爺のブログにコメントを下さったShinさんから始めてのメールが入った。神奈川県の国立大学で思想史(経済思想、日中近代思想史、儒学)を専門分野とされて教鞭をとられる中国の方のようだ。
インターネットで調べてみると、研究内容 は、
『儒学における「義」と「利」、ならびに「公」と「私」の関係をどのように把握すべきか。これは現代の経済人を悩ませている重要な課題でもある。とりわけ、つい最近起きた有毒餃子などの食品安全の問題に関連し、経済倫理の問題は古くから問われつづけてきた課題であるにもかかわらず、研究者による新しい視座の提示が期待される。 しかし、上記の不正事件の多発は、単に経済人(個人、企業団体)自身のモラルの問題にとどまらず、政治・社会体制とかかわりあう重要な課題であると思う。そして社会体制における「官」と「商」の関係、政府と民間、個人と団体、国内と国外の関係等がすべて、経済人がいかに「義」と「利」、「公」と「私」の関係を処理するかによって決められる。それゆえ、本研究は歴史を問う視座によって、日中両国における経済人の「義・利」「公・私」の観念を再考し、経済倫理の問題を考えたい。』とのこと。
爺のブログにこんな方からコメントが入るとは誠に恐縮。早速、返信メールを入れた。すぐに再返信が届き、お年が37歳であることが分かった。いやはや、かなり年配の方と思っていたのに、あまりにもお若いので吃驚仰天。
昼食後、花川戸のクロネコに立ち寄り、吾妻橋を渡って浅草通りを京成橋まで西進し、京成橋を渡ると、桜橋通りを東進、桜橋を渡って帰宅した。
隅田公園の梅園では白梅も咲き始めた。
王安石の「梅花」の訳:
垣根の隅の梅の数本の枝が、
寒さをついて花を咲かせている。
遠くからでもその白い花が雪でないとわかるのは、
ほのかな香りが漂ってくるからだ。
頭の体操2の解答)儂は明らかに20世紀の産物。したがって儂の生まれた年の最初の2数は19、つまり1900年台生まれである。残った数字は2倍すると64になるはず。つまりこの数は32ということになる。儂の年齢は32であった。お祖母(ばば)は言うまでもなく19世紀生まれで、彼女生まれた年の最初の2数は18、残りの2数字は2倍すると164になる数である。つまりこの数は82ということになる。
結局、儂は1932(昭和7)年生まれで1964年には32歳であり、
お祖母は 1882(明治16)年生まれで1964年には82歳であったことになる。
スカイツリーを眺めながら、問題を考えてみた。できることなら頭の中だけで考えて欲しい。
頭の体操3)たたみ半畳(はんじょう)は半間(はんげん、約90㎝)真四角。半間を90㎝として考えてね。いま一辺が1mmの正方形を帯状に1列に並べてたたみ半畳と同じ広さにするとこの帯の長さは何mになるのだろ。まさか、スカイツリーの高さより長いということはないだろうね?
科挙は中国の王朝成立時は人材を集めるために効果的であったといわれるが、王朝が安定してくると弊害が多かったとされている。唐時代までは上手(うま)く機能していたが、宋代になると受験者のレベルが高くなり、多くの優秀な人材が試験のために人生を無駄にしていたといわれる。科挙の範囲が儒学中心だったので科学技術の発展が停滞した原因ともなった。科挙出身者は保守的な考えを持つものが多く、外国の文化を拒絶したり革新的な考えを持っていた宦官と対立していた。よって、最終的には科挙を巡る不正が顕著となり清末に廃止されたという。
共通一次試験というのは、現在のセンター試験の前身である。1979年から1989年まで行われていた。この共通一次試験はやがては廃止されるだろうと予測した人もかなりいたと思うが、共通一次試験があれだけ大規模に行われていたということは、試験事務を担当する役人が沢山いてポストが沢山あるということだ。役人が一旦出来たポストを手放すとは思えない。ポストがあればそのための仕事を無理にでも作り出すのが役人というものである。果たして1990年からセンター試験と改称されて、続けられている。「大学入試センター」という立派な役所が出来上がり、今は「独立行政法人」だという。ふつうの役所とどう違うのか? その役所でしかるべきポストに就いているお役人には仕事が必要だ。「センター試験」とはよく言ったものだ。入試センターを失くせないのだから、試験が失くなる筈がない。
