瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
本日早朝から雨。6時頃まで布団の中。
「湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変った」 蘇軾
其の一 朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが/夕べの雨は引き止めるが如く酔郷に誘い込んでくれた/この趣のおもしろさ 君にわかってもらえるものならば/一杯は水仙王(西湖の水神)に捧げずばなるまい。
其の二 さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだったが/おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい/西湖をたとえてみよう あの西施の/薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
「愚公移山」
太行山(原文の大形は誤記か?)・王屋山の二つの山は、広さは七百里四方、高さは一万切(ひろ)もあるが、もともとは冀州(河北省)の南部、河陽(河南省)の南部にあった。ところが北山愚公という老人がいて齢はもう九十に近かったが、この大行・王屋の山を真向かいにして住んでいた。彼は山の北側が険しく塞がっていて、出入りの度に遠回りしなくてはならないのを苦にやみ、家族を集めたこう相談した。
「私はお前たちと全力を尽くして山の険しい所を平坦にし、豫州(河南省)の南部に向かって道路を通じ、漢水の南岸に到達させたいと思うが、どうであろう」
家族の者たちは口々にみな賛成した。ところが愚公の妻だけが異議を申し立てて言った。
「あなたの力では、ちっちゃな丘を崩すことさえとても出来ません。ましてや太行・王屋のような大山をどうするというのですか。それにいったい、崩した土や石はどこに運ぶのです」
みんなは答えた。
「それは渤海の隅っこか隠土(いんと)の地方の北部にでも捨てましょう。
かくて愚公は息子たちや孫たちを引き連れ、かついで運ぶ者は三人、岩石を打ち砕き、土地を切り開いて、土や石は箕や畚(もっこ)で渤海の隅っこに運んだ。
さて愚公の隣家の京城氏の寡婦に忘れ形見の男の子が居て、やっと歯の抜け替わる年頃であったが、勇んで出かけて愚公の仕事を手伝い、寒暑の季節の変わり目にやっと一度家に帰るという有様であった。ところが一方、河曲(山西省)の地に住む智叟――利巧者の老人は愚公の話を聞いて笑い出し、その仕事を止めさせようとしてこう言った。
「話にもならぬよ。君の馬鹿さ加減は、老いぼれのわずかな力では、山の草一本だってろくに毟れはしない。ましてや土や石をいったいどうしようとというのだ」
すると北山愚公は、ふうっと溜息をついて言った。
「君は固定観念にとらわれていて、その頑なさは手のつけようが泣く、あの寡婦の幼児の頭にも全く及ばない。ぼくが死んでも子供が生き残り、その子供はさらに孫を生み、その孫は更にまた子供を生む。その子供には更に子供が出来、その子供にはまた更に孫が出来、子から子へ、孫から孫へと伝えて、尽き果てることも無い。それに対して山のほうは益々高くなるということはないのだ。してみれば、なにも平坦に出来ないなどと気に病むこともなかろうよ」
河曲の智叟はかえす言葉もなかった。
太行・王屋の蛇をてにもつ山の神は、この話を聞いて愚公の仕事が中止されそうも無いことを恐れて、このことを天帝に報告した。すると天帝は愚公の真心に心動かされ、夸蛾氏の息子に言いつけて大行・王屋の二つの山を背負わせ、一つを朔北(山西省の北)の東部に、一つを雍州(山西省の西)の南部に移した。それからというもの,冀州の南部から漢水の南側にかけて険しい丘陵はなくなったのである。
「愚公移山」と言う成語はいかなる難事業も地道に努力を重ねればついには成し遂げられることのたとえである。中国人はスピーチで教養のある人ほどこのような成語をよく使うという。かつて毛沢東もこの成語を使って人民を鼓舞したという。
「湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変った」 蘇軾
其の一 朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが/夕べの雨は引き止めるが如く酔郷に誘い込んでくれた/この趣のおもしろさ 君にわかってもらえるものならば/一杯は水仙王(西湖の水神)に捧げずばなるまい。
其の二 さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだったが/おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい/西湖をたとえてみよう あの西施の/薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
「愚公移山」
太行山(原文の大形は誤記か?)・王屋山の二つの山は、広さは七百里四方、高さは一万切(ひろ)もあるが、もともとは冀州(河北省)の南部、河陽(河南省)の南部にあった。ところが北山愚公という老人がいて齢はもう九十に近かったが、この大行・王屋の山を真向かいにして住んでいた。彼は山の北側が険しく塞がっていて、出入りの度に遠回りしなくてはならないのを苦にやみ、家族を集めたこう相談した。
「私はお前たちと全力を尽くして山の険しい所を平坦にし、豫州(河南省)の南部に向かって道路を通じ、漢水の南岸に到達させたいと思うが、どうであろう」
家族の者たちは口々にみな賛成した。ところが愚公の妻だけが異議を申し立てて言った。
「あなたの力では、ちっちゃな丘を崩すことさえとても出来ません。ましてや太行・王屋のような大山をどうするというのですか。それにいったい、崩した土や石はどこに運ぶのです」
みんなは答えた。
「それは渤海の隅っこか隠土(いんと)の地方の北部にでも捨てましょう。
かくて愚公は息子たちや孫たちを引き連れ、かついで運ぶ者は三人、岩石を打ち砕き、土地を切り開いて、土や石は箕や畚(もっこ)で渤海の隅っこに運んだ。
さて愚公の隣家の京城氏の寡婦に忘れ形見の男の子が居て、やっと歯の抜け替わる年頃であったが、勇んで出かけて愚公の仕事を手伝い、寒暑の季節の変わり目にやっと一度家に帰るという有様であった。ところが一方、河曲(山西省)の地に住む智叟――利巧者の老人は愚公の話を聞いて笑い出し、その仕事を止めさせようとしてこう言った。
「話にもならぬよ。君の馬鹿さ加減は、老いぼれのわずかな力では、山の草一本だってろくに毟れはしない。ましてや土や石をいったいどうしようとというのだ」
すると北山愚公は、ふうっと溜息をついて言った。
「君は固定観念にとらわれていて、その頑なさは手のつけようが泣く、あの寡婦の幼児の頭にも全く及ばない。ぼくが死んでも子供が生き残り、その子供はさらに孫を生み、その孫は更にまた子供を生む。その子供には更に子供が出来、その子供にはまた更に孫が出来、子から子へ、孫から孫へと伝えて、尽き果てることも無い。それに対して山のほうは益々高くなるということはないのだ。してみれば、なにも平坦に出来ないなどと気に病むこともなかろうよ」
河曲の智叟はかえす言葉もなかった。
太行・王屋の蛇をてにもつ山の神は、この話を聞いて愚公の仕事が中止されそうも無いことを恐れて、このことを天帝に報告した。すると天帝は愚公の真心に心動かされ、夸蛾氏の息子に言いつけて大行・王屋の二つの山を背負わせ、一つを朔北(山西省の北)の東部に、一つを雍州(山西省の西)の南部に移した。それからというもの,冀州の南部から漢水の南側にかけて険しい丘陵はなくなったのである。
「愚公移山」と言う成語はいかなる難事業も地道に努力を重ねればついには成し遂げられることのたとえである。中国人はスピーチで教養のある人ほどこのような成語をよく使うという。かつて毛沢東もこの成語を使って人民を鼓舞したという。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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