落つ」という句があり、これに対句をつけられる人はいないといわれていた。王荊公〔王安石〕がこれに「鳥鳴きて山さらに幽(しず)か」と対句をつけた。「鳥鳴きて山さらに幽か」というのは、もともと宋の王籍〔おうせき、生卒年不詳〕の詩であり、「蝉噪ぎて林いよいよ静か、鳥鳴きて山さらに幽か」という対になっていて、上下句はただ一つの意境を詠ったもの。「風定まりて花なお落ち、鳥鳴きて山さらに幽か」となれば、上句は静中に動あり、下句は動中に静ありとなる。
集句詩なるものは荊公がはじめて作ったものである。長い詩に至っては百韻にも及んでおり、すべて前人の句をつなぎ合わせたものであるが、語気といい対偶といい、しばしばもとの詩よりずっとぴったりしたものになっていた。その後をついでまねて作ってみる者も少々はいるようである。
※集句詩の詩形は明の胡震享が『唐音葵籤』で、「晋の傳咸(ふかん)がはじめ、唐の昭宗の時にも同谷子という者が集句詩を作って時政をそしっている」と述べているように、宋代以前にもあったものらしい。宋の蔡條(さいとう)の『西清詩話』でも「集句詩は宋初からあったがそう盛んでなかった。石曼卿〔992~1040年〕が機智に富んだ集句詩を作って以来盛んになった。王荊公が始祖ではない」と言っている。王安石が特に巧みであったので宋代集句詩の代表的作者とされ一般にも始祖とみなされてしまったらしい。
夢渓筆談巻13より 銀鼓と寶刀
寶元中、黨項犯邊、有明珠族首領驍悍、最為邊患。種世衡為將、欲以計擒之。聞其好擊鼓、乃造一馬、持戰鼓、以銀裹之、極華煥、密使諜者陽賣之入明珠族。後乃擇驍卒數百人、戒之曰:“凡見負銀鼓自隨者、並力擒之。”一日、羌酋負鼓而出、遂為世衡所擒、又元昊之臣野利、常為謀主、守天都山、號天都大王、與元昊乳母白姥有隙。歳除日、野利引兵巡邊、深涉漢境數宿、白姥乘間乃譖其欲叛、元昊疑之。世衡嘗和蕃酋之子蘇吃曩、厚遇之。聞元昊嘗賜野利寶刀、而吃曩之父得幸於野利。世衡因使吃曩竊野利刀、許之以緣邊職任、錦袍、真金帶。吃曩得刀以還。世衡乃唱言野利已為白姥譖死、設祭境上、為祭文、敘歳除日相見之歡。入夜、乃火燒紙錢、川中盡明、虜見火光、引騎近邊窺覘、乃佯委祭具、而銀器凡千余兩悉棄之。虜人爭取器皿、得元昊所賜刀、乃火爐中見祭文已燒盡、但存數十字。元昊得之、又識其所賜刀、遂賜野利死。野利有大功、死不以罪、自此君臣猜貳、以至不能軍。平夏之功、世衡計謀居多、當時人未甚知之。世衡卒、乃錄其功、贈觀察使。
〔訳〕宝元年間〔宋、仁宗の年号、1038~39年〕タングートが国境地帯に侵入したが、中でも明珠族の首領が手強く、いちばんの厄介者になっていた。种世衡(ちゅうせいこう)が指揮官となって、これを何とか謀(たば)って生け捕りにしようとした。首領が非常に太鼓を打つのが好きだと聞いて、馬を一頭したて、銀をかぶせたまことにきらびやかな戦鼓を持たせて、忍びの者に明珠族のところへわざと入りこませた。そのうえで、えりすぐりの兵士数百人に、「なんでも銀の戦鼓を背負って行く者を見たら、力を合わせて生け捕りにせよ」と厳命した。と、ある日、タングートの首領は戦鼓を背負って出撃してきたので、とうとう世衡に捕えられてしまった。
また、李元昊〔りげんこう、タングート国家西夏の景宗皇帝〕の臣、野利(やり)こそは策士であって、天都山を守り、天都大王と号し、元昊の乳母の白姥(はくぼ)とは仲が悪かった。ある年の暮れ、野利が兵を引き連れて国境を巡察した際、中国内に深く入り込んで数野を過した。白姥はその機に乗じて叛意があるぞと中傷したが、元昊は半信半疑だった。世衡は以前タングートの酋長の子蘇吃曩(そきつのう)を捕え、これを鄭重にもてなしていた。元昊がかつて野利に宝刀を賜ったこと、そして吃曩の父が野利に気に入れられていることを聞くと、世衡は吃曩に野利の刀を盗ませて、辺境地区官吏の職位・錦の袍・純金の帯を与えることを約束した。