こんな無意味なセンター試験を行う「大学入試センター」なんていうものは現代の科挙ともいうべきもの、いの一番に事業仕分けしてもらいたい。
爺の枕元に暫く置くことにした。
頭の体操1の解答)この問題の要点は父親の1人がもう一人の父親の息子であるということである。全部で4人ではなくて3人である。すなわち、祖父さまと息子と孫なのである。祖父さまが息子に5000円を与え、息子がそのうち3000円を孫(すなわち自分の息子)に与えた。したがって彼の所持金は2000円だけ増したに過ぎないのである。
はてさて、こんなことってあるのだろうか? はてさて、儂が兼愛塾を始めたのは何歳だったのか? そして、この時祖母さまの歳は幾つだったのだろう。
今日のウェブニュースより
センター試験に変化の兆し、慶大が来年撤退へ ―― 22回目となったセンター試験。利用校は増え続け、今年も過去最高を更新し800校余りが参加したが、来年から主要大学では初めて慶応大が“撤退”するなど変化の兆しも出ている。/「正直に言ってショック」。大学入試センターの担当者が話す。慶大は、第1回から参加していた私大16校の一つ。だが、2006年度入試の医学部(英語)に続き、来年度入試から法学部と薬学部でも利用を取りやめて全学部から「センター利用受験」が消える。/ 慶大の担当者は、「優秀な学生の獲得を目指し、独自の特色ある入試を導入する」と説明する。「センター試験のレベルでは、難関大を目指す層では差がつきにくい」(塾関係者)との指摘も出ており、こうした点に不満を持つ有力大学に撤退の動きが波及する可能性もある。 (2011年1月16日 読売新聞)
内閣改造では政策実行力に不安、財政再建期待織り込めず ―― [東京 14日 ロイター] 14日午前の東京市場は小動き。菅直人首相の第2次内閣改造で、たちあがれ日本を離党した与謝野馨氏の経済財政相起用が濃厚となり、財政再建路線色が強くなるとの見方が出ているが、同時に内閣の政策実行力を疑問視する声も多い。/野党の対決姿勢が強まり「ねじれ国会」の混迷が続くとみられており、円債市場では財政再建期待を織り込めていない。株式市場が期待する環太平洋連携協定(TPP)への参加などに漕ぎつけることができるかマーケットは冷静に見ている。
<内閣改造、株式市場ではお手並み拝見の姿勢>:日経平均は反落。予想外に増加した米新規失業保険申請件数などを嫌気し米株が反落したことで高値警戒感からの利益確定売りが先行した。スペインとイタリアの国債入札はおう盛な需要が見られ無難に通過したが、その前日に行われたポルトガルの国債入札が順調だったことである程度織り込まれていおり、ポジティブな反応は限られた。欧州からまとまった買いが観測され底堅かったが、日本の内閣改造を材料に上値を買う向きも乏しくマイナス圏での推移となっている。/バークレイズ・キャピタル証券・株式ストラテジストの高橋文行氏は内閣改造について「目玉はやはり与謝野馨氏の入閣だろう。他の人事は横滑りがほとんでインパクトがない。財政再建派と目される与謝野氏が閣内でどのような手腕を発揮するかがポイントとなるが、今年は統一地方選挙もあり、前回参議院選挙のことを考えれば、消費税増税を含めた財政再建路線を打ちだすのには慎重になろう」と述べている。/財政再建路線は株式市場にとって短期的なマイナス要因となる可能性があるが、現時点では政策運営の実行力を疑問視する声も多く、特段材料視はされていない。/クレディスイス証券・チーフエコノミストの白川浩道氏は、財政再建とTPP重視は評価するとしながらも「政治が安定しなければ、政策提案は絵に描いた餅に終わる。いわゆる衆参のねじれ状態により、国会運営は極めて厳しいものになることが予想される。予算関連法案のみならず、予算そのものすら成立が危ぶまれる。子ども手当てや農家戸別所得補償に関する与野党の溝も深い。足元の政策運営すらおぼつかない状況で、消費税増税のような大きな問題を本当に議論できるのか、甚だ疑問である」と厳しい見方を示している。
