瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 東京夢華録 巻二 飲食果子(2)
 所謂茶飯者、乃百味羹、頭羹、新法鵪子羹、三脆羹、二色腰子、蝦蕈、雞蕈、渾砲等羹、旋索粉、玉碁子、群仙羹、假河魨、白渫虀、貨鱖魚、假元魚、決明兜子、決明湯虀、肉醋托胎襯腸、沙魚兩熟、紫蘇魚、假蛤蜊、白肉夾面子、茸割肉胡餅、湯骨頭乳炊羊、A羊、鬧廳羊、角B腰子、鵝鴨排蒸、荔枝腰子、還元腰子、燒臆子、入爐細項蓮花鴨簽、酒炙肚胘、虛汁垂絲羊頭、入爐羊、羊頭簽、鵝鴨簽、雞簽、盤兔、炒兔、蔥潑兔、假野狐、金絲肚羹、石肚羹、假炙獐、煎鵪子、生炒肺、炒蛤蜊、炒蟹、煠蟹、洗手蟹之類、逐時旋行索喚、不許一味有闕。或別呼索變造下酒、亦即時供應。
ec237994.jpeg〔訳〕いわゆる「茶飯(さかな)」とは、百味羹、頭(とうこう)、新法鵪子(あんし)、三脆(さんぜい)、二色腰子(ようし)、蝦蕈(かしん)、雞(けいしん)、渾砲等(こんほうとう)、旋索粉(せんさんふん)、玉碁子(きし)、群仙(ぐんせん)河魨(かかとん)、白渫虀(はくちようせい)、貨鱖魚(かけつぎょ)、元魚(かげんぎょ)、決明兜子(けつめいようし)、決明湯虀(とうせい)、肉醋托胎襯腸(にくさくたくたいしんちょう)、沙魚、紫蘇(しそ)魚、蛤蜊(こうり)、白肉夾面子、茸割肉胡餅(じょうかつにくこへい)、骨頭乳炊羊(とうこつとうにゅうすいよう)、A羊(とんよう)、鬧廳羊(とうちょうよう)、角B(かくしゃ)腰子、鵝鴨排蒸(がほうはいじょう)、荔枝(れいし)腰子、還元腰子、臆子(しょうおくし)、入爐細項蓮花鴨(にゅうろさいこうれんかおうせん)、酒肚胘(しゅしゃとげん)、虛汁垂羊頭(きょじゅうすいしようとう)、入爐羊(にゅうろよう)、羊頭、鵝鴨、雞、盤兔(ばんと)、兔(しょうと)、蔥潑兔(そうはつと)、野狐(かやこ)、金肚羹、石肚羹、假(かしゃしょう)、煎鵪子(せんあんし)、生肺(せいしょうはい)、蛤蜊、蟹、蟹、洗手蟹のたぐいである。つぎつぎに店の中をまわって注文をとり、一品でも欠けることは許されなかった。もし別に変わった品を注文しても、すぐさま求めに応じて整えられるのであった。
 
※「茶飯」とは酒の肴のことであり、以下列挙された食品名にはおよその見当がついてもはっきりとは判らない物が多い。中国の料理名は、材料名と調理法の名称を組み合わせて示すのが原則で、ここに列挙された食品名もほぼその原則に従っているものと思われる。本文中の調理方法〔傍線―でしめす〕の名称を拾ってみると
 羹〔こう〕=「あんかけ汁」  虀〔せい〕=細切りにして味噌などに和えること。〔和え物〕  假〔仮〕=擬製料理、たとえば「仮蟹」といえば、黄魚〔黄グチ〕を原料として、蟹の肉のように擬製したもの  煠〔渫〕=「炸(さ)」に同じで、てんぷらにすること  湯=「すまし汁」「吸物」  熟〔じゅく〕=煮えが通るまで煮ること  焼=炙(しゃ)と同じか、または煮付けることの二種の調理法に用いる語  炙=直接火にかざして炙り焼くこと  簽(せん)=北京の料理屋では「炸肥腸(チャフエイチャン)」を「炸簽(チャヂエン」)という。炸肥腸という料理はよく白煮した肥腸(大腸)を三、四寸に切り、強火で1・2分、こんがりと油で挙げたものを、炒って粉末にした山椒と塩を混ぜたものをつけて食べる料理をいう。  炒(しょう)=少量のあぶらで炒め煮ること  煎=多量の油で揚げる。
05497f03.jpeg 次に判る範囲で材料名〔網掛け〕を拾ってみると、
 鵪子(あんし)=ウズラの卵  腰子(ようし)=腎臓のこと。とくに豚の腎臓は中国料理では盛んに用いられる  蕈(しん)=きのこ  索粉(さくふん)=青大豆の粉で作った索麺(そうめん)  碁子(きし)=本来碁石のことであるが、小麦粉を水で固く練って、板の上で薄くしたものを、竹筒の切り口で押し切ったものらしい。これを煮て黄粉をかけた「碁子麺(きしめん)」と呼ばれる点心の菓子があったという。
河魨(かとん)=河豚(ふぐ)のこと  河鱖魚(かけつぎょ)=江南地方でよく獲れる魚で、アイナメのたぐいで美味という  決明=ハブソウとよばれるマメ科の薬草。約10㎝のさやになる種子を緩下強壮剤として利用する。ハブ茶として茶の代用ともする。  沙魚(さぎょ)=サメ  白肉=南宋では水煮の肉を言うが、北宋では圧して油を抜いた肉を言った。  胡餅=現在中国で言う焼餅(シャオピン)、うどん粉を練って薄く焼いたもの。名称の由来については胡人が常食していたからとも、胡麻が付いていたからとも言う。 肚胘(とげん)=牛羊の重弁胃のこと。ふつう百葉という。反芻の一時食物を貯える胃。  獐(しょう)=ノロのこと。鹿に似てより小型のもの。
 