吃曩が刀を手に入れて帰って来ると、世衡は、野利はすでに白姥のために中傷されて死んだと公言し国境に祭壇を設け、祭文を作って、ある年の暮に〔野利と〕カイケンしたときの楽しかったことなどを書き込んでおき、夜になると、紙銭を焼いたから草原は明々と照らし出された。タングートは日の光を見ると馬を引いて近づき様子をうかがい始めた。そこでわざと祭具を捨て、およそ千余両もする銀器もみな捨てて去った。タングートはこれを奪い合い、元昊が野利に賜った刀や、炉の中の数十字だけ残っている祭文も見つけた。元昊はこれらの品を手に入れ、自分が賜った刀を認めると、とうとう野利に死を賜った。野利は大変な功労があり、死罪などとんでもないことだったから、これ以来君臣が疑いあって戦いもできぬようになってしまった。
西夏平定の功は、世衡の計略に負うところが多いが、当時の人はまだあまりよくこれを知っていなかった。世衡が亡くなると、その功を認められ、観察使の職位が贈られた。
※宋の秦鳳路原州および永興軍環州一帯〔今の甘粛省東北部平涼専区〕に侵入したタングートには、明珠・滅蔵・康度という三大部族があり、いずれも強悍で討伐も困難なら順撫策にも応ぜず、この地帯の悩みの種になっていた。
※种世衡、字は仲平。宋の仁宗の時の名将。環州一帯の守備軍司令官となり、対タングート作戦に当たること数年、智謀に長けた上に士卒を可愛がり存分に戦力を発揮させて善戦し、また補給についても十分手を尽くして住民に迷惑をかけなかったので、没した時人々は彼の画像を画いて祀ったと言う。
※景宗李元昊は、帝王と将帥の器量を兼備した人で、前代太宗李徳明が宋と和親関係を結び貿易の利を蓄積して充実させた国力を元に、兵制・礼楽・文字を制定し、都を現在の寧夏回族自治区にあたる銀川市に当たる興慶府に定めるとともに、宋の国境に対して全面的な攻勢をとり、両国の交戦は数年に及んだが、両軍とも戦い疲れて1044年に和約が結ばれた。
寶元中、黨項犯邊、有明珠族首領驍悍、最為邊患。種世衡為將、欲以計擒之。聞其好擊鼓、乃造一馬、持戰鼓、以銀裹之、極華煥、密使諜者陽賣之入明珠族。後乃擇驍卒數百人、戒之曰:“凡見負銀鼓自隨者、並力擒之。”一日、羌酋負鼓而出、遂為世衡所擒、又元昊之臣野利、常為謀主、守天都山、號天都大王、與元昊乳母白姥有隙。歳除日、野利引兵巡邊、深涉漢境數宿、白姥乘間乃譖其欲叛、元昊疑之。世衡嘗和蕃酋之子蘇吃曩、厚遇之。聞元昊嘗賜野利寶刀、而吃曩之父得幸於野利。世衡因使吃曩竊野利刀、許之以緣邊職任、錦袍、真金帶。吃曩得刀以還。世衡乃唱言野利已為白姥譖死、設祭境上、為祭文、敘歳除日相見之歡。入夜、乃火燒紙錢、川中盡明、虜見火光、引騎近邊窺覘、乃佯委祭具、而銀器凡千余兩悉棄之。虜人爭取器皿、得元昊所賜刀、乃火爐中見祭文已燒盡、但存數十字。元昊得之、又識其所賜刀、遂賜野利死。野利有大功、死不以罪、自此君臣猜貳、以至不能軍。平夏之功、世衡計謀居多、當時人未甚知之。世衡卒、乃錄其功、贈觀察使。
〔訳〕宝元年間〔宋、仁宗の年号、1038~39年〕タングートが国境地帯に侵入したが、中でも明珠族の首領が手強く、いちばんの厄介者になっていた。种世衡(ちゅうせいこう)が指揮官となって、これを何とか謀(たば)って生け捕りにしようとした。首領が非常に太鼓を打つのが好きだと聞いて、馬を一頭したて、銀をかぶせたまことにきらびやかな戦鼓を持たせて、忍びの者に明珠族のところへわざと入りこませた。そのうえで、えりすぐりの兵士数百人に、「なんでも銀の戦鼓を背負って行く者を見たら、力を合わせて生け捕りにせよ」と厳命した。と、ある日、タングートの首領は戦鼓を背負って出撃してきたので、とうとう世衡に捕えられてしまった。
