瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  本日は爺婆の53回目の結婚記念日。当時お世話になった人々はほとんど逝ってしまった。仲人であったS先生ご夫妻は言うまでもなく、戦中戦後私を女手で育ててくれた母、結婚後ずっとお世話に成りっ放(ぱ)なしであった婆様のご両親…… 我々二人を祝福して式に参加してくれたほとんどの人々がいまは鬼籍に名を連ねる。やがて、我々もまたこの人たちの後を追うことになるのだろう。
 
 今日はまた、今年2月2日に亡くなったYM君の「百か日」に当たる。百か日は「卒哭忌(そつこくき)」ともいわれ、故人が亡くなった悲しみに区切りをつける日で、故人への悲しみのために泣き暮らしていたのを泣きやむ日を意味するらしいが、百か日、一周忌、三回忌は中国で行われていたしきたりであると聞く。
d301cbe6.jpeg 朝食後、花川戸公園を通り、二天門を潜って、浅草寺境内へ。午前10時前というのに、修学旅行の中学生・高校生で混み合っている。仲見世の裏道を通って雷門へ。雷門通りを西進して西浅草の清光寺に行ってみる。墓守の小父さんに、前野家の墓を訊ねていると、事務受付から女子の係員が出てきて、丁寧に案内してくださった。明日の土曜日に納骨の法要が行われるとのことであった。

23304dfe.jpeg 清光寺の山門正面に長谷川一夫の碑と岡崎屋勘六墓がある。それぞれの説明板を呼んだが、長谷川一夫の碑には略歴が書いてあるだけで、この碑が清光寺にある謂れについては触れていなかった。

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3bec028b.jpeg 岡崎屋勘六は歌舞伎の看板、番付に使われる書体を考案した人らしい。説明板に曰く、
『岡崎屋勘六』 いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭と称し、延享三(1746)年江戸に生まれる。堺町(現中央区日本橋)に住み、後家流の書を指南して能書家として知られる。勘亭流の生まれるもとは、同町中村座の依頼で安永八(1779)年春の狂言の大名題を書いたことに始まるといわれている。以来、中村座の看板を書き続け、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行した。天明年中(1781~88年)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化二(1805)年59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。墓石裏面に

 と、勘亭流文字で刻まれている。
 
 スカイツリーブームで、隅田川周辺にはアート環境プロジェクト(アート作品、アートベンチ)と称して、我々凡人にはよく理解の出来ないへんちくりんな作品が建てられている。本日通った花川戸公園にも、「石の舟」と称する得体の知れない石が置かれていた。説明板に曰く、
c7865338.jpeg「石の舟」 【作品解説】 以前、台東区内にあった旧福井中学校の校舎の敷石を再利用し、作品の基盤として残した。そして、その上に大きな自然の玉石を設置した。この石は、共に茨城県産花崗岩である。玉石には隣接する浅草小学校の子供たちと藝大生が協力してつくったブロンズの人や動物の頭部(顔)が110個以上埋めこまれている。
この彫刻のテーマである過去・現在・未来の時間を、これまで台東区(浅草橋)の公共施設の一部であった敷石を記憶の積層と捉え、大きな玉石を地球とみたて、皆でつくった人間や動物のブロンズが地球上に生きる多くの生き物の現在を表している。そして「石の舟」が東京スカイツリーを眺め見つめることで未来を想い、時を漂う。本プロジェクトに関わった誰もが、周囲の環境(花川戸公園)と呼応し、これから長く愛され、しっかりと地域に根付く彫刻であることを望む。
【設置場所】 花川戸公園南(台東区)
 
挽歌詩(其一)  晋 陶淵明
有生必有死 生有れば必ず死有り
早終非命促 早く終うるも命の促さるるにはあらず
昨暮同爲人 昨暮は同じく人たりしに
今旦在鬼録 今旦は鬼録に在り
魂氣散何之 魂氣は散じて何くにか之く
枯形寄空木 枯形を空木に寄す
嬌兒索父啼 嬌兒は父を索めて啼き
良友撫我哭 良友は我を撫して哭く
得失不復知 得失 復た知らず
是非安能覺 是非 安んぞ能く覚らんや
千秋萬歳後 千秋万歳の後
誰知榮與辱 誰か栄と辱とを知らんや
但恨在世時 但だ恨む 在世の時
飮酒不得足 酒を飮むこと 足るを得ざりしを
789d50fa.jpeg〔訳〕命ある者は必ず死ぬ。
   若くして死んだからとて
       寿命が縮まったわけではないのだ。
   昨日の暮れは皆と同じく生きていたのに、
   今日の朝は死者の名簿に名を連ねている。
   魂は体から離れてどこへ行ったのだろう。
   亡骸だけが棺おけの中に横たわっている。
   まだ幼い息子が父を求めて泣き、
   親しい友が亡骸を撫でて号泣している。
   死者にはもう物事の得失はわからない。
   まして何が良くてなにが悪いかなど、わからない。
   千年万年の後はこの世の栄誉や恥辱などどうでもいいことだ。
   ただ惜しいのは生きていた時、十分に酒を飲まなかったこと
 
