瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は七夕。今朝も早朝から雨。
東京夢華録 巻七 駕登寶津樓諸軍呈百戲 一
駕登寶津樓、諸軍百戲呈於樓下。先列皷子十數輩、一人搖雙皷子、近前進致語、多唱「青春三月」、《驀山溪》也。唱訖、皷笛舉、一紅巾者弄大旗、次獅豹入場、坐作進退、奮迅舉止畢。次一紅巾者、手執兩白旗子、跳躍旋風而舞、謂之「撲旗子」。及上竿、打筋斗之類訖、樂部舉動、琴家弄令。有花妝輕健軍士百餘、前列旗幟、各執雉尾、蠻牌、木刀、初成行列拜舞、互變開門奪橋等陣、然後列成偃月陣。樂部復動蠻牌令、數內兩人出陣對舞、如擊刺之狀、一人作奮擊之勢、一人作僵仆。出場凡五七對、或以鎗對牌、劍對牌之類。忽作一聲如霹靂、謂之「爆仗」、則蠻牌者引退、煙火大起、有假面披髮、口吐狼牙煙火、如鬼神狀者上場。著青帖金花短後之衣、帖金皂袴、跣足、攜大銅鑼隨身、步舞而進退、謂之「抱鑼」。遶場數遭、或就地放煙火之類。又一聲爆仗、樂部動《拜新月慢》曲、有面塗青碌、戴面具、金睛、飾以豹皮錦繡看帶之類、謂之「硬鬼」。或執刀斧、或執杵棒之類、作腳步蘸立、為驅捉視聽之狀。又爆仗一聲、有假面長髯、展裹綠袍鞾簡如鍾馗像者、傍一人以小鑼相招和舞步、謂之「舞判」。繼有二三瘦瘠、以粉塗身、金睛白面、如髑髏狀、繫錦繡圍肚看帶、手執軟仗、各作魁諧趨蹌、舉止若排戲、謂之「啞雜劇」。又爆仗響、有煙火就湧出、人面不相覩、煙中有七人、皆披髮文身、著青紗短後之衣、錦繡圍肚看帶、內一人金花小帽、執白旗、餘皆頭巾、執真刀、互相格鬥擊刺、作破面剖心之勢、謂之「七聖刀」。忽有爆仗響、又復煙火。出散處以青幕圍繞、列數十輩、皆假面異服、如祠廟中神鬼塑像、謂之「歇帳」。又爆仗響、卷退。次有一擊小銅鑼、引百餘人、或巾裹、或雙髻、各著雜色半臂、圍肚看帶、以黃白粉塗其面、謂之「抹蹌」。各執木棹刀一口、成行列、擊鑼者指呼、各拜舞起居畢、喝喊變陣子數次、成一字陣、兩兩出陣格鬥、作奪刀擊刺之態百端訖、一人棄刀在地、就地擲身、背著地有聲、謂之「扳落」。如是數十對訖、復有一裝田舍兒者入場、念誦言語訖、有一裝村婦者入場、與村夫相值、各持棒杖互相擊觸、如相敺態。其村夫者以杖背村婦出場畢。後部樂作、諸軍繳隊雜劇一段、繼而露臺弟子雜劇一段、是時弟子蕭住兒、丁都賽、薛子大、薛子小、楊總惜、崔上壽之輩、後來者不足數。合曲舞旋訖、諸班直常入祗候子弟所呈馬騎。先一人空手出馬、謂之「引馬」。次一人磨旗出馬、謂之「開道旗」。
〔訳〕《主上、宝津楼に登られ、諸軍、百戯を御覧に供す〔清明二〕1》主上が宝津楼に登られると、諸軍が楼の下で、百戯を御覧に供した。まず鼓手が十数人並び、一人が振り鼓を振り鳴らし、おん前に近づき祝儀の言葉を奏上する。多くは「青春三月驀山渓」を歌う。歌がすむと、鼓笛が奏せられ、紅い頭巾をした者が、大きな旗を翻して登場、ついで獅豹(ししまい)が出て、さまざまなしぐさをしたり激しい立ち回りをする。これがすむと、つぎは紅い頭巾をした者が、手に二つの白い旗を持ち、跳躍したり旋風のように回転したりして踊り、これを「撲旗士(はたふり)」という。それから竿登り、打筋斗(とんぼがえり)のたぐいが行なわれた後、花やかに粧(よそお)った軽快で凛々しい武士が百余人登場する。前列は旗をなびかせ、それぞれ雉尾(とりげ)や蛮牌(たて)や木刀を手にしている。はじめ整列して拝舞をしてから、開門・奪橋などに陣形を変え、さいごに偃月陣の陣形をとる。楽部がこんどは「蛮牌」の曲を演奏すると、陣の中から二人が出てきて対舞をする。立ち回りふうなもので、一方が激しく打ちかかるさまを、一方は打ち倒されるさまを演ずる。およそ五・六組が登場したが、いずれも槍と牌(たて)、あるいは剣と牌といったたぐいの組合わせであった。突然、霹靂(へきれき)のような音が鳴り響く。これを「爆仗〔ばくじょう、爆竹〕」という。と、蛮牌(たて)を演じた者たちは退場して、煙火(はなび)が燃え上がると、ざんばら髪で口から狼のような牙を突き出し煙を吐く仮面をつけた鬼神のような姿をした者が登場する。青地に金色の花模様の短後(うしろみじか)の衣(ころも)を着、金を摺った黒の袴をつけ、はだしで大きなドラを持って舞い歩く。これを「抱鑼(ドラもち)」といい、舞台を数回廻り、ところどころに煙火のたぐいを放った。また爆竹が鳴り、楽隊が「拝新月慢」の曲を演奏すると、顔を濃緑色に塗り金色の睛(ひとみ)をした仮面を付け、豹の皮に錦の帯などで身を飾った者があらわれる。これを「硬鬼(こうき)」という。手に刀や斧あるいは杵や棒などを持ち、歩いたり止まったりして、なにかを追い捉え調べるふりをする。また爆竹が鳴ると、仮面に長い髯をつけ、緑の袍(ほう)に身を包み革長靴をはいた鍾馗(しょうき)の像のような姿のものが、かたわらの小さいドラを持った者とともに舞い歩むのを「舞判(ぶはん)」といった。ついで二、三人の、やせたからだに白粉を塗り金色の睛(ひとみ)の白い仮面をかぶった骸骨のような姿の者があらわれる。錦の囲肚看帯(はらあておび)をつけ、手に柔らかい杖をもちそれぞれおどけたりよろけたり、そのしぐさがしばいがかりだったので、これを「唖雑劇(だんまり)」という。また爆竹が響くと、煙火の煙が湧き上がり、人の顔もさだかに見分けられぬ煙が立ち込める中から、ざんばら髪で、文身(いれずみ)をし、青い薄絹の短後(うしろみじか)の衣を着、錦の囲肚看帯(はらあておび)をつけた七人の者があらわれる。その中の一人は金花の小帽子をかぶり白旗を持っている。他はみな頭巾をつけ真剣を持ち、格闘しあい、顔を切ったり心臓を突いたりするさまをし、これを「七聖刀」という。突然、爆竹が響くと、またまた煙火だ。ほうぼうに青い幕を張り巡らし、めいめいの仮面をつけた異様な服を着た者が数十人並んださまは、廟中の神鬼の塑像さながらだ。これを「歇帳(けっちょう)」という。また爆竹が響くと、この連中は幕をまいて退場する。つぎに小ドラを一撃すると百人あまりもの人数がくりだす。頭巾で頭を包んだ者と、双髺(ふたつまげ)をつけた者とに分かれ、めいめい色とりどりの半臂(そでなし)に、囲肚看帯(はらあておび)をつけ、顔には黄白の粉を塗っている。これを「抹蹌(まつそう)」という。みな木の棹刀(なぎなた)一口(ひとふり)を持って行列して出て来る。ドラを打つ者が指図し号令をかけると、それぞれ拝舞をしてから居ずまいを正しおえると、ときの声をあげて数度陣形を変える。一字形の陣になると双方から陣を出て格闘をはじめ、刀を奪ったり斬りあったりするさまを見せた。一人が刀を地に捨て、その場に身を投げるようにドスンと背から地に落ちるのを「叛落(はんらく)」といった。このようにして数十番が終ると、こんどは田舎者に扮した役が出て来る。口上を言い終わると、田舎女に扮した役が入場し、田舎者と組んで、棒を持って打ち合い、けんかのさまを演じる。この田舎者が杖で田舎女を背負って退場してしまうと、楽部が演奏を始め、諸軍が編成した雑劇(しばい)が一段演じられる。ついで教坊の役者たちによってまた雑劇が一段演じられる。この当時の教坊の役者には、蕭住児(しょうじゅうじ)・丁都賽(ていとさい)・薛子大(せつしだい)・薛子小・楊総惜(ようそうしゃく)・崔上寿(さいじょうじゅ)などがいたが、その後は数うるにたらぬものばかりだった。楽舞が終ると、諸禁衛隊に入隊して常に主上のお側近くに仕えている子弟たちが馬術をご覧に供した。まず一人が徒手で馬を引き出し、これを「引馬」という。ついで一人が旗を振り馬に乗って出てくる。これを「開道旗」という。
※百戯:宋代の雑楽百戯には各種軽業と歌舞劇があり、みな左右軍に隷属し散居していたが、大饗宴があるごとに、饗宴をつかさどる官署である官徽院がこれを召集した。
※振り鼓:原文では「搖雙皷子」とあり、揺〔振り〕とあるその動作から、雙皷子というのは振り鼓であり、手にとって振り鳴らしたものと思われる。
※驀山渓:「上陽春」ともよばれる詞〔宋代流行の小唄〕の曲名。
※雉尾:儀仗用の長い柄がついたキジの羽毛製の団扇。
※蛮牌:蛮王の顔が画いてある円形の楯。
※偃月陣:三日月形に並ぶ陣形。
※後短衣の衣:後ろが短く激しい動作に邪魔にならぬようになっている着物。
今夕はちゃぼ女史の父上の通夜で代々幡斎場に出かける予定。
東京夢華録 巻七 駕登寶津樓諸軍呈百戲 一
駕登寶津樓、諸軍百戲呈於樓下。先列皷子十數輩、一人搖雙皷子、近前進致語、多唱「青春三月」、《驀山溪》也。唱訖、皷笛舉、一紅巾者弄大旗、次獅豹入場、坐作進退、奮迅舉止畢。次一紅巾者、手執兩白旗子、跳躍旋風而舞、謂之「撲旗子」。及上竿、打筋斗之類訖、樂部舉動、琴家弄令。有花妝輕健軍士百餘、前列旗幟、各執雉尾、蠻牌、木刀、初成行列拜舞、互變開門奪橋等陣、然後列成偃月陣。樂部復動蠻牌令、數內兩人出陣對舞、如擊刺之狀、一人作奮擊之勢、一人作僵仆。出場凡五七對、或以鎗對牌、劍對牌之類。忽作一聲如霹靂、謂之「爆仗」、則蠻牌者引退、煙火大起、有假面披髮、口吐狼牙煙火、如鬼神狀者上場。著青帖金花短後之衣、帖金皂袴、跣足、攜大銅鑼隨身、步舞而進退、謂之「抱鑼」。遶場數遭、或就地放煙火之類。又一聲爆仗、樂部動《拜新月慢》曲、有面塗青碌、戴面具、金睛、飾以豹皮錦繡看帶之類、謂之「硬鬼」。或執刀斧、或執杵棒之類、作腳步蘸立、為驅捉視聽之狀。又爆仗一聲、有假面長髯、展裹綠袍鞾簡如鍾馗像者、傍一人以小鑼相招和舞步、謂之「舞判」。繼有二三瘦瘠、以粉塗身、金睛白面、如髑髏狀、繫錦繡圍肚看帶、手執軟仗、各作魁諧趨蹌、舉止若排戲、謂之「啞雜劇」。又爆仗響、有煙火就湧出、人面不相覩、煙中有七人、皆披髮文身、著青紗短後之衣、錦繡圍肚看帶、內一人金花小帽、執白旗、餘皆頭巾、執真刀、互相格鬥擊刺、作破面剖心之勢、謂之「七聖刀」。忽有爆仗響、又復煙火。出散處以青幕圍繞、列數十輩、皆假面異服、如祠廟中神鬼塑像、謂之「歇帳」。又爆仗響、卷退。次有一擊小銅鑼、引百餘人、或巾裹、或雙髻、各著雜色半臂、圍肚看帶、以黃白粉塗其面、謂之「抹蹌」。各執木棹刀一口、成行列、擊鑼者指呼、各拜舞起居畢、喝喊變陣子數次、成一字陣、兩兩出陣格鬥、作奪刀擊刺之態百端訖、一人棄刀在地、就地擲身、背著地有聲、謂之「扳落」。如是數十對訖、復有一裝田舍兒者入場、念誦言語訖、有一裝村婦者入場、與村夫相值、各持棒杖互相擊觸、如相敺態。其村夫者以杖背村婦出場畢。後部樂作、諸軍繳隊雜劇一段、繼而露臺弟子雜劇一段、是時弟子蕭住兒、丁都賽、薛子大、薛子小、楊總惜、崔上壽之輩、後來者不足數。合曲舞旋訖、諸班直常入祗候子弟所呈馬騎。先一人空手出馬、謂之「引馬」。次一人磨旗出馬、謂之「開道旗」。
