瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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元塾生であった渡辺裕氏から、懐かしいメールが入りました。曰く、
 
日高先生
 
初めてメールをさせていただきます、覚えていらっしゃらないとは存じますが、かつて兼愛塾に通っておりました渡辺裕(ワタナベユタカ)と申します。大変ご無沙汰しております。
 
当時の記憶が少し曖昧なのですが、私が塾に通っておりましたのは、1970年から1972年頃で小学4年〜6年生だったと思います。「モミアゲ」の記憶が強いので、多分授業中に騒いでご迷惑をお掛けしていたのではないかと存じます。
 
勉強の事はさておき、70年(4年生)、71年(5年生)と2年続けて仁科へ臨海合宿に行き、4年時はあまり泳げなかったけれど、5年時には遠泳まで参加できるようになったこと、氷砂糖の味、砂浜に戻った時に感じた立てないほど体の重さ…などがずっとずっと心の中に残っておりました。もうかれこれ50年も前の話になります。
 
実は、つい最近になって、ずっと想い出の中にだけあった「兼愛塾、仁科」をネットで検索してみたところ、なんと先生のブログを発見いたしました。
 
その中で当時宿泊していたお寺は『長松寺』であり、大浜海岸で泳いでいたこともわかりました。
 
私の記憶では71年には合宿の途中、雲見へ遠足へ行ったこと、高い防波堤から底まで見える海へ飛び込んだこと、全員が飛び込むまで立ち泳ぎで待っていたことなども思い出としてあり、地図で確認しているうちに居ても立っても居られず、この8月にさっそく西伊豆へ出掛けた次第です。
 
実際の『長松寺』に立つと皆でフォークダンスをした境内、境内からバディを組んで海へ出掛けたこと、お風呂は…そうそう外の建物だったと思い出され、とても感傷的になってしまいました。
 
遠い記憶に実際に触れられたことがとても嬉しくなり、ブログにも「メールも頼むね」とありましたので、甘えさせていただき、日高先生からいただいた素晴らしい経験のお礼を、50年後になって今更ではございますが、感謝の気持ちをお伝えしたくメールを書かせていただきました。
 
2019年になるまでお礼ができなかったことお許しくださいませ。
 
そして私の人生においてとても大切な思い出をいただきましたこと、本当にありがとうございました。
 
不躾ではございますが、822日に参りました長松寺と雲見港の写真も添付させていただきます。

 
それでは突然のメール失礼いたしました。
 
今後もブログを拝見させていただきます、ぜひご自愛ください。
    
渡辺 裕(ワタナベ ユタカ)
    
台東区在住です。

 
早速、返信メールを送りました。曰く、
 
懐かしいメールありがとうございます。
 
余りにも懐かしいので、貴方の了解も得ずに、早速ブログに掲載させていただきました。どうかお許しください。
 
私も87歳、最近は物忘れも多くなり、惚けが進んでいるのではないかと思います。でも、昔のことは不思議と覚えていて、貴方のお名前も朧気ながら覚えています。ただお顔はしっかりとは思い出せません。折があったら写真など送ってくだされば嬉しいです。さらに、同期の方々の消息などお知らせくだされば喜びも倍増です。
 
取り敢えず、御礼まで
                      
日高節夫


 

世の中は何事も不思議である。「おい、ちょっと煙草屋の娘はあの目つきが不思議じゃないか」というのは別に眼が三つあるという意味ではない。「春狐子、どうですか。あそこの懐石は不思議に食わせますぜ」というのも褒めかたを捻って言っているのである。誰かがもし、「いや不思議と勝つね、日本は不思議だよ、どうも」と言ったとしても、「こいつが失敬なことを言う、陛下に威光、軍師に忠勇、勝つのは当たり前だ、なにも不思議なことはない」とムキになるのは非常に野暮なのだ。号外を見てぴしゃぴしゃと額を叩いて「不思議だ不思議だ」と言ったとしても、勝ったことを本当に不思議がっているわけではないのだ。
 
こういった道理を理解した上で、この七不思議を読んでほしい。
 
最初に聞くのは、「しし寺のももんじい」だ。これは大弓場の爺さんである。人に会えば表情を崩して、一種特有な声を出して「えひひひ」と愛想笑いをする。その顔を見ても泣かない赤ん坊を「あいつは不思議だよ」と主人は可愛がるのだ。
 