 今朝のウェブニュースより
2f4c8d52.jpeg 小沢“控訴”で大ダメージ! 再び被告で復権戦略を大幅転換か ―― 資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で強制起訴された民主党の小沢一郎元代表(69)を無罪とした東京地裁判決について、検察官役の指定弁護士3人は9日、控訴の可否を協議し、無罪を不服として控訴する方針を決定した。小沢氏の無罪は確定せず、再び刑事裁判を抱える「被告」となる。剛腕政治家の「完全復権」は先送りとなり、今後の政治活動も大幅に制約されそうだ。
 「特段、高揚や緊張はない。よく話し合って結論を出したい」
 指定弁護士のまとめ役、大室俊三弁護士(62)は9日午前9時半ごろ、東京都内の個人事務所に立ち寄った際、待ち受けた報道陣に話した。大室弁護士は今月2日、「心証としては『黒』(有罪)だと思うからこそ控訴したい」と話していたが、その思いを通したことになる。
 先月26日の東京地裁判決は、元秘書らによる虚偽記載を認定し、小沢氏の「事件後も収支報告書など見たこともない」という証言も、「およそ信用できない」と断定。小沢氏と元秘書の間に政治資金収支報告書の記載をめぐる「報告・了承」があったことまで認めた。/ところが、なぜか「元秘書との共謀」までは認めず、禁錮3年の求刑に対して「無罪」を言い渡した。/小沢氏や周辺議員らは大喜びしたが、「限りなく黒に近い灰色」(東京都の石原慎太郎知事)、「政界の霧はさらに深くなった」(自民党の小泉進次郎衆院議員)といった論評や感想が続出した。
 通常の刑事裁判では、検察が判決に不服がある場合、上級庁(高検、最高検)と協議して控訴や上告を決定する。今回の裁判は、一般人による検察審査会での二度の起訴議決を受けて指定弁護士が強制起訴したため、指定弁護士3人で控訴を判断した。
 運命の日、小沢氏は午前7時半前、黒っぽいスーツに白いマスク姿で東京都世田谷区の自宅をワゴン車で出発。知り合いを見つけたのか窓を開け、手を振る姿も。文京区の日本医大病院で診察を受け、出てきた際はマスクを外しており、その表情は硬かった。
 今回の控訴は、小沢氏にとってダメージが極めて大きい。
 1審無罪を受け、小沢氏は「党員資格停止」処分を解除し、完全復権に動き出す戦略を描いていた。野田佳彦首相が「不退転の決意」で進める消費税増税路線を、小沢氏は「国民への背信行為」と批判してきたが、党内最大勢力を率いる立場を生かし、さらに圧力を強めるとみられていた。
 ところが、再び「被告」となり、刑事裁判を抱えることで、復権戦略は大きく方針転換されそうだ。
 政治評論家の浅川博忠氏は「これで、小沢氏自身が9月の民主党代表選に出馬することは不可能になった。党の役職復帰も無理だろう。小沢グループでも『もう付いていけない』という議員が出てくる。党内各派の草刈り場となり、小沢グループは半減するのでは。小沢氏の政治力・影響力は激減する。一方、野田首相は一体改革成立に強気になり、小沢氏やグループ議員の党議拘束違反に厳しく対処するはず。離党→新党結成しても、大阪市の橋下徹市長は小沢新党とは組まないだろう」と語っている。  〔zakzak 2012.05.09〕
 
25f4fefa.jpeg 小沢裁判「国民騙したメディアは猛省すべき」と鳥越俊太郎氏 ―― それは、小沢一郎氏の“陸山会裁判”でも繰り返された。なぜ、新聞・テレビは捜査や裁判の冤罪構造に斬り込もうとしないのか。/ジャーナリスト・鳥越俊太郎氏は、「それは陸山会事件そのものがメディアによってつくりあげられた事件だったからだ」と指摘する。
 すべてのスタートは政権交代前の2009年の「西松建設事件」だった。/検察は建設業者がダム建設の受注を有利にしようと小沢氏の事務所にお金を持っていったという古典的な贈収賄シナリオを描き、新聞にバンバンとリークしたことが発端だった。新聞はそれを検証せずに垂れ流すように書いていった。/新聞が建設会社から小沢氏にカネが渡ったのが事実のような書き方をして、それを追いかけるように特捜部の捜査が進んでいく。情報の出元は同じだから各紙横並びの記事になり、国民には、『どの新聞も書いているから小沢氏は何か悪いことをしている』という印象が植え付けられる。その繰り返しを何年も続けたので、“小沢一郎は巨悪”というイメージがつくられてしまった」(鳥越氏)
 判決後にもテレビは街頭インタビューで、「無罪? おかしいんじゃないか」と答える国民の声を放映した。メディアが国民に「小沢は巨悪」のイメージを植え付け、無罪判決が出ると今度は国民に「おかしい」といわせていかにも国民が判決に納得していないように報じる。これこそ戦前のメディアが得意としていた危険な世論操作である。こんなかつて取った杵柄はしまっておくほうがよい。/鳥越氏が続ける。
「総選挙前の西松事件は政権交代を阻止する、政権交代後の陸山会事件は小沢氏を政治の中枢からできるだけ遠ざけるという特捜部の考える“正義”のための捜査だった。それにメディアが完全に乗って世論はつくられた。国民はメディアに騙されてきたのであり、メディアは猛省しなければならない」
 毎日新聞記者から『サンデー毎日』編集長、テレビ朝日『スーパーモーニング』のコメンテーターを歴任し、新聞・テレビの報道第一線に立ってきた鳥越氏の発言だけに迫真性と説得力がある。(週刊ポスト2012年5月18日号)
  5月といえば、祭りの月。東京では、来週辺りから6月にかけて、土・日といえば東京の下町のどこかでは祭礼が行われている。
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400a4bcf.jpeg 徳川家康は江戸に幕府を開くに当たり、現在の大手町にあった平将門をまつる神田明神を、江戸城の鬼門に当たる北東の方角の湯島に移転し、江戸の総鎮守(守り神)に認定。神社だけでは鬼門の守りが不安なので、江戸城湯島の延長線上に寛永寺も建立。さらに、裏鬼門の南西の方角の溜池山王に日枝神社を設置、その延長線上に増上寺を作ったという。そのため、神田と山王の二つの神社の祭りは、神輿や山車が城内まで入ることが許され、天下祭りと呼ばれて規模が拡大。拡大のあまり、毎年開催すると金がかかり過ぎるようになり、交互の隔年開催と決められたそうだ。その慣習は今もつづいており、どちらの神社も、祭礼の基本となる宗教行事は毎年行うものの、神輿の出る本祭りは、2年に一度。神輿の出ない年は陰祭りと呼ばれ、今年は山王が本祭りで、神田が陰祭りになっている(祭りは地元の寄付金によって成立しており、毎年やると地元の負担が大きすぎるため、観光資源化している三社祭を除けば、下町の大きな祭りはたいてい隔年開催となっている)。
 この二つが江戸の二大祭りであることには誰も文句のつけようがない事実なのであるが、日本人は元来が『三大云々』お好き。じゃあ、江戸三大祭りを選ぶってことになると、あとの一つは何かという問題になる。「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と、狂歌に歌われたこともあって、江戸三大祭は「日枝神社山王祭・神田明神神田祭り・富岡八幡宮深川八幡祭り」とする向きもあるが、ここは地元びいきで、訊ねた人、答える人によってそれぞれ見解が異なってくる。
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201b2367.jpeg この問題に昔から名乗りを挙げているのが、浅草の三社祭りと深川富岡八幡宮の深川祭りであるという。神田・山王の祭りが武士の祭りとすれば、こちらは町人の祭り。喧嘩っ速い江戸の町人気質を反映してか、浅草と深川はことごとく対立しており、例えば、5月に行われる三社祭りでは、下に履く股引きは足首までの長いものが粋とされているのに対し、8月に行われる深川祭りでは、神輿の担ぎ手に水をかけまくるので、ボトムは膝までの短い半股引でなければならない。かけ声も、浅草が「そいや、そいや」なのに対し、深川は頑なに「わっしょい、わっしょい」。みこしの担ぎ方も、三社祭りは、別名喧嘩みこしと呼ばれるほど荒々しく、激しく上下動させるのに対し、深川祭りは、木場で材木を運ぶ要領で腰を使い上下動を抑えるのがよいとされています。深川では、上下動の激しい担ぎ方は浅草担ぎと呼ばれ、これをやっているとみこしの下からつまみ出されてしまうという始末だという。
 まあ、こんな対立などせずに、武家の祭りから2つ、町家の祭りから2つ仲良く取って、江戸四大祭りとは、いかないものだろうか。
 