〔訳〕《主上、宝津楼に登られ、諸軍、百戯を御覧に供す〔清明二〕1》主上が宝津楼に登られると、諸軍が楼の下で、百戯を御覧に供した。まず鼓手が十数人並び、一人が振り鼓を振り鳴らし、おん前に近づき祝儀の言葉を奏上する。多くは「青春三月驀山渓」を歌う。歌がすむと、鼓笛が奏せられ、紅い頭巾をした者が、大きな旗を翻して登場、ついで獅豹(ししまい)が出て、さまざまなしぐさをしたり激しい立ち回りをする。これがすむと、つぎは紅い頭巾をした者が、手に二つの白い旗を持ち、跳躍したり旋風のように回転したりして踊り、これを「撲旗士(はたふり)」という。それから竿登り、打筋斗(とんぼがえり)のたぐいが行なわれた後、花やかに粧(よそお)った軽快で凛々しい武士が百余人登場する。前列は旗をなびかせ、それぞれ雉尾(とりげ)や蛮牌(たて)や木刀を手にしている。はじめ整列して拝舞をしてから、開門・奪橋などに陣形を変え、さいごに偃月陣の陣形をとる。楽部がこんどは「蛮牌」の曲を演奏すると、陣の中から二人が出てきて対舞をする。立ち回りふうなもので、一方が激しく打ちかかるさまを、一方は打ち倒されるさまを演ずる。およそ五・六組が登場したが、いずれも槍と牌(たて)、あるいは剣と牌といったたぐいの組合わせであった。突然、霹靂(へきれき)のような音が鳴り響く。これを「爆仗〔ばくじょう、爆竹〕」という。と、蛮牌(たて)を演じた者たちは退場して、煙火(はなび)が燃え上がると、ざんばら髪で口から狼のような牙を突き出し煙を吐く仮面をつけた鬼神のような姿をした者が登場する。青地に金色の花模様の短後(うしろみじか)の衣(ころも)を着、金を摺った黒の袴をつけ、はだしで大きなドラを持って舞い歩く。これを「抱鑼(ドラもち)」といい、舞台を数回廻り、ところどころに煙火のたぐいを放った。また爆竹が鳴り、楽隊が「拝新月慢」の曲を演奏すると、顔を濃緑色に塗り金色の睛(ひとみ)をした仮面を付け、豹の皮に錦の帯などで身を飾った者があらわれる。これを「硬鬼(こうき)」という。手に刀や斧あるいは杵や棒などを持ち、歩いたり止まったりして、なにかを追い捉え調べるふりをする。また爆竹が鳴ると、仮面に長い髯をつけ、緑の袍(ほう)に身を包み革長靴をはいた鍾馗(しょうき)の像のような姿のものが、かたわらの小さいドラを持った者とともに舞い歩むのを「舞判(ぶはん)」といった。ついで二、三人の、やせたからだに白粉を塗り金色の睛(ひとみ)の白い仮面をかぶった骸骨のような姿の者があらわれる。錦の囲肚看帯(はらあておび)をつけ、手に柔らかい杖をもちそれぞれおどけたりよろけたり、そのしぐさがしばいがかりだったので、これを「唖雑劇(だんまり)」という。また爆竹が響くと、煙火の煙が湧き上がり、人の顔もさだかに見分けられぬ煙が立ち込める中から、ざんばら髪で、文身(いれずみ)をし、青い薄絹の短後(うしろみじか)の衣を着、錦の囲肚看帯(はらあておび)をつけた七人の者があらわれる。その中の一人は金花の小帽子をかぶり白旗を持っている。他はみな頭巾をつけ真剣を持ち、格闘しあい、顔を切ったり心臓を突いたりするさまをし、これを「七聖刀」という。突然、爆竹が響くと、またまた煙火だ。ほうぼうに青い幕を張り巡らし、めいめいの仮面をつけた異様な服を着た者が数十人並んださまは、廟中の神鬼の塑像さながらだ。これを「歇帳(けっちょう)」という。また爆竹が響くと、この連中は幕をまいて退場する。つぎに小ドラを一撃すると百人あまりもの人数がくりだす。頭巾で頭を包んだ者と、双髺(ふたつまげ)をつけた者とに分かれ、めいめい色とりどりの半臂(そでなし)に、囲肚看帯(はらあておび)をつけ、顔には黄白の粉を塗っている。これを「抹蹌(まつそう)」という。みな木の棹刀(なぎなた)一口(ひとふり)を持って行列して出て来る。ドラを打つ者が指図し号令をかけると、それぞれ拝舞をしてから居ずまいを正しおえると、ときの声をあげて数度陣形を変える。一字形の陣になると双方から陣を出て格闘をはじめ、刀を奪ったり斬りあったりするさまを見せた。一人が刀を地に捨て、その場に身を投げるようにドスンと背から地に落ちるのを「叛落(はんらく)」といった。このようにして数十番が終ると、こんどは田舎者に扮した役が出て来る。口上を言い終わると、田舎女に扮した役が入場し、田舎者と組んで、棒を持って打ち合い、けんかのさまを演じる。この田舎者が杖で田舎女を背負って退場してしまうと、楽部が演奏を始め、諸軍が編成した雑劇(しばい)が一段演じられる。ついで教坊の役者たちによってまた雑劇が一段演じられる。この当時の教坊の役者には、蕭住児(しょうじゅうじ)・丁都賽(ていとさい)・薛子大(せつしだい)・薛子小・楊総惜(ようそうしゃく)・崔上寿(さいじょうじゅ)などがいたが、その後は数うるにたらぬものばかりだった。楽舞が終ると、諸禁衛隊に入隊して常に主上のお側近くに仕えている子弟たちが馬術をご覧に供した。まず一人が徒手で馬を引き出し、これを「引馬」という。ついで一人が旗を振り馬に乗って出てくる。これを「開道旗」という。
※百戯:宋代の雑楽百戯には各種軽業と歌舞劇があり、みな左右軍に隷属し散居していたが、大饗宴があるごとに、饗宴をつかさどる官署である官徽院がこれを召集した。
※振り鼓:原文では「搖雙皷子」とあり、揺〔振り〕とあるその動作から、雙皷子というのは振り鼓であり、手にとって振り鳴らしたものと思われる。
※驀山渓:「上陽春」ともよばれる詞〔宋代流行の小唄〕の曲名。
※雉尾:儀仗用の長い柄がついたキジの羽毛製の団扇。
※蛮牌:蛮王の顔が画いてある円形の楯。
※偃月陣:三日月形に並ぶ陣形。
※後短衣の衣:後ろが短く激しい動作に邪魔にならぬようになっている着物。
今夕はちゃぼ女史の父上の通夜で代々幡斎場に出かける予定。
明け方に雨の音で目が覚める。午前3時20分。またもや徘徊に出られず。
昨日は戯れに、宝塚のKS氏に、徘徊で撮った木槿の写真に「木槿(むくげ) 今日の徘徊で遊歩道に咲いていた木槿です。/長恨歌の作者の白居易は、この木槿を『槿花一日、自ずから栄を為す。何ぞ須(もち)いん、世を恋(した)い、常に死を憂うるを…』と。/昨日も知人の訃報がありました。明日はわが身と自覺しているつもりでも、煩悩を捨てきれない昨今です。 瘋癲のセッチンより」と添え書きして、携帯でメールしてみた。返事に曰く、「外食中の一報に接し、愚妻がメールを開き読みながら『お父さん、お父さん。漢文、漢文…チンプンカンプン!』と私に携帯を慌てて渡してくれましたが、私は字が明確に見えず、外食を終え帰ってきて拡大鏡で見せて戴きました。/白居易については詳しくは存じませんが、貴兄の感想についてはよく理解出来ます。/私は家内と『社会に貢献することなく、このまま生きることは虚しい』とお互いに嘆いています。/特に現在の政治を見るとき、それに荷担した一票の価値の無さに、強烈な怒りを感ずる今日この頃です。/むくげの写真の美しさに慰められております。千里山では紫・白・赤のむくげが有りましたが、朝咲き夕方には萎むものですから、家内だけが楽しんでおりました。今思うと、私自身は自然と調和しない情けない生きざまでした。/体調に気を付けて下さい。」
東京夢華録 巻七 清明節
清明節、尋常京師以冬至後一百五日為大寒食。前一日謂之「炊熟」。用麵造棗䭅飛燕、柳條串之、插於門楣、謂之「子推燕」。子女及笄者、多以是日上頭。寒食第三節即清明日矣。凡新墳皆用此日拜掃、都城人出郊。禁中前半月發宮人車馬朝陵、宗室南班近親亦分遣詣諸陵墳享祀、從人皆紫衫、白絹三角子、青行纏、皆係官給。節日亦禁中出車馬、詣奉先寺、道者院祀諸宮人墳、莫非金裝紺幰、錦額珠簾、繡扇雙遮、紗籠前導。士庶闐塞諸門、紙馬鋪皆於當街用紙袞疊成樓閣之狀。四野如市、往往就芳樹之下、或園囿之間、羅列杯盤、互相勸酬。都城之歌兒舞女、遍滿園亭、抵暮而歸。各攜棗䭅、炊餅、黃胖、掉刀、名花異果、山亭戲具、鴨卵雞雛、謂之「門外土儀」。轎子即以楊柳雜花裝簇頂上、四垂遮映。自此三日、皆出城上墳、但一百五日最盛。節日坊市賣稠餳、麥餻、乳酪、乳餅之類。緩入都門、斜陽御柳;醉歸院落、明月梨花。諸軍禁衛、各成隊伍、跨馬作樂四出、謂之「摔腳」。其旗旌鮮明、軍容雄壯、人馬精銳、又別為一景也。
〔訳〕《清明節》清明節。都では普通冬至から百五日目を「大寒食」とした。寒食の前日は「炊熟(すいじゅく)」と呼ばれる。粉で棗A〔一種の団子〕飛燕をつくり、柳の枝に串刺しにして門に挿し、これを「子推燕(しすいえん)」といった。十五歳になった少女たちは、多くこの日に笄(こうがい)を頭につけて成人式をおこなった。寒食の第三日が清明節である。新仏(しんほとけ)の墓には、みなこの日に墓参りに行き、都の者は郊外にくり出した。皇室は半月前に宮人の車馬を御陵にさしむけられ、皇室の近親も諸陵に分遣されて祭祀が行われた。従者はみな紫の衫(ひとえ)に白絹の三角子(ひざあて)、青の行纏(きゃはん)をつけるが、これはすべて官給品である。また寒色節の日になると、皇室は奉先寺道者院に車馬を出され、宮人たちの墓参りも行なわれた。車はみな金色に装い紺色の幔幕(まんまく)を張り、錦の額と珠簾(たますだれ)をつけ、二組の綉扇〔しゅうせん、綉=刺繍〕と、薄絹の提灯を持ったものが前導をした。
士庶(ひとびと)は郊外に向かう都の各門にぎっしりひしめきあい、紙馬を売る店は、通りに紙馬を楼閣のように積み上げていた。郊外はどこも市のような賑わいで、それぞれ花木の下、あるいは庭園の中に、皿・杯を並べ、互いに酒をくみかわし、都の歌童(うたわらべ)や踊子たちも庭園・四阿(あずまや)に満ちて歌い踊り、日が暮れてやっと帰るのであった。めいめい棗A(だんご)・炊餅〔むしもち、=蒸餅〕・黄胖〔にんぎょう、黄土をこねて作った泥人形)・掉刀(なぎなた)、花や果物と、山亭(あずまや)での遊び道具、アヒルの卵と鶏の雛をたずさえて行く。これを「門外土儀」という。轎子(こし)には楊柳やさまざまの花を屋根いっぱいに飾り付け四方に垂らして日をさえぎった。これより三日間はみな都を出て墓参りをしたが、やはり百五日がいちばん盛んだった。この節句のあいだ、城内の市では稠餳(みすあめ)・麦餻(むぎがし)・乳酪(にゅうらく)・乳餅(こうじどうふ)のたぐいを売った。ゆったりと都の門を潜れば、斜陽は御柳にさし、酔うて帰るわが庭には、明月が梨の花に光りを投げるのだった。なお、この日、禁衛軍の諸部隊が、隊列を整え馬に乗って軍楽を奏しながら都の四方に出た。これを「摔脚(しゅっきゃく)」という。その旗指物は美々しく、軍容は雄壮、人馬ともえりすぐりの精鋭で、また格別な見もののひとつとなっていた。
※清明節:北宋代には清明節は、三日間行なわれる寒食節の第三日で、もっとも盛大な年中行事の一つであった。寒食節は当時の民間行事で、冬至後一〇五日目を中心とした三日間〔旧暦の三月初めころ〕火断ちをした。その第一日目〔冬至後一〇四日目〕を大寒食〔私寒食とも〕、第二日を官寒食、第三日を小寒食と呼び、また大寒食の前日〔冬至後一〇三日目〕は火断ちに備えて寒食節三日間の食物を煮炊きしたので炊熟と呼んだ。本文で冬至から百五日目を大寒食としているのは誤りか?あるいは、寒食の中心という気持ちで大の字を用いたものか?
