瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 本日は初代三遊亭圓朝の110回忌である。
 初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、天保10〈1839〉年~明治33〈1900〉年)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜と文七元結)のことである。
 あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を新たに作った。
 圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝が生きたのは江戸時代でなく明治であるが、彼の新作落語は例外的に「古典落語」に分類され、また古典落語の代表とされる。人情噺では前述のとおり、『芝浜』と『文七元結』、怪談では、『牡丹燈籠』『四谷怪談』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案は『死神』。近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(元治元〈1864〉年~明治42(1909〉年)に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたという。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅(ルーシュン、1881年~1936年)は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
 本日午前9時30分、圓朝の墓のある全生庵を訪ねた。花川戸のクロネコに立ちより、西宮のK氏にメール便を発送。松屋前から東西めぐりんで全松庵に赴いた。谷中小学校前で下車、三崎坂をしばし登り全生庵の山門をくぐる。ここで、先ずは三遊亭圓朝翁碑をカメラに収めた。
5a3f019d.jpg 当庵は山岡鉄舟居士が 徳川幕末 明治維新の際 国事に殉じた人々の菩提を弔うために 明治十六年に建立したという。鉄舟居士は慶応四年三月、江戸城総攻撃のため官軍東征するや徳川十五代将軍慶喜の命を受け、単身で静岡まで進軍して来た官軍の大本営に赴き、総参謀西郷南州に面接し江戸城無血開城の道をひらき、江戸市民を戦火の災厄から救い 徳川家の存続をも全からしめた 明治五年から十年間、明治天皇の侍従となり天皇を精神的に教導申し上げ英邁な明治大帝を育成したという。 また剣、禅、書の奥義を極め剣の無刀流を開いたという。全生庵の寺名は 明治七年居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰い、これを書斎に掛けて愛蔵していたので、 明治十三年居士が一寺建立を発願し、寺域を道友国泰寺越叟和尚のすすめにより谷中の現在地に選定したところが計らずも、此の土地が七百年前道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であるいことが判った。居士も奇縁に感じ明治十六年、全生庵を寺号とし、居士邸から曾て江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊としたという。
7551e47b.jpg 三遊亭圓長は人格面においても、全生庵開基・山岡鉄舟の導きにより禅をよく修し、その淵源を極め、京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与され「芸禅一如」の境涯に達した人物であるという。全生庵に所蔵している円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈された。伝円山応挙というものから、柴田是真、菊池容斎、松本楓湖、伊藤 晴雨、河鍋暁斎など、幕末から明治の著名な画家達の筆による大変ユニークな幽霊画である。全生庵では、毎年、円朝忌の行われる八月の一ヶ月間、幽霊画全幅を公開しており、十一日の円朝忌には、落語家により盛大な供養の会も行われているという。
 円朝辞世の句 「耳しいて 聞きさだめけり 露の音」 全生庵七世住職 平井正修
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c529c593.JPG まずは、圓朝と鉄舟のお墓に参ろうと、墓地に行く。入口にキンキラキンの巨大な観音菩薩の立像が立つ。「これが葵正観世音の霊像か?」「まあ、こんなに派手なキンキラキンなら、余り大したご利益は望めまいに」と、勝手な想像を廻らして、圓朝と鉄舟の墓に詣でて、本堂横の「幽霊画」の展示場へ行く。
 再び、東西めぐりんで浅草に出ると、観音横丁の中華料理店で冷やし中華の昼食を済ませ、帰宅した。
 夜は午後6時、Y家の尾通屋に参列。

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