東坡志林 巻四 劉凝之沈麟士
 南史:劉凝之為人認所著履、即與之、此人後得所失履、送還、不肯復取。又沈麟士亦為鄰人認所著履、麟士笑曰:「是卿履耶?」即與之。鄰人得所失履、送還、麟士曰:「非卿履耶?」笑而受之。此雖小事、然處事當如麟士、不當如凝之也。
759a5cea.jpeg〔訳〕《劉凝之(りゅうぎょうし)と沈士麟(しんしりん)》『南史』によると、劉凝之ははいていた履(くつ)を人から自分のだといわれて、すぐ脱いで与えた。そのあとその男が、
「失くした履が見つかりました」
といって送り返すと、彼はどうしても受け取ろうとはしなかったという。また、沈士麟も、隣人からはいていた履を自分のだといわれて、笑いながら
「あなたの履だったのですか」
といってすぐ与えた。そのあと隣人がなくした履が見つかったからといっと送り返すと、士麟は
「貴方の履ではなかったのですか」
といって、笑って受け取ったという。
 これは小さなことだが、世に処するには士麟のようであるべきで、凝之のようにあってはならぬとおもうのである。
 
※『南史』:唐の李延寿〔生没年不詳、唐の歴史家〕撰、南朝の宋・斉・梁・陳四代のことを記した史書。
 
  昨日西宮のYK氏〔鳴尾のuさん〕より、久し振りに絵葉書が届いた。随分長い間便りがなかったので心配していた。一昨日も横浜のIN氏から電話があったので、消息を尋ねてみたが、あまりはっきりしたことは判らなかった。
e03206a8.jpeg どうやら西宮市の大谷美術館で開かれているグェッリーノ・トラモンティ展に出かけてらしい。絵はがきの絵は、グェッリーノ・トラモンティ「水瓶」1961年 とあった。
「G.Wもあと1日となったが君はいかがおすごしですか。サンデー毎日の私にとって特に変わったこともなく、小磯美術館・大谷美術館へ行って来ました。関東は雨が多いようですね。東京スカイツリーも5/26にオープンで浅草も賑やかになるでしょう。機会があれば一度行ってみたいものです。東京タワーはいったことがあります。お体に気をつけてこの5月を元気でお過し下さい。
  安かろう 危険だろうと 家で寝る(川柳) 草々」 という文面あった。
 最後の川柳はまるでこの瘋癲爺のG.W. を言っているようだ。
 
2e56b943.jpegGuerrino Ttamonti (1915-1992)
ファエンツァ生まれ。1930年代に彫刻のコンクールで受賞を重ねる。その後、ヴェネチアやローマで画家や文学者たちと交流し、絵画も手がけるようになる。'40年代末からは陶芸制作を再開させ、'52年と'55年にファエンツァ市主催の全国陶芸コンクールでグランプリに輝く。'53年からはカステッリの美術学校で、'59年からはフォッリの芸術院で教鞭を執る。'60年代に高火度による結晶釉を駆使した〈二重構造のフォルム〉シリーズを展開。さらに'60年代の終わり頃からは、ガラス釉を厚く施した色彩豊かな絵画的表現の作風へと転換し、それと並行して絵画の制作活動を盛んにおこなう。
 