 東京夢華録 巻二 飲食果子(1)
 凡店內賣下酒廚子、謂之「茶飯量酒博士」。至店中小兒子、皆通謂之「大伯」。更有街坊婦人、腰繫青花布手巾、綰危髻、為酒客換湯斟酒、俗謂之「焌糟」。更有百姓入酒肆、見子弟少年輩飲酒、近前小心供過、使令買物命妓、取送錢物之類、謂之「閑漢」。又有向前換湯斟酒歌唱、或獻果子香藥之類、客散得錢、謂之「廝波」。又有下等妓女、不呼自來、筵前歌唱、臨時以些小錢物贈之而去、謂之「劄客」、亦謂之「打酒坐」。又有賣藥或果實蘿蔔之類、不問酒客買與不買、散與坐客、然後得錢、謂之「撒暫」。如此處處有之。唯州橋炭張家、乳酪張家、不放前項人入店、亦不賣下酒、唯以好淹藏菜蔬、賣一色好酒。

d47b9881.jpeg〔訳〕《飲み物・食べ物・果物》すべて酒店内では、酒の肴を売る料理人を「茶飯量酒博士(さけさかなのマスター)」と呼び、店内の小僧たちも、みな「大伯(にいさん)」と呼んだ。それから町方の女で、腰に青い綿布の手布(てふき)をまきつけ、危髷(たかまげ)に結いあげ、酒客の吸物をとりかえたり、お酌をしたりする女を、俗に「焌糟(おしゃく)」といった。さらに町人で酒楼に入り、若殿ばらが酒を飲んでいるのを見ると、進み出てまめまめしくつかえ、物を買ったり、妓女を呼んだり、銭や物のやりとりなどをするものを「閑漢(のだいこ)」といい、また、進み出て吸物をとりかえ、酌をし、歌ったり、あるいは果物や香薬のたぐいを献じたりして、客が帰る際に金をもらうものを「斯波(たいこもち)」といった。また、下等の妓女で、呼ばぬのに向こうからやって来て、客が飲んでいる前で唱(うた)を歌い、そのばでわずかばかりの心付けをやると立ち去るのを「剳客(ながし)」とも「打酒坐(さけのざもち)」ともいった。それから薬を売ったり、果物・大根〔中国では大根も果物として賞味される〕の類も売り、酒客が買うと買わぬとを問わす座客にくばり、あとで金をもらうのを「撒暫(くばりおき)」といった。こうした連中どこの店にもいたものだ。ただ州橋〔東京城内を流れる汴河にかかる諸橋のうち、御街の正面にかかるのが天漢橋で俗に州橋と呼ばれた〕の炭張家・乳酪張家〔二軒の張家を、客たちは炭――黒い――張家と、乳酪――これは牛羊の乳の脂肪を固めて造った食品で白い――張家という呼び名で区別したのだ〕は、鼓のような連中を店に入らせず、また酒の肴も売らず、ただ気のきいた漬物の野菜だけを突き出しに、好い酒一色を売った。
東京夢華録 巻二 酒樓
 凡京師酒店、門首皆縛綵樓歡門、唯任店入其門、一直主廊約百餘步、南北天井兩廊皆小閤子、向晚燈燭熒煌、上下相照、濃妝妓女數百、聚於主廊槏面上、以待酒客呼喚、望之宛若神仙。北去楊樓、以北穿馬行街、東西兩巷、謂之大小貨行、皆工作伎巧所居。小貨行通雞兒巷妓館、大貨行通牋紙店、白礬樓、後改為豐樂樓。宣和間、更修三層相高、五樓相向、各有飛橋欄檻、明暗相通、珠簾繡額、燈燭晃耀。初開數日、每先到者賞金旗、過一兩夜則已。元夜則每一瓦隴中皆置蓮燈一盞。內西樓後來禁人登眺、以第一層下視禁中。大抵諸酒肆瓦市、不以風雨寒暑、白晝通夜、駢闐如此。州東宋門外仁和店、姜店、州西宜城樓、藥張四店、班樓、金梁橋下劉樓、曹門蠻王家、乳酪張家、州北八仙樓、戴樓門張八家園宅正店、鄭門河王家、李七家正店、景靈宮東牆長慶樓。在京正店七十二戶、此外不能遍數、其餘皆謂之「腳店」。賣貴細下酒、迎接中貴飲食、則第一白廚、州西安州巷張秀、以次保康門李慶家、東雞兒巷郭廚、鄭皇后宅後宋廚、曹門塼筒李家、寺東骰子李家、黃胖家。九橋門街市酒店、綵樓相對、繡旆相招、掩翳天日。政和後來、景靈宮東牆下長慶樓尤盛。
910e78c3.jpeg〔訳〕《酒楼(しゅろう)》都の酒店は、みなその門口に綵楼歓門(かざりもん)を結い立てた。任店(じんてん)という酒店についていえば、その門をはいると、真っ直ぐに大廊下が約百歩も続き、南北の中庭の両側の廊下には、ずらりとこ座敷が並んでいた。夕べともなれば、燈火があかあかと上下を照らし、厚化粧の妓女が数百人、大廊下の戸口に集まって、客を待ち声を掛けるそのさまはさながら仙女を見るようであった。北に楊楼へと行き、それから馬行街を北に突き抜けると、その東西両側の二つの小路(こうじ)を、大・小貨行といい、みな職人のいるところだ。小貨行は雞児巷(けいじこう)の妓館に通じ、大貨行は、牋紙店・白礬楼(はくはんろう)に通じた。白礬楼〔はくはんろう、北宋東京の最大の酒楼。もともと明礬を売っていた店が酒楼になったので、この名があるという〕は後に豊楽楼と名を改め、宣和年間(宋、徽宗の年号、1119~1125年)にさらに三階建てに高く改築し直した。五つの楼が向かいあい、それぞれ橋楼・欄杆がめぐらされ、内外相通じ、珠簾(たますだれ)や色あざやかな額がかかり、燈火は燦然ときらめいていた。初店開きの数日は、先着者に賞として金旗を贈って一晩か二晩過させた。元宵〔げんしょう、1月15日の燈篭祭り〕の夜になると、屋根瓦の一列ごとにみな蓮華燈ひとつずつ置くのだった。その楼の内西の楼は、後に人が登って眺めることを禁じた。一番上から下に宮中が見えたからだ。たいていの酒肆(しゅし)・瓦市(がし)は風雨寒暑の別なく、昼間から夜通し軒並みに賑わっていた。州東の宗門外には、仁和店・姜店、州西には宜城楼・薬張四店・班楼、金梁橋下には劉楼、曹門には蛮王家・乳酪張家、州北には八仙楼、戴楼門には張八家園宅正店(えんたくせいてん)、鄭門河には王家・李七家正店、景霊宮の東璧には長慶楼があった。都には正酒店(おやみせ)が七十二戸あったが、そのほかはとても数えきれず、それらはみな脚店(こみせ)と呼んだ。贅をこらした酒の肴を売り、宮仕えの貴人を常客とした店といえば、第一は、白厨と州西の安州巷にあった張秀、ついで保康門の李慶家、東雞児巷の郭厨、鄭皇后の屋敷の後の宋厨、曹門の磚筒李家、相国寺の東の骰子李家・黄胖家などであった。これらの町々の酒店は色絹で飾った楼を結い立てて向かいあい、互いに色あざやかに刺繍をした旆(のぼり)をかかげて客を呼び、ために日の光もかげるほどであった。政和年間(宋、徽宗の年号、1111~1117年)から後は景霊宮東壁の長慶楼が一番繁盛した。
 