※子推:春秋時代、晋の文公の忠臣 介子推 のこと。寒食の由来について中国の伝説は以下のように言う。後に文公が子推を冷遇したので、彼は山中に隠棲する。そこで文公は山林に火をかけ彼を山中から出そうとするが、彼は木に抱きついて焼死してしまう。これを憐れんだ国人はこの日を命日として毎年火を禁じ子推を祀るようになった。しかし、寒食は、中国で古くから行なわれていた改火の行事〔新しい火の陽気をもって春の陽気を招く儀式〕における新火と旧火のつけかえの間の行事が、介子推焚死の伝説と結びついたといわれている。この節句は亡魂を和め豊作を予祝する儀礼でもあり、春耕のため降雨を招く意味も持っていたようである。柳は桃とともに中国では古くから春の生命のシンボルであり、邪を払う力のあるものと考えられていた。
※道者院:鄭門外五里の所にあり、宋代に建てられ、毎年十月一日、大法会を開き紙銭を焚いて軍陣亡没の孤魂を祀ったが、金の末に兵火に焼かれたという。
※紙馬:祭祀に用いる紙に描かれた彩色の神像。祭りが済むと焼く。
※門外土儀:都では、春、湖の畔の黄土を取ってこれで泥人形をつくり、これを土宜〔土儀〕と言ったという。
※稠餳(ちょうとう):麦芽から作った糖汁のこと。南北朝の古くからあった清明の日の食品である。
※乳酪:乳製品。酪はヨーグルト〔湿酪〕とかチーズ〔乾酪〕など酸味のある乳製品。
※乳餅(にゅうへい):乳腐すなわち現在中国で醤豆腐(ジャントウフ)とよばれる豆腐の麹漬のこと。
※御柳:檉柳(かわやなぎ)ともよばれ、日本での呼び名〔和名〕はムロノキ。
昨日は戯れに、宝塚のKS氏に、徘徊で撮った木槿の写真に「木槿(むくげ) 今日の徘徊で遊歩道に咲いていた木槿です。/長恨歌の作者の白居易は、この木槿を『槿花一日、自ずから栄を為す。何ぞ須(もち)いん、世を恋(した)い、常に死を憂うるを…』と。/昨日も知人の訃報がありました。明日はわが身と自覺しているつもりでも、煩悩を捨てきれない昨今です。 瘋癲のセッチンより」と添え書きして、携帯でメールしてみた。返事に曰く、「外食中の一報に接し、愚妻がメールを開き読みながら『お父さん、お父さん。漢文、漢文…チンプンカンプン!』と私に携帯を慌てて渡してくれましたが、私は字が明確に見えず、外食を終え帰ってきて拡大鏡で見せて戴きました。/白居易については詳しくは存じませんが、貴兄の感想についてはよく理解出来ます。/私は家内と『社会に貢献することなく、このまま生きることは虚しい』とお互いに嘆いています。/特に現在の政治を見るとき、それに荷担した一票の価値の無さに、強烈な怒りを感ずる今日この頃です。/むくげの写真の美しさに慰められております。千里山では紫・白・赤のむくげが有りましたが、朝咲き夕方には萎むものですから、家内だけが楽しんでおりました。今思うと、私自身は自然と調和しない情けない生きざまでした。/体調に気を付けて下さい。」
東京夢華録 巻七 清明節
清明節、尋常京師以冬至後一百五日為大寒食。前一日謂之「炊熟」。用麵造棗䭅飛燕、柳條串之、插於門楣、謂之「子推燕」。子女及笄者、多以是日上頭。寒食第三節即清明日矣。凡新墳皆用此日拜掃、都城人出郊。禁中前半月發宮人車馬朝陵、宗室南班近親亦分遣詣諸陵墳享祀、從人皆紫衫、白絹三角子、青行纏、皆係官給。節日亦禁中出車馬、詣奉先寺、道者院祀諸宮人墳、莫非金裝紺幰、錦額珠簾、繡扇雙遮、紗籠前導。士庶闐塞諸門、紙馬鋪皆於當街用紙袞疊成樓閣之狀。四野如市、往往就芳樹之下、或園囿之間、羅列杯盤、互相勸酬。都城之歌兒舞女、遍滿園亭、抵暮而歸。各攜棗䭅、炊餅、黃胖、掉刀、名花異果、山亭戲具、鴨卵雞雛、謂之「門外土儀」。轎子即以楊柳雜花裝簇頂上、四垂遮映。自此三日、皆出城上墳、但一百五日最盛。節日坊市賣稠餳、麥餻、乳酪、乳餅之類。緩入都門、斜陽御柳;醉歸院落、明月梨花。諸軍禁衛、各成隊伍、跨馬作樂四出、謂之「摔腳」。其旗旌鮮明、軍容雄壯、人馬精銳、又別為一景也。
〔訳〕《清明節》清明節。都では普通冬至から百五日目を「大寒食」とした。寒食の前日は「炊熟(すいじゅく)」と呼ばれる。粉で棗A〔一種の団子〕飛燕をつくり、柳の枝に串刺しにして門に挿し、これを「子推燕(しすいえん)」といった。十五歳になった少女たちは、多くこの日に笄(こうがい)を頭につけて成人式をおこなった。寒食の第三日が清明節である。新仏(しんほとけ)の墓には、みなこの日に墓参りに行き、都の者は郊外にくり出した。皇室は半月前に宮人の車馬を御陵にさしむけられ、皇室の近親も諸陵に分遣されて祭祀が行われた。従者はみな紫の衫(ひとえ)に白絹の三角子(ひざあて)、青の行纏(きゃはん)をつけるが、これはすべて官給品である。また寒色節の日になると、皇室は奉先寺道者院に車馬を出され、宮人たちの墓参りも行なわれた。車はみな金色に装い紺色の幔幕(まんまく)を張り、錦の額と珠簾(たますだれ)をつけ、二組の綉扇〔しゅうせん、綉=刺繍〕と、薄絹の提灯を持ったものが前導をした。
士庶(ひとびと)は郊外に向かう都の各門にぎっしりひしめきあい、紙馬を売る店は、通りに紙馬を楼閣のように積み上げていた。郊外はどこも市のような賑わいで、それぞれ花木の下、あるいは庭園の中に、皿・杯を並べ、互いに酒をくみかわし、都の歌童(うたわらべ)や踊子たちも庭園・四阿(あずまや)に満ちて歌い踊り、日が暮れてやっと帰るのであった。めいめい棗A(だんご)・炊餅〔むしもち、=蒸餅〕・黄胖〔にんぎょう、黄土をこねて作った泥人形)・掉刀(なぎなた)、花や果物と、山亭(あずまや)での遊び道具、アヒルの卵と鶏の雛をたずさえて行く。これを「門外土儀」という。轎子(こし)には楊柳やさまざまの花を屋根いっぱいに飾り付け四方に垂らして日をさえぎった。これより三日間はみな都を出て墓参りをしたが、やはり百五日がいちばん盛んだった。この節句のあいだ、城内の市では稠餳(みすあめ)・麦餻(むぎがし)・乳酪(にゅうらく)・乳餅(こうじどうふ)のたぐいを売った。ゆったりと都の門を潜れば、斜陽は御柳にさし、酔うて帰るわが庭には、明月が梨の花に光りを投げるのだった。なお、この日、禁衛軍の諸部隊が、隊列を整え馬に乗って軍楽を奏しながら都の四方に出た。これを「摔脚(しゅっきゃく)」という。その旗指物は美々しく、軍容は雄壮、人馬ともえりすぐりの精鋭で、また格別な見もののひとつとなっていた。
※清明節:北宋代には清明節は、三日間行なわれる寒食節の第三日で、もっとも盛大な年中行事の一つであった。寒食節は当時の民間行事で、冬至後一〇五日目を中心とした三日間〔旧暦の三月初めころ〕火断ちをした。その第一日目〔冬至後一〇四日目〕を大寒食〔私寒食とも〕、第二日を官寒食、第三日を小寒食と呼び、また大寒食の前日〔冬至後一〇三日目〕は火断ちに備えて寒食節三日間の食物を煮炊きしたので炊熟と呼んだ。本文で冬至から百五日目を大寒食としているのは誤りか?あるいは、寒食の中心という気持ちで大の字を用いたものか?
※子推:春秋時代、晋の文公の忠臣 介子推 のこと。寒食の由来について中国の伝説は以下のように言う。後に文公が子推を冷遇したので、彼は山中に隠棲する。そこで文公は山林に火をかけ彼を山中から出そうとするが、彼は木に抱きついて焼死してしまう。これを憐れんだ国人はこの日を命日として毎年火を禁じ子推を祀るようになった。しかし、寒食は、中国で古くから行なわれていた改火の行事〔新しい火の陽気をもって春の陽気を招く儀式〕における新火と旧火のつけかえの間の行事が、介子推焚死の伝説と結びついたといわれている。この節句は亡魂を和め豊作を予祝する儀礼でもあり、春耕のため降雨を招く意味も持っていたようである。柳は桃とともに中国では古くから春の生命のシンボルであり、邪を払う力のあるものと考えられていた。
※道者院:鄭門外五里の所にあり、宋代に建てられ、毎年十月一日、大法会を開き紙銭を焚いて軍陣亡没の孤魂を祀ったが、金の末に兵火に焼かれたという。
※紙馬:祭祀に用いる紙に描かれた彩色の神像。祭りが済むと焼く。
※門外土儀:都では、春、湖の畔の黄土を取ってこれで泥人形をつくり、これを土宜〔土儀〕と言ったという。
※稠餳(ちょうとう):麦芽から作った糖汁のこと。南北朝の古くからあった清明の日の食品である。
※乳酪:乳製品。酪はヨーグルト〔湿酪〕とかチーズ〔乾酪〕など酸味のある乳製品。
※乳餅(にゅうへい):乳腐すなわち現在中国で醤豆腐(ジャントウフ)とよばれる豆腐の麹漬のこと。
※御柳:檉柳(かわやなぎ)ともよばれ、日本での呼び名〔和名〕はムロノキ。
昨日扇橋にいる塾友のKY女史よりちゃぼ女史の父上の訃報が携帯メールで入った。曰く、
「おはようございます。/昨晩 Mさんからメールがありました。『父が今日亡くなりました。91歳の大往生でした。/今スーツ姿で笑っています。自宅で看取る事が出来ました。(m~-~)』との事です。/暮れからお母様の看病疲れからご自身が肺炎を拗らせてはいたものの、退院して2人で介護の方達のお世話になりながら、気持ちはしっかりしてるので、と東京マラソンの時には聞いてたので、回復されたのかと思っていたのですが… /葬儀の予定をお知らせします。通夜 7日18時~19時、告別式 8日11時~12時 場所は代々幡斎場です。/私は8日は行けないので、お通夜に伺います。 KY」
ちゃぼ女史はこの爺にブログを書く事を進めてくれた人。東京マラソンの折にはK女史と一緒にこの爺を訪ねてくれた。早速ちゃぼ女史に携帯でお悔やみのメールを出しておいた。曰く、
「心からご冥福をお祈りいたします。 先ほどKちゃんよりお父上ご逝去の報せを受けました。先ずは『ご愁傷様です』心からお悔やみ申し上げます。九十歳といえば、天寿を全うされたのですから、ご家族の方々もきおちすることなく、ご自愛の上、お見送り下さい。/ご冥福をお祈りいたします。 合掌/お通夜には参加して、おみおくりさせていただきます。 日高節夫・道子」
昨日は早朝の雨で徘徊を取り止めたが、今朝はいつものように桜橋を起点に、白鬚橋→吾妻橋→桜橋と一周して、帰宅した。山谷掘水門広場には、今月末の28日(土)の隅田川花火大会の資材置き場が設けられた。橋場の遊歩道に木槿(むくげ)の花が咲いていた。
白居易は詠じている。
「槿花一日自為栄 (木槿〈むくげ〉の花は一日しか咲かないが、それでもすばらしい栄華だ)
何須恋世常憂死 (人の世を恋々と慕って、死を憂いてもしょうがない)」と。
積雨輞川荘作〔王維〕 積雨 輞川荘の作
積雨空林烟火遅 積雨(せきう) 空林 烟火(えんか)遅し
蒸藜炊黍餉東菑 藜(あかざ)を蒸し黍を炊いで東菑(とうし)に餉す
漠漠水田飛白鷺 漠漠(ばくばく)たる水田に白鷺(はくろ)飛び
陰陰夏木囀黄鸝 陰陰たる夏木(かぼく)に黄鸝(こうり)囀る
山中習静観朝槿 山中に習静して朝槿(ちょうきん)を観(かん)じ
松下清斎折露葵 松下(しょうか)に清斎して露葵(ろき)を折る
野老与人争席罷 野老(やろう)は人と席を争うことを罷(や)む
海鷗何事更相疑 海鷗(かいおう) 何事ぞ 更に相(あい)疑う
〔訳〕降りつづく雨 人気のない林 煙は緩(ゆる)やかに流れ
藜(あかざ)を蒸し黍を炊いて 畑での食事をつくる
靄のかかる水田で 白鷺は舞い
小暗い夏の木立で 鶯は鳴く
山中で座禅を組み 槿(むくげ)の花を見て無常を悟り
松の木蔭で斎戒し 清らかな葵(あおい)を食とする
田舎住まいの老人は 席次を争う気もなくなり
海の鷗よ どうしたことか まだ私を疑っているのか