 今朝ほど、宝塚にいるKS氏から、電話があり、彼もYK氏と時たま電話で連絡を取り合っているらしい。
 
東坡志林 巻三 論貧士
 俗傳書生入官庫、見錢不識。或怪而問之、生曰:“固知其為錢、但怪其不在紙裹中耳。”予偶讀淵明歸去來詞雲:“幼稚盈室、瓶無儲粟。”乃知俗傳信而有徵。使瓶有儲粟、亦甚微矣、此翁平生只於瓶中見粟也耶? 馬後紀:夫人見大練以為異物;晉惠帝問飢民何不食肉糜、細思之皆一理也、聊為好事者一笑。永叔常言:“孟郊詩:‘鬢邊雖有絲、不堪織寒衣’、縱使堪織、能得多少?”
〔訳〕《貧書生と銭》俗伝によると、ある書生が官庫に入って、銭を見たが、それが何だか呑み込めぬ様子。ある人が不審に思って聞くと、書生は
「むろん銭であることは知っていますよ。ただそれが財布の中にないのを不思議に思っただけです」
と答えたという。私はたまたま陶淵明の「帰去来の辞」に
bb0576d4.jpeg「幼稚は室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)無し」
とあるのを読み、はじめて俗語の信にしてにして徴あるを知った。仮に瓶に儲粟があったにしても、ほんのちょっぴりだったに相違なく、淵明翁はふだん瓶の中にしか粟(穀物)を見なかったのではあるまいか。「馬后記」(『後漢書』)によると、この皇后は大練をよほど珍しいものだと思っておられた。晋の恵帝は飢餓に苦しんでいる民にむかって
「なぜ肉入りの粥をくわぬのか」
といった。それらのことを細かに考えてみると、みな同じ道理である。いささか好事家の一笑にきょうしたい。
欧陽得永淑(欧楊修)がよくいっておられた。
「孟郊〔751~814年、唐の詩人〕の詩に
  『鬢辺に絲(しらが)有りと雖も、寒衣を識るに堪えず』
とあるが、たとえ識ることができたとしても、いくらもえられるものではあるまい」と。
  今朝のウェブニュースより
59c65ab2.jpeg 10万の“ホタル”川面に スカイツリーと光の競演 ―― 発光ダイオード(LED)の電球約10万個をホタルに見立て、東京の隅田川に流すイベント「東京ホタル」が6日夜、あった。川べりでは開業間近の東京スカイツリーも同時にライトアップ。光の競演に、多くの人がカメラを手に見入った。/太陽光パネルで蓄電したLEDを入れた直径8.5センチの電球を1個千円で買った人々が、隅田川にかかる言問橋付近から川面へ投げ入れた。東京都内の会社員山崎守さん(44)は「スカイツリーの青色とマッチしていて、きれい。昔田舎で見たホタルの乱舞のよう」と話した。/「川との共生」をテーマに墨田区や台東区、東京芸大などでつくる実行委員会が主催。投げ込まれた電球は川下にネットを張って回収した。 (産経ニュース 2012.5.6 20:40)
 
東坡志林 巻三 記與歐公語
 歐陽文忠公嘗言:有患疾者、醫問其得疾之由、曰、“乘船遇風、驚而得之。”醫取多年柂牙為柂工手汗所漬處、刮末雜丹砂茯神之流、飲之而愈。今本草註別藥性論雲、“止汗、用麻黃根節及故竹扇為末服之。”文忠因言:“醫以意用藥多此比、初似兒戲、然或有驗、殆未易致詰也。”予因謂公:“以筆墨燒灰飲學者、當治昬惰耶? 推此而廣之、則飲伯夷之盥水、可以療貪;食比幹之餕餘、可以已佞;舐樊噲之盾、可以治怯;齅西子之珥、可以療惡疾矣。”公遂大笑。元祐六年閏八月十七日、舟行入潁州界、坐念二十年前見文忠公於此、偶記一時談笑之語、聊復識之。
〔訳〕《欧公と語った言葉》欧陽文忠がかつてこう言われた。
「病気にかかった人があった。医者からどうして病気にかかったのかと聞かれ、船に乗っているとき風に遇い、驚いたのが元ですと答えると、医者は長年使った梶(かじ)の、船頭の手の汗の浸み込んだ部分を削り取って粉末にし、それに丹砂や茯苓(ぶくりょう)などをまぜて飲ませたら、たちまち全快したそうだ。現に『本草』の注にも『別薬性論』を引いて、汗を止めるには麻黄の根節と古い竹の扇を粉末にして服用すればよいとある」
 文忠公はさらに
「大体このように医は意を以って薬を用いることが多い。一見これはいささか児戯に類するようではあるが、案外効験のあることもあり、まんざら馬鹿にしたようなものではなさそうだ。
 そこで私は公に言った。
「では筆墨を焼いた灰を学徒に飲ませると、頭がよくなり、怠け癖がなおりましょうか。さらにこれを推し進めれば、伯夷の手を洗った後の水を飲めば貪欲が癒せるし、比干の食べ残し食えば侫奸〔ねいかん、道徳的、もしくは精神的な価値のないこと〕がやめられるし、樊噲(はんかい)の盾和をねぶれば卑怯が直せるし、西施(せいし)の耳玉を嗅げば醜い顔が美しくなれるというわけでしょうか」
 そういうと公はとうとう大笑いされた。元祐六(1090)年閏八月十七日、舟ようやく頴州に入った。ふと二十年前、文忠公にここでお目にかかったことを思い出し、偶々一時談笑の語を思い出し、いささかここに記しておく。
 
cefd479c.jpeg※丹砂や茯苓:丹砂は辰砂(しんしゃ、cinnabar)ともいい、硫化水銀(HgS)からなる鉱物である。茯苓とは、サルノコシカケ科マツホドの菌核のことを言う。漢方の生薬として用いられる。




2b085b79.jpeg※本草:『神農本草経』といい、神農氏の後人の作とされるが、実際の撰者は不詳である。365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述している。上品は無毒で長期服用が可能な養命薬、中品は毒にもなり得る養性薬、下品は毒が強く長期服用が不可能な治病薬としている。