また、李元昊〔りげんこう、タングート国家西夏の景宗皇帝〕の臣、野利(やり)こそは策士であって、天都山を守り、天都大王と号し、元昊の乳母の白姥(はくぼ)とは仲が悪かった。ある年の暮れ、野利が兵を引き連れて国境を巡察した際、中国内に深く入り込んで数野を過した。白姥はその機に乗じて叛意があるぞと中傷したが、元昊は半信半疑だった。世衡は以前タングートの酋長の子蘇吃曩(そきつのう)を捕え、これを鄭重にもてなしていた。元昊がかつて野利に宝刀を賜ったこと、そして吃曩の父が野利に気に入れられていることを聞くと、世衡は吃曩に野利の刀を盗ませて、辺境地区官吏の職位・錦の袍・純金の帯を与えることを約束した。吃曩が刀を手に入れて帰って来ると、世衡は、野利はすでに白姥のために中傷されて死んだと公言し国境に祭壇を設け、祭文を作って、ある年の暮に〔野利と〕カイケンしたときの楽しかったことなどを書き込んでおき、夜になると、紙銭を焼いたから草原は明々と照らし出された。タングートは日の光を見ると馬を引いて近づき様子をうかがい始めた。そこでわざと祭具を捨て、およそ千余両もする銀器もみな捨てて去った。タングートはこれを奪い合い、元昊が野利に賜った刀や、炉の中の数十字だけ残っている祭文も見つけた。元昊はこれらの品を手に入れ、自分が賜った刀を認めると、とうとう野利に死を賜った。野利は大変な功労があり、死罪などとんでもないことだったから、これ以来君臣が疑いあって戦いもできぬようになってしまった。
西夏平定の功は、世衡の計略に負うところが多いが、当時の人はまだあまりよくこれを知っていなかった。世衡が亡くなると、その功を認められ、観察使の職位が贈られた。
※宋の秦鳳路原州および永興軍環州一帯〔今の甘粛省東北部平涼専区〕に侵入したタングートには、明珠・滅蔵・康度という三大部族があり、いずれも強悍で討伐も困難なら順撫策にも応ぜず、この地帯の悩みの種になっていた。
※种世衡、字は仲平。宋の仁宗の時の名将。環州一帯の守備軍司令官となり、対タングート作戦に当たること数年、智謀に長けた上に士卒を可愛がり存分に戦力を発揮させて善戦し、また補給についても十分手を尽くして住民に迷惑をかけなかったので、没した時人々は彼の画像を画いて祀ったと言う。
※景宗李元昊は、帝王と将帥の器量を兼備した人で、前代太宗李徳明が宋と和親関係を結び貿易の利を蓄積して充実させた国力を元に、兵制・礼楽・文字を制定し、都を現在の寧夏回族自治区にあたる銀川市に当たる興慶府に定めるとともに、宋の国境に対して全面的な攻勢をとり、両国の交戦は数年に及んだが、両軍とも戦い疲れて1044年に和約が結ばれた。
夢渓筆談 巻13より 築城の奇策
李允則守雄州、北門外民居極多、城中地窄、欲展北城、而以遼人通好、恐其生事、門外舊有東嶽行宮、允則以銀為大香爐、陳於廟中、故不設備。一日、銀爐為盜所攘、乃大出募賞、所在張榜、捕賊甚急。久之不獲、遂聲言廟中屢遭寇、課夫築墻圍之。其實展北城也、不逾旬而就、虜人亦不怪之、則今雄州北關城是也。大都軍中詐謀、未必皆奇策、但當時偶能欺敵、而成奇功。時人有語雲:“用得著、敵人休;用不著、自家羞。”斯言誠然。
〔訳〕李允則〔953-1028年〕が雄州を治めていた時、北門外には住民が非常に多かった。城内は土地が狭いので、北に城壁を伸ばしたいと思ったが、遼国と友好関係を結んでいる際でもあり、いざこざが起こっては困る。門外に旧くから東嶽廟の別院があった。允則は銀で大香炉を作り、廟中に置き放しにし、わざと何の用心もしなかった。ある日、銀の香炉は泥棒に盗まれてしまった。すると大々的に賞金をかけ。方々に布告を張り出して、盗賊詮議の厳しさといったらなかった。だが何時まで経っても捕まらないので、ついに廟のなかがしばしば賊に荒らされるからと声明を発して人夫をかり出すと牆(かべ)を築き廟を囲んでしまった。じつはこうして北に城壁を伸ばしたのであった。十日もかからぬうちに出来上がってしまったが、遼人もこれを変には思わなかった。これがいまの雄州の北関城である。だいたい軍中の策謀というものは、すべて奇策によるものとは限らないが、この場合はたまたま敵を完全にあざむいて奇功を立てることが出来た。当時「用いてこそてきが冷や汗をかき、用いなかったら味方が恥をかく」といった人がいるが、まことにその通りである。