「おはようございます。/昨晩 Mさんからメールがありました。『父が今日亡くなりました。91歳の大往生でした。/今スーツ姿で笑っています。自宅で看取る事が出来ました。(m~-~)』との事です。/暮れからお母様の看病疲れからご自身が肺炎を拗らせてはいたものの、退院して2人で介護の方達のお世話になりながら、気持ちはしっかりしてるので、と東京マラソンの時には聞いてたので、回復されたのかと思っていたのですが… /葬儀の予定をお知らせします。通夜 7日18時~19時、告別式 8日11時~12時 場所は代々幡斎場です。/私は8日は行けないので、お通夜に伺います。 KY」
ちゃぼ女史はこの爺にブログを書く事を進めてくれた人。東京マラソンの折にはK女史と一緒にこの爺を訪ねてくれた。早速ちゃぼ女史に携帯でお悔やみのメールを出しておいた。曰く、
「心からご冥福をお祈りいたします。 先ほどKちゃんよりお父上ご逝去の報せを受けました。先ずは『ご愁傷様です』心からお悔やみ申し上げます。九十歳といえば、天寿を全うされたのですから、ご家族の方々もきおちすることなく、ご自愛の上、お見送り下さい。/ご冥福をお祈りいたします。 合掌/お通夜には参加して、おみおくりさせていただきます。 日高節夫・道子」
昨日は早朝の雨で徘徊を取り止めたが、今朝はいつものように桜橋を起点に、白鬚橋→吾妻橋→桜橋と一周して、帰宅した。山谷掘水門広場には、今月末の28日(土)の隅田川花火大会の資材置き場が設けられた。橋場の遊歩道に木槿(むくげ)の花が咲いていた。
白居易は詠じている。
「槿花一日自為栄 (木槿〈むくげ〉の花は一日しか咲かないが、それでもすばらしい栄華だ)
何須恋世常憂死 (人の世を恋々と慕って、死を憂いてもしょうがない)」と。
積雨輞川荘作〔王維〕 積雨 輞川荘の作
積雨空林烟火遅 積雨(せきう) 空林 烟火(えんか)遅し
蒸藜炊黍餉東菑 藜(あかざ)を蒸し黍を炊いで東菑(とうし)に餉す
漠漠水田飛白鷺 漠漠(ばくばく)たる水田に白鷺(はくろ)飛び
陰陰夏木囀黄鸝 陰陰たる夏木(かぼく)に黄鸝(こうり)囀る
山中習静観朝槿 山中に習静して朝槿(ちょうきん)を観(かん)じ
松下清斎折露葵 松下(しょうか)に清斎して露葵(ろき)を折る
野老与人争席罷 野老(やろう)は人と席を争うことを罷(や)む
海鷗何事更相疑 海鷗(かいおう) 何事ぞ 更に相(あい)疑う
〔訳〕降りつづく雨 人気のない林 煙は緩(ゆる)やかに流れ
藜(あかざ)を蒸し黍を炊いて 畑での食事をつくる
靄のかかる水田で 白鷺は舞い
小暗い夏の木立で 鶯は鳴く
山中で座禅を組み 槿(むくげ)の花を見て無常を悟り
松の木蔭で斎戒し 清らかな葵(あおい)を食とする
田舎住まいの老人は 席次を争う気もなくなり
海の鷗よ どうしたことか まだ私を疑っているのか
昨夜来の雨は、夜明け共に上がりそうだが、公園内や隅田川沿いのテラスのベンチは雨のため、座れそうもない。途中休憩無しにはとても徘徊できない情けなき現状なれば、朝の徘徊は諦める。
東京夢華録 巻六 元宵 二
綵山左右、以綵結文殊、普賢、跨獅子白象、各於手指出水五道、其手搖動。用轆轤絞水上燈山尖高處、用木櫃貯之、逐時放下、如瀑布狀。又於左右門上、各以草把縛成戲龍之狀、用青幕遮籠、草上密置燈燭數萬盞、望之蜿蜒如雙龍飛走。自燈山至宣德門樓橫大街、約百餘丈、用棘刺圍遶、謂之「棘盆」、內設兩長竿、高數十丈、以繒綵結束、紙糊百戲人物、懸於竿上、風動宛若飛仙。內設樂棚、差衙前樂人作樂雜戲、并左右軍百戲、在其中駕坐一時呈拽。宣德樓上、皆垂黃緣、簾中一位、乃御座。用黃羅設一綵棚、御龍直執黃蓋、掌扇、列於簾外。兩朵樓各掛燈毬一枚、約方圓丈餘、內燃椽燭、簾內亦作樂。宮嬪嬉笑之聲、下聞於外。樓下用枋木壘成露臺一所、綵結欄檻、兩邊皆禁衛排立、錦袍、幞頭簪賜花、執骨朵子、面此樂棚。教坊、鈞容直、露臺弟子、更互雜劇。近門亦有內等子班直排立。萬姓皆在露臺下觀看、樂人時引萬姓山呼。
〔訳〕《元宵二》色絹で飾られた屋台の左右には、色絹で文殊菩薩・普賢菩薩が獅子と白象にまたがっている像が作られ、それぞれの手指から五筋の水が噴き出し、その手も揺れ動くのだ。高い燈山のてっぺんにも巻揚機で水をくみ上げ、木の桶にためてどんどん滝のように水を落とした。また、左右の門のうえには草(わら)で龍が戯れる姿を作り、青い布幕でこれを覆い、その上に数万皿の燈火をすき間なくおき並べた。これを遠くから望み見るとまるで双龍が身をくねらせて飛行しているように見えた。燈山から宣徳門の横の大通りまで、約百余丈は、棘刺(いばら)で囲み、これを「棘盆(いばらやま)」と呼んだ。囲みの内側には、高さ数十丈、色絹を巻きつけた二本の長い竿が立っている。紙糊(はりこ)で作られた百戯に登場する人物の像が、その竿にかけられ風に揺られてさながら飛仙のようだった。また、囲みの内側には奏楽の屋台が設けられ、開封府の衙前楽人(おやといがくし)が出向いて演奏し、主上が座につかれると、雑劇(しばい)および左右軍の百戯がいっせいに演じられた。宣徳楼上には黄の縁飾りのついた御簾(みす)が垂らされ、その中に主上の御座があり、黄の薄絹を張った日除け棚が設けられている。御簾の外には御龍直〔ぎょりゅうちょく、親衛儀仗兵〕が黄の薄絹の傘と掌扇〔しょうせん、長い柄に大きな扇のついた儀仗の具〕を持ってんでいる。宣徳門の左右にある楼には、それぞれ一丈あまりもある毬形の大提灯が一つずつかけられて、なかに大蝋燭(ろうそく)がともされる。御簾の中でも楽が奏せられ、宮女たちの笑いざわめく声が下にまで聞こえた。楼の下には蘇枋(すおう)の木で露台を作り、欄杆に色絹を巻きつけた。その両側にはこの台に面して近衛兵が立ち並び、錦の袍(ひたたれ)、下賜された花を挿した幞頭(かむり)に、手には骨朶子(こんぼう)を持っている。台では教坊の鈞容直(ぐんがくたい)、露台の弟子(ていし)たちが代わる代わる雑劇を演じた。また門の近くには内等子(りきし)、班直(とのいびと)が立ち並んでおり、万民はみな露台の下で見物し、時々楽師たちは万民が皇帝万歳をとなえる音頭をとるのだった。
※棘盆:燈山には鳳燈・水燈などさまざまなものがあったが、そのなかでも棘盆燈はもっともりっぱなものであったという。
※衙前楽人:衙前は宋代の役(えき)のひとつであるが、兵役とも力役ともちがう。一般に職役とよばれるもので、衙前に召されたものは、官物を主管し供給する職務を受け持った。非常に辛いものであったので王安石の変法後は、賃金を払う雇役となり、以後衙前は官府の雇役人をさす言葉となった。ここの衙前楽人というのも、開封府のお雇い楽師であったようである。
※左右軍の百戯:北宋時代、東京で百戯を演じた芸人集団には左軍と右軍があり、ともに開封府の雇役楽人であった。この左右軍とは陸軍の軍ではなく、宋代に京城内の内外を左右南北の各区に分けたうちの、その左ⅸと右ⅸのことで、開封府がこの左右区から衙前として官府に召し出した百戯芸人の演芸を左右軍の百戯と呼んだ。男も女もおり、みな紅い頭巾に色絹の服を着ていたという。
※骨朶子:武器の一種。鉄あるいは堅木で作った棍棒ふうのもので、その端には球形の大きな玉がついている。
※鈞容直:教坊(皇室経営の歌舞教習所)に属する儀仗軍楽隊。軍中から音楽をよくする者を選び、皇帝の行列に従い馬に乗って楽を奏し前導したもの。はじめ引竜直と呼ばれたが、宋の太宗の淳化年間〔990~994年〕に鈞容直とかいしょうした。
※露台の弟子:上元観燈に当たっては宣徳楼前に露台を設け、台上で教坊の楽を奏し、小児隊が楽舞した。教坊に属する小児の楽団員のこと。
※内等子:諸軍から腕力の特にすぐれた力士を選んで編成した近衛兵。
※班直:北宋で禁衛を担当する官薯であった殿前司に属し、宮中に宿直する左右班および内殿直などの禁衛武士の総称。
東京夢華録 巻六 元宵 二
綵山左右、以綵結文殊、普賢、跨獅子白象、各於手指出水五道、其手搖動。用轆轤絞水上燈山尖高處、用木櫃貯之、逐時放下、如瀑布狀。又於左右門上、各以草把縛成戲龍之狀、用青幕遮籠、草上密置燈燭數萬盞、望之蜿蜒如雙龍飛走。自燈山至宣德門樓橫大街、約百餘丈、用棘刺圍遶、謂之「棘盆」、內設兩長竿、高數十丈、以繒綵結束、紙糊百戲人物、懸於竿上、風動宛若飛仙。內設樂棚、差衙前樂人作樂雜戲、并左右軍百戲、在其中駕坐一時呈拽。宣德樓上、皆垂黃緣、簾中一位、乃御座。用黃羅設一綵棚、御龍直執黃蓋、掌扇、列於簾外。兩朵樓各掛燈毬一枚、約方圓丈餘、內燃椽燭、簾內亦作樂。宮嬪嬉笑之聲、下聞於外。樓下用枋木壘成露臺一所、綵結欄檻、兩邊皆禁衛排立、錦袍、幞頭簪賜花、執骨朵子、面此樂棚。教坊、鈞容直、露臺弟子、更互雜劇。近門亦有內等子班直排立。萬姓皆在露臺下觀看、樂人時引萬姓山呼。
〔訳〕《元宵二》色絹で飾られた屋台の左右には、色絹で文殊菩薩・普賢菩薩が獅子と白象にまたがっている像が作られ、それぞれの手指から五筋の水が噴き出し、その手も揺れ動くのだ。高い燈山のてっぺんにも巻揚機で水をくみ上げ、木の桶にためてどんどん滝のように水を落とした。また、左右の門のうえには草(わら)で龍が戯れる姿を作り、青い布幕でこれを覆い、その上に数万皿の燈火をすき間なくおき並べた。これを遠くから望み見るとまるで双龍が身をくねらせて飛行しているように見えた。燈山から宣徳門の横の大通りまで、約百余丈は、棘刺(いばら)で囲み、これを「棘盆(いばらやま)」と呼んだ。囲みの内側には、高さ数十丈、色絹を巻きつけた二本の長い竿が立っている。紙糊(はりこ)で作られた百戯に登場する人物の像が、その竿にかけられ風に揺られてさながら飛仙のようだった。また、囲みの内側には奏楽の屋台が設けられ、開封府の衙前楽人(おやといがくし)が出向いて演奏し、主上が座につかれると、雑劇(しばい)および左右軍の百戯がいっせいに演じられた。宣徳楼上には黄の縁飾りのついた御簾(みす)が垂らされ、その中に主上の御座があり、黄の薄絹を張った日除け棚が設けられている。御簾の外には御龍直〔ぎょりゅうちょく、親衛儀仗兵〕が黄の薄絹の傘と掌扇〔しょうせん、長い柄に大きな扇のついた儀仗の具〕を持ってんでいる。宣徳門の左右にある楼には、それぞれ一丈あまりもある毬形の大提灯が一つずつかけられて、なかに大蝋燭(ろうそく)がともされる。御簾の中でも楽が奏せられ、宮女たちの笑いざわめく声が下にまで聞こえた。楼の下には蘇枋(すおう)の木で露台を作り、欄杆に色絹を巻きつけた。その両側にはこの台に面して近衛兵が立ち並び、錦の袍(ひたたれ)、下賜された花を挿した幞頭(かむり)に、手には骨朶子(こんぼう)を持っている。台では教坊の鈞容直(ぐんがくたい)、露台の弟子(ていし)たちが代わる代わる雑劇を演じた。また門の近くには内等子(りきし)、班直(とのいびと)が立ち並んでおり、万民はみな露台の下で見物し、時々楽師たちは万民が皇帝万歳をとなえる音頭をとるのだった。
※棘盆:燈山には鳳燈・水燈などさまざまなものがあったが、そのなかでも棘盆燈はもっともりっぱなものであったという。
※衙前楽人:衙前は宋代の役(えき)のひとつであるが、兵役とも力役ともちがう。一般に職役とよばれるもので、衙前に召されたものは、官物を主管し供給する職務を受け持った。非常に辛いものであったので王安石の変法後は、賃金を払う雇役となり、以後衙前は官府の雇役人をさす言葉となった。ここの衙前楽人というのも、開封府のお雇い楽師であったようである。