 
次が「勧工場の逆戻り」だ。東京の区いたるところに、いずれもひとつかふたつの商店がある。どこも入口と出口が異なるが、牛込のその店だけは出入口が同じなのだ。「だから不思議さ」と聞いてみれば、さしておもしろいことでもない。
 
 
それから「藪蕎麦の青天井」だ。下谷団子坂の出店である。夏は屋根の上に柱を建てて、席を用意して客を招く。時々夕立に蕎麦を攫われる、とおまけを言わなければまったく不思議な話にはならないのだが。

「奥行きなしの牛肉店」
 いろは(※という名前の牛肉店)のことである。単に外から見れば大きく立派な建物なのだが、奥行きは少しもなく中は三角形でこぢんまりとしている。思うに幾何学的の不思議なのだろう。
 
「島金の辻行燈」
 
家は小路へ引っ込んでいて、通りの角に「蒲焼」と書いた行燈ばかりがある。気の早い奴がむやみに飛び込むと仕立て屋である不思議だ。
 
(※島金(志満金)は小路の奥まった場所にあり、その手前には洋服屋があった。気の早い人はその洋服屋にうっかり入ったのだと思われる)
 
「菓子屋の塩餡娘」
 
餅菓子店にツンと澄ましている婦人がいる。キジの声でけんもほろろの無愛嬌者である。そのくせ甘いから不思議だとさ。
(※菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。どの菓子屋は不明です。)
 
 
さて最後が、「絵草紙屋の四十島田」だ。女主人でなかなかのくせ者である。「小僧や、紅葉さんのお家へ行って……」などと面識もない有名人の名前を聞こえよがしに言って驚かす奴だ。気が知れないから不思議なのだ。


 

()(なか)何事(なにごと)不思議(ふしぎ)なり、「おい、ちよいと煙草屋(たばこや)(むすめ)はアノ(はあの)眼色(めつき)不思議(ふしぎ)ぢやあないか。」と()ふは(べつ)()()()あるといふ意味(いみ)にあらず、「春狐子(しゆんこし)()うでごす、彼處(あすこ)會席(くわいせき)不思議(ふしぎ)(くは)せやすぜ。」と()ふも()(やう)(ひね)るのなり。(ひと)ありて、もし「イヤ(いや)不思議(ふしぎ)()つね、日本(につぽん)不思議(ふしぎ)だよ、()うも。」と(かた)らむか、「此奴(こいつ)失敬(しつけい)なことをいふ、陛下(へいか)稜威(みいづ)軍士(ぐんし)忠勇(ちうゆう)()つな()(めえ)あたりまへだ、(なに)不思議(ふしぎ)なことあねえ。」とムキ(むき)になるのは(おほ)きに野暮(やぼ)號外(がうぐわい)()てぴしや/\と(ひたひ)(たゝ)き、「不思議(ふしぎ)不思議(ふしぎ)だ」といつたとて()つたが不思議(ふしぎ)であてにはならぬといふにはあらず、こゝの(こくりかえしの)道理(だうり)噛分(かみわ)けてさ、この七不思議(なゝふしぎ)()(たま)へや。


東西(とうざい)最初(さいしよ)(きゝ)(たつ)しまするは、「しゝ寺のもゝんぢい。」


これ大弓場(だいきうば)爺樣(ぢいさん)なり。(ひと)()へば(がんさう)をくづし、一種(いつしゆ)特有(とくいう)(こゑ)(はつ)して、「えひゝゝ。」と愛想(あいさう)(わらひ)なす、其顏(そのかほ)()ては泣出(なきだ)さぬ嬰兒(こども)を――、「あいつあ不思議(ふしぎ)だよ。」とお花主(とくい)可愛(かはい)がる。


次が、「勸工場(くわんこうば)逆戻(ぎやくもどり)。」


東京(とうきやう)()(いた)(ところ)にいづれも一二(いちに)勸工場(くわんこうば)あり、(みな)入口(いりぐち)出口(でぐち)(こと)にす、(ひと)牛込(うしごめ)勸工場(くわんこうば)出口(でぐち)入口(いりぐち)同一(ひとつ)なり、「だから不思議(ふしぎ)さ。」と()いて()れば(つま)らぬこと。


それから、「藪蕎麥(やぶそば)青天井(あをてんじやう)