<財政再建路線への期待、現時点で織り込めず>:一方、財政再建路線がとられればポジティブ要因となるはずの円債市場でも反応は限定的だ。市場では「(与謝野氏は)財務省寄りで財政健全化の方向だろうが、結局、予算関連法案がすんなり通るのかどうかの道筋が、はっきりしない」(前出の外資系金融機関)との声が多い。/みずほインベスターズ証券の落合昂二・チーフマーケットエコノミストは「財政再建の意気込みは感じられるが、現政権での実現性は非常に疑問。ねじれ国会で実現可能かどうか、そもそも国民の信を問わずに増税ができるのかどうか、政局も絡んでくるので見通し難い」と指摘。「財政再建の実現性が高まれば買いやすくはなるが、財政再建へのハードルは高い」と話した。/一方、大和住銀投信投資顧問の奥原健夫・債券運用部ファンドマネージャーは「与謝野馨氏の入閣がプラスに寄与するか否かもわからない。国民新党からも不満が出ている。自民党は与謝野氏と対決路線を強めるだろう。環太平洋連携協定(TPP)について国内産業・農業を守るという点で攻めやすくなるし、増税についても足並みをそろえないだろう」とみている。/円債市場では国債先物が反発。一方、現物国債の流通利回りは、残存5年から20年ゾーンにかけて利回り格差が広がり、金利曲線はスティープニングする形状となった。/一部の投資家が、先物価格の値上がりに伴い、(先物ゾーンと10年ゾーンで利益確定の売りを出し、これまでの取引を清算していた」(外資系金融機関の債券ディーラー)ため。市場には(来週の20年物国債入札を控えた調整売りが出ていた」(国内証券)との指摘もあった。
<欧州のインフレ警戒、ユーロ上昇):ドル/円は82円後半で行着。単体では大きな動きはみられなかったが、水準感からユーロ/円に輸出企業の売りが出てドル/円の上値を押さえたため、上値の重さが意識された。ユーロ/ドルは海外市場での上げが一服。利食い売りで緩やかに1.33ドル前半に水準を切り下げた。ただ、トリシェ欧州中銀(ECB)総裁発言をきっかけに、新たなユーロのテーマとしてインフレが浮上しており、ユーロの下値不安は後退しているという。日本の内閣改造による影響は限定的とみる声が多い。/欧州中央銀行「ECB」のトリシェ総裁は、13日の理事会後の定例会見で「全般的なインフレに関する短期的な上方圧力を示す証拠を確認している」と発言。市場では「利上げに向けて一歩前進」(別の国内金融機関)との声が聞かれ、ユーロの買い戻しにつながった。/市場では、ECBが3つの問題のせめぎ会いの中にいるとの指摘が出ている。ソブリンリスクや金融システム問題への対応では潤沢な資金供給や金利の低位安定が必要だが、これによって先行きのインフレ加速の可能性も出てくるという。/伊藤忠商事チーフエコノミストの中島精也氏は「欧州は、昨年後半にはすでにインフレを明確に意識していた。ドイツの景気回復が鮮明で地価も上がるところが出てきており、デフレを意識する日米とは対照的だ。景気テコ入れのための一段の緩和という選択肢はECBにはありえない」と指摘。一方で、ソブリン問題や金融システムリスクの対応のためには現在の緩和スタンスを後退させることも難しいとして「ECBが焦点を合わせているのはドイツでも周辺国でもなく、アベレージ。結局、現行の政策が長期化するのではないか」(中島氏)とみている。/トリシェ総裁発言で、ドイツ連邦債2年物利回りは海外市場で1.114%と、12月下旬以来の水準に上昇した。しかし「欧州の金利が継続的に上昇していくとはみていない。ソブリンリスクが収まらないなかですぐに利上げすれば、経済がクラッシュする。ユーロの下値リスクは後退したが、上値は精々1.3450ドル程度だろう」(国内金融機関)との声が出ている。
(ロイター日本語ニュース 金融マーケットチーム」――2011年 01月 14日 13:02 JST
孔子が東のほうに旅行した時のこと、二人の子供がひどく口喧嘩しているのを見かけたので、其の理由(わけ)を訊ねた。すると一人の子供が言った。
――僕は太陽が出たばかりの時には、僕達からは近く、真昼になると遠いとかんがえるんだ。
ところがもう一人の子供は、「太陽が出たばかりの時は遠いが、真昼になると近い」と考える。
はじめの子供はさらに説明して言った。
――太陽が出たばかりの時には、車の傘(車蓋、しゃがい)ほども大きさがある。ところが真昼になると、鉢か椀ぐらいの大きさだ。これこそ遠くのものは小さく見え、近くのものは大きく見えるということではないの?