※左右軍の百戯:北宋時代、東京で百戯を演じた芸人集団には左軍と右軍があり、ともに開封府の雇役楽人であった。この左右軍とは陸軍の軍ではなく、宋代に京城内の内外を左右南北の各区に分けたうちの、その左ⅸと右ⅸのことで、開封府がこの左右区から衙前として官府に召し出した百戯芸人の演芸を左右軍の百戯と呼んだ。男も女もおり、みな紅い頭巾に色絹の服を着ていたという。
※骨朶子:武器の一種。鉄あるいは堅木で作った棍棒ふうのもので、その端には球形の大きな玉がついている。
※鈞容直:教坊(皇室経営の歌舞教習所)に属する儀仗軍楽隊。軍中から音楽をよくする者を選び、皇帝の行列に従い馬に乗って楽を奏し前導したもの。はじめ引竜直と呼ばれたが、宋の太宗の淳化年間〔990~994年〕に鈞容直とかいしょうした。
※露台の弟子:上元観燈に当たっては宣徳楼前に露台を設け、台上で教坊の楽を奏し、小児隊が楽舞した。教坊に属する小児の楽団員のこと。
※内等子:諸軍から腕力の特にすぐれた力士を選んで編成した近衛兵。
※班直:北宋で禁衛を担当する官薯であった殿前司に属し、宮中に宿直する左右班および内殿直などの禁衛武士の総称。
昨日は早朝の雨で、丸々一日家の中にいた。一日置いての徘徊は何となく足が重い。桜橋西詰のテラスで、ワンさん夫妻と行き合う。久し振りなので、デジカメのシャッタを押す。スカイツリーは上の方が雨雲でさえぎられている。
帰宅後、夫人に携帯メールした。曰く、「テスト送信 今朝ほどは失礼。テスト送信を兼ね初めて携帯でメールします。/今朝ほど撮った写真です。 日高」
折り返し、夫人よりメールが入る。曰く、「とても良く写っています。有難うございました。M子」
政界は大揺れに揺れているようだ。このぬかるみはどこまで続くのだろう。今朝のウェブニュースより
分裂民主…離党届50人、一両日中にも除籍処分 ―― 民主党の小沢一郎元代表ら50人(衆院38人、参院12人)は2日、輿石幹事長に離党届を提出した。/小沢氏は週内にも新党を結成する考えを表明し、民主党は政権獲得から3年足らずで分裂に至った。野田首相は、一両日中にも小沢氏らを除籍(除名)処分とし、自民、公明両党の協力を得て社会保障・税一体改革関連法案の成立に全力を挙げる構えだ。与党からの大量離党により、首相の政権運営はこれまで以上に厳しくなる。/小沢氏に近い山岡賢次前国家公安委員長は2日昼、小沢グループの衆院議員40人、参院議員12人の計52人の離党届を提出した。同日午後、階猛(しなたけし)、辻恵(つじめぐむ)両衆院議員が記者会見して離党しない意向を表明したため、2人の離党届は撤回され、提出者は衆院議員38人を含む50人となった。 (2012年7月3日03時01分 読売新聞)
階氏・辻氏は民主離党せず 代表選で首相交代念頭 ―― 民主党の階猛、辻恵両衆院議員が当面は離党しない考えを示したことで、最終的に離党届を提出した議員は50人となった。2人がいったんは小沢一郎元代表に離党届を預けながらも離党に踏み切らない背景には、離党を決めた他のグループ議員と異なる事情が透ける。/両議員は6月26日の衆院本会議で、記名投票となった消費増税関連法案など3法案すべてに反対した。だが、いま離党しても展望が開けないとして、9月の党代表選で野田佳彦首相(党代表)を交代させることを念頭に置く。辻氏は「小沢グループで党に残った人と連携する」と語る。/ともに弁護士で、元代表が政治資金規正法違反(虚偽記入)に問われた裁判では「知恵袋」として付き添った。元代表との関係では、他の議員に比べモノを言いやすいとの見方がある。2009年の前回衆院選ではそれぞれ小選挙区で勝利しており、元代表への依存度が低いといえる。/両議員は先月下旬に離党届を元代表に預けた。階氏によると、実際の執行部に提出する際には「事前に協議をしてほしい」と元代表に伝えていた。このため、離党届を勝手に提出されたとしてグループ幹部の山岡賢次氏らを批判した。
帰宅後、夫人に携帯メールした。曰く、「テスト送信 今朝ほどは失礼。テスト送信を兼ね初めて携帯でメールします。/今朝ほど撮った写真です。 日高」
折り返し、夫人よりメールが入る。曰く、「とても良く写っています。有難うございました。M子」
政界は大揺れに揺れているようだ。このぬかるみはどこまで続くのだろう。今朝のウェブニュースより
分裂民主…離党届50人、一両日中にも除籍処分 ―― 民主党の小沢一郎元代表ら50人(衆院38人、参院12人)は2日、輿石幹事長に離党届を提出した。/小沢氏は週内にも新党を結成する考えを表明し、民主党は政権獲得から3年足らずで分裂に至った。野田首相は、一両日中にも小沢氏らを除籍(除名)処分とし、自民、公明両党の協力を得て社会保障・税一体改革関連法案の成立に全力を挙げる構えだ。与党からの大量離党により、首相の政権運営はこれまで以上に厳しくなる。/小沢氏に近い山岡賢次前国家公安委員長は2日昼、小沢グループの衆院議員40人、参院議員12人の計52人の離党届を提出した。同日午後、階猛(しなたけし)、辻恵(つじめぐむ)両衆院議員が記者会見して離党しない意向を表明したため、2人の離党届は撤回され、提出者は衆院議員38人を含む50人となった。 (2012年7月3日03時01分 読売新聞)
階氏・辻氏は民主離党せず 代表選で首相交代念頭 ―― 民主党の階猛、辻恵両衆院議員が当面は離党しない考えを示したことで、最終的に離党届を提出した議員は50人となった。2人がいったんは小沢一郎元代表に離党届を預けながらも離党に踏み切らない背景には、離党を決めた他のグループ議員と異なる事情が透ける。/両議員は6月26日の衆院本会議で、記名投票となった消費増税関連法案など3法案すべてに反対した。だが、いま離党しても展望が開けないとして、9月の党代表選で野田佳彦首相(党代表)を交代させることを念頭に置く。辻氏は「小沢グループで党に残った人と連携する」と語る。/ともに弁護士で、元代表が政治資金規正法違反(虚偽記入)に問われた裁判では「知恵袋」として付き添った。元代表との関係では、他の議員に比べモノを言いやすいとの見方がある。2009年の前回衆院選ではそれぞれ小選挙区で勝利しており、元代表への依存度が低いといえる。/両議員は先月下旬に離党届を元代表に預けた。階氏によると、実際の執行部に提出する際には「事前に協議をしてほしい」と元代表に伝えていた。このため、離党届を勝手に提出されたとしてグループ幹部の山岡賢次氏らを批判した。
今日は早朝まで雨が残り、徘徊は取り止め。
東京夢華録 巻六 元宵 一
正月十五日元宵、大內前自歲前冬至後、開封府絞縛山棚、立木正對宣德樓、遊人已集御街。兩廊下奇術異能、歌舞百戲、鱗鱗相切、樂聲嘈雜十餘里、擊丸蹴踘、踏索上竿。趙野人、倒喫冷淘;張九哥、吞鐵劍;李外寧、藥法傀儡;小健兒、吐五色水、旋燒泥丸子;大特落、灰藥;榾柮兒、雜劇;溫大頭、小曹、嵇琴;党千、簫管;孫四、燒煉藥方;王十二、作劇術;鄒遇、田地廣、雜扮;蘇十、孟宣、築毬;尹常賣、《五代史》;劉百禽、䖝蟻;楊文秀、皷笛。更有猴呈百戲、魚跳刀門、使喚蜂蝶、追呼螻蟻。其餘賣藥、賣卦、沙書、地謎、奇巧百端、日新耳目。至正月七日、人使朝辭出門、燈山上綵、金碧相射、錦繡交輝。面北悉以綵結、山呇上皆畫神仙故事。或坊市賣藥賣卦之人、橫列三門、各有綵結金書大牌、中曰「都門道」、左右曰「左右禁衛之門」、上有大牌曰「宣和與民同樂」。
〔訳〕《元宵一》正月十五日は元宵節だ。宮城の前には歳末から冬至まで開封府が、宣徳楼〔宮城正門〕の真向かいに屋台を結い立て、見物人は早くから御街の両廊下におしかけた。奇術や珍しい見世物、歌舞や百戯が、ずらりとひしめき並び、楽の音は十余里もの間に賑わしく鳴り響き、丸(たま)を撃つもの、鞠を蹴るもの、綱渡りをするもの、高い竿に登るものもいる。趙野人は逆立ちして冷淘(れいとう)を食べて見せる。張九哥は鉄剣を飲む。李外寧は薬法傀儡(やくほうぐくつ)をあやつる。小健児(しょうけんじ)は五色の水を吐き出し、泥の玉を焼く。大特落(だいとくらく)の灰薬、榾柮児(こつとつじ)の雑劇(しばい)もあり、温大頭と小曹は嵆琴(けいきん)を弾く。党千は簫管(しょうかん、尺八のたぐい)を吹く。孫四は薬を焼煉して調剤する。王十二は劇術(たちまわり)を見せる。鄒遇(すうぐう)と田地広(でんちこう)は雑扮(ちゃばん)、蘇十(そじゅう)と孟宣(もうせん)は築毬(けまり)、尹常売(いんじょうばい)は五代史を語る。劉百禽(りゅうひゃっきん)は虫蟻(むし)使いだ。楊文秀は鼓笛。さらに猿芝居やら、魚の刃渡りとか、螻(けら)や蟻を使うものもいる。そのほか薬売り、八卦見、地面の砂に書いた謎解きとか、珍しいものが沢山あり、毎日目新しい見聞を得ることが出来た。正月七日、新年の祝賀に来た諸国の使者が朝廷を辞して外に出るときには、燈山に五色の絹がかけられて、なんとも絢爛豪華であった。北側(宮城正門に面する側)に、五色の絹を張りめぐらして燈山の上にはずらりと神仙の物語が描いてあるのだ。また、町の薬売り、八卦見たちも三つの飾り門を並べて建てた。真ん中は「都問答」、左右は「左・右禁衛之門」と名付け、その上の大きな額に「宣和(徽宗の年号)、民と楽しみを同じうする」と書してあった。
※元宵:正月・七月・十月の十五日をそれぞれ上元・中元・下元という。元宵とは、上元の夜の意。つまり旧正月満月の夜のことで、中国では灯篭祭りをする習慣になっているが、これは漢の武帝が夜通し太一神を祭った故事を唐代に沿襲のが起源であるという。
※百戯:雑技とも呼ばれ、軽業・曲技・武技・舞踊あるいは簡単な芝居などを含む演芸。
※冷淘:菜麺店(うどんや)では、もっぱら菜麺・虀淘(せいとう)・冷淘(れいとう)を売ったという。宋代の文章には淘という字がつくものが麺料理店のメニューによく出てくるという。冷淘は、いま中国で涼粉(リャンフェン)と呼ばれるもののたぐいか。涼粉は豆の粉から作ったトコロテン風の大衆食品である。
※薬方傀儡:薬発傀儡とも書かれ、花火の中から各種の人物や鳥獣を打ち出すもの。四月八日に相国寺の浴仏会で、金盤中に置かれた二尺ほどの釈迦像は金盤中を七歩周行したので、これを見たものは愕然としたというが、当今の薬物傀も、蓋しこの遺意を得たものであろうといわれる。もともと傀儡は操り人形のことで、懸糸傀儡は糸で吊るしてあやつるMarionette(マリオネット)のこと。杖頭傀儡は、日本の文楽人形に近く、人形の頭についた主棒を片手に、人形の両手に着いた細い棒を一方の手に持ってあやつる。花火を使う操り人形は日本にもあり綱火と呼ばれ、いまでも茨城県高岡に伝わっているという。杉の大木の間に綱を渡し、滑車で人形を吊るし、その顔や手足に花火をつけて「三番叟」や「浦島」を踊る人形の姿を夜空にくっきりと浮かび上がらせる。
※大特落の灰落:不明。やはり火薬を用いる芸か。
※榾柮児:木の根っこの意があり、また当時の通俗的な食品にもこれと同音の団子の類の製麺菓子があった。芸人の仇名か、宋代の雑劇には奇妙な名称のものが少なくなかったから、これも榾柮児雑劇という雑劇の一種かもしれない。
※雑劇:宋代の雑劇の内容は雑多とはいえ、その主要なものは白(せりふ)と唱(うた)があり、音楽としては唐に始る大曲という楽曲を用いた、一種の歌舞劇風の芝居であった。
※嵆琴:宋代に流行した嵆琴は、奚琴とも書かれ、いまの胡弓の祖。唐代よりその名が見えるが、小円筒形の胴に短い棹をつけて二弦を張ったもので、唐宋代には撥弦楽器だった。元代から弓で弾く擦弦楽器となったという。
※劇術:剣戟や弓術などの武技のことか?