下谷(したや)團子坂(だんござか)(しゅっ)出店(でみせ)なり。(なつ)屋根(やね)(うへ)(はしら)()て、(むしろ)()きて(きやく)(せう)ず。時々(ときどき)夕立(ゆふだち)蕎麥(そば)(さら)はる、とおまけ()はねば不思議(ふしぎ)にならず。


奧行(おくゆき)なしの牛肉店(ぎうにくてん)。」


(いろは)のことなり、()()れば大廈(たいか)嵬然(くわいぜん)として(そび)ゆれども奧行(おくゆき)(すこ)しもなく、座敷(ざしき)(のこ)らず三角形(さんかくけい)をなす、(けだ)幾何學的(きかがくてき)不思議(ふしぎ)ならむ。


島金(しまきん)辻行燈(つじあんどう)。」


(いへ)小路(せうぢ)引込(ひつこ)んで、(とほ)りの(かど)に「蒲燒(かばやき)」と()いた行燈(あんどう)ばかりあり。()(はや)(やつ)がむやみと飛込(とびこ)むと仕立屋(したてや)なりしぞ不思議(ふしぎ)なる。


菓子屋(くわしや)鹽餡娘(しほあんむすめ)。」


餅菓子店(もちぐわしや)(みせ)ツン(つん)()ましてる婦人(をんな)なり。生娘(きむすめ)(そで)(たれ)()いてか雉子(きじ)(こゑ)、ケンほろゝの無愛嬌者(ぶあいけうもの)其癖(そのくせ)(あま)いから不思議(ふしぎ)とさ。


さてどんじりが、「繪草紙屋(ゑざうしや)四十(しじふ)島田(しまだ)。」


女主人(をんなあるじ)にてなかなかの曲者(くせもの)なり、「小僧(こぞう)や、紅葉(こうよう)さんの御家(おいえ)(まい)つて……」などと一面識(いちめんしき)もない大家(たいか)()()こえよがしにひやかしおどかす(やつ)()()れないから不思議(ふしぎ)なり


明治二十八年三月




 


泉鏡花は(明治6~昭和14年)本名は泉鏡太郎といい、尾崎紅葉の門下生です。川端康成、石川淳、三島由紀夫らに影響を与えた小説家です。
 
泉鏡花は石川県金沢市の出身で1889年(明治22年)上京します。
 
赤城神社に近い南榎町22にある泉鏡花の居跡のひとつで、泉鏡花はここに明治32年から4年間住んで、この地で「高野聖」などを発表しました。
 
 
現在この辺りは住宅街です。
 
明治36年にJR飯田橋駅や牛込御門が近い、神楽坂2丁目22番地に転居しています。この神楽坂の泉鏡花旧居跡には案内もなく、近くを探してみても特定できません。
 
 
さて、31才の泉鏡花は神楽坂の芸妓桃太郎さんとここの借家に住みます。
 
しかしこれには泉鏡花の師である「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉から相当怒られ、やむなく、桃太郎(本名伊藤すず)さんは鏡花と別れますが、 紅葉が没してから正式に妻となっています。偽装離婚だったんですね!
 
なお、桃太郎さんは、あの「婦系図(おんなけいず)」のお蔦、『湯島詣』の蝶吉のモデルなんです。
 
 
さらに、千代田区六番町5番地にも「泉鏡花旧居跡」があり、1910(明治43)から亡くなる1939年の間この地に愛妻すずさんと暮らしていました。
 
この泉鏡花の数ある作品の中に『神樂坂七不思議』という小品があります。彼の22歳の頃の作品で、これぞと言うほどの特徴もなくあっという間に読み終わってしまうのですが、鏡花の人生に興味を持つとこの神楽坂という街が意味を持ってくるのです。
 
次回のブログは泉鏡花の『神楽坂七不思議』を紹介しましょう。


 

足立は、その昔湿地帯で、そこそこに葦が生い茂っていましたので、葦が立ち並ぶ地、つまり、葦立ちがなまって、アダチになったのだろうとされています。
 
いつのころかは、はっきりわかりませんが、今の堀切から牛田あたりにかけて、大きな堀がありました。
 
その堀は、葦の密生する中に青々とした豊かな水をたたえていました。
 
緑なす葦の葉陰と、豊かな水とは、魚類の絶好の棲みかで、この堀ではたくさんの魚がとれました。
 
この魚がたくさんとれるという噂は、人の口から口へとしだいに広まって、この堀にも多くの釣り人が集まり、釣り糸を垂れるようになりました。
 
ところが、そのうちにこの堀に不思議なことがおこるようになりました。それは、魚がたくさん釣れたので、竿を納め喜んで家へ帰ろうと、葦の中の道を歩きだしますと、どこからともなく気味の悪い声が聞こえてくるのです。
 