※伯夷:周の粟をはことを潔しとせず、首陽山に薇(わらび)を采って食い、餓死した人。孟子は「聖の清なるものなり」といっている。

孟子 万章(下) より
 孟子曰:「伯夷、聖之清者也;伊尹、聖之任者也;柳下惠、聖之和者也;孔子、聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者、金聲而玉振之也。金聲也者、始條理也;玉振之也者、終條理也。始條理者、智之事也;終條理者、聖之事也。智、譬則巧也;聖、譬則力也。由射於百步之外也、其至、爾力也;其中、非爾力也。」
(書き下し文)孟子曰く、伯夷は聖の清なる者なり。伊尹は聖の任なる者なり。柳下恵は聖の和なる者なり。孔子は聖の時なる者なり。孔子はこれを集めて大成すと謂う。集めて大成すとは、金声(きんせい)して玉振(ぎょくしん)することなり。金声すとは条理を始めるなり。玉振すとは条理を終うるなり。条理を始めるは智の事なり。条理を終うるは聖の事なり。智は譬えば則ち巧なり。聖は譬えば則ち力なり。由(なお)、百歩の外に射るがごとし。その至るは爾の力なり。その中たる(あたる)は爾の力に非ざるなり。
〔訳〕孟子はおっしゃった。「伯夷は、聖人の中で清潔(潔癖)なタイプである。伊尹は、聖人の中で責任感の強いタイプである。柳下恵は、聖人の中で調和を重んじるタイプである。孔子は、聖人の中でも時代(歴史)を越えた最高の聖人である。孔子は、それらの聖人の特徴を集めて総合したような人物である。集めて総合するというのは、音楽を演奏する際に、まず金属の打楽器を鳴らし、最後に玉の打楽器を振るわせて鳴らすようなものだ。金属の打楽器を鳴らすのは、音楽の秩序を始めることである。玉の打楽器を振るわせるのは、音楽の秩序を終結させることである。音楽の秩序を始めるのは知性の仕事であり、音楽の秩序を終結させるのは聖の仕事である。知性(智恵)は譬えて言えば、技巧のようなものである。聖は譬えて言えば力のようなものである。百歩以上の距離で射撃をするとすると、的まで届くのはあなたの力であり、的に命中するのはあなたの力ではない(技巧のお陰である。)」
 
※比干・樊噲・西施:比干は淫乱な殷の紂王を諌めて殺された忠臣。樊噲〔はんかい、?~BC189年〕は漢の高祖の武将、鴻門の会で、高祖が項羽に刺されようとするのをすくおうと、とめる衛兵を盾で突き倒して中に入った。西施は、古代越の美人。
※頴州(えいしゅう):今の安徽省阜陽県。蘇軾は元祐六(1019)年に竜図閣学士から地方に出されて頴州の知事になった。その二十年前といえば、欧陽脩が退官して、頴州に隠遁した時である。
 
8f68bc59.jpeg  朝桜橋から吾妻橋を渡り向島遊歩道から言問橋を渡って帰宅。昨日・今日と言問橋-吾妻橋間で何でも「東京ホタル」というイベントが行われているらしく、隅田公園が騒がしい。今朝の歩行は携帯によると6445歩を記録していた。足が悪いということで、昨日は福岡の甥から、今朝は水門会のN氏から見舞いの電話が入った。

 今日のウェブニュースから、
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3c1d4d8e.jpeg 光で彩る隅田川 ―― 隅田川を五感で楽しむイベント「東京ホタル」が5日、隅田川を挟んだ台東、墨田両区で開かれた。/こいのぼりなどを掲げたこども船の水上パレードに続き、芸術家日比野克彦氏監修の「ひかりの神輿(みこし)」が登場。東京芸大の学生と地元の子どもたちに担がれ、陸上と水上をパレードした。このほか、「川のこどものくに」と題した紙芝居を発表した。/祭りは6日も開かれ、東京スカイツリーを点灯するほか、約10万個の太陽光蓄電の発光ダイオード「いのり星」を午後6時半から隅田川に流す。 (東京新聞 2012年5月6日)

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e5e2c9dd.jpeg 夕飯後、「東京ホタル」とは如何なるものやと、言問橋に出て、隅田公園を一巡して帰宅した。言問橋上は人波でとても川面を見ることも出来ない。それでも人波をかいくぐって、東京ホタルらしき写真を撮った。7時半スカイツリーがライトアップされたが、とても写真には撮れない。帰宅して、三階の部屋からライトアップされた写真を撮ったが、夜の撮影は難しく、ピンボケになってしまった。本日は旧暦3月16日スカイツリーの左下に十六夜の月が写っていた。
 
00c936ad.jpeg  10日程も前になるか、朝の徘徊で言問橋を東から西に向けて渡っていると、橋の中央より少し淺草よりの所で、歩道と車道の境の手摺から車道を覗き込みながら、呼び止めるご婦人がいた。近寄ってみると、手摺の真下に浅草と本所の境界を示す標識がある。戦時中の東京大空襲時の話などして、問われるままに元聖天町で塾を開いていたと答えると、「あゝ、先生ですか」ということで、そのご婦人が元塾生のTakaeさんTomomiさんの母上であることが判った。それから続けさまに3・4日間毎朝言問橋の上ですれ違うようになった。1度などは「Tomomiの北海道のお土産ですから」と昆布の詰め合わせまで頂いてしまった。
fc592ec4.jpeg 話によると現在は長野県の大町にすんでいて、もう25年間もスキーのinstructorをしているとのことである。当時の臨海学校は前期・後期とわかれ、小学4年からの参加できた。当時高1であった姉のTakaeさんと一緒に最低学年の小学4年で参加した。
 水泳練習では空に浮かぶ雲が綿菓子に見え、東京に帰ったらいっぱい綿菓子を食べたいといって、頑張ったことを覚えている。昭和46〔1971〕年の夏〔7月〕であった。
 