※李允則(953-1028年)は宋の神宗〔997~1021年〕の時の人。河北の滄州・瀛州・雄州など宋と遼の国境地帯の知事を二十余年間務めた。
※宋は、真宗の景徳元〔1004〕年に、遼の大軍が宋国内に侵入して黄河畔の澶州〔河南省濮陽県〕にまで達したので、遼に優位を譲る講和条約〔澶淵の盟約〕を結んだ。この講和条約の条件には、
1.宋は軍備として遼に毎年絹二十万匹・銀十万両をおくる。2.宋の真宗は遼の聖宗の母を叔母とし、遼国は兄弟の交わりをする。3.遼・宗の国境は現状のままとする。 などがあった。
※東嶽廟は山東省の東嶽泰山の神を祭る廟。人間の生死を司り陰界を支配するものとして信仰された。
李允則守雄州、北門外民居極多、城中地窄、欲展北城、而以遼人通好、恐其生事、門外舊有東嶽行宮、允則以銀為大香爐、陳於廟中、故不設備。一日、銀爐為盜所攘、乃大出募賞、所在張榜、捕賊甚急。久之不獲、遂聲言廟中屢遭寇、課夫築墻圍之。其實展北城也、不逾旬而就、虜人亦不怪之、則今雄州北關城是也。大都軍中詐謀、未必皆奇策、但當時偶能欺敵、而成奇功。時人有語雲:“用得著、敵人休;用不著、自家羞。”斯言誠然。
〔訳〕李允則〔953-1028年〕が雄州を治めていた時、北門外には住民が非常に多かった。城内は土地が狭いので、北に城壁を伸ばしたいと思ったが、遼国と友好関係を結んでいる際でもあり、いざこざが起こっては困る。門外に旧くから東嶽廟の別院があった。允則は銀で大香炉を作り、廟中に置き放しにし、わざと何の用心もしなかった。ある日、銀の香炉は泥棒に盗まれてしまった。すると大々的に賞金をかけ。方々に布告を張り出して、盗賊詮議の厳しさといったらなかった。だが何時まで経っても捕まらないので、ついに廟のなかがしばしば賊に荒らされるからと声明を発して人夫をかり出すと牆(かべ)を築き廟を囲んでしまった。じつはこうして北に城壁を伸ばしたのであった。十日もかからぬうちに出来上がってしまったが、遼人もこれを変には思わなかった。これがいまの雄州の北関城である。だいたい軍中の策謀というものは、すべて奇策によるものとは限らないが、この場合はたまたま敵を完全にあざむいて奇功を立てることが出来た。当時「用いてこそてきが冷や汗をかき、用いなかったら味方が恥をかく」といった人がいるが、まことにその通りである。
※李允則(953-1028年)は宋の神宗〔997~1021年〕の時の人。河北の滄州・瀛州・雄州など宋と遼の国境地帯の知事を二十余年間務めた。
※宋は、真宗の景徳元〔1004〕年に、遼の大軍が宋国内に侵入して黄河畔の澶州〔河南省濮陽県〕にまで達したので、遼に優位を譲る講和条約〔澶淵の盟約〕を結んだ。この講和条約の条件には、
1.宋は軍備として遼に毎年絹二十万匹・銀十万両をおくる。2.宋の真宗は遼の聖宗の母を叔母とし、遼国は兄弟の交わりをする。3.遼・宗の国境は現状のままとする。 などがあった。
※東嶽廟は山東省の東嶽泰山の神を祭る廟。人間の生死を司り陰界を支配するものとして信仰された。
夢渓筆談 巻13より 蓼花吟