「おいてけ! おいてけ!」と、まるで地の底から湧いてくるような低い声なのです。そこで、声の気味悪るさに驚いて、釣った魚をもとの堀にもどせばよいのですが、“せっかく時間をかけて釣ったものだ。誰が置いていくものか。”と、その声には耳を傾けずに、我が家への道をサッサと歩きだしますと、どうでしょう生い茂った葦の道は迷路となつてしまうのです。
 
そして、同じ所を徃ったり来たりして、葦の茂みから脱け出すことができなくなってしまうのです。万一家に帰ることができたとしても、バケツに入れた魚が、夜中にパシャ、パシャと音をたてていなくなってしまうのです。
 
朝起きてバケツの周囲を見てみますと、床や土間に、魚の歩いたと思われる胸ビレや尾ビレの跡がはっきりと残っていて、バケツの中には、一匹の魚もいなくなっているのです。
 
こうしたことから、誰言うともなく、この堀のことを“置いてけ掘”というようになったということです。
 
今では、この堀の跡形もありませんが、堀切の近くの“置いてけ掘”。共に“掘”の字がついていて、何か深い因縁を秘めているような気がします。
 
置いてけ掘 の話は、本所の七不思議の中にもあります。また、越谷の見田方にもあります。
 
川魚は、千住の名産で、特に、スズメ焼き(小ブナを竹串にさして焼いたもの)は、有名でした。
 
 
戦前まで、橋戸から河原にかけて、川魚問屋がありました。
 
足立は、川や池沼の多い湿地帯で、川魚が豊富でした。この川魚を目あてにして鳥類も多く集まり、代々の将軍様の良い“鷹狩り場”になっていました。


 

千住2丁目63に、金蔵寺があります。ここのご本尊は、えんま様です。よく、嘘をつくと、えんま様に舌を抜かれる。といいますが、えんま様は昔から心のこわい神様として印象づけられています。
 
 
その顔形からもうなずけることですが、地獄に住み、18人の将官と8万もの獄卒を従えており、死後地獄へ落ちる人間の、生前の善悪を審判懲罰して、不善を防止する大王だとされています。ですから、えんま大王ともいいます。
 
もと、金蔵寺は、千住宿の飯盛女のお寺とされていました。つまり、身寄りもなく、病に倒れてやり場のなくなった飯盛女を埋葬する“投げ込み寺”の役割をしていたようです。今でも、南無阿弥陀仏と刻まれた供養塔が残っています。
 
この飯盛女達が、“苦しいこの世界から足を洗えますように”とか、“早く悪い病気が治りますように”と、身の上いっさいのことをお願いしたのが、このえんま様です。
 
そして、その願いごとがかなえられると、きまって“おそば”をお礼にお供えしたので、いつしか、“そばえんま”の名がつきました。
 
そのことにつきましては、次のような心温まる話が伝わっています。金蔵寺は、千住宿の東側にある裏街道に面していました。お寺の裏側は、見渡すかぎりの田畑で、牛田、関屋へと続いた静かな所でした。
 
ところが、いくらも離れていない日光街道沿いには、旅籠(ハタゴ) や旅客相手のお店などが建ち並んで、かなりの賑わいをみせていました。
 
特に夕方のご飯どきには、食べ物商売の店が繁盛していました。食べ物商売といえば、その中に一軒のそば屋がありました。この店のそばは手打ちで、タレが特別おいしく、多くのお客を集めていました。
 
ダシのよくきいた、おいしそうなタレの香りは、風向きによっては、それほど遠くはない金蔵寺のあたりにまでとどきました。
 
ある日のこと、このおそばのタレのおいしそうな香りをかいだおえんま様は、一度でよいからこのよい香りのするものを食べてみたいと思いました。
 
そこで、えんま様は、生地のままでは恐れられるので、美しい女の人に化けおいしそうな香りを頼りにそば屋を捜しあてました。
 
さっそく、店に入り念願のおそばを買い求め食べてみました。たった一度でいいからと思ったおえんま様は、翌晩になると昨夜食べたおそばの味が忘れられず、子供のようにまた買いに行きました。
 