 一昨日、夜9時ごろ携帯に塾友のMN君からメールが入った。一に曰く、「夜分すいません:突然すいません。聖天町にいたNIさんて覚えていますか? 臨海にも参加した事があるようですが誰と同級でしょうか? Koshiと職場が同じそうで話題に上がってます。M」続いて、二に曰く、「すいません!返信有難うございます。先日sekiちゃんがお届けしたTシャツの釣愛塾で送別会をしています。Koshiとkazukoとrieに先生の携帯連絡先を教えましたので近々連絡がいくと思います。M」
 一のメールに答えて曰く、「僕のブログへもコメントが入ったことがあります。一度会いたいね。日高」
d407d60b.jpeg NIさん〔写真の最右端〕は、昭和45〔1970〕年の前期〔7月〕に小学4年で臨海学校に参加した。色白の少女で、日焼けが心配だった。当時の文集に曰く、
「塾臨 い○○○ な○○ 塾臨へ行った。静岡県に行った。/はじめて海を見た時、素晴しいと思った。初めて泳いだ時はこわかった。けれども、だんだん慣れてきて、泳ぐのがおもしろくなった。午前中はたくさん泳ぐので、昼食がおいしかった。昼寝はなかなか寝つかれないので友だちとしゃべっていた。夜はキャンプファイヤーやフォークダンスをやって面白かった。床にはいると、泳ぎつかれているので、三分もたたにいうちらぐっすり眠ってしまう。/五日目ぐらいになると、ひぶくれができて、皮がむけるので、痛くて痛くて、おふろにもはいれない。そのうち、だんだんかゆくなってきた。/終わりに近づくにつれて、すいかわりや水上運動会などがあり楽しかった。すいかわりは柴野君がわった。水上運動会は白組が優勝した。わたしも白組だ。優勝チームはコカコーラ、二位はカルピス、三位は麦茶、四位はただの水で乾杯した。/コンパも面白かった。高校生たちは、こわい話をするので、こわくて、トイレにも行けなかった。/十日間がとてもみじかくかんじた。」
 以前、僕のブログに彼女のコメントが入り、家族で西伊豆を訪ねたということで、メールで長松寺〔臨海の宿舎〕の写真を送ってきたことがある。
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b7ee748f.jpeg  どうも、詩の一部を取り出して表記するのはなんとも中途半端で、あんまり感心しない。昨日のブログで取り上げた李白の「梁園吟」の全文を取り上げることにした。
 天宝三載(744年)の春、李白は長安を辞して東に向かう途中、洛陽に立ち寄る。都で著名の詩人が洛陽に来たというので、杜甫は李白を訪ねたという。杜甫は李白の強烈な個性に魅せられ、李白と共に旅をしたいと思うが、丁度そのとき、杜甫の祖母が亡くなり、秋になったら陳留(河南省開封市)で再会しようと約束して別れる。李白の「梁園吟」は、長安を去り、梁園に至ったときの作という。秋八月になって杜甫が李白のあとを追うと、李白はすでに宋州(河南省商丘市)に移っていたという。杜甫は宋州で李白と再会し、そのころ近くを旅していた高適(こうせき)も加わって三詩人の梁宋(りょうそう)の旅がはじまったという。
 
  梁園吟  李白
我浮黄河去京闕  我黄河に浮かんで京闕を去り    
挂席欲進波連山  席(むしろ)を挂けて進まんと欲すれば波山を連ぬ
天長水闊厭遠渉  天は長く水は闊くして遠渉に厭き
訪古始及平臺間  古を訪うて始めて及ぶ平臺の間
平臺爲客憂思多  平臺に客と爲りて憂思多く
對酒遂作梁園歌  酒に對して遂に作る梁園の歌
却憶蓬池阮公詠  却って憶ふ蓬池の阮公の詠
因吟緑水揚洪波  因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを
洪波浩蕩迷舊國  洪波 浩蕩 舊國に迷ひ
路遠西歸安可得  路遠くして西歸安んぞ得る可けんや
人生達命豈暇愁  人生命に達すれば豈に愁ふるに暇あらん
且飲美酒登高樓  且らく美酒を飲まん高樓に登りて
〔訳〕わたしは黄河の舟に乗って都の関〔潼関:陝西省東端〕を去り、
   むしろの帆を揚げて進もうとすると波は山に連なる。
   空ははるかに水は広く遠い旅行にあきたが
   古蹟を訪うてはじめは平台〔梁の孝王の離宮〕のあたりに着いた。
   平台に旅人となってうれいは多く
   酒にむかってとうとう梁園の歌を作った。
   蓬池の阮籍先生の詠を思い出し
   「清らかな水は大波を揚げ」とうたう。
   大波はひろびろとしてこの古の梁国で迷い
   路は遠く西に帰ることもできそうもない。
   人の生きるのは天命だとさとれば愁える暇もなく
   ひとまずうまい酒を飲もうて高楼にのぼる。
※阮籍先生:晋の詩人阮籍の「詠嘆」に「徘徊蓬池上、還顧望大梁。淥水揚洪波、曠野莽茫茫」とある。
 
平頭奴子搖大扇  平頭の奴子大扇を搖るがし
五月不熱疑清秋  五月も熱からず清秋かと疑ふ
玉盤楊梅爲君設  玉盤の楊梅 君が爲に設け
呉鹽如花皎白雪  呉鹽は花の如く白雪よりも皎し
持鹽把酒但飲之  鹽を持ち酒を把って但だ之を飲まん
莫學夷齊事高潔  學ぶ莫かれ夷齊の高潔を事とするを
昔人豪貴信陵君  昔人豪貴とす信陵君
今人耕種信陵墳  今人耕種す信陵の墳
荒城虚照碧山月  荒城虚しく照らす碧山の月
古木盡入蒼梧雲  古木盡(ことごと)く入る蒼梧の雲
粱王宮闕今安在  粱王の宮闕今安くにか在る
枚馬先歸不相待  枚馬先づ歸って相ひ待たず
〔訳〕平頭巾のボーイが大団扇であおぎ
   夏の五月も暑くなく秋が来たかとおもう。
   玉の平鉢に盛ったヤマモモはきみのためにあつらえた
   また呉の塩は花のようで白さは雪のよう。
   塩をつまみ酒をとりあげひたすらにのみ
   伯夷・淑斉のまねをして高潔なふりをするな。
   昔の人で豪貴だったのは信陵君なのだか
   今の人間はその墳(つか)を耕している。
   荒城はむなしく碧山の月が照らし
   古木はすべて蒼悟の山の雲に隠された。
   梁王の宮殿はいまどこにあるのか
   枚乗(ばいじょう)も司馬相如も帰ってしまった。
※呉の塩:今の江蘇省あたりで作った塩。酒の肴となる。
※伯夷・淑斉:殷末の伯夷・淑斉の兄弟は周の粟は食わないといって餓死した。
※信陵君:戦国時代の魏の公子無忌。その墓は凌儀県〔今の開封市〕にあった。
※枚乗も司馬相如も:原文では「枚馬」。枚乗(ばい じょう、生没年不詳)・司馬相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)ともに梁の孝王に仕えた文人で、王の死後郷里に帰った。
※汴水:開封のあたりを流れる淮水の支流。開封を汴京と称したことあるのはこのため。
 