※雑扮:雑劇の後でやる狂言。多くは山東・河北の田夫野人に扮しての茶番狂言であるという。
※笑毬:蹴鞠は笑毬鞠ともいい、牛や豚の胞に空気を詰めて、これを少年たちが囲んで蹴り、できるだけ長い間地上に落とさぬのをよしとするゲームである。
※尹常売:ここに出てくる芸人の名は、客などがつけた仇名ふうのものと思われるものが多く、尹常売の「常売」は、当時の俗語で、こまごました雑貨を呼び売りして歩く街頭の小商人のこと。尹某はもと常売をしていたものか?
※五代史:唐が亡び、宋の太祖が宋朝を開くまでの間の後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代の史話を語る講談。
※虫蟻使い:芸人の名が百禽所からもうかがえるように、虫蟻といっても、虫だけではなく当時は鳥・獣・魚・虫を使う芸はみな「弄百禽」と呼んだらしい。
※燈山:日本で祭礼にだす飾り屋台を山車とか山鉾というが、「燈山」とは燈篭を飾り立てた屋台のことである。
東京夢華録 巻六 元宵 一
正月十五日元宵、大內前自歲前冬至後、開封府絞縛山棚、立木正對宣德樓、遊人已集御街。兩廊下奇術異能、歌舞百戲、鱗鱗相切、樂聲嘈雜十餘里、擊丸蹴踘、踏索上竿。趙野人、倒喫冷淘;張九哥、吞鐵劍;李外寧、藥法傀儡;小健兒、吐五色水、旋燒泥丸子;大特落、灰藥;榾柮兒、雜劇;溫大頭、小曹、嵇琴;党千、簫管;孫四、燒煉藥方;王十二、作劇術;鄒遇、田地廣、雜扮;蘇十、孟宣、築毬;尹常賣、《五代史》;劉百禽、䖝蟻;楊文秀、皷笛。更有猴呈百戲、魚跳刀門、使喚蜂蝶、追呼螻蟻。其餘賣藥、賣卦、沙書、地謎、奇巧百端、日新耳目。至正月七日、人使朝辭出門、燈山上綵、金碧相射、錦繡交輝。面北悉以綵結、山呇上皆畫神仙故事。或坊市賣藥賣卦之人、橫列三門、各有綵結金書大牌、中曰「都門道」、左右曰「左右禁衛之門」、上有大牌曰「宣和與民同樂」。
〔訳〕《元宵一》正月十五日は元宵節だ。宮城の前には歳末から冬至まで開封府が、宣徳楼〔宮城正門〕の真向かいに屋台を結い立て、見物人は早くから御街の両廊下におしかけた。奇術や珍しい見世物、歌舞や百戯が、ずらりとひしめき並び、楽の音は十余里もの間に賑わしく鳴り響き、丸(たま)を撃つもの、鞠を蹴るもの、綱渡りをするもの、高い竿に登るものもいる。趙野人は逆立ちして冷淘(れいとう)を食べて見せる。張九哥は鉄剣を飲む。李外寧は薬法傀儡(やくほうぐくつ)をあやつる。小健児(しょうけんじ)は五色の水を吐き出し、泥の玉を焼く。大特落(だいとくらく)の灰薬、榾柮児(こつとつじ)の雑劇(しばい)もあり、温大頭と小曹は嵆琴(けいきん)を弾く。党千は簫管(しょうかん、尺八のたぐい)を吹く。孫四は薬を焼煉して調剤する。王十二は劇術(たちまわり)を見せる。鄒遇(すうぐう)と田地広(でんちこう)は雑扮(ちゃばん)、蘇十(そじゅう)と孟宣(もうせん)は築毬(けまり)、尹常売(いんじょうばい)は五代史を語る。劉百禽(りゅうひゃっきん)は虫蟻(むし)使いだ。楊文秀は鼓笛。さらに猿芝居やら、魚の刃渡りとか、螻(けら)や蟻を使うものもいる。そのほか薬売り、八卦見、地面の砂に書いた謎解きとか、珍しいものが沢山あり、毎日目新しい見聞を得ることが出来た。正月七日、新年の祝賀に来た諸国の使者が朝廷を辞して外に出るときには、燈山に五色の絹がかけられて、なんとも絢爛豪華であった。北側(宮城正門に面する側)に、五色の絹を張りめぐらして燈山の上にはずらりと神仙の物語が描いてあるのだ。また、町の薬売り、八卦見たちも三つの飾り門を並べて建てた。真ん中は「都問答」、左右は「左・右禁衛之門」と名付け、その上の大きな額に「宣和(徽宗の年号)、民と楽しみを同じうする」と書してあった。
※元宵:正月・七月・十月の十五日をそれぞれ上元・中元・下元という。元宵とは、上元の夜の意。つまり旧正月満月の夜のことで、中国では灯篭祭りをする習慣になっているが、これは漢の武帝が夜通し太一神を祭った故事を唐代に沿襲のが起源であるという。
※百戯:雑技とも呼ばれ、軽業・曲技・武技・舞踊あるいは簡単な芝居などを含む演芸。
※冷淘:菜麺店(うどんや)では、もっぱら菜麺・虀淘(せいとう)・冷淘(れいとう)を売ったという。宋代の文章には淘という字がつくものが麺料理店のメニューによく出てくるという。冷淘は、いま中国で涼粉(リャンフェン)と呼ばれるもののたぐいか。涼粉は豆の粉から作ったトコロテン風の大衆食品である。
※薬方傀儡:薬発傀儡とも書かれ、花火の中から各種の人物や鳥獣を打ち出すもの。四月八日に相国寺の浴仏会で、金盤中に置かれた二尺ほどの釈迦像は金盤中を七歩周行したので、これを見たものは愕然としたというが、当今の薬物傀も、蓋しこの遺意を得たものであろうといわれる。もともと傀儡は操り人形のことで、懸糸傀儡は糸で吊るしてあやつるMarionette(マリオネット)のこと。杖頭傀儡は、日本の文楽人形に近く、人形の頭についた主棒を片手に、人形の両手に着いた細い棒を一方の手に持ってあやつる。花火を使う操り人形は日本にもあり綱火と呼ばれ、いまでも茨城県高岡に伝わっているという。杉の大木の間に綱を渡し、滑車で人形を吊るし、その顔や手足に花火をつけて「三番叟」や「浦島」を踊る人形の姿を夜空にくっきりと浮かび上がらせる。
※大特落の灰落:不明。やはり火薬を用いる芸か。
※榾柮児:木の根っこの意があり、また当時の通俗的な食品にもこれと同音の団子の類の製麺菓子があった。芸人の仇名か、宋代の雑劇には奇妙な名称のものが少なくなかったから、これも榾柮児雑劇という雑劇の一種かもしれない。
※雑劇:宋代の雑劇の内容は雑多とはいえ、その主要なものは白(せりふ)と唱(うた)があり、音楽としては唐に始る大曲という楽曲を用いた、一種の歌舞劇風の芝居であった。
※嵆琴:宋代に流行した嵆琴は、奚琴とも書かれ、いまの胡弓の祖。唐代よりその名が見えるが、小円筒形の胴に短い棹をつけて二弦を張ったもので、唐宋代には撥弦楽器だった。元代から弓で弾く擦弦楽器となったという。
※劇術:剣戟や弓術などの武技のことか?
※雑扮:雑劇の後でやる狂言。多くは山東・河北の田夫野人に扮しての茶番狂言であるという。
※笑毬:蹴鞠は笑毬鞠ともいい、牛や豚の胞に空気を詰めて、これを少年たちが囲んで蹴り、できるだけ長い間地上に落とさぬのをよしとするゲームである。
※尹常売:ここに出てくる芸人の名は、客などがつけた仇名ふうのものと思われるものが多く、尹常売の「常売」は、当時の俗語で、こまごました雑貨を呼び売りして歩く街頭の小商人のこと。尹某はもと常売をしていたものか?