※宋代の酒楼は、酒肆(しゅし)・酒店などとも呼ばれ、小座敷があり、料理を出すので、日本の料亭に似ているが、あくまでも料理より酒中心なのが特色。多くは二階建てで、階上は多くの小座敷に分かれ、妓女を侍らせ酒を飲む所。階下は広間になっていて、客が各自勝手に席を見つけて座り、ちょっといっぱい引っかけるところであった。
※当時、土地のものは東京城の四隅を州東・州西・州北・州南と呼んでいた。
※宋代には酒も政府の専売で、酒を三石以上密売すれば死刑になった。宋は遼・金に多額の歳幣を送るため酒の専売を、厳しく実施して、その専売収入は塩のそれを上回っていた。酒は官営および酒税を収める私営の醸造所で作り、酒務という役所が監督した。この政府専売の酒を直接仕入れてうる大店もしくは老舗を「正店」とか「正酒店」と呼び、さらに正店から酒を買って売買する店を「脚店(こてん)」と呼んだ。酒天は酒の上上げを増やすために妓女を置き料理を出し、料理屋風にしたのである。
  今朝は早朝から雨、徘徊にも  今朝は早朝から雨、徘徊にも行けず。
 
飮湖上      湖上に飲す
初晴後雨      初め晴れ後雨   蘇軾
 
朝曦迎客艶重岡  朝曦(ちょうぎ)客を迎えて重岡(ちょうこう)艶やかに
晩雨留人入酔郷  晩雨(ばんう)人を留めて酔郷(すいきょう)に入らしむ
此意自佳君不會  此意(このい)自(おのず)から佳(か)なるに 君会(かい)せずや
一杯當属水仙王  一杯 当(まさ)に水仙王(すいせんおう)に属(すす)むべし
 
水光瀲艶晴方好  水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好し
山色空濛雨亦奇  山色空濛(くうもう)として雨亦(また)奇なり
若把西湖比西子  若し西湖を把(とら)へて西子に比すれば
淡粧濃抹總相宜  淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)總(すべ)て相ひ宜し
 
11167f33.jpeg〔訳〕《湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変わった》
 
   朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが
   夕べの雨は引き止めるかのごとく酔郷に誘ってくれた
   この趣のおもしさ 君に解ってもらえぬものならば
   一杯は水仙王どのに捧げずばなるまい
 
   さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだが
   おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい
   西湖をたとえてみよう あの西施(せいし)の
   薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
 
※七言絶句、二首の連作。1075年、蘇軾37歳。西湖での作という。
※水仙王:西湖の水神。作者の自注に、湖上に水仙王の廟があるという。
※西施:春秋時代の女性。中国史上代表的な美人のひとりとして、多くの伝説がある。西湖と直接には関係ないが、越の国の出身であり、西湖も同じ越に属する。
 
