瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
マイチが身罷って早や4ヶ月。今日は爺婆でTK夫妻・SK氏と待ち合わせて、清光寺に墓参りに出かけた。
約束の時刻より15分程前に清光寺に着いたので、墓地を散策してみた。
清光寺は、このお寺は 元は駿州田中にあったものをあの水戸光圀=黄門さまが、寛文5年(1665)江戸に移したものだという。その縁だろうか、墓地を入ってすぐ右に、讃岐松平家の墓がある。光圀の兄の家系である。この讃岐松平家に伝わる「白犬墓」の民話がある。
白犬墓の話:「昔、文政12年(1829)頃、今の東京、その頃の江戸に松平賴恕(よりひろ)といわれる讃岐〔9代目〕のお殿様がいらっしゃった。その奥方〔倫姫〕は大変な慈悲深い方であった。それは動物にいたるまで憐れみを持っておられた。/ある日のこと、どこからとなく迷い込んで来た一匹の白犬をお屋敷の門番が見つけた。「やい、ここはお殿様のお屋敷だ。野良犬(のらいぬ)の入るべき所ではない。出ろ、出ろ!!」お屋敷の門番は荒々しくも六尺棒(ろくしゃくぼう)を振り上げたが、白犬は「門番さま、どうぞひとめ奥方様にあわせて下さいまし。」というように尻尾(しっぽ)を振り振り頼んだが聞いてくれなかった。「何んだッて出なければこうしてやるッ!」と、無惨(むざん)にも六尺棒は白犬の頭上めがけて振り下された。「キャン!」バッタリと一撃の下に倒された白犬。このことを聞いた奥方の倫姫は不憫(ふびん)に思い、白犬を浅草清光寺に葬られた。/その後、奥方様(倫姫)は亡くなられた。今日は、その貴い柩(ひつぎ)が多数の家臣に護られて讃岐の菩提寺(ぼだいじ)仏生山へと送られて行く日である。その時、長い東海道を何時までも、お棺について離れない小さい白犬があった。その間、人々が食物を与えても、決して生臭いものは食べなかったという。/華やかな葬いが済んで七日目、瀬戸内海を通る一艘(いっそう)の船の中に、件(くだん)の白犬の姿が見あたった。心ある藩士のはからいで、江戸に上る人に頼んで白犬を送り届ける途中であったが、白犬は常に哀しそうにクインクインと泣いていたが、突然隙(すき)を見て海中に飛込んでしまった。今、高松市五番丁浄願寺境内にある白犬墓はその犬を葬った墓である。」
讃岐松平家の墓の裏側には、三木のり平さんの墓があった。
三木のり平(みき のりへい、本名:田沼 則子(たぬま ただし)、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、昭和期のコメディアン、俳優、演出家。/日本橋区浜町生まれ。本名の則子(ただし)は「のりこ」と読み間違いやすいが、名前のお陰で女性と思われ、召集令状が届いたのが終戦の5日前だったという。芸名も、本名で舞台に立った際、プログラムの印刷業者が則子の「子」の字を「平」の間違いだと勘違いし、「則平」と印刷してしまったことが由来である。なお「三木」は三木鶏郎〔みきとりろう、1914~1994年、昭和にt活躍した作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家〕からつけられたという。
午前11時、SK氏・TK夫妻が到着したので、交互に墓参を済ませ、清光寺を辞した。
浅草通りにある「居酒屋、日本海」で、昼食をとりながら、暫しマイチの思い出を語った。
今年の新盆には出来れば隅田川の灯篭流し〔万霊灯籠大供養〕に参画しようと、申し込み方法を調べてみることになった。
約束の時刻より15分程前に清光寺に着いたので、墓地を散策してみた。
清光寺は、このお寺は 元は駿州田中にあったものをあの水戸光圀=黄門さまが、寛文5年(1665)江戸に移したものだという。その縁だろうか、墓地を入ってすぐ右に、讃岐松平家の墓がある。光圀の兄の家系である。この讃岐松平家に伝わる「白犬墓」の民話がある。
白犬墓の話:「昔、文政12年(1829)頃、今の東京、その頃の江戸に松平賴恕(よりひろ)といわれる讃岐〔9代目〕のお殿様がいらっしゃった。その奥方〔倫姫〕は大変な慈悲深い方であった。それは動物にいたるまで憐れみを持っておられた。/ある日のこと、どこからとなく迷い込んで来た一匹の白犬をお屋敷の門番が見つけた。「やい、ここはお殿様のお屋敷だ。野良犬(のらいぬ)の入るべき所ではない。出ろ、出ろ!!」お屋敷の門番は荒々しくも六尺棒(ろくしゃくぼう)を振り上げたが、白犬は「門番さま、どうぞひとめ奥方様にあわせて下さいまし。」というように尻尾(しっぽ)を振り振り頼んだが聞いてくれなかった。「何んだッて出なければこうしてやるッ!」と、無惨(むざん)にも六尺棒は白犬の頭上めがけて振り下された。「キャン!」バッタリと一撃の下に倒された白犬。このことを聞いた奥方の倫姫は不憫(ふびん)に思い、白犬を浅草清光寺に葬られた。/その後、奥方様(倫姫)は亡くなられた。今日は、その貴い柩(ひつぎ)が多数の家臣に護られて讃岐の菩提寺(ぼだいじ)仏生山へと送られて行く日である。その時、長い東海道を何時までも、お棺について離れない小さい白犬があった。その間、人々が食物を与えても、決して生臭いものは食べなかったという。/華やかな葬いが済んで七日目、瀬戸内海を通る一艘(いっそう)の船の中に、件(くだん)の白犬の姿が見あたった。心ある藩士のはからいで、江戸に上る人に頼んで白犬を送り届ける途中であったが、白犬は常に哀しそうにクインクインと泣いていたが、突然隙(すき)を見て海中に飛込んでしまった。今、高松市五番丁浄願寺境内にある白犬墓はその犬を葬った墓である。」
讃岐松平家の墓の裏側には、三木のり平さんの墓があった。
三木のり平(みき のりへい、本名:田沼 則子(たぬま ただし)、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、昭和期のコメディアン、俳優、演出家。/日本橋区浜町生まれ。本名の則子(ただし)は「のりこ」と読み間違いやすいが、名前のお陰で女性と思われ、召集令状が届いたのが終戦の5日前だったという。芸名も、本名で舞台に立った際、プログラムの印刷業者が則子の「子」の字を「平」の間違いだと勘違いし、「則平」と印刷してしまったことが由来である。なお「三木」は三木鶏郎〔みきとりろう、1914~1994年、昭和にt活躍した作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家〕からつけられたという。
午前11時、SK氏・TK夫妻が到着したので、交互に墓参を済ませ、清光寺を辞した。
浅草通りにある「居酒屋、日本海」で、昼食をとりながら、暫しマイチの思い出を語った。
今年の新盆には出来れば隅田川の灯篭流し〔万霊灯籠大供養〕に参画しようと、申し込み方法を調べてみることになった。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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