瓦橋關北與遼人為鄰、素無關河為陰。往歳六宅使何承矩守瓦橋、始議因陂澤之地、瀦水為塞。欲自相視、恐其謀泄。日會僚佐、泛船置酒賞蓼花、作《蓼花遊》數十篇、令座客屬和;畫以為圖、傳至京師、人莫喻其意。自此始壅諸澱。慶歷中、內侍楊懷敏復踵為之。至熙寧中、又開徐村、柳莊等濼、皆以徐、鮑、沙、唐等河、叫猴、雞距、五眼等泉為之原、東合滹沱、漳、淇、易、白等水並大河。於是自保州西北沈遠濼、東盡滄州泥枯海口、幾八百裏、悉為瀦潦、闊者有及六十裏者、至今倚為藩籬。或謂侵蝕民田、歳失邊粟之入、此殊不然。深、冀、滄、瀛間、惟大河、滹沱、漳水所淤、方為美田;淤澱不至處、悉是斥鹵、不可種藝。異日惟是聚集遊民、亂堿煮鹽、頗幹鹽禁、時為寇盜。自為瀦濼、奸鹽遂少。而魚蟹菇葦之利、人亦賴之。
〔訳〕瓦橋関(がきょうかん)は、北は遼人の勢力範囲と接しているが、もともとは障害とすべき河川がなかった。先年六宅使〔宋の武官名〕の何承矩(かしょうく)が瓦橋の守備に当たった時、初めて沼や湿地に水を留めて障害とした。承矩はみずからそのさまを視察したいと思い、その計画が敵に漏れないようにと、日毎に幕僚を集め、船を用意し酒を用意して蓼(たで)の花見としゃれ込んだ。「蓼花吟」数十編を作って、一座の見物客にも和して詩作させ、その絵を作って地図の代わりとしたのである。舟遊びのうわさは都にまで伝わったが、その心意を悟った者はいなかった。このときから河北の諸沼沢に水を溜めるようになったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕に、宦官の楊懐敏(ようかいびん)がまたその工事をした。煕寧(きねい)年間〔宋、神宋の年号。1066~77年〕にまた徐村・柳荘などの湖を作ったが、みな徐・鮑・沙河などの河川や叫猴(きょうこう)・鶏距(けいきょ)・五眼などの泉の水を源としたもので、東は滹沲(こだ)・漳(しょう)・淇(き)・易(えき)・白河などの河川と黄河に合流している。かくて保州(河北省保定)の西北の沈遠濼(ちんえんはく)から、東は滄州〔そうしゅう、河北省滄県〕の泥枯海(でいこかい)の口まで、ほとんど八百里が、すっかり水で覆われ、幅の広い所では六十里もあって、いまに至るまで国の守りとなっている。
民の田をつぶし、国境地帯の穀物収入をなくしたと言う者もいるが、それは大いに違う。深州〔河北省深県〕・冀州〔同冀県〕・滄州・瀛州〔同河間県〕一帯〔河北東南部〕では、黄河・滹沲河・漳水流域だけが沃土を堆積しいて美田を作ることが出来るが、堆積の及んでないところはみな塩分の多い土壌で、耕作は出来ないのだ。かつてこの地帯には浮浪人ばかりが集まっていて、地面に凝固している塩をこそぎとり塩を焼くなど、法をおかして塩を作り、しばしば徒党をくんで強盗までした。湖沼を作ってからは、勝手に塩を作る者もすくなくなり、一方水産物やマコモ・アシなどがなどの利点もあって、ひとびともまたこれに頼って暮らしているのだ。
※瓦橋関は今の北京の南方、河北省雄県。宋の領有となってから雄州とあらため、遼〔契丹〕と接する国境第一線の用地であった。
※何承矩〔かしょうく、生没年不詳〕は、宋初太宗の頃の人で、端拱(たんきょう)年間〔988~989年〕に河北で郡治に当たっていたとき契丹(きたい)が国境を騒がすので、その騎兵部隊の進出を防ぐために水を引き沼沢地を作り、稲田をひらいて屯田兵を置く作を上奏、河北縁辺屯田使が置かれることになった。
瓦橋關北與遼人為鄰、素無關河為陰。往歳六宅使何承矩守瓦橋、始議因陂澤之地、瀦水為塞。欲自相視、恐其謀泄。日會僚佐、泛船置酒賞蓼花、作《蓼花遊》數十篇、令座客屬和;畫以為圖、傳至京師、人莫喻其意。自此始壅諸澱。慶歷中、內侍楊懷敏復踵為之。至熙寧中、又開徐村、柳莊等濼、皆以徐、鮑、沙、唐等河、叫猴、雞距、五眼等泉為之原、東合滹沱、漳、淇、易、白等水並大河。於是自保州西北沈遠濼、東盡滄州泥枯海口、幾八百裏、悉為瀦潦、闊者有及六十裏者、至今倚為藩籬。或謂侵蝕民田、歳失邊粟之入、此殊不然。深、冀、滄、瀛間、惟大河、滹沱、漳水所淤、方為美田;淤澱不至處、悉是斥鹵、不可種藝。異日惟是聚集遊民、亂堿煮鹽、頗幹鹽禁、時為寇盜。自為瀦濼、奸鹽遂少。而魚蟹菇葦之利、人亦賴之。