東京夢華録 巻二 東角樓街巷
 自宣德東去東角樓、乃皇城東南角也。十字街南去薑行。高頭街北去、從紗行至東華門街、晨暉門、寶籙宮、直至舊酸棗門、最是鋪席要鬧。宣和間展夾城牙道矣。東去乃潘樓街、街南曰「鷹店」、只下販鷹鶻客、餘皆真珠疋帛香藥鋪席。南通一巷、謂之「界身」、並是金銀綵帛交易之所。屋宇雄壯、門面廣闊、望之森然。每一交易、動即千萬、駭人聞見。以東街北曰潘樓酒店、其下每日自五更市合、買賣衣物書畫珍玩犀玉。至平明、羊頭、肚肺、赤白腰子、嬭房、肚胘、鶉兔、鳩鴿、野味、螃蟹、蛤蜊之類訖、方有諸手作人上市買賣零碎作料。飯後飲食上市、如酥蜜食、棗(食+固)、豆沙團子、香糖果子、蜜煎雕花之類。向晚賣河婁頭面、冠梳領抹、珍玩動使之類。東去則徐家瓠羹店。街南桑家瓦子、近北則中瓦、次裡瓦。其中大小勾欄五十餘座。內中瓦子蓮花棚、牡丹棚、裡瓦子夜叉棚、象棚最大、可容數千人。自丁先現、王團子、張七聖輩、後來可有人於此作場。瓦中多有貨藥、賣卦、喝故衣、探搏、飲食、剃剪、紙畫、令曲之類。終日居此、不覺抵暮。
3fa588f9.jpeg〔訳〕《東角楼(とうかくろう)付近の街巷(まちまち)》宣徳楼から東のかた、東角楼〔城郭の四隅に建てられた物見櫓を「角楼」という〕へと行けば、皇城〔都城内でも宮城地域と官庁地域とにさらにおのおのの城壁に囲まれていて、宮城・皇城とよばれた〕の東南角である。十字街を南に行けば薑行〔しょうがいち、「行」とは本来商人の同業組合のことで、政府の公認保護の下に営業を独占し、商品価格の決定等をして組合員の利益を擁護したもの〕で、高頭街を北へ行き、紗行(うすぎぬいち)から東華門街〔宮城の城壁東側中央の門。その門外の商店街では宮中の用品の売買がおこなわれたので、非常に繁盛して天下の奇品が集まっていたという〕・晨暉門(しんきもん)・宝籙宮(ほうろくきゅう)をへて旧酸棗門〔さんそうもん、東京の北の城門で、河南省延津県すなわち旧酸棗県に通じる道に当たっていたのでこう呼ばれた〕までの道筋は、もっとも店舗がにぎわしかった。宣和年間に城壁にはさまれた道を広げたものである。東に行くと潘楼街だ。通りの南は鷹店(ようてん)といって、タカやクマタカを商う旅商人ばかり、その他はみな真珠・反物・薬物を商う店だった。南に通ずる通りのひとつは界身(かいしん)といって、ずらりと金銀やいろとりどりの絹を取引する店が立ち並び、どっしりとした建物、広い間口の店々は、見るからに堂々たる有様で、取引ごとに千万もの金品を動かし、人々の耳目を驚かした。その東の通りの北側は、潘楼酒店という酒楼で、その下では毎日五更(午前四時ごろ)から市がたち、衣類・書画・珍貴な愛玩物とか犀の角や宝玉などを売買した。夜が明け放つと、羊の頭・
肚肺(はいぞう)・赤白腰子(じんぞう)・肚胘(いぶくろ)や、ウズラ・ウサギ・ハトなど山林で取れる食用の禽獣と、カニ・A蛤蜊(しおふき)のたぐいの取引が終わり、さまざまな職人が市に出てきて、こまごまとした材料を売買する。またB酥蜜食(そみつしょく)C棗《食+固》(そうこ)D豆沙団子(とうさだんご)E香糖果子(こうとうかし)F蜜煎雕花(みつせんちょうか)のたぐいの食後用の飲食物も市に出た。夕方にはG河婁(そば)・頭面(あたまかざり)・H冠梳(かんそ)I領抹(りょうまつ)や珍貴な愛玩物とか道具類を売った。その東へ行くと徐家瓠羹店〔ここうてん、門前に屋台風のものを作り、それに豚や羊を掛けて売る店とあるが、瓠羹というのがどんな食べ物かというのは解らない〕があった。通りの南は桑家(そうか)瓦子〔がし、瓦肆・瓦舎とも書かれ、宋元代都市中にあった盛り場をいい、商人と芸人の集中区域であった〕で、北寄りは中瓦(ちゅうが)、その奥は裏瓦(りが)といった。瓦子の中には大小の演芸小屋〔原文では「勾欄」。勾欄とは手摺の意味であるが、当時の演芸小屋は手摺がついていたのでこのように呼ばれた。舞台は野天の広場に日本の能舞台や神楽殿のように作られ、観客はみな立って見たようである〕が五十余座あり、中でも中瓦子の蓮荷棚・牡丹棚、裏瓦子の夜叉棚・象棚〔棚とは小屋掛けの意。日本で中村座・歌舞伎座などと呼ぶ「座」にあたる〕はもっとも大きく、数千人を収容することができた。丁先現・王団子・張七聖〔北宋の神宗の頃から徽宗の代に活躍した俳優の名〕のやからが出てから、ここの舞台に立った俳優はかなりの数になる。瓦子の中には薬売りや、八卦見、古着売り、飲食物の賭け売り、切り紙芸人のたぐいも大勢いて、一日中ここにいたら、日が暮れるのも気がつかなかった。
 
A蛤蜊:あさりの一種で、和名しおふきとよばれるもの。はまぐりは「文蛤」という
B酥蜜食:酥とは、牛や羊の乳をよく煮立てて器に入れ、冷えてから表面の結皮を取ったもの。クリームのたぐい。酥油といえばバター。
C棗《食+固》:棗菰(なつめ)の形に似た小さい蒸し団子。
D豆沙団子:豆餡いりの団子。豆沙は豆を煮潰して作った餡。
E香糖果子:ショウブ・ショウガ・アンズ・ウメ・スモモ・シソをみな糸切りにして、塩漬けにして乾かし百早頭といい、あるいはこれらの果物を糖蜜に漬けて梅皮の中に入れて醸梅という菓子をつくった。みな端午の菓子である。
F蜜煎雕花:蜜煎は、蜜漬けの菓子。雕花は不祥。
G河婁:元の『農書』に、ソバを粉にひき、湯餅〔掛けうどん〕風に作り、これを河漏(かろう)といって常食するとある。
H冠梳:婦人の冠と梳(くし)をいう。婦人の冠はもと沙を漆で固めてつくり、金銀・真珠・翡翠や花飾りを付けたものであるが、北宋の仁宗の時、白角で作った三尺もの長さの冠に、一尺もの梳をつけるのが宮中から流行しだしたので、皇祐元(1049)年に、冠は幅一尺、高さ四寸を超えてはならず、梳も四寸以下との詔が出されたという。しかし、その後も梳を象牙や玳瑁で作るという贅沢がりゅうこうしたという。
I領抹:不祥。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
 