※五代史:唐が亡び、宋の太祖が宋朝を開くまでの間の後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代の史話を語る講談。
※虫蟻使い:芸人の名が百禽所からもうかがえるように、虫蟻といっても、虫だけではなく当時は鳥・獣・魚・虫を使う芸はみな「弄百禽」と呼んだらしい。
※燈山:日本で祭礼にだす飾り屋台を山車とか山鉾というが、「燈山」とは燈篭を飾り立てた屋台のことである。
今日から7月。2012年も早半分が過ぎた。日本の政治の先行きは未だに見えてこない。
今朝のウェブニュースより
【社説】「闇将軍」小沢氏に日本再生のチャンス与えた消費増税 ――過去20年間にわたって消費増税を政治家に働きかけてきた日本の財務省がついに、思い通りの結果を手に入れた。6月26日に衆議院を通過した法案は、現行5%の消費税率を2014年4月に8%、2015年10月に10%にまで引き上げるというものだった。官僚たちは金融危機を防ぐために必要な措置だと言うが、経済に占める政府の割合が拡大されるのも事実である。これにより官僚はさらに大きな力を握ることになる。/この法案の可決によって得をしたのは財務省ぐらいだろう。6月6日付の朝日新聞の朝刊に掲載された世論調査の結果によると、回答者の56%は増税に反対していた。経済にとっても痛手となるはずだ。結果として、野田佳彦首相が率いる政権の余命はいくばくもなくなった。/野田首相が代表を務める民主党所属の衆議院議員のうち57人がこの法案に反対票を投じた。野党である自民党、公明党の協力で衆議院を通過した同法案だが、参議院での可決後、両党は衆院解散・総選挙に追い込むため内閣に不信任案を提出することを明言している。/これで優位に立ったのが、民主党内で造反を主導した小沢一郎氏である。その駆け引きのうまさから「闇将軍」として知られる同氏は民主党を離党し、新党を結成するとみられている。小沢氏への国民の支持は、4月に政治資金規正法違反事件で無罪となったこと、消費増税に長年反対してきたことなどが好感されて高まることもあり得る。/そうなれば日本にとっては朗報である。小沢氏は減税と官僚制度改革に的を絞った新党設立のために自民党からの離反者を取り込んだり、選挙戦術を駆使したりするかもしれない。経済政策をめぐる論争がついに公の場に移され、1980年代のバブル崩壊からずっと問題を先送りにしてきた一連のコンセンサス主義の短命政権とは違う選択肢が有権者に与えられるかもしれない。/これに似たことが起きるのではという期待感は、小沢氏の力で民主党が自民党に大勝し、政権交代が起きた2009年にもあった。しかし、初めて与党になった民主党の政治は、公的部門の組合の支持に頼っていることもあり、過去の保守的な党派政治に姿を変えてしまった。政治家が財務省の圧力に抗うのは容易ではない。というのも財務省には公共支出を各選挙区に振り分ける権限があり、これで政治家の再選を後押しすることも可能だからである。結局、消費増税をする前に行政機関を徹底的に見直し、無駄や不正を排除することを約束した民主党の選挙時のマニフェストが守られることはなかった。/財務省の支配から脱却するには、米国の保守系草の根運動「ティーパーティー(茶会)」のようなものが必要になろう。日本の保守的な政治制度では無理なことのようにも思えるが、勇気づけられるような兆候もある。たとえば、大阪市や名古屋市で勢力を誇っている地域政党は「大きな政府」に異議を唱え、自由主義市場原理経済派のみんなの党もまだ小規模ながら全国的な支持を集め始めている。/増税の開始が転換点になるかもしれない。1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた時のことを振り返ってみよう。経済はそれまでプラス成長を示していたが、翌四半期には前期比で2.9%、年率換算では11.2%も縮小し、1974年以来で最大の下げ幅となった。好調だった輸出の伸びがなければ、その縮小幅は14.7%にもなっていたという。消費の低迷はその後も続き、自動車の販売台数に至っては減少が32カ月間も続いた。/その影響が政治に現れるのにも長い時間はかからなかった。翌年、自民党は参議院の議席で過半数を失い、当時の橋本龍太郎首相は辞任に追い込まれた。景気がようやく回復したのは、小沢氏が当時代表を務めていた自由党が自民党との連立の条件として減税を要求してからのことだった。/小沢氏を説得力のある改革の先導者候補にしているのは、同氏の官僚制度に対する根深い不信感である。衆議院で民主党を過半数割れに追い込むには、小沢氏は少なくとも54人の民主党議員を引き連れて離党する必要がある。/「小沢チルドレン」と呼ばれる初当選議員にとって財務省に刃向うことは、大きなリスクとなる。そうした造反議員たちが慰めを見出せるとしたら、それは国民の間で広がっている無駄な政府支出や失敗に終わったケインズ主義的な景気刺激策に対する不信感だろう。既得権益という時限爆弾は早急に処理されるべきであり、景気回復は規制緩和によって実現されるべきである。さもないと日本はギリシャのような危機に直面することになるだろう。今の日本に欠かせないのは、こうした議論を始めることである。 (The Wall Street Journal. 2012年6月29日 15:57 JST)
昨日、西宮在住のYU氏より黒田清輝「木かげ、1898年」の絵葉書を頂いた。曰く、「その後お変わりなくお過しのことと存じます。地元のそうめん、揖保の糸を少しばかりお送りいたしますのでご笑味ください。7月上旬に着くと思います。/不順な天気が続きますが、どうぞご自愛の上お元気でご活躍ください。/まずはとり急ぎそうめんご送付おしらせまで 草々」
黒田清輝(くろだ せいき、1866~1924年):「せいき」は画家名で、本名は「きよてる」。明治26(1893)年7月、27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、文化の重要性や自らの資質の認識から画家へ志望を転向。外光派のサロン画家ラファエル・コランに師事し、アカデミックな絵画教育を受けて明治24年「読書」でサロンに入選。
今朝のウェブニュースより
【社説】「闇将軍」小沢氏に日本再生のチャンス与えた消費増税 ――過去20年間にわたって消費増税を政治家に働きかけてきた日本の財務省がついに、思い通りの結果を手に入れた。6月26日に衆議院を通過した法案は、現行5%の消費税率を2014年4月に8%、2015年10月に10%にまで引き上げるというものだった。官僚たちは金融危機を防ぐために必要な措置だと言うが、経済に占める政府の割合が拡大されるのも事実である。これにより官僚はさらに大きな力を握ることになる。/この法案の可決によって得をしたのは財務省ぐらいだろう。6月6日付の朝日新聞の朝刊に掲載された世論調査の結果によると、回答者の56%は増税に反対していた。経済にとっても痛手となるはずだ。結果として、野田佳彦首相が率いる政権の余命はいくばくもなくなった。/野田首相が代表を務める民主党所属の衆議院議員のうち57人がこの法案に反対票を投じた。野党である自民党、公明党の協力で衆議院を通過した同法案だが、参議院での可決後、両党は衆院解散・総選挙に追い込むため内閣に不信任案を提出することを明言している。/これで優位に立ったのが、民主党内で造反を主導した小沢一郎氏である。その駆け引きのうまさから「闇将軍」として知られる同氏は民主党を離党し、新党を結成するとみられている。小沢氏への国民の支持は、4月に政治資金規正法違反事件で無罪となったこと、消費増税に長年反対してきたことなどが好感されて高まることもあり得る。/そうなれば日本にとっては朗報である。小沢氏は減税と官僚制度改革に的を絞った新党設立のために自民党からの離反者を取り込んだり、選挙戦術を駆使したりするかもしれない。経済政策をめぐる論争がついに公の場に移され、1980年代のバブル崩壊からずっと問題を先送りにしてきた一連のコンセンサス主義の短命政権とは違う選択肢が有権者に与えられるかもしれない。/これに似たことが起きるのではという期待感は、小沢氏の力で民主党が自民党に大勝し、政権交代が起きた2009年にもあった。しかし、初めて与党になった民主党の政治は、公的部門の組合の支持に頼っていることもあり、過去の保守的な党派政治に姿を変えてしまった。政治家が財務省の圧力に抗うのは容易ではない。というのも財務省には公共支出を各選挙区に振り分ける権限があり、これで政治家の再選を後押しすることも可能だからである。結局、消費増税をする前に行政機関を徹底的に見直し、無駄や不正を排除することを約束した民主党の選挙時のマニフェストが守られることはなかった。/財務省の支配から脱却するには、米国の保守系草の根運動「ティーパーティー(茶会)」のようなものが必要になろう。日本の保守的な政治制度では無理なことのようにも思えるが、勇気づけられるような兆候もある。たとえば、大阪市や名古屋市で勢力を誇っている地域政党は「大きな政府」に異議を唱え、自由主義市場原理経済派のみんなの党もまだ小規模ながら全国的な支持を集め始めている。/増税の開始が転換点になるかもしれない。1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた時のことを振り返ってみよう。経済はそれまでプラス成長を示していたが、翌四半期には前期比で2.9%、年率換算では11.2%も縮小し、1974年以来で最大の下げ幅となった。好調だった輸出の伸びがなければ、その縮小幅は14.7%にもなっていたという。消費の低迷はその後も続き、自動車の販売台数に至っては減少が32カ月間も続いた。/その影響が政治に現れるのにも長い時間はかからなかった。翌年、自民党は参議院の議席で過半数を失い、当時の橋本龍太郎首相は辞任に追い込まれた。景気がようやく回復したのは、小沢氏が当時代表を務めていた自由党が自民党との連立の条件として減税を要求してからのことだった。/小沢氏を説得力のある改革の先導者候補にしているのは、同氏の官僚制度に対する根深い不信感である。衆議院で民主党を過半数割れに追い込むには、小沢氏は少なくとも54人の民主党議員を引き連れて離党する必要がある。/「小沢チルドレン」と呼ばれる初当選議員にとって財務省に刃向うことは、大きなリスクとなる。そうした造反議員たちが慰めを見出せるとしたら、それは国民の間で広がっている無駄な政府支出や失敗に終わったケインズ主義的な景気刺激策に対する不信感だろう。既得権益という時限爆弾は早急に処理されるべきであり、景気回復は規制緩和によって実現されるべきである。さもないと日本はギリシャのような危機に直面することになるだろう。今の日本に欠かせないのは、こうした議論を始めることである。 (The Wall Street Journal. 2012年6月29日 15:57 JST)
昨日、西宮在住のYU氏より黒田清輝「木かげ、1898年」の絵葉書を頂いた。曰く、「その後お変わりなくお過しのことと存じます。地元のそうめん、揖保の糸を少しばかりお送りいたしますのでご笑味ください。7月上旬に着くと思います。/不順な天気が続きますが、どうぞご自愛の上お元気でご活躍ください。/まずはとり急ぎそうめんご送付おしらせまで 草々」
黒田清輝(くろだ せいき、1866~1924年):「せいき」は画家名で、本名は「きよてる」。明治26(1893)年7月、27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、文化の重要性や自らの資質の認識から画家へ志望を転向。外光派のサロン画家ラファエル・コランに師事し、アカデミックな絵画教育を受けて明治24年「読書」でサロンに入選。
ここ2・3日は桜橋西詰を起点とし、テラスを北上 白鬚橋を渡り、向島遊歩道を南下、途中からテラスに降りてさらに南下、東武線橋梁の袂でテラスを上り、枕橋・吾妻橋を渡って、テラス沿いに桜橋まで北上するというコースで休み休み歩行。所要時間2時間、歩数大凡1万歩、距離7㎞強。
宝塚在住のKS氏に写真を添えて携帯メールを出す。曰く、「朝日に映えるスカイツリー 今朝4時40分に剣客商売の舞台である橋場のテラスから撮ったスカイツリーです。/淺草の味を少しだけ味わって戴こうと心ばかりの品をお送り致しました。そのうちお手元に届くと存じます。ご笑納下さい。/このあとすぐに、昨日の日刊ゲンダイの記事をFAXでお送りします。 淺草の瘋癲爺より」
東京夢華録は難読の文字や意味不明の言葉が多く四苦八苦している。今日は、また明日は7月というのに、季節はずれの記事とはなってしまった。
東京夢華録 卷六 正月
正月一日年節、開封府放關撲三日。士庶自早互相慶賀、坊巷以食物、動使、果實、柴炭之類、歌叫關撲。如馬行、潘樓街、州東宋門外、州西梁門外踴路、州北封丘門外、及州南一帶、皆結綵棚、鋪陳冠梳、珠翠、頭面、衣著、花朵、領抹、靴鞋、玩好之類、間列舞場歌館、車馬交馳。向晚、貴家婦女縱賞關賭、入場觀看、入市店飲宴、慣習成風、不相笑{左音右牙}。至寒食、冬至三日亦如此。小民雖貧者、亦須新潔衣服、把酒相酬爾。
〔訳〕《正月》年の初めは「年始(新年の節会)」で、開封府では三日間関撲(かけ)を許可した。士庶は朝早くから互いに慶賀しあい、町々では食物・道具・果物・薪炭の類を賭博方式で売り、「関撲(かけ)」と節をつけて客を呼ぶのだった。馬行・潘楼街・州東の宋門外・州西の梁門外の踴路(ようろ)・州北の封丘門外および州南一帯〔当時、土地の者は東京城の四隅を州東・州西・州南・州北と呼んでいた〕にはみな色絹で飾った屋台が作られ、冠や櫛・珍珠翠玉・頭飾り・衣類・花・領抹・靴鞋(はきもの)・玩好(おもちゃ)のたぐいが並び、その間には踊りや歌の小屋も立ち、車馬が間を縫ってはしるのだった。夜になると貴家の婦女も自由に関撲(かけ)を見て歩き、小屋に入って見物したり、市の店に入って飲み食いしたりしたが、慣習となっているので笑いそしる者はなかった。「寒食」と「冬至」の三日間も同様であった。下ざまの者も、たとえ貧乏煮んでも、新しいさっぱりとした衣服を着て酒をくみかわした。