舞影歌聲散淥池  舞影 歌聲 淥池(ろくち)に散じ
空餘汴水東流海  空しく餘す汴水の東にかた海に流るるを
沈吟此事涙滿衣  此の事を沈吟して涙衣に滿つ
黄金買醉未能歸  黄金もて醉を買ひ未だ歸る能はず
連呼五白行六博  五白を連呼し六博を行ひ
分曹賭酒酣馳輝  曹を分かち酒を賭して馳輝に酣(ゑ)ふ
酣馳輝          馳輝に酣ひて
歌且謠          歌ひ且つ謠へば 
意方遠          意 方に遠し
東山高臥時起來  東山に高臥して時に起ち來る
欲濟蒼生未應晩  蒼生を濟はんと欲すること未だ應に晩からざるべし
〔訳〕かつての舞も歌も淥池にあとかたもなく
   あだに残っているのは東に流れて海に入る汴水だけだ
   このことをよく思えば涙は衣をぬらすので
   黄金で酒の酔いを買ったが未だ家には帰れない。
   「五白だ、五白だ」といって博奕(ばくち)をし、
   組を分け酒を賭け熱中して時間をすごす。
   歌い歌って、行く末のことを思う。
   東山に高臥し時を見て立ち上がり
   人民を救おうとしてもまだ遅すぎるはずはない。
 
 東坡志林 巻二 記道人戲語
 紹聖二年五月九日、都下有道人坐相國寺賣諸禁方、緘題其一曰:賣「賭錢不輸方」。少年有博者、以千金得之。歸、發視其方、曰、「但止乞頭。」道人亦善鬻術矣、戲語得千金、然亦未嘗欺少年也。
3ca75dae.jpeg〔訳〕《道人の戯語》紹聖二(1095)年五月九日。都に一人の道人がいて、相国寺に坐っていろいろなマジナイの秘法を売っていたが、その一つに「賭博(ばくち)に絶対負けぬ法」と封筒の表に書いてあるのがあった。一人の賭博ずきの若者がそれを千金で買い、帰ってから中を開けてみると、それには、
「ただ乞頭(きっとう)をやめよ(賭博をするな)。」
と書いてあった。この道人、商売の術にもたけていたのだ。戯語によって千金を儲けたのだが、しかし決して若者をだましたわけでもなかったのである。
 
4889d25a.jpeg※乞頭:「唐国史補〔李肇他著〕」に拠れば「什一而取、謂之乞頭〔什一にして取る、これを「乞頭」と謂う〕」とある。十分の一を取ることを「乞頭」ということらしい。すなわち、賭博に於ける『寺銭』のことらしい。寺銭とは博打の主催者が売上から抜く手数料の事で、昔はお寺が博打の主催者となっていた為、寺銭と言う名前がついたという。
※李白は天宝三載〔744年〕長安を去って、梁園〔漢の初め、梁の孝王の庭園〕のあった今の河南省開封市にいたり、「梁園吟」をつくっている。この最後九句の部分より、
 
  梁園吟  李白   〔後 九句〕
舞影歌聲散綠池  舞影 歌聲 綠池に散じ
空餘汴水東流海  空しく餘す汴水の東のかた海に流るるを
沈吟此事涙滿衣  此の事を沈吟して涙衣に滿つ
黄金買醉未能歸  黄金もて醉を買ひ未だ歸る能はず
連呼五白行六博  五白を連呼し六博を行ひ
分曹賭酒酣馳輝  曹を分かち酒を賭して馳輝に酣(ゑ)ふ
酣馳輝        馳輝に酣ひて
歌且謠        歌ひ且つ謠へば 
意方遠        意 方に遠し
東山高臥時起來  東山に高臥して時に起ち來る
欲濟蒼生未應晩  蒼生を濟はんと欲すること未だ應に晩からざるべし
7b0dc00c.jpeg〔訳〕舞姫の舞いも歌声も綠池に消え去り、
今はただ汴水が空しく東に流れていくだけ、
このことを思うと涙があふれて衣をぬらす、
金をはたいて飲み続け、帰るのはやめよう
五白の掛け声を連呼し六博の博打を楽しみ、
二手に分かれて酒を賭け馳せ行くときの間に酔う、
時の間に酔い、歌いかつ謡えば、心ははるかかなたにさまよい出る
しばらく東山に臥せて時がきたら立ち上がろう、
世の民を救おうとするこの気概はまだまだ捨てたものではない
 
李白は長安を追放されるや、船に乗って黄河を下り、東へと向かった。その途次洛陽で杜甫と出会ったのは有名な話だ。その後二人は行動を共にして、更に黄河を下っていった。この詩は洛陽の下流、開封近くにある梁園に立ち寄った際の作。梁園とは前漢の文帝の子梁孝王が築いた庭園。詩にある平臺は梁園にあり、また阮籍は梁園付近の蓬池に遊んだ。李白はそうした史実を引用しながら、過去の栄華と今日の歓楽、そして未来への思いを重層的に歌い上げている。李白が誰と飲んでいるのかは定かではないが、杜甫である可能性は高いという。李白はその男と酒を酌み交わしながら、長安への後髪引かれる思いを吐露しつつ、機会があったらもう一旗あげようとする抱負を歌いこんだものであろう。
 