〔訳〕瓦橋関(がきょうかん)は、北は遼人の勢力範囲と接しているが、もともとは障害とすべき河川がなかった。先年六宅使〔宋の武官名〕の何承矩(かしょうく)が瓦橋の守備に当たった時、初めて沼や湿地に水を留めて障害とした。承矩はみずからそのさまを視察したいと思い、その計画が敵に漏れないようにと、日毎に幕僚を集め、船を用意し酒を用意して蓼(たで)の花見としゃれ込んだ。「蓼花吟」数十編を作って、一座の見物客にも和して詩作させ、その絵を作って地図の代わりとしたのである。舟遊びのうわさは都にまで伝わったが、その心意を悟った者はいなかった。このときから河北の諸沼沢に水を溜めるようになったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕に、宦官の楊懐敏(ようかいびん)がまたその工事をした。煕寧(きねい)年間〔宋、神宋の年号。1066~77年〕にまた徐村・柳荘などの湖を作ったが、みな徐・鮑・沙河などの河川や叫猴(きょうこう)・鶏距(けいきょ)・五眼などの泉の水を源としたもので、東は滹沲(こだ)・漳(しょう)・淇(き)・易(えき)・白河などの河川と黄河に合流している。かくて保州(河北省保定)の西北の沈遠濼(ちんえんはく)から、東は滄州〔そうしゅう、河北省滄県〕の泥枯海(でいこかい)の口まで、ほとんど八百里が、すっかり水で覆われ、幅の広い所では六十里もあって、いまに至るまで国の守りとなっている。
民の田をつぶし、国境地帯の穀物収入をなくしたと言う者もいるが、それは大いに違う。深州〔河北省深県〕・冀州〔同冀県〕・滄州・瀛州〔同河間県〕一帯〔河北東南部〕では、黄河・滹沲河・漳水流域だけが沃土を堆積しいて美田を作ることが出来るが、堆積の及んでないところはみな塩分の多い土壌で、耕作は出来ないのだ。かつてこの地帯には浮浪人ばかりが集まっていて、地面に凝固している塩をこそぎとり塩を焼くなど、法をおかして塩を作り、しばしば徒党をくんで強盗までした。湖沼を作ってからは、勝手に塩を作る者もすくなくなり、一方水産物やマコモ・アシなどがなどの利点もあって、ひとびともまたこれに頼って暮らしているのだ。
※瓦橋関は今の北京の南方、河北省雄県。宋の領有となってから雄州とあらため、遼〔契丹〕と接する国境第一線の用地であった。
※何承矩〔かしょうく、生没年不詳〕は、宋初太宗の頃の人で、端拱(たんきょう)年間〔988~989年〕に河北で郡治に当たっていたとき契丹(きたい)が国境を騒がすので、その騎兵部隊の進出を防ぐために水を引き沼沢地を作り、稲田をひらいて屯田兵を置く作を上奏、河北縁辺屯田使が置かれることになった。
夢渓筆談 巻13より 名将とは
狄青戍涇原日、嘗與虜戰、大勝、追奔數裏。虜忽壅遏山踴、知其前必遇險。士卒皆欲奮擊。青遽鳴鉦止之、虜得引去。驗其處、果臨深澗、將佐皆侮不擊。青獨曰:“不然。奔亡之虜、忽止而拒我、安知非謀?軍已大勝、殘寇不足利、得之無所加重;萬一落其術中、存亡不可知。寧悔不擊、不可悔不止。”青後平嶺寇、賊帥儂智高兵敗奔邕州、其下皆欲窮其窟穴。青亦不從、以謂趨利乘勢、入不測之城、非大將軍。智高因而獲免。天下皆罪青不入邕州、脫智高於垂死。然青之用兵、主勝而已。不求奇功、故未嘗大敗。計功最多、卒為名將。譬如弈棋、已勝敵可止矣、然猶攻擊不已、往往大敗。此青之所戒也、臨利而能戒、乃青之過人處也。