  『東京夢華録』を拾い読みしているが、内容によく理解できないところが多くて、なかなか先に進めない。
 
f4d7a69b.jpeg 北宋は、汴梁〔べんりょう、今の河南省開封〕を帝都とし汴京または東京(とうけい)と呼び、洛陽を西京(せいけい)と呼んだ。その東京がもっとも繁栄した北宋第八代皇帝徽宗皇帝の崇寧(すうねい)宣和年間〔1102~1125年〕頃の姿を、南宋初期の紹興十七〔1147〕年に、孟元老〔号は幽蘭居士〕なる人が追懐して書いたのが『東京夢華録』である。この書について、著者はその自序で「古人は夢に華胥(かしょ)という理想国に遊んだが、私もいま東京にいたころのよき時代を追懐すると華胥の夢からさめたように思え、そこで本書を『夢華録』と名付けた」といっている。金に占領された東京の住民の多くは、南宋の都臨安〔いまの淅江省杭州〕に逃れたものの、みな佳き時代の佳き都東京をひどく懐かしんだようで、本書が淳煕十四〔1187〕年二観光されると臨安の人士に大いに愛読されたという。
 隋・唐代の首都・長安は人口100万人に達した巨大な都市であったが、条坊ごとに周囲を牆壁に囲まれ、条坊間の夜間通行が制限されるなど閉鎖的で、都市文化も貴族中心であった。これに対し、北宋代の開封には通行の制限はなく、瓦子(がし)と呼ばれる盛り場では、昼夜を問わず飲食店・商店・劇場といった店が開かれ、大道芸が行われるなど、多くの住民が都市生活を謳歌し、繁栄を極めていた。
栄華期の開封を回想して誌された『東京夢華録』は、単なる旧都の回想録に留まらず、北宋代の首都・開封の市民生活を詳細に描いた貴重な風俗志でもあるという。
 著者の孟元老についてはまだよく判っていないらしい。本書の彼の自伝に
「亡父に従って官吏として南北各地に移り住み、崇寧二〔1103〕年に都に上り、城内西部、金梁橋の西の夾道の南に住まいを定め…… 靖康元年〔北宋の亡びた年1126年〕のあくる年南に来た」
とあることから、東京には20余年住んでいたということになる。
 
東京夢華録 巻二 御街
 坊巷御街、自宣德樓一直南去、約闊二百餘步、兩邊乃御廊、舊許市人買賣於其間、自政和間官司禁止、各安立黑漆杈子、路心又安朱漆杈子兩行、中心御道、不得人馬行往、行人皆在廊下朱杈子之外。杈子裡有磚石甃砌御溝水兩道、宣和間盡植蓮荷、近岸植桃李梨杏、雜花相間、春夏之間、望之如繡。
〔訳〕《御街(ぎょがい)》城内の御街という通りは、宣徳楼から真南に走り、幅は約二百余歩あった。通りの両側は御廊といい、以前は商人がそこで商いをするのを許されていたが、政和年間〔北宋、徽宗の年号、1111~1117年〕に役所が禁止し、両側の御廊にそれぞれ黒い漆塗りの柵〔直欄杆(ちょくらんかん)〕が立てられ、その真ん中の御廊は、人馬の通行を許さず、通行人はみな廊下や朱の柵の外を通った。柵の中には磚石(れんが)でたたんだ掘割が二筋あり、宣和年間(徽宗の1119~1125年)に掘割一面にハスを植えた。岸辺にはモモ・スモモ・ナシ・アンズを植えたので、色とりどりの花がまじりあい、春から夏にかけて、これを望めば、色あざやかな刺繍のようであった。
 
cad3eefe.jpeg※御街とは、天子の通る大通りの意。北宋〔960~1127年〕の都、東京〔とうけい、今の河南省開封〕内の、大内すなわち宮城の南正面の門「宣徳門」から、旧京城すなわち内城の南正面の門「朱雀門」に至る幅約三○○メートルの道路。
※宣徳楼とは、宣徳門のことで、大内南面中央に位置する宮城の正門であり壮麗な楼門であった。
※柵は、原文では「杈子(さし)」とあり、宋代には寺廟や楼門などに人間の身長ほどの高さの柵〔直欄杆〕を立てて人の入るのを防ぎ、「拒馬杈子(きょばさし)」といった。
 
 横浜のIN氏から、メールあり。
「ご無沙汰していますが、お元気ですか。/4月下旬から、家内の咳が止まらず、これはオペラ「椿姫」のMET実況中継を見に行ったために、主役のヴィオレッタの結核に感染したか?? と勘ぐったくらい、毎晩、こんこん咳が治らなかった。/一か月半経過して、昨今ようやく沈静して、すこしは亭主に憎まれ口もきけるようになり、病状は快方に向かったが、まだ安心はならない。/私は因果??? と元気。だが夜中のトイレ起床のときに喉の渇きを覚えるようになった。ここ十年、微温湯を枕元に置いて寝てはいるが、喉がからからになって眼が覚める。死んだおふくろが、死ぬ前にわたしの顔を見ると『喉がからから』と甘えていたのを思い出す。/浅草地区は、ここのところ、スカイツリー景気で、大変な雑踏だろうと想像して、寄りつかないでいるが、君は元気にしているかと、心配になって、このメールを送ります。/今週の月曜日に、西宮のK君から、ファックスを貰って、「点滴入院から退院してきました。抗がん剤は1時間、あとはひたすらポカリスエット」の点滴をするらしい。/いままで1カ月に一回、抗がん剤の点滴を受けに、点滴入院をしていたが、今回から2カ月に一回になった由。抗がん剤を打って、一週間目が『しんどさ』のピークになるというから、今日あたりから、『しんどさ』がピークに来るころだろう。この「しんどさ」と言う奴が、経験者ではないと分からないらしくて、わたしの銀行友達が、『言うに言われぬしんどさ』といっていたから、その症状でしょう。/浅草が少し落ち着いたら、神奈川三馬鹿トリオで、君といっしょに飲みたいと思っています。Sなんぞは、いつも「日高を誘って飲もうぜ」と言っているよ。/とりあえず、近況のお伺いまで…。」
 
 ブログ集21が届いた知らせのメールあり。
 横浜のIN氏から、「日高 節夫 様/きょう夕方、クロネコメール便で、掲題「ブログ集」XXI号が届きました。/ありがとうございました。」
 藤沢のMY氏から、「本日夕刻ブログ集を受領しました。いつも有難うございます。/スカイツリー狂騒曲も少しは収まってきましたか?  先日N君とも話したのですが、その内一度お邪魔しようじやないかと云うことになりました。近いうちに相談させてください。/先ずはブログ集受領の御礼まで。」
 宝塚のKS氏から、「昨日21号有難く拝受致しました。/定期検査のため遅く帰宅しましたので、返事が遅れました。/相変わらず事実に基づく客観的表現と共に、漢詩に依る主体性を諄々と記載される様に感銘を受けております。/貴兄の人となりにひかれる種々の方々との繋がりと、スカイツリーのコントラストが何とも言えず、また花の写真には家内も嬉しそうにしておりました。/貴兄の本音はお会いしてゆっくりお話ししなければ聞けないと存じますが、たまには心からの怒りの表現を観てみたいと存じています。                      今後とも御身大切に、御奥様に宜しくお伝え下さい。/まずは御礼まで」
 また、西宮のYK氏からは、FAXあり。曰く、「ブログ集拝受(お礼)/本日標記XXIいただきました。ありがとう。/私は6/1~6/4と兵庫医大へ点滴入院していました。/今まで毎月が2ヶ月に1回となり、CEA値も6.2(正常値は5以下)まで下りました。/最近は午前中のあんま(マッサージ)、午後のなるお神社徘徊が日課となっています。/貴兄の言うとおり息災で頑張りましょう。/いまからブログ集楽しくよませていただきます。/まずはブログ集拝受お礼まで (以上)」
 