 東坡志林 巻一 措大喫飯
 有二措大相與言志、一云:「我平生不足惟飯與睡耳、他日得志、當飽喫飯、飯了便睡、睡了又喫飯。」一云:「我則異於是、當喫了又喫、何暇復睡耶!」吾來廬山、聞馬道士嗜睡、於睡中得妙。然吾觀之、終不如彼措大得喫飯三昧也。
〔訳〕《貧書生と飯》二人の貧書生がそれぞれ理想としていることを語り合った。一人が言った。
「私はかねがね不足に思っているのは飯と睡眠だけだ。いつか志を得たならば、腹一杯飯を食って睡り、睡ったらまた飯を食うようにしたいものだ」
 もう一人は言った。
「私はそれとちがう。飯を食った上に又食いたいな。睡るひまなんかありはしない」
 私は廬山に来て、馬(ば)と言う道士がよく睡り、睡りの中に妙境を得ているという話を聞いた。しかし、私から見れば、ついにかの貧書生が飯食い三昧を得ているのには及ばないと思う。
 
東坡志林 巻一 記六一語
 頃歲孫莘老識歐陽文忠公、嘗乘間以文字問之、云:「無它術、唯勤讀書而多為之、自工。世人患作文字少、又嬾讀書、每一篇出、即求過人、如此少有至者。疵病不必待人指擿、多作自能見之。」此公以其嘗試者告人、故尤有味。
〔訳〕《六一居士の語》最近、孫莘老(そんしんろう)が王陽文忠公の面識を得、ある日、公のおひまな時をうかがって文章に上達する法をたずねたところが、公はいわれた。
「特別に術はない。ただ読書に勤め、そして沢山作れば自然に上手になる。世間の人々の欠点は文章を作る量が少なく、しかも読書を怠っていることだ。そのくせ一篇を発表するごとに人を凌いでやろうと考えている。それでは先ず良い文章はできない。文章の欠点は人から指摘されなくても、沢山作れば自然にみえてくるものだ」
 文忠公はご自分の体験をはなされたのであって、だからこそ特に味わいが深いのである。
 
※歴史上はじめて号を用いた人物は、中国北宋の欧陽修とされる。一万巻の蔵書・一千巻の拓本・一張の琴・一局の碁・一壺の酒・一人の居士ということから「六一居士」と号した。それ以降、名だたる文人がこれに倣ったという。名や字と異なり、自身で名付けたり、他人によって名付けられる。現在では使用目的に応じ、筆名、雅号、画号、俳名、芸名、源氏名、狂名、候名などがある。わが号の『拙痴无』などはまず狂名というべきか。
 欧陽 修(おうよう しゅう、歐陽脩/欧阳修、1007~1072年)は、北宋の仁宗~神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。
 
※孫莘老:孫覚 (1028~1090年)といい、莘老は字。高郵(現江蘇省揚州市近郊)の人で、北宋初期の文学者にして教育家の胡瑗(こえん、993~1059年)に学び、進士に及第。以後さまざまな要職を歴任した。王安石とも文学的才能を認め合って親交があったが、その政治的意見は異なり、とくに「青苗法」には激しく反対したという。また孫莘老は黄庭堅の「外舅」つまりは岳父である。
「孫莘老寄墨四首」は、蘇軾が孫覚(そん・かく)から墨を送られた喜びをうたった詩である。その一首目を記しておく。
 
徂徠无老松 徂徠(そらい)に老松(ろうしょう)无(な)く、
易水无良工 易水(えきすい)に良工无(な)し
珍材取楽浪 珍材を楽浪(らくろう)に取るも、
妙手惟潘翁 妙手は惟(た)だ潘翁(はんおう)
魚胞熟万杵 魚胞(ぎょほう)は万杵(まんしょう)に熟し、
犀角盤双龍 犀角(さいかく)は双龍を盤(ばん)す
墨成不敢用 墨(すみ)成(な)って敢えて用いず、
進入蓬莱宮 進んで入る蓬莱宮(ほうらいきゅう)
蓬莱春昼永 蓬莱(ほうらい)の春昼(しゅんちゅう)永(なが)く、
玉殿明房槞 玉殿(ぎょくでん)明房(めいぼう)の槞(ろう)
金箋洒飛白 金箋(きんせん)は飛白(ひはく)を洒(ふる)い、
瑞霧萦長虹 瑞霧(ずいむ)に長虹の萦(めぐ)る
遥憐醉常侍 遥(はるか)に憐(あわれ)む醉常侍(すいじょうじ)、
一笑開天容 一笑(いっしょう)して天容を開く
d8de86e2.jpeg〔訳〕魯の国に良質な松烟の材料となる老松は尽きてしまい、
   易水の優れた墨工もいなくなってしまった
   楽浪(高麗)からもたらされた珍しい材料(高麗墨)があるが、
   それを上等な墨に仕上げることが出来るのは潘谷だけである
   魚胞から取った膠を用い、杵で万回もついて成熟させ、
   硬い犀角に彫った双龍がとぐろを巻いている
   墨が出来ても敢えて使う事はせず、
   そのまま蓬莱宮へ納められるのだ
   宮廷の春の昼中はとても永(なが)く、
   金殿玉楼の部屋の窓には明るい光が差し込んでいる
   金箔を張った紙に飛白の書を揮毫すれば、
   神々しい霧が立ち込めて長い虹がかかるようだ
   〔都を追われて〕飲んだくれている、
   〔かつてのあなたの〕近臣を憐れと思し召し、一笑に付してお許しください
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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