〔訳〕狄青(てきせい)が涇原〔けいげん、甘肅省涇川県〕を守備していた時、かつて敵〔タングート〕と戦い、大いに勝って数十里も追撃した。と、敵は山で道を塞がれて進めぬ様子、きっと険しい地形にぶつかったに違いないと思われた。士卒はみな奮い立ってそこを襲おうとした。ところが、青は鉦(かね)を鳴らして進撃を止めさせたので、敵は逃げ去ることが出来た。そこへ行って調べたところ、やはり深い谷川にのぞんでいたので、幕僚達はみな追い撃ちを止めたことを残念がった。ところが青だけは、
「いや、逃げる敵がふいに止まってわれわれの進路をふさいだのは、計略だったかも知れぬ。敗残兵を撃ったところで、何の足しにもなるまい。万一敵の計略にかかったら、どうなるかわからぬのだ。追い撃ちを止めたのことを残念がるのはいいが、追撃を思いとどまらなかったことを残念がるようなことになってはこまるではないか」と。
青は後に中国南方の反徒平定に赴き、敵将儂智高〔のうちこう、チワン族の首領〕の軍を破り邕州〔ようしゅう、広西チワン族自治区南寧〕に敗走させた。部下たちが敵の潜む本拠まで掃討しようとしたとき、青はまた反対した。勢いに乗って深入りして、状況判断のつかぬ敵の城に入りこむのは大将のやることではないと考えたからである。智高はおかげで逮捕をまぬがれた。
天下はみな青が邕州に入らず、智高を窮地から抜け出させてしまったことをせめた。しかし、青の用兵は、勝てばいい主義でめざましい大勝利など求めないからこそ、いまだかつて大敗したことがないのである。戦功の数でいえば最も多いということになり、結局は名将ということになった。これはたとえば碁を打つようなもので、もう勝っていて敵を止めることができるのに、なお攻めを止めなければ大敗することが多い。これを青は用心したのである。好調の時に引き締めることができる、これが青の他人よりすぐれている所なのである。
※狄青〔1008~1057年〕は北宋の農民出身の将軍で、慎重寡言かつ機が熟すれば勇断という人となりと、兵卒より身を起こしたので、つねに士卒と飢寒労苦をともにする戦いぶりとで、将士の信頼も厚く、着実に戦勝を勝ち取っていったので北宋随一の名将とされた。タングヘート族の西夏と戦ったのは、仁宗の宝元年間〔1038~40年〕。儂智高の軍と戦ったのは皇祐四~五〔1052~53年〕で、この時、大越〔ベトナムの李朝の国号〕の国王李徳政が宋に援軍を送ろうと申し出たが、狄青は内乱鎮定に外国の援助を借りることはいけないと力説して反対し、宋軍の力だけで内乱を鎮定したのであった。宋庁の軍事を統べる最高機関である枢密院の長官〔枢密使〕になった。
※今でも中国のベトナムに接する地域と、ベトナム北部に住むチワン系の少数民族は儂(ノン)族といっているが、儂智高はその儂族の首酋(しゅしゅう)。儂氏はもと南漢劉氏に服属していたが、宋が南漢を滅ぼすと宋に内属、しかし宋の太宗によるベトナム討伐失敗後は、ベトナムの李朝大越国に服属、さらに智高の父儂存福の時、宋に通じて大越に反して独立、長生国をたてたが大越の討伐を受ける。子の智高は大越に反しつつ、宋の領内、いまの広西チワン族自治区内に侵入し南天国と称し宋への内属を願い出たが許されなかった。そこで皇祐四年、邕州を陥(おとしい)れ宋の領内に大南国を建てたのである。狄青の軍に破られた後、儂智高は大理〔雲南省〕へ逃亡したが、その後の生死は不明という。
狄青戍涇原日、嘗與虜戰、大勝、追奔數裏。虜忽壅遏山踴、知其前必遇險。士卒皆欲奮擊。青遽鳴鉦止之、虜得引去。驗其處、果臨深澗、將佐皆侮不擊。青獨曰:“不然。奔亡之虜、忽止而拒我、安知非謀?軍已大勝、殘寇不足利、得之無所加重;萬一落其術中、存亡不可知。寧悔不擊、不可悔不止。”青後平嶺寇、賊帥儂智高兵敗奔邕州、其下皆欲窮其窟穴。青亦不從、以謂趨利乘勢、入不測之城、非大將軍。智高因而獲免。天下皆罪青不入邕州、脫智高於垂死。然青之用兵、主勝而已。不求奇功、故未嘗大敗。計功最多、卒為名將。譬如弈棋、已勝敵可止矣、然猶攻擊不已、往往大敗。此青之所戒也、臨利而能戒、乃青之過人處也。