 CEA値の意味がわからなかったので、インターネットで調べてみた。
CEA:消化器系がんの腫瘍マーカー
CEAは胎児の消化器細胞だけにあるタンパクの一種ですが、がん細胞が増殖している組織内からもつくり出されます。消化器系がんのスクリーニング検査として広く用いられ、また、がん治療後の経過観察、再発や転移の早期発見にも重要です。
 CEAは胃がんや大腸がんの腫瘍マーカーとして知られていますが、進行胃がんの30~40%にしか検出されません。肝臓がん、胆道がんにも用いられます。ただし、胆管がんでは必ず上昇するとは限らず、胆のうがんではCA19-9ほど顕著には上昇しません。
膵臓がんの場合は、スクリーニング検査としては不十分で、治療効果の特定に有効です。
 消化器系がん以外のがんでも広く陽性を示す反面、臓器特異性は低いので、この検査だけでは診断はできません。また、陽性になるのは進行がんが多く、早期がんの診断には適さないので注意が必要です。
 CEAの基準値:5.0ng/ml以下
 健康な人でも約3%の人は基準値を超える場合があるとされており、高齢や喫煙でもやや上昇する傾向があります。がんが進行するにつれて高値となり、基準値の倍以上ではがんの疑いが濃厚、4倍以上では転移がんが疑われます。
 異常値の場合
CEAが高値である場合、体のどこかにがんがある可能性が高いので、症状にあわせてほかの血液検査やX線造影、超音波、CTなど消化器系を中心に、肺や婦人科などの精密検査も必要になります。また、がんは進行性であり、CEAの高値ががんによる場合は上昇傾向を示すため、1~2ヵ月後に再検査を行います。これで変動がなければ、高値でも心配ないことがあります。
 CEAは、がんを切除したり、抗がん剤療法でがんが縮小したりすると値は低下します。その後の経過観察でのCEAの再上昇は、がんの再発やほかの臓器への転移などを疑わせる指標のひとつとして重要になるため、2~3ヶ月に1回は測定します。
もし、再上昇を認めた場合は、ただちに腹部超音波検査や腹部CTなどの精密検査が必要です。
 今朝は金星が太陽面を通過するという。朝から雨で徘徊には出かけられなかったが、先日の金環日食の時は曇天にも拘わらずテラスはカメラマンで混雑していたが、この天気ではどうなんだろう。
 日本列島の南海上では台風3号が北東方向に通過中という。このまま梅雨入りとなるのだろうか。
 今朝のウェブニュースより
台風接近、金星の太陽面通過観察難しい? 東海より東の地域 ―― 気象庁は5日、日本の南海上を東寄りに進む台風3号の影響で今後、台風が接近する伊豆、小笠原両諸島や西・東日本の太平洋側でしけの恐れがあるとして、警戒を呼び掛けた。/一方、6日は太陽の手前を、黒い点のような金星が横切る「金星の太陽面通過」が全国で見られるはずだが、同庁の予報では東海より東の地域は曇りや雨の所が多く、観察は厳しそうだ。/同庁によると、台風は5日夜、風速25メートル以上の暴風域を伴い九州の南海上を北東に進んだ。6日朝に四国から近畿の南海上に、同日夕には関東の南海上に達する見込み。7日朝に温帯低気圧に変わる予想。/ 6日は伊豆諸島で最大風速20メートル、伊豆、小笠原両諸島で波の高さ6メートルの大しけが見込まれる。西・東日本の太平洋沿岸も台風からのうねりが入り、波の高さが4メートルのしけになる所があるという。
〔共同〕(日本経済新聞 2012/6/5 23:11)
 