とうとうそうしたことが何日も続いてしまいました。そば屋では、毎晩のように店へ来るあの美しい娘は、“どこの人だろう”と好奇心をもちだしました。
 
ある晩のことです。「今晩は、おそばをください。」と、いつものように娘がそばを買いにきましたので、店の主人がそっと後をつけてみました。
 
それとは知らない娘は、急ぎ足で数軒先の路地に入り裏街道に出ました。その裏街道を距離にして数十歩の所で足を止めました。それは、金蔵寺の門前でした。
 
門前に立った娘は、前後左右を見回したかと思うと、えんま堂の中に吸い込まれるように消えていきました。
 
それ以後、金蔵寺のえんま様は、おそばが大好物だということになり、祈願してご利益をいただいた人は、そのお礼としておそばを供えるようになったということです。
 
 
こうしたならわしは、昭和15年ごろまで続き、えんま様の斎日(サイジツ) 16日になると、近所のそば屋からかなりのおそばが届けられました。
 
おかげでお寺は、いっときそば屋の観をていしていたということです。現在もなおカゼに効験があるということで、香華の絶えることがありません。
 
練馬には、“そば食い地蔵”という伝説があり、話の内容が似ています。
 
※斎日(サイジツ) ものいみの日、精進の日


 

昔、子福さまという稲荷社が、千住長円寺の境内にありました。
 
長円寺といえば、乳泉石でも有名なお寺で、千住宿の裏通りに面していました。そのころは、この裏通りあたりまで家が建っていましたが、お寺の裏側となると、一面の田畑で、ずっと小管のほうまで見渡すことができました。
 
 
現在は、その裏のほうに常磐線や東武線が通っていますが、これらは、明治29年と32年に開通したもので、それ以前には何もありませんでした。ですから、このあたりは、今では想像もつかないほど寂しい所でした。ところで、子福さまについてですが、どうしてそうした名がついたのかはっきりしていません。
 
想像しますに、このお稲荷さまに祈願すると、子供達に幸福をもたらしてくれるということで、その名がついたものと思います。
 
子福さまは、その名の示しているように霊験あらたかで、子供の病気は言うにおよばず、大人の疲れから肩の凝り、腰から下の病気にいたるまでよく効き、祈願する者が後を断ちませんでした。
 
しかし、ここには、一つのならわしのようなものがありました。それは、祈願して効験があった場合には、そのお礼として油揚げを奉納するようになっていたことです。
 
もしも、油揚げのお礼をしないで、知らんふりをしていると、罰があたって、せっかく良くなったものが、再び元に戻るといわれていました。
 
 
さて、霊験あらたかなこの子福さまについて、次のような話が伝わっています。当時の長円寺は、境内がうっそうとした樹木でおおわれ、特に裏山と呼ばれる本堂裏の小高い所には竹薮もあって、昼なお暗く、お寺の人以外は入ることができませんでした。じつは、この裏山の大きな木のうろに、数匹の狐が棲みついていました。
 
一般に知られているように、動物は、ふだん食物が足りるときは、自分の棲みかの周囲にいて、他に危害を加えることはありませんが、大雪が降ったり、寒さが特に厳しかったりして、食物に不自由するようになりますと、人家近くに出没して、人さまに迷惑をかけるようなことをするものです。
 
長円寺の裏山に棲む狐も、その例外ではありませんでした。
 
ある年のこと、例年にない厳しい寒さと、何度か降った雪のために、裏山付近の食べ物は底をつき狐どもは難渋しました。そこで、狐達は、めったに出たことのない町中(マチナカ) に出張り、人の目をかすめては、置いてあるものを、そっと失敬していくようになりました。
 
それも一度や二度ならよいのですが、たび重なると、町の人は、おお目に見るわけにはいかなくなりました。
 
こうした狐の中には、こともあろうに老人だけの家に忍び入り、寝ている布団の上に乗って、油揚げを無心するふとどきなものまででてきました。
 
そして一度味をしめると、同じことを二度、三度と繰り返すようになりました。
 
最初のうちは、可哀そうにと見逃していましたが、このように度をこすと迷惑になり、なにか手をうたなければならなくなりました。
 
そこで、あちこちの被害者が名主宅に集まって、いろいろ話し合いをしました。しかし、狐に対するこれといったよい案は出てきませんでした。万策つきた町の人は“暴れ回っていた蛇を水神に祀りこめたら、二度と悪さをしなくなった。”という近隣の村の故事にならつて、“町の子供を守ってくださいますように”と、“子福稲荷”として、長円寺の境内に祀ることにしました。
 