もう一人の子供は説明して言う。
――太陽は出たばかりの時には、ひんやりして涼しい。ところが真昼になると、湯の中に手を入れているように熱い。これこそ近いところは熱く、遠いところは涼しいということではないの?
その喧嘩を聞いた孔子はどちらが正しいともきめかねた。それを見て二人の子供は笑っていった。
――お前さんを物知りだなんて言ったのは、何処(どこ)の何奴(どいつ)だ。
(『列子』湯問篇第五より)
頭の体操1) ある父親が自分の子供に5000円のお年玉を与え、もう一人の父親は自分の子供に3000円のお年玉を与えた。ところが、この2人の子供たちの所持金は合計して5000円増加しただけだったと言う。はてさて、これをどのように説明できるかな?
答えは、次回に。
1.「貧乏神出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!」と木柱の上部を棒で思いっきり3回叩く。/2.同じように木柱の下部を3回蹴飛ばす。/3.的に向かって豆を思いっきり投げつける!! /4.拝む
ここから、亀戸七福神めぐりをして横十間川にでることができるので、七福神めぐりをしながら歩いて帰宅することにした。
①常光寺:曹洞宗の常光寺は、西帰山と号し、江戸六阿弥陀巡礼6番目の霊場という。江戸を出て最初の巡礼地として栄え、「新編武蔵国風土記稿」に「本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これを六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多い」と記載されているという。現在は、亀戸七福神の寿老人として親しまれているという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名した。現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に執り行われている。 以来、益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、神徳が四方に及んだので、葛飾神社香取太神宮と称えるに至ったという。(当時の葛飾は下総国の大半を意味する) 元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている。元々本社の相殿に大国主神が奉仕されていたが、明治年間に至り、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内に鎮祭された。
『普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。(江東区教育委員会掲示による)
⑥龍眼寺(萩寺):「応永2年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。/その後現在の「龍眼寺」と改められた。/御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。」(境内掲示より)
「龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。/また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」(江東区掲示より)
この妙泉寺に貧乏神の像があるというので訪ねてみた。昼飯後に松屋前から東西めぐりんで谷中清水町公園まで行く。ここから訊ね歩いて妙泉寺へ。
妙泉寺から5・600mほど浅草よりに淨名院という寺を訪ねてみた。寛文6(1666)年に建立されたというこの寺院には石の地蔵が境内いっぱいに並んでいる。嘉永年間、第36代妙運和尚がインドの阿育(アショカ)王八万四千法塔の故事にならって地蔵尊建立を発願したのが始まりという。現在は約20000体を数えるという。
「禍(わざわい)に因(よ)りて福(ふく)と為(な)す。成敗(せいはい)の転(てん)ずること、譬(たと)えば糾(あざな)える墨(ぼく)の若(ごと)し。」(史記 南越列伝)というではないか。
津村 淙庵(つむら そうあん、1736~1806年、江戸時代中期の江戸の町人で、歌人、国学者)の随筆『譚海』には、『昔ある者が家で昼寝していると、ぼろぼろの服の老人が座敷に入って来る夢を見て、それ以来何をやってもうまくいかなくなった。4年後、夢の中にあの老人が現れ、家を去ることを告げ、貧乏神を送る儀式として「少しの焼き飯と焼き味噌を作り、おしき(薄い板の四方を折り曲げて縁にした角盆)に乗せ、裏口から持ち出し川へ流す」、今後貧乏神を招かないための手段として「貧乏神は味噌が好きなので、決して焼き味噌を作らない。また生味噌を食べるのはさらに良くないことで、食べると味噌を焼くための火すら燃やせなくなる」と教えた。その通りにして以来、家は窮迫することがなくなったという。』という話が出ている。