 梅雨(ばいう)  杜甫
南京犀浦道  南京犀浦(なんけいさいほ)の道
四月熟黄梅  四月の黄梅熟(じゅく)す
湛湛長江去  湛湛(たんたん)として 長江去り
冥冥細雨來  冥冥(めいめい)として 細雨来(きた)る
茅茨疎易濕  茅茨(ぼうし)は疎(そ)にして 湿(うるお)い安く
雲霧密難開  雲霧(うんむ)は密(みつ)にして 開け難し
竟日蛟龍喜  竟日(きょうじつ) 蛟龍(こうりゅう)喜び
盤渦與岸囘  盤渦(ばんか) 岸と回(めぐ)る
〔訳〕南京〔成都〕の犀浦県にあるわが草堂の道では、
   (旧暦)四月になると梅の実が黄色く熟する。
   その頃には増水した長江の水は満々とたたえて流れ去り
  梅雨の細やかな雨がうっとうしく降ってくる。
  わが草堂の茅葺きの屋根は疎らに葺いてあるから、雨がしみやすく
 雲や霧が深くたれこめて、なかなか晴れることがない。
   この雨空に、蛟龍は喜んでいるだろう、
   急に増水した水面の渦が岸の地形に従ってぐるぐるとうずまいている。
 【社説】
野田内閣再改造 消費増税と取引する愚 ―― 野田佳彦首相が再び内閣改造に踏み切った。問責二閣僚の交代は当然としても、再改造が消費税増税を進めるための環境整備というのは納得できない。/消費税率を二段階で10%に引き上げるための「社会保障と税の一体改革」関連法案を、今の国会中(会期延長がなければ六月二十一日まで)に成立させる意気込みを示したかったのだろう。/通常、官房長官が務める閣僚名簿の発表を首相自らが行い、内閣再改造の理由を「一体改革を含め諸懸案を前進させるための環境整備をすべく、内閣の機能強化という視点で改造した」と説明した。
◆人選の失敗を糊塗
 しかし、首相が一月の内閣改造時に豪語した「最善かつ最強の布陣」が正しければ、わずか五カ月後に再改造する必要もなかった。/参院民主党の実力者である輿石東幹事長の意向に逆らえずに起きた人選の失敗を糊塗(こと)するために、内閣機能の強化を再改造理由に持ち出したのが実態だ。/参院では四月二十日、田中直紀防衛相と前田武志国土交通相の問責決議が可決され、野党側は首相に二閣僚の更迭を求めていた。/安全保障の基礎知識を欠く田中氏は国会答弁が安定せず、適格性に疑問符が付いた。/市長選告示前に送った特定候補支援文書の違法性が指摘された前田氏は旧建設省出身。大型公共事業の建設再開に前向きで「コンクリートから人へ」の民主党の理念に逆行する人選でもあった。/法的拘束力のない問責決議で政権を揺さぶる野党戦術は問題ありだが、不適格な人選の二閣僚は速やかに交代させるべきだった。/問責決議後、参院では法案審議が滞り、今国会の法案成立率は二十数%と低調だ。その責任は審議を拒否した野党側ばかりでなく、二閣僚を交代させられなかった首相も負うべきはもちろんである。
◆議員の身まず削れ
 さらに今回の内閣再改造には、首相が「政治生命を懸ける」と断言した一体改革法案の今国会成立に向けて、自民党など野党側との法案修正協議に入る環境整備という側面があることを見逃せない。/財政状況に対する危機感はわれわれも首相と共有する。少子高齢化社会の進展で、現行の社会保障制度が持続可能だとは思わない。/しかし、再三指摘してきたように、衆院で審議中の法案は現行の社会保障制度の維持を基本としており、一体改革の名に値しない。/政府や国会の無駄削減や社会保障制度の抜本改革を後回しにし、消費税増税の前例づくりの法案をいくら修正したところで、国民の理解が得られる改革に仕上げるのは難しいのではないか。/内閣再改造を機に、与野党が本格的に協議を始めるというのなら、まずは政党交付金や歳費、文書通信交通滞在費の削減など国会議員が身を削る姿勢を示すことから始めてほしい。/さらに、「官」の抵抗で遅々として進まない行政改革にこそ与野党が力を合わせ、同時に、政権が代わっても大きく変える必要がないよう安定的な社会保障制度づくりに知恵を絞るべきである。/もし消費税率を上げる以外に財源を見つけることが難しいというのなら、増税前にやるべきことをやり尽くした上で、国民に理解を求めるのが筋だ。/国会は各党の主張がせめぎ合う場だ。特に「ねじれ国会」では、与党の思い通りにならないことも多いだろう。かといって民主党らしさを失っては意味がない。/初の民間人防衛相となった森本敏拓殖大大学院教授は、民主党らしさとは程遠い人選ではないか。/田中氏の不安定な国会答弁が続き、自衛官出身で安全保障の論客にすがりたかったのだろう。/ただ、自公連立政権時代の二〇〇九年に防衛相補佐官に起用されたり、集団的自衛権の行使容認や憲法改正を主張する森本氏は、民主党よりも自民党の立場に近いのではないか。/今回新任された五閣僚のうち、森本氏を除く四人は当選回数などを勘案した順送りの色彩が濃い。/その分、森本氏起用に首相の狙いが表れていると言えるが、消費税増税への協力を得るために自民党に擦り寄るのなら、民主党内からも異論が出るのは当然だ。
◆自民と同化の疑念
 国民が民主党に政権を託したのは、〇九年衆院選マニフェストに自民党とは違う政権像を見たからだ。それを墨守する必要はないとしても、政治主導や地域主権、生活第一などの理念をも反故(ほご)にするのなら民主党に存在意義はない。/内閣再改造を機に自民党との連携に大きく踏み出したかに見える首相には、民主党らしさを失い、自民党と同化しつつあるとの疑念が向けられていることを、重く受け止めるべきである。   (東京新聞 2012年6月5日)
 今朝のウェブニュースより
9573779e.jpeg オウム菊地容疑者逮捕 逃亡17年 相模原に ―― オウム真理教による地下鉄サリン事件で、殺人、殺人未遂の疑いで特別手配されていた元オウム真理教信者、菊地直子容疑者(40)が3日、相模原市緑区城山で身柄を確保され、警視庁捜査一課は同庁本部に任意同行し、本人と確認、逮捕した。菊地容疑者は「サリン生成にかかわったのは間違いありません。しかし、当時は何を作っていたのか知らなかった」と話している。/3日午前、菊地容疑者によく似た女が相模原市内の一戸建て住宅にいるという情報が、警視庁に寄せられたのが端緒になった。/捜査一課によると、菊地容疑者は「男と二人で生活していた。職業は会社員をしている」と話している。菊地容疑者が逮捕された3日夜、一緒に暮らしていたと話す男性(40)が、神奈川県警大和署に出頭した。警視庁は事情を聴いている。/残る教団の特別手配容疑者は、地下鉄サリン事件などに関与したとされる高橋克也容疑者(54)だけとなる。/逮捕容疑では、教団代表だった麻原彰晃死刑囚(57)=本名・松本智津夫=の指示を受けた元幹部らと共謀。1995年3月20日朝、東京都内の地下鉄三路線五車両に、サリンをまいて乗客ら12人を殺害、約5500人に重軽症を負わせた疑いが持たれている。/菊地容疑者は、地下鉄サリン事件で使用されたサリン製造を手助けしたとされる。95年5月に起きた都庁小包爆弾事件などにも関与した疑いがある。/菊地容疑者は九六年十一月、高橋容疑者ら男性信者と潜伏していた埼玉県所沢市のマンションから高橋容疑者と一緒に逃走後、行方が分からなくなった。/オウム真理教の特別手配犯をめぐっては、教団元幹部の平田信(まこと)被告(47)=逮捕監禁罪などで起訴=が昨年12月31日、潜伏していた大阪府から警視庁に出頭している。
◆教団の「走る広告塔」:オウム真理教元幹部の平田信被告の出頭から半年。菊地直子容疑者が逮捕された。東京が初めて化学テロに襲われた地下鉄サリン事件から17年、警視庁の捜査幹部は色めき立った。/菊地容疑者は一九九五年六月ごろ、千葉県市川市内のアパートで、地下鉄、松本両サリン事件で殺人罪に問われて刑が確定した林泰男死刑囚(54)と住んでいたことが、警察当局によって確認された。指紋も採取された。/捜査関係者らによると、菊地容疑者は九六年十一月まで、元信者で特別手配されている高橋克也容疑者らとともに、埼玉県所沢市内に潜伏。行動を共にしていた信者が出頭した後、捜査員が踏み込む直前に姿をくらました。/潜伏先のマンションからは女性物の下着や、菊地容疑者が出頭するべきか悩む心境をつづったノート、ホーリーネームが書かれた布団代わりの段ボールなどが発見された。/菊地容疑者は大阪の有名進学高校に在学中、陸上部に所属し、けがの治療のために通ったヨガ道場が、教団との接点とされている。/活動的な性格とされ、教団が富士山麓の樹海で行ったサバイバルゲームまがいの戦闘訓練や、格闘技の講習会に積極的に参加。九六年のアトランタ五輪を目指し、教団が陸上部を結成してマラソン選手の育成を始めると、菊地容疑者も高校時代の陸上競技の実績を買われて選手に選ばれた。/94年の大阪国際女子マラソンでは、オウム真理教のゼッケンを胸に着けて出場し「走る爆弾娘」の異名を取った。/平田被告が昨年末に出頭した際には、麻原彰晃死刑囚の刑執行を引き延ばす狙いがあったのでは、とされた。だが、平田被告は教団に帰依する心はないと供述。捜査幹部らは、菊地容疑者の言動に大きな関心を寄せている。
627e8468.jpeg<地下鉄サリン事件> 1995年3月20日午前8時ごろ、東京都内の地下鉄3路線5電車で猛毒のサリンがまかれ、翌年にかけて12人が死亡した。実行役、サリン製造役とされたオウム真理教幹部らが殺人罪などで起訴され、松本智津夫死刑囚ら13人の死刑判決が確定した。2008年施行の被害者救済法で、事件翌日に浴室で事故死した男性もサリン吸引が原因と判断され、死者は13人となった。  (東京新聞 2012年6月4日 07時02分)
 