それ以後、狐の悪さはなくなり、かえって、この子福稲荷社が、子供だけではなく町全体の危難を救ってくれるようになったということです。


ウェブニュースより
 
藤井聡太七段、王将戦二次予選決勝進出!挑戦者決定L懸け憧れの谷川九段と初対決へ ―― 将棋の第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)は26日、東京都渋谷区の将棋会館で二次予選3組準決勝を行い、藤井聡太七段(17)が中村太地七段(31)を91手で下した。
 
https://www.youtube.com/watch?v=-udwl4cIPHc
 
藤井は自身初の挑戦者決定リーグ入りを懸け、次戦(91日=大阪市・関西将棋会館)の決勝で谷川浩司九段(57)と対戦。16年秋のプロ入り時に憧れの棋士として挙げた大先輩との初手合いがついに実現する。   [Sponichi Annex 2019826 17:31 ]


 

足立は、“葦立つ地”から“葦立ち”に、ついで“足立”になったともいわれています。この名の由来の示しますように、足立は、その昔葦がたくさん生い茂っていた湿地でした。
 
全国を行脚中の弘法大師は、関東の地に悪疫が流行していると聞き、この足立の地へと足を向けてきました。
 
豊島郡から足立郡へ入ろうとした弘法大師が、荒川の岸辺に立ちますと、あたりは一面の葦原で、特に川岸のあたりには、群れをなして生えていました。
 
その葦のあいまをぬった大師が渡しに乗り、いざ足立の地に足を踏み入れたと思った瞬間、今まで風の吹くままにそよいでいた葦が、風がピタリとやんだかのようにそよぐのをやめ、いっせいに大師の方を向いて靡き始めました。
 
つまり、葦の葉が弘法大師のご威光にひれ伏して、そのほうだけに靡きだしたのです。そして、その姿がそのまま片葉の葦に形を変え、後々までも、その姿のまま残ったとのことです。
 
 
これが片葉の葦の発端ですが、当初は荒川の岸全面に生えていたものが、年々変わりゆく環境の悪化によって、関屋天神のあった塚付近のみとなりました。

 
そこで、この記念すべき片葉の葦を末長く保存するために、仲町にある掃部宿の開祖石出掃部介の子孫宅に移植しました。が、これまた地味風土が合わないためか、今では絶滅して跡形もありません。残念なことです。
 
 
片葉の葦の話は、西新井大師の構え堀にもあり、やはり弘法大師との係わりがあります。
 
本所の七不思議の中にも、片葉の葦の話があります。これは、ならず者が町娘に横恋慕し、自分に靡かなかったので娘を殺して、その片手片足を切り落としたのが発端です。
 
千葉県市川真間の手児奈霊堂の池畔にも、片葉の葦の話があります。これは、手児奈という娘の美しさがもとになっています。


 

現在の緑町から桜木町に至るあたりを“牧の野”と呼んでいたころのことです。そのころのこのあたりは、今日のような賑やかさはなく、一面の蓮田か葦の生い茂った寂しい所でした。ですから“牧の野”の名がついたのでしょう。
 
この牧の野の地続きに“千住宿”がありましたが、千住宿は、奥州方面から江戸入りをする第一歩の地であり、また、江戸を去る第一歩の地でもありました。
 
したがって、その繁盛ぶりは目を見張るものがあり、問屋場、旅籠(ハタゴ゙)(宿)(ヤド゙) 商売屋(アキナイヤ)などが軒をならべていました。
 
 
そうした中に、峰岸楼という食売旅籠が2丁目にありました。食売旅籠とは、お客が宿泊するばかりか、それ以外に、女中さんつまり飯盛女に接待してもらう歓楽の場所でした。その峰岸楼に、“お牧さん”という若くて器量よしの女中さんがいました。お牧さんは、器量がよいばかりではなく、素直で気立てもよいので、お客の評判が大変よかったようです。
 
 
そうしたことから、“お牧さん”“お牧さん”と、指名のお客が多く、いわば峰岸楼の看板的な存在でした。お牧さんが、ここに奉公にあがったのは数年前ですが、なんでも川越在の農家の娘で、家の事情から前借りでここに住み込んだようです。
 