日本の貧乏神は味噌が好物で、団扇を手にしているのはこの味噌の芳香を扇いで楽しむためとされている。薄汚れた老人の姿で、痩せこけた体で顔色は青ざめ、手に渋団扇を持って悲しそうな表情で現れるが、どんな姿でも怠け者が好きなことには変わりないとされる。家に憑く際には、押入れに好んで住み着くという。
中国の伝説によれば、古代の帝高辛(上古中国神話上の帝王 嚳)のとき、宮中に生まれた子がいつもぼろぼろの着物を着たがったので、「窮子」(貧乏人の子)という渾名がついた。これが貧乏が身になったのだという。窮子の命日は正月の晦日といわれたので、この日になると何処の家でも窮神をお送り出すための大掃除わし、不用の物を棄てたという。唐代ではこの行事が特に盛んで遇ったらしい。
貧乏神をおくりだすのだが、一向に出て行かぬが、そんなにまとわりついてどうするつもりだ。/ここは今お役人様のお屋敷なんだぞ、一体何時までこしをおちつけるつもりなんだ。
昔の人はみな別れを惜しんだものだが、この別れだけはがっかりするのが恨めしい。/こちらがただみおくるばかりで、何年経っても先方はでてゆかぬ。
気温は少々低いが、天気は上々。爺は手袋や襟巻は大きらい。中袖のシャツ1枚の上にジャンパーを羽織っただけだが、山谷堀公園を抜ける頃は背中が汗ばんでくる。この当たりは朝の徘徊でも時々通るところなので、地図はほとんど必要なし。
ホテルや飲食店が密集する中にこぢんまりとした境内があり、社殿は飲食店などがある建物の上の人工地盤上にある。いかにもコンクリートの街の神社という感じのたたずまいで、木立が茂る一般的な神社のイメージは全くない。
下谷七福神のひとつ寿老神を祭っていることから参詣者が多い。
① 初候: 芹乃栄(せり すなわち さかう) : 芹がよく生育する(日本)。雁北郷(かり きたにむかう) : 雁が北に渡り始める(中国)
② 次候: 水泉動(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(日本)。鵲始巣(かささぎ はじめて すくう) : 鵲が巣を作り始める(中国)
③ 末候 : 雉始雊(雉 はじめて なく) : 雄の雉が鳴き始める(日本)。野鶏始雊(やけい はじめて なく) : 雄の雉が鳴き始める(中国) とある。
本日1月7日は人日(じんじつ)。人日とは、五節句の一つで、七種粥を食べることから七草の節句ともいう。因みに五節句とは人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)をいう。
古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたという。
また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われている。
14世紀の南北朝時代に、「四辻の左大臣(よつつじのさだいじん、本名は四辻善成)」が源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で七草のことを記載している。それが後年、よく知られる「せりなずな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」 の歌になって広まったことにより、「春の七草」の7種の草とその読み並べ方が定着したといわれている。
今日のウェブニュースより、
汝陽王(じょようおう)は三斗の酒を飲んでからやっと朝廷にお出ましだ。途中で麹(こうじ)車とすれ違うと口から涎をだらだら流す。彼は酒泉の領主に換えて貰えないのを残念がっている。
左大臣(左丞相、李適之・りてきし)は毎日の酒宴のために万という金を使っている。まるで大鯨が川という川の水を飲み干してしまうように飲み、杯を口にしながら聖人のような清酒がよくて賢人のような濁酒(どぶろく)は好かないという。
崔宗之(さいそうし)はとても垢抜けした美少年だ。杯を揚げ白眼ではるかの青空をにらむ。すっきりした彼の姿は見事な樹木が風に吹かれているようだ。
李白は一斗の酒を飲む間に詩を百篇作る。いつも長安の街の酒屋で眠ってしまう。天子のお召しがあっても船に乗らないで、「私は酔いどれ仙人です」と自分から言っている。
張旭は三杯飲んでから書く、草書の聖人といわれている。いざ筆を揮って紙の上に書き始めると雲や煙が湧き起るようだ。
焦遂は五斗飲むとやっとしっかりしてきて、素晴しい話と雄弁は満座の人人を驚かせるばかりだ。
飲中八仙歌に歌われた八人の人物について調べてみた。
② 汝陽王李璡(りしん、?~750年): 玄宗の兄である寧王李憲の子で、皇族の一人。杜甫の庇護者であった。
③ 左大臣: 左丞相 李適之(りてきし、?~746年)のこと。皇族の一人で742年、左丞相についたが、746年4月、時の宰相李林甫(りりんぽ、? ~752年)に排斥され、翌年正月に毒を仰いで自殺した。
④ 崔宗之(生没年不詳): 宰相 崔日用(さいじつよう)の子で、父の封爵である斉国公を継ぎ、侍御史になった。李白の友人である。
⑥ 李白(701~762年): 言うまでもなく盛唐期の杜甫と並ぶ詩人。酒仙として逸話は当時からよく知られている。「天子呼来不上船」の一句は李白が玄宗の宮廷に入って翰林供奉の官を授けらたが、一日玄宗が白蓮池で舟遊びをしたとき、李白を召して文を作らせようとしたところ、泥酔していた彼は高力士に助けられて漸く船に上ることができたという。范伝正の「李公新墓碑」に見えるエピソードである。