  今日のウェブニュースより
e5bfcbee.jpeg 問責2閣僚交代含め内閣改造へ ―― 野田総理大臣は、消費税率引き上げ法案の今の国会での成立に向けて、早ければ4日にも、野党側が求めている問責決議を受けた2人の閣僚の交代も含めて内閣改造に踏み切る方向で検討に入りました。/野田政権は、ねじれ国会のもと、消費税率引き上げ法案などの成立には野党側の協力が不可欠なことから、自民党や公明党に修正協議に入りたいと呼びかけました。/しかし、自民党は問責決議を受けた前田国土交通大臣と田中防衛大臣の交代が前提だとしたうえで、衆議院で採決する日程を明確にするよう求め、協議が始まる見通しは立っていません。/こうしたなかで、野田総理大臣は、法案の成立に向けて、早ければ4日にも、前田大臣、田中大臣の交代も含めて内閣改造に踏み切る方向で検討に入りました。/これに加えて、書類送検された在日中国大使館の元1等書記官が農林水産省の事業に関わったと指摘されていることを踏まえ、鹿野農林水産大臣らの交代も検討されています。/一方、野田総理大臣は、3日午前11時から、小沢元代表との2回目の会談を輿石幹事長も交えて3人で行うことにしています。/会談で、野田総理大臣は「先の衆議院選挙で掲げた『国民の生活が第一』の政治の実現を図るべきだ」という小沢氏の考えは共有できるものの、財政の悪化や少子高齢化が進む現状を考えれば、今の国会で消費税率引き上げ法案の成立を目指す必要があるとして、改めて協力を求めることにしています。これに対して、小沢氏は、消費税率を引き上げる前に、国の仕組みを中央集権から地域主権に変えることや、デフレ経済からの脱却などに取り組むべきだという主張を繰り返すものとみられ、党内からは今回の会談も平行線に終わるという見方が出ています。/野田総理大臣としては、合意の見通しのないまま、小沢氏との調整に時間をかけることになれば、今の国会での法案の成立がおぼつかなくなるとして、今回の会談を最後にして、自民党の協力を得るための環境整備に重点を置きたい考えです。/ただ、輿石幹事長は党の結束を重視しており、内閣改造や自民党が求めている法案の採決日程の提示も含めて、ギリギリの調整が行われる見通しです。  (NHK NEWS Web 6月3日 4時24分)
 
 再会談は物別れ=首相、4日にも改造―消費増税反対を明言・小沢氏 ―― 野田佳彦首相は3日、民主党本部で小沢一郎元代表と会談した。消費増税関連法案の成立に向け、自民党との修正協議に入る方針を示し、小沢氏の協力を改めて要請した。しかし、小沢氏は反対の考えを明言し、物別れに終わった。自民党の軟化を促す狙いから、首相は参院で問責決議を受けた前田武志国土交通相と田中直紀防衛相の交代を含む内閣改造に踏み切る意向を伝えた。4日にも行われる見通しで、消費税政局は重大な転機を迎えた。/首相と小沢氏の再会談は約1時間に及び、輿石東幹事長が5月30日の会談に続いて同席した。小沢氏はこの後、記者団の質問に答え、「議論としては、前回と同じ平行線になった」と明らかにした。首相は「法案を何としてもこの国会で成立させたい。党として野党に協議を呼び掛けていきたい」と述べたという。/国会会期末が21日に迫り、外交日程を踏まえて首相は、15日までに法案を衆院で採決する意向。 (ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2012年 6月 3日  13:02 JST [時事通信社])
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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