※関撲:宋代には賭博方式で商売をする小商人があり、これを「関撲」とか「撲売」といった。客は欲しい品物に幾文かの銭を賭け、それから銅銭を地面あるいは瓦鉢の中に投げ、銭の裏がみな上を向けば「渾純〔ぞろ、あるいは渾成〕といい、客の勝ちとなり、銭を払わずその品を得ることが出来た。また、アメうりが三尺ほどの円板に鳥・魚・器物の絵を描いたものを回転させ、羽のついた針で射当てさせ絵に当たったものにアメを渡した。楚の遺習は日本の祭りの露店などにみられる。関僕は正月・冬至・寒食の三節句だけ許され、平日は禁じられていたが、南宋になるといつでもできたらしい。
※領抹:不明。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
KS氏からの携帯返信メールに曰く、「一人のPhoto 芸術家 来客のため返信が遅れました。/いままで種々スカイトリーのPhotoに接してきましたが、朝日に匂う川面に投影されたスカイトリーは初めて観させて戴きました。/若い頃には考えられないほどの科学の進歩=瞬時に誰もがPhoto芸術家になれる刻をみせてもらいました。本当に感動しています。/小沢氏については同感の意を表したく存じますが、ここしばらくが気にかかります。それにつけても松下塾の哲学と人間性の無さを実感しております。/芋焼酎は7月14日朝便着に指定しております。 (6/30 13:36)」
宝塚在住のKS氏に写真を添えて携帯メールを出す。曰く、「朝日に映えるスカイツリー 今朝4時40分に剣客商売の舞台である橋場のテラスから撮ったスカイツリーです。/淺草の味を少しだけ味わって戴こうと心ばかりの品をお送り致しました。そのうちお手元に届くと存じます。ご笑納下さい。/このあとすぐに、昨日の日刊ゲンダイの記事をFAXでお送りします。 淺草の瘋癲爺より」
東京夢華録は難読の文字や意味不明の言葉が多く四苦八苦している。今日は、また明日は7月というのに、季節はずれの記事とはなってしまった。
東京夢華録 卷六 正月
正月一日年節、開封府放關撲三日。士庶自早互相慶賀、坊巷以食物、動使、果實、柴炭之類、歌叫關撲。如馬行、潘樓街、州東宋門外、州西梁門外踴路、州北封丘門外、及州南一帶、皆結綵棚、鋪陳冠梳、珠翠、頭面、衣著、花朵、領抹、靴鞋、玩好之類、間列舞場歌館、車馬交馳。向晚、貴家婦女縱賞關賭、入場觀看、入市店飲宴、慣習成風、不相笑{左音右牙}。至寒食、冬至三日亦如此。小民雖貧者、亦須新潔衣服、把酒相酬爾。
〔訳〕《正月》年の初めは「年始(新年の節会)」で、開封府では三日間関撲(かけ)を許可した。士庶は朝早くから互いに慶賀しあい、町々では食物・道具・果物・薪炭の類を賭博方式で売り、「関撲(かけ)」と節をつけて客を呼ぶのだった。馬行・潘楼街・州東の宋門外・州西の梁門外の踴路(ようろ)・州北の封丘門外および州南一帯〔当時、土地の者は東京城の四隅を州東・州西・州南・州北と呼んでいた〕にはみな色絹で飾った屋台が作られ、冠や櫛・珍珠翠玉・頭飾り・衣類・花・領抹・靴鞋(はきもの)・玩好(おもちゃ)のたぐいが並び、その間には踊りや歌の小屋も立ち、車馬が間を縫ってはしるのだった。夜になると貴家の婦女も自由に関撲(かけ)を見て歩き、小屋に入って見物したり、市の店に入って飲み食いしたりしたが、慣習となっているので笑いそしる者はなかった。「寒食」と「冬至」の三日間も同様であった。下ざまの者も、たとえ貧乏煮んでも、新しいさっぱりとした衣服を着て酒をくみかわした。
※関撲:宋代には賭博方式で商売をする小商人があり、これを「関撲」とか「撲売」といった。客は欲しい品物に幾文かの銭を賭け、それから銅銭を地面あるいは瓦鉢の中に投げ、銭の裏がみな上を向けば「渾純〔ぞろ、あるいは渾成〕といい、客の勝ちとなり、銭を払わずその品を得ることが出来た。また、アメうりが三尺ほどの円板に鳥・魚・器物の絵を描いたものを回転させ、羽のついた針で射当てさせ絵に当たったものにアメを渡した。楚の遺習は日本の祭りの露店などにみられる。関僕は正月・冬至・寒食の三節句だけ許され、平日は禁じられていたが、南宋になるといつでもできたらしい。
※領抹:不明。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
KS氏からの携帯返信メールに曰く、「一人のPhoto 芸術家 来客のため返信が遅れました。/いままで種々スカイトリーのPhotoに接してきましたが、朝日に匂う川面に投影されたスカイトリーは初めて観させて戴きました。/若い頃には考えられないほどの科学の進歩=瞬時に誰もがPhoto芸術家になれる刻をみせてもらいました。本当に感動しています。/小沢氏については同感の意を表したく存じますが、ここしばらくが気にかかります。それにつけても松下塾の哲学と人間性の無さを実感しております。/芋焼酎は7月14日朝便着に指定しております。 (6/30 13:36)」
今朝も白鬚橋~吾妻橋間を一周。桜橋西詰めテラスで一休みしていると、久し振りに白鬚橋の方からテラスを南下してくるワンさんに出会った。ここのところ携帯を持参するようになって、デジカメは持ち歩かなくなったので、写真は撮らなかったが、元気そうで明日土曜は塾友連中とゴルフに行くということであった。
本日の歩行記録では、やっと1万歩を超え、距離も7kmを超えたようだ。しかし、とても続けては歩けない。休み休みで、時間は2時間を超えてしまった。
淺草は相変わらずスカイツリーを中心とする話題で振り回されているようだ。今朝のウェブニュースより、
2階建てオープンバス 停留所で乗降OK 路線では日本初 ―― 日の丸自動車興業(本社・文京区)は三十日から、停留所で乗り降りできる二階建てオープンデッキの「スカイホップバス」を都内三ルートで運行する。同様のバスで観光ルートを回る例はあるが、路線バスとしては日本初という。/三ルートは、▽浅草・東京スカイツリー▽お台場▽六本木・東京タワー-で、いずれも丸の内三菱ビル(千代田区)が起点。浅草方面のルートでは秋葉原(末広町)、上野松坂屋、駒形(雷門)、とうきょうスカイツリー駅前など、下町の観光名所、商業施設に停留所を設けた。日本語のガイドが同乗し、イヤホンを使って英語、中国語、韓国語の音声ガイドを聞くことも可能。雨天の際は、透明な屋根を付けたバスが走る。/運行は午前十時台から午後八時台で、いずれも一時間おき。浅草方面のコースは、土、日、祝日は三十分おきとなる。乗車には、三コースすべてで使える二十四時間券(大人千八百円)、四十八時間券(同二千五百円)が必要。券の使用時間は、最初の乗車時からカウントする。/日の丸自動車興業の富田浩安社長は二十八日の会見で「三百六十度視界が開けたバスで、都内観光を楽しんでほしい」とPRした。 (東京新聞 2012年6月29日)
スカイホップバスとは
スカイバス(2F建てオープンバス:晴れ用)とスカイトップ(ガラス張り:雨用)の導入で都内を周遊するバスで、お一人様24時間1800円で何度も乗り降りが自由にできる。/都内3コースをどこで乗ってもどこで降りても定額なので、都内名所めぐりに最適だという。
■コース紹介■
【スカイツリーコース】丸の内三菱ビル⇒日本橋三井記念美術館⇒秋葉原⇒東本願寺前⇒とうきょうスカイツリー駅前⇒駒形⇒上野松坂屋⇒新日本橋駅⇒丸の内三菱ビル
【六本木コース】丸の内三菱ビル⇒ホテルニューオータニ⇒東京ミッドタウン⇒六本木ヒルズ⇒東京タワー⇒丸の内三菱ビル
【お台場コース】丸の内三菱ビル⇒東京タワー⇒フジテレビ⇒アクアシティお台場⇒ヴィーナスフォート⇒東京ベイ有明ワシントンホテル⇒豊洲⇒築地銀座⇒丸の内三菱ビル
スカイツリー楽しめる新型水上バス ―― 先月、オープンした東京スカイツリーの景色を楽しむことができる隅田川の水上バス路線に、宇宙船をイメージした新しい船が登場し、28日から運航を始めました。/お台場と浅草を結ぶ水上バス路線に28日から登場したのは、261人乗りの「ホタルナ」という船です。/デザインは「銀河鉄道999」などの作者、松本零士さんが担当し、宇宙船をイメージした丸みを帯びた船体が特徴です。/窓や天井のほとんどがガラス張りになっているため、近づくと見えにくくなる東京スカイツリーも、船内にいながら楽しむことができます。/また東京湾の区間では、船の屋上に出て景色を楽しむこともできるということです。/広島県から観光に訪れていた女性は「ガラスが大きいのでスカイツリーもとてもよく見えました。一番乗りのチケットだったので、宝物にしたいと思います」と話していました。/水上バス会社によりますと、先月22日のスカイツリーの開業以来、浅草から水上バスを利用する人は15パーセント増えていて、来月11日にはスカイツリーの展望台の当日券の販売が始まるため、さらに利用客の増加が見込まれるということです。/水上バス会社の守谷慎一郎社長は「新しい船で川から見えるスカイツリーの風景を多くの人に楽しんでもらいたい」と話していました。 (NHK News Web 6月28日 22時51分)
本日の歩行記録では、やっと1万歩を超え、距離も7kmを超えたようだ。しかし、とても続けては歩けない。休み休みで、時間は2時間を超えてしまった。
淺草は相変わらずスカイツリーを中心とする話題で振り回されているようだ。今朝のウェブニュースより、
2階建てオープンバス 停留所で乗降OK 路線では日本初 ―― 日の丸自動車興業(本社・文京区)は三十日から、停留所で乗り降りできる二階建てオープンデッキの「スカイホップバス」を都内三ルートで運行する。同様のバスで観光ルートを回る例はあるが、路線バスとしては日本初という。/三ルートは、▽浅草・東京スカイツリー▽お台場▽六本木・東京タワー-で、いずれも丸の内三菱ビル(千代田区)が起点。浅草方面のルートでは秋葉原(末広町)、上野松坂屋、駒形(雷門)、とうきょうスカイツリー駅前など、下町の観光名所、商業施設に停留所を設けた。日本語のガイドが同乗し、イヤホンを使って英語、中国語、韓国語の音声ガイドを聞くことも可能。雨天の際は、透明な屋根を付けたバスが走る。/運行は午前十時台から午後八時台で、いずれも一時間おき。浅草方面のコースは、土、日、祝日は三十分おきとなる。乗車には、三コースすべてで使える二十四時間券(大人千八百円)、四十八時間券(同二千五百円)が必要。券の使用時間は、最初の乗車時からカウントする。/日の丸自動車興業の富田浩安社長は二十八日の会見で「三百六十度視界が開けたバスで、都内観光を楽しんでほしい」とPRした。 (東京新聞 2012年6月29日)
スカイホップバスとは
スカイバス(2F建てオープンバス:晴れ用)とスカイトップ(ガラス張り:雨用)の導入で都内を周遊するバスで、お一人様24時間1800円で何度も乗り降りが自由にできる。/都内3コースをどこで乗ってもどこで降りても定額なので、都内名所めぐりに最適だという。
■コース紹介■
【スカイツリーコース】丸の内三菱ビル⇒日本橋三井記念美術館⇒秋葉原⇒東本願寺前⇒とうきょうスカイツリー駅前⇒駒形⇒上野松坂屋⇒新日本橋駅⇒丸の内三菱ビル
【六本木コース】丸の内三菱ビル⇒ホテルニューオータニ⇒東京ミッドタウン⇒六本木ヒルズ⇒東京タワー⇒丸の内三菱ビル
【お台場コース】丸の内三菱ビル⇒東京タワー⇒フジテレビ⇒アクアシティお台場⇒ヴィーナスフォート⇒東京ベイ有明ワシントンホテル⇒豊洲⇒築地銀座⇒丸の内三菱ビル
スカイツリー楽しめる新型水上バス ―― 先月、オープンした東京スカイツリーの景色を楽しむことができる隅田川の水上バス路線に、宇宙船をイメージした新しい船が登場し、28日から運航を始めました。/お台場と浅草を結ぶ水上バス路線に28日から登場したのは、261人乗りの「ホタルナ」という船です。/デザインは「銀河鉄道999」などの作者、松本零士さんが担当し、宇宙船をイメージした丸みを帯びた船体が特徴です。/窓や天井のほとんどがガラス張りになっているため、近づくと見えにくくなる東京スカイツリーも、船内にいながら楽しむことができます。/また東京湾の区間では、船の屋上に出て景色を楽しむこともできるということです。/広島県から観光に訪れていた女性は「ガラスが大きいのでスカイツリーもとてもよく見えました。一番乗りのチケットだったので、宝物にしたいと思います」と話していました。/水上バス会社によりますと、先月22日のスカイツリーの開業以来、浅草から水上バスを利用する人は15パーセント増えていて、来月11日にはスカイツリーの展望台の当日券の販売が始まるため、さらに利用客の増加が見込まれるということです。/水上バス会社の守谷慎一郎社長は「新しい船で川から見えるスカイツリーの風景を多くの人に楽しんでもらいたい」と話していました。 (NHK News Web 6月28日 22時51分)
今朝は4時15分に家を出る。久し振りに白鬚橋を渡り、向島の遊歩道からテラスにおりて、隅田川を南下。吾妻橋を渡って、台東区側の隅田公園内の遊歩道を通って6時10分に帰宅した。携帯の記録によれば、9810歩・歩行距離6.7キロメートル。
吾妻橋の西詰入口から隅田公園に入って間もなくの所に「グリーンプラネット」と名付けられた異様な建造物が建っている。説明板に曰く、「東京スカイツリーとの呼応性として、東京スカイツリー対自分の世界を作る。また、円形のフォルムで電波や大気を受け止める器の形は、環境との調和を感じさせる。場と人を繋ぐ空間には、原初的な風景の器の中に小動物の視点を体験する装置として、見知らぬ人たちと交流できる空間を演出する。それにより一個人が大人と子供、あるいは強者と弱者の枠を取り払い同等の存在として現れる。」
フォルムの穴からカメラを差し込んでスカイツリーの写真を撮ってみた。
吾妻橋の西詰入口から隅田公園に入って間もなくの所に「グリーンプラネット」と名付けられた異様な建造物が建っている。説明板に曰く、「東京スカイツリーとの呼応性として、東京スカイツリー対自分の世界を作る。また、円形のフォルムで電波や大気を受け止める器の形は、環境との調和を感じさせる。場と人を繋ぐ空間には、原初的な風景の器の中に小動物の視点を体験する装置として、見知らぬ人たちと交流できる空間を演出する。それにより一個人が大人と子供、あるいは強者と弱者の枠を取り払い同等の存在として現れる。」
フォルムの穴からカメラを差し込んでスカイツリーの写真を撮ってみた。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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