⑦ 張旭(ちょうきょく、生没年不詳): 呉(江蘇省呉県)の人。草書の名手として名高く、酒を飲んで大酔するたびに大声を上げて走り回り、筆をおろして書を書いたという奇行の人であったという。当時すでにその奇行ぶりと名筆は余程知られていたと見え、杜甫の他の作品、あるいは高適(こう せき、生年不詳~765年)、李頎(りき、690~751年)らの詩篇に詠じられている。
⑧ 焦遂(しょうすい): この人物に事跡については不明。八仙人中ただ一人『唐書』に伝が見えない。唐の袁郊(えんこう)の『甘沢謡』に「布衣焦遂」と見えることから、官位のない平民であったと思われる。焦遂の友人である孟雲卿(もううんけい)は杜甫の交友の一人であったので、あるいは杜甫とも交友があったのかもしれない。
◇消費税協議に野党冷ややか ―― 「全力を挙げて与党を追い込み、解散を勝ち取ることが今年の目標だ」。菅首相に先立ち伊勢神宮を参拝した自民党の谷垣禎一総裁は、会見で対決姿勢をあらわにした。問責決議を受けた仙谷由人官房長官らを首相が交代させない限り、通常国会で審議に応じない姿勢も改めて強調した。/首相は社会保障と税制の一体改革のための与野党協議を呼び掛けたが、野党側に歩み寄りの機運は乏しい。谷垣氏は会見で「政府は素案を用意して対話を呼び掛けるべきだ」と述べる一方「(農業の)戸別所得補償や子ども手当をそのままにして、どれだけ消費税率を持っていくのか展望が明らかでない」と批判。公明党の山口那津男代表も4日「社会保障のあり方の中身が示されず、消費税だけが出てくるようでは国民に違和感が生じる」と記者団に述べ、税制改正論議が先行しないようけん制した。/社会保障に関する与野党協議は、かつて自公両党も与党時代に提唱しており、谷垣、山口両氏とも門戸を閉ざしてはいない。だが、4月の統一地方選前に、求心力の衰えた菅政権に安易に手を貸せば、それぞれ党内で不満が噴出しかねない。対決姿勢は簡単には変えられないのが実情だ。/共産党の志位和夫委員長は同日、党の会合で「大企業への減税ばらまき反対と軍事費削減の旗を掲げ、消費税増税反対の戦いに取り組みたい」と力説。みんなの党の渡辺喜美代表は栃木県大田原市で「社会保障を守るには4%の(経済)成長を達成すればできる」と、社会保障財源としての消費増税に反対した。
◇TPP参加、首相「6月メド」言明で国内農業の強化策急ぐ ―― 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉への参加について、菅首相は「最終判断は6月ごろが一つのメドだ」と表明した。閣僚間で意見が分かれていた判断時期を、首相が初めて明言したことで、政府はTPP参加で打撃を受ける国内農業の強化策の具体化を急ぐことになる。/参加の是非を判断する時期について、仙谷由人官房長官ら積極派は、政府の「農業改革の基本方針」がまとまる6月ごろと示唆。鹿野道彦農相ら慎重派は、米ハワイでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の開かれる11月までとの認識を示していた。/しかし、TPP交渉に参加する米国など9カ国は、今月から関税撤廃に関する協議を始めることで合意している。「参加が遅れるほど、不利なルールをのまざるを得なくなる」(日本政府関係者)との懸念が首相の「6月発言」につながった。/ただ、6月に参加しても「協定の大枠作りに関与するには遅すぎる」(同)可能性がある。国内農業関係者の反発も強く、参加へのハードルは依然高い。 毎日新聞 2011年1月5日 0時04分(最終更新 1月5日 1時38分)
八仙のメンバーは時代によって異なっていたが、明の呉元泰による『八仙東遊記』成立後は、以下の八人で固定された。
① 李鉄拐(りてっかい):絵ではボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、彼はもとはがっしりとした体格の道士であった。 二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。 そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。 しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。 鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体が既に焼かれており、近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。(葫蘆〈瓢箪〉)
② 漢鍾離(かんしょうり)または鍾離権(しょうりけん):姓を鍾離といい、名は権である。漢鍾離は「漢の人、鍾離権」の意味である。字は寂道。号は雲房先生。正陽真人とも呼ばれる。自称「天下都散漢(天下一の暇人)鍾離(鍾離権)」。五代の隠者とされるが、生没年も含め、確かなことは不明である。師は東華帝君とされ、終南山で秘法を授かり、仙人となったとされる。その姿は頭に二つのあげまきを結い、太った腹を晒したものとして描かれる。(芭蕉扇)
