瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日は朝食後、徘徊を兼ねて、戯れに編集・装丁した忘年会アルバムを配布して回りました。今戸から、小松橋通り、馬道、富士通り、言問橋通り、雷門、駒形、本所と塾友の家を周り、郵便受けに作成したアルバムを入れてきました。


 午後からは、塾友のKO氏が爺を訪ねて下さいました。50年振りの邂逅で、道で突然すれ違ったとしても恐らく誰だかは判らないでしょう。50年前の友達のこと、臨海学校のこと、住んでいた馬道周辺のことなど、2時間半ほど話し込んでしまいました。本当に楽しいひと時でした。


 


 昨年3月、ブログで爺の消息を知りメールを下さったのが縁で、連絡が取れるようになったのですが、爺の入院騒ぎなどがあったため、再会が延び延びになっていたものです。本当に懐かしい再会でした。


 


 Web News より、


 野坂昭如さん死去 85歳 焼跡闇市派、「火垂るの墓」 ―― “焼跡(やけあと)闇市派”の作家で「火垂(ほた)るの墓」「アメリカひじき」などの作品で知られる野坂昭如(のさかあきゆき)さんが九日午後十時半ごろ、心不全のため死去した。八十五歳。親族のみで密葬を行う予定で、後日お別れの会を開く。 


 警視庁高井戸署と東京消防庁によると、同日午後九時ごろ、妻が「夫の意識がない」と一一九番。都内の病院に搬送された。


 一九三〇年、神奈川県鎌倉市に生まれ、半年後に転居した神戸で後に空襲にあった。早稲田大文学部在学中からCMソングの作詞などを手がけ、庶民の色と欲を赤裸々に描いた小説「エロ事師たち」で本格デビュー。童謡「おもちゃのチャチャチャ」の作詞でも知られる。


 ウイスキーのCMで「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか~」のフレーズでも一世を風靡(ふうび)。静岡県伊東市にあるホテルのCMソング「伊東に行くならハトヤ、電話は4126(良い風呂)」の作詞も手掛けた。


 戦時中の飢餓と混乱を経験した一人として“焼跡闇市派”を名乗り、六八年に「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受けた。


 雑誌「面白半分」の編集長時代には、官能小説「四畳半襖(ふすま)の下張」を掲載。わいせつ文書とみなされ有罪判決を受けた。


 八三年に二院クラブから参院選比例代表で当選。後に田中角栄元首相の金権政治を批判して旧新潟3区から衆院選に出馬して話題を集めたが落選。二〇〇一年には自由連合から立候補した。


 一九九七年「同心円」で吉川英治文学賞。二〇〇二年に「文壇」で泉鏡花文学賞。作品集に「野坂昭如コレクション」(全三巻)、「野坂昭如リターンズ」(全四巻)がある。


 〇三年に脳梗塞で倒れ、右半身などにまひが残った。リハビリ生活を送りながら、新聞や雑誌などに寄稿。「日本は一足飛びに戦争に突き進んでいる」「戦争というものは気づいた時にははじまっている」などと警鐘を鳴らし続けた。


 親交のあった永六輔さんのラジオ番組に毎週、手紙を書いて近況を報告していた。七日の放送では、「(太平洋戦争開戦の)昭和十六年の十二月八日を知る人がごくわずかになった今、またひょいとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない」とつづったばかりだった。


 


◆体験 基に警鐘鳴らし続け


 亡くなった野坂さんは「戦争を知っている人間」の責務を常に感じていた人だった。


 代表作「火垂るの墓」は、一歳四カ月で妹を栄養失調死させた過去がモチーフ。「戦争童話集」「一九四五・夏・神戸」など、戦争の闇を書き続けた。二〇〇〇年ごろから毎月一度、東京都内で「野坂塾」を開き、体験を語り継ぐ催しも始めたのもその表れといえる。


 日本が敗戦から立ち直り高度成長期まっただなかの一九六二年、「プレイボーイ入門」で一躍有名になったころは長髪にサングラス、濃いひげ。テレビやラジオ番組に度々登場し、時に過激な発言で物議をかもした。夜は酒場。「両手にカンピー(缶入りたばこピース)を携えさっそうと入ってきた」と、当時を振り返る東京・新宿の酒場経営者もいる。


 直木賞受賞の一報を受け、銀座で白いタキシードを注文し贈呈式に臨んだが、内心は強い不安にさいなまれ「この後、果たして書けるのか、この賞の権威を汚すに違いない」と思っていたと晩年の作品「文壇」で明かしている。


 こうした派手な振る舞いと繊細な内面のギャップを抱えての行動は、しばしば周囲を驚かせた。


 歌手として「黒の舟唄」を世に出したかと思えば、水田を購入して稲作に従事。「かくて日本人は飢死する」(二〇〇〇年)は、農業をないがしろにする日本の将来を憂える警世の書として注目された。最近も、安全保障をめぐる国の姿勢に警鐘を鳴らし続けた。憂国の士だった。


(東京新聞 20151210日 夕刊)


 

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