瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日は曇り空で気温も低かったが、朝食後女房と連れ立って百花園へ行った。こどもの日であるが、ここでは子供の姿は殆んど見られない。まあ、爺婆の来るところらしい。茶店で甘酒を飲んで、明治通りを横切り大正通りに入ってみるが大したことはないので、東白鬚公園に行くと「鯉のぼりフェスティバル」が行われていた。リバーサイド墨田で昼食を食べて帰宅した。
鯉のぼりは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まり、端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世を願って家庭の庭先で飾られたものである。本来は真鯉(黒い鯉)のみであっが、明治時代から真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになったという。昭和時代からは家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となった。ただし、過渡的に黒と青だけという組み合わせも見られたらしい。最近では緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては女の子も含め家族全員の分の鯉を上げる家もあるという。暖色の子鯉の増加はそういった需要に応えてのことのようである。竿の先に回転球やかご玉、その下に矢車を付け、五色もしくは鯉などを描いた吹流しを一番上に、以下真鯉、緋鯉、等を大きさの順に並べて揚げるのが一般的のようである。
「登龍門」とは立身出世のための関門、あるいはただ単にその糸口という意味で用いられる。鯉の滝登りともいわれ、鯉幟という風習の元になっている。登龍門は『後漢書』李膺〈りよう〉伝に語られた故事に由来する。それによると、李膺は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあったが、もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「竜門に登った」と形容したという。なお「竜門」とは夏朝の皇帝・禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことである。後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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