瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
4月24日(日)
この日は統一地方選挙。投票所の入口の前に白い名の知れぬ花が咲いている。花の形からエニシダか? 聖天公園を通って帰宅した。公園脇のしもたやの玄関には見事な藤が咲き誇っていた。
4月25日(月)
桜橋でスカイツリーにかかる旧暦23日の月を撮っていると、声を掛けられた。花川戸の住人という方で、向遊歩道・吾妻橋と歩を進めながら話した。昭和6年生まれ生まれというから、爺より1歳年上だ。戦災で逃げ惑った話など聞いた。そのまま暫く隅田公園沿いに南下すると、「ここが私のマンションです。案内しますので、屋上からの景色をご覧下さい」とエレベーターで屋上へ。夜明けの隅田川の風景をカメラに収める。戴いた名刺にはSI氏とあった。
4月26日(火)
言問橋を渡り、見番通りを北上。白鬚橋を渡って帰宅した。まだ暗いが、旧暦24日の月がくっきりと浮かんでいる。見番通りの入口にまだ暗い夜明け前にも関わらず、大輪の牡丹が花街に似つかわしく艶やかな姿を見せていた。
牡丹を詠った詩2題
花が散りつくしてからやっと咲き始める。
その名は百花の王とよばれる。
天下に並ぶことのないあでやかさを競い誇る。
この世で一番の香を放っている。
皮日休(ひじっきゅう、833?~883年)は襄陽の人で字は襲美(しゅうび)または逸少。閑気布衣と号した。咸通8(867)年の進士。はじめは郷里に近い鹿門山に隠棲し酒と詩を友とするが、蘇州刺史崔璞の軍事判官から太常博士に進んだが、黄巣(?~884年)の軍が長安を占領した時、その政府に入って翰林学士に任ぜられた。しかし黄巣から心服していないことを疑われついには殺された。唐末の中で政治を批判した詩文を多く残しているという。
胡の軍隊が中国の関を破り侵入してからのこと、
洛陽の地をはるかに望むこと十年あまり。
靑墩溪(せいとんけい)のほとりにわび住まいする老いた私は、
一人で東風の中に立って牡丹を眺めてはふるさと洛陽に思いを馳せる
陳与義(ちん よぎ、1091年 - 1139年)は南宋時代初期の中国詩人。字は去非。号は簡齊。洛陽に生まれ、幼時より、よく詩を作ることができたという。1113年に進士となる。開徳府教授から太学博士・符寶郎となるが、監陳留酒税に左遷された。金国が汴京を侵略し高宗が南方へ逃れたときに、襄漢・湖湘へと移るが、召されて兵部侍郎となり、1131年に臨安に到着し中書舎人に掌内制を兼ねた。吏部侍郎・徽猷閣直学士から、知湖州をへて給事中・顯謨閣直学士・提挙江州太平観を歴任。ふたたび中書舎人となり、翰林学士・知制誥をへて、1138年に参知政事となり大いに朝廷の綱紀を粛正した。その年の3月に高宗に従って建康へおもむき、翌年に臨安へもどると病を理由に資政殿学士・知湖州に任命された。高宗は手厚く陳与義を見舞い、提挙臨安洞霄宮へと進められ、1139年11月に没する。
この日は統一地方選挙。投票所の入口の前に白い名の知れぬ花が咲いている。花の形からエニシダか? 聖天公園を通って帰宅した。公園脇のしもたやの玄関には見事な藤が咲き誇っていた。
4月25日(月)
桜橋でスカイツリーにかかる旧暦23日の月を撮っていると、声を掛けられた。花川戸の住人という方で、向遊歩道・吾妻橋と歩を進めながら話した。昭和6年生まれ生まれというから、爺より1歳年上だ。戦災で逃げ惑った話など聞いた。そのまま暫く隅田公園沿いに南下すると、「ここが私のマンションです。案内しますので、屋上からの景色をご覧下さい」とエレベーターで屋上へ。夜明けの隅田川の風景をカメラに収める。戴いた名刺にはSI氏とあった。
4月26日(火)
言問橋を渡り、見番通りを北上。白鬚橋を渡って帰宅した。まだ暗いが、旧暦24日の月がくっきりと浮かんでいる。見番通りの入口にまだ暗い夜明け前にも関わらず、大輪の牡丹が花街に似つかわしく艶やかな姿を見せていた。
牡丹を詠った詩2題
花が散りつくしてからやっと咲き始める。
その名は百花の王とよばれる。
天下に並ぶことのないあでやかさを競い誇る。
この世で一番の香を放っている。
皮日休(ひじっきゅう、833?~883年)は襄陽の人で字は襲美(しゅうび)または逸少。閑気布衣と号した。咸通8(867)年の進士。はじめは郷里に近い鹿門山に隠棲し酒と詩を友とするが、蘇州刺史崔璞の軍事判官から太常博士に進んだが、黄巣(?~884年)の軍が長安を占領した時、その政府に入って翰林学士に任ぜられた。しかし黄巣から心服していないことを疑われついには殺された。唐末の中で政治を批判した詩文を多く残しているという。
胡の軍隊が中国の関を破り侵入してからのこと、
洛陽の地をはるかに望むこと十年あまり。
靑墩溪(せいとんけい)のほとりにわび住まいする老いた私は、
一人で東風の中に立って牡丹を眺めてはふるさと洛陽に思いを馳せる
陳与義(ちん よぎ、1091年 - 1139年)は南宋時代初期の中国詩人。字は去非。号は簡齊。洛陽に生まれ、幼時より、よく詩を作ることができたという。1113年に進士となる。開徳府教授から太学博士・符寶郎となるが、監陳留酒税に左遷された。金国が汴京を侵略し高宗が南方へ逃れたときに、襄漢・湖湘へと移るが、召されて兵部侍郎となり、1131年に臨安に到着し中書舎人に掌内制を兼ねた。吏部侍郎・徽猷閣直学士から、知湖州をへて給事中・顯謨閣直学士・提挙江州太平観を歴任。ふたたび中書舎人となり、翰林学士・知制誥をへて、1138年に参知政事となり大いに朝廷の綱紀を粛正した。その年の3月に高宗に従って建康へおもむき、翌年に臨安へもどると病を理由に資政殿学士・知湖州に任命された。高宗は手厚く陳与義を見舞い、提挙臨安洞霄宮へと進められ、1139年11月に没する。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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