〔訳〕狄青(てきせい)が涇原〔けいげん、甘肅省涇川県〕を守備していた時、かつて敵〔タングート〕と戦い、大いに勝って数十里も追撃した。と、敵は山で道を塞がれて進めぬ様子、きっと険しい地形にぶつかったに違いないと思われた。士卒はみな奮い立ってそこを襲おうとした。ところが、青は鉦(かね)を鳴らして進撃を止めさせたので、敵は逃げ去ることが出来た。そこへ行って調べたところ、やはり深い谷川にのぞんでいたので、幕僚達はみな追い撃ちを止めたことを残念がった。ところが青だけは、
「いや、逃げる敵がふいに止まってわれわれの進路をふさいだのは、計略だったかも知れぬ。敗残兵を撃ったところで、何の足しにもなるまい。万一敵の計略にかかったら、どうなるかわからぬのだ。追い撃ちを止めたのことを残念がるのはいいが、追撃を思いとどまらなかったことを残念がるようなことになってはこまるではないか」と。
青は後に中国南方の反徒平定に赴き、敵将儂智高〔のうちこう、チワン族の首領〕の軍を破り邕州〔ようしゅう、広西チワン族自治区南寧〕に敗走させた。部下たちが敵の潜む本拠まで掃討しようとしたとき、青はまた反対した。勢いに乗って深入りして、状況判断のつかぬ敵の城に入りこむのは大将のやることではないと考えたからである。智高はおかげで逮捕をまぬがれた。
天下はみな青が邕州に入らず、智高を窮地から抜け出させてしまったことをせめた。しかし、青の用兵は、勝てばいい主義でめざましい大勝利など求めないからこそ、いまだかつて大敗したことがないのである。戦功の数でいえば最も多いということになり、結局は名将ということになった。これはたとえば碁を打つようなもので、もう勝っていて敵を止めることができるのに、なお攻めを止めなければ大敗することが多い。これを青は用心したのである。好調の時に引き締めることができる、これが青の他人よりすぐれている所なのである。
※狄青〔1008~1057年〕は北宋の農民出身の将軍で、慎重寡言かつ機が熟すれば勇断という人となりと、兵卒より身を起こしたので、つねに士卒と飢寒労苦をともにする戦いぶりとで、将士の信頼も厚く、着実に戦勝を勝ち取っていったので北宋随一の名将とされた。タングヘート族の西夏と戦ったのは、仁宗の宝元年間〔1038~40年〕。儂智高の軍と戦ったのは皇祐四~五〔1052~53年〕で、この時、大越〔ベトナムの李朝の国号〕の国王李徳政が宋に援軍を送ろうと申し出たが、狄青は内乱鎮定に外国の援助を借りることはいけないと力説して反対し、宋軍の力だけで内乱を鎮定したのであった。宋庁の軍事を統べる最高機関である枢密院の長官〔枢密使〕になった。
※今でも中国のベトナムに接する地域と、ベトナム北部に住むチワン系の少数民族は儂(ノン)族といっているが、儂智高はその儂族の首酋(しゅしゅう)。儂氏はもと南漢劉氏に服属していたが、宋が南漢を滅ぼすと宋に内属、しかし宋の太宗によるベトナム討伐失敗後は、ベトナムの李朝大越国に服属、さらに智高の父儂存福の時、宋に通じて大越に反して独立、長生国をたてたが大越の討伐を受ける。子の智高は大越に反しつつ、宋の領内、いまの広西チワン族自治区内に侵入し南天国と称し宋への内属を願い出たが許されなかった。そこで皇祐四年、邕州を陥(おとしい)れ宋の領内に大南国を建てたのである。狄青の軍に破られた後、儂智高は大理〔雲南省〕へ逃亡したが、その後の生死は不明という。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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