③ 呂洞賓(りょどうひん):名を巌といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。 唐の貞元中(785年 - 805年)に、蒲州の蒲坂県(陝西省米脂県)で生まれたとする資料もあるが、各資料によって年代・出生地等が統一されず、生没年も含め、確かなことは不明である。師は鍾離権であり、終南山で秘法を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる。(剣)
④ 藍采和(らんさいわ):八仙の中でも謎の多い人物。そもそも男なのか女なのか、それすら明確ではない。藍采和というのも、本名ではないようである。。一応、唐の頃の人らしいが。伝承によれば、ホームレス風のいでたちで、片方に靴を履いて、片方が裸足だったりする。手に拍子木を取って歌い、それで銭を得ていたといい、その歌は、実は全部予言の歌だったという。後から聞いた日都が悟ることになったという。(花籃〈花かご〉)
⑥ 何仙姑(かせんこ):何仙姑(かせんこ)は中国の女仙で、八仙の一人。名は瓊で、「仙姑」とは女仙という意味である。八仙中唯一の女仙。暗八仙は荷花(蓮の花)。 『仙仏奇踪』によると、彼女は唐代の武則天の時に、広州の増城県にある雲母渓にいた何秦の娘で、生まれたときには六本の髪の毛が生えていた。十四、五歳のときに、夢に現れた神人のお告げに従って雲母の粉を食べ、仙人になった。 八仙を扱った明代小説『東遊記』にも同じような内容がある。 また、北宋の仁宗の時、永州に生まれ、十三歳の時お供と共に山に入って茶を採っていた際、お供を失い迷っていたところ、呂洞賓に出会い、仙桃を与えられ仙人となったと言う説もある。(蓮の花)
⑦ 張果老(ちょうかろう):恒州の条山にこもり、近隣を歩き回り、数百歳と自称していた。則天武后に招かれ、山を降りた時に死に、死体が腐敗していたにもかかわらず、後日、その姿は発見された。
張果は白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤は死体に向かって玄宗の意を伝え、張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舍人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。張果は、玄宗に老いていることを問われ、髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が娘の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな方術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、方術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という方術を行うものたちにも正体を見定めることはできなかった。玄宗は高力士に相談し、張果に毒酒を飲ませ、本当の仙人か見定めることにした。張果は「うまい酒ではない」といい、焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光祿大夫と通玄先生の号を与えた。玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が混沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという。張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年 (742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。また、同時代の道士・羅公遠との術比べでは、及ばなかったという説話も伝わっている。(魚鼓〈楽器の一種〉)
⑧ 曹国舅(そうこっきゅう):曹玘(そうき)字は景休(けいきゅう)。 北宋の仁宗の后(曹皇后)の弟であるため、国舅(天子の外戚の呼称)と呼ばれる。「神仙通鑑」によると、彼は弟の曹景植が姉の権力を笠に着て悪事を働くのを見かねて、山中に隠遁し修行をし始めた。 それを見た呂洞賓と漢鍾離がやってきて、「何の修行をしているのか」と訊かれ、道の修行だと言った。 「では、その道はどこにあるのか」と笑いながら訊かれると、黙って天を指した。 「その天はどこにあるのか」と畳み掛けられると、自分の心を指した。 すると、二人は大いに笑って、「心はすなわち天、天はすなわち道である。お前は既に道が何であるかを知っている」と言い、彼に還真の秘旨を授け、神仙の仲間に加えたという。(玉板〈玉製の板〉)
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