言葉に多少の訛語(ナマリ) はありましたが、かえってそれが器量と気立てのよさにひきたてられて、ひとつの愛嬌とさえなっておりました。
 
それはある晩のことでした。たまたま訪れてくれたお客の中に、川越夜舟の船頭がおりました。最初のうちはそれと気づきませんでしたが、話をする言葉つきに、自分と共通するものを感じ親しさを覚えました。相手の船頭も、女の言葉の中に相通ずるものをくみとって、ふるさとを同じくする者であることを知りました。何もわからない他国で、同国の者とめぐり会えることほど、心強く思うことはありません。二人の心はいつしか結ばれて、逢う瀬を楽しむ回数も次第に増え、その評判は、峰岸楼の朋輩や船頭仲間にまで伝わりました。
 
二人はそのうちに夫婦になる約束をするだろうと、占師のように先々を見通した言葉を吐くおせっかいやまで出てきました。
 
ところで、ご当人の心はおせっかいやの言葉どおり決っておりました。ただそれができないのは、前借金があることです。
 
このお金を返済しないかぎり、お牧さんは自由の身になれないのです。自由の身になれなければ、船頭のおかみさんにはなれまん。
 
二人にとってこのときほど、世の中のはかなさを感じたことはありませんでした。そこで、自分達の望みを果たすために、ある夜駆け落ちをすることにしました。日時を決め、約束の場所は人気の少ない“牧の野”としました。峰岸楼をそっと抜け出したお牧さんは、人目を避けるように裏通りから牧の野へまいりました。腰をかがめて、葦の葉で身を隠しながら恋しい人の来るのを待ち続けました。が、いくら待っても約束を交わした人は、この約束の場所牧の野には姿を見せませんでした。このままでは峰岸楼へは帰れませんし、かといって故郷へも帰ることはできません。思いあまったお牧さんは、夢遊病者のように歩き回って千住河岸(カシ) にたどりつきました。
 
そして、心変わりをした男への怒りと悲しみを抱いて、荒川へ自らの身を沈めてしまいました。それからというものは、川越夜舟が牧の野のあたりを通りますと、その葦の茂みから大蛇が出てきて、船の横腹にぶつかって転覆させるということが度々続きました。
 
この話を聞いた千住宿の人達は、思いがかなわなかったお牧さんの祟(タタリ)にちがいないと言いました。大蛇に船を沈められた船頭達は、仲間の不信行為を恥じて、お牧さんの故郷である川越にお地蔵様をたてて、その冥福を祈ったということです。
 
その後は、大蛇の出ることもなく、川越夜舟は平穏な運航を続けることができたと伝えられています。
 
ただわからないのは、お牧さんとの約束を履行しなかった船頭の消息ですが、いつしか川越夜船から姿を消したそうです。
※川越夜船 川越と江戸との間を定期的に運航し、品物や人を運搬していました。川越をおよそ午後4時ごろ出帆し、千住河岸へ翌朝の8時ごろ、16、7時間かけて着くので、いつとはなしに“川越夜舟”の名がついたそうです。

※船頭気質 板子一枚下は地獄だ。“宵越しの銭は持たない”というのが船頭気質で、千住河岸へ着くと、千住宿の飯盛女を相手に一夜を明かし派手な遊びをしたようです。
※食売旅籠 平旅籠と区別して食売旅籠というのがありました。平旅籠は、ただ宿泊だけを目的としたものですが、食売旅籠は、それ以外に女中さん(飯盛女)のサービスがついていました。飯盛女のことを遊女と呼んでいます。


 

千住大橋から十数丁遡った対岸の“榛木山”(ハンノキヤマ) から、下流の鐘ヶ渕に至る一帯をすみかとしていた一匹の大 きな緋鯉がいました。
 
 
その緋鯉は、 大きさが小さな鯨ほどもあり、 緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。ですから、 かなり深いところを泳 いでいてもその雄姿が認められ、舟でこの川を往き来する人々の目を楽しませていました。
 
この緋鯉のことを、 川沿いの住民達は大川の主と呼び親しんでいました。ところが、 いつしかこの大川に橋をかけることになり、いざ橋杭を立てはじめますと、困ったことがおこりました。
 
それは、 立てた橋杭と橋杭の間が狭いために、 この大緋鯉が通れなくなったからです。榛木山の方から下ってきた大緋鯉が鐘ヶ渕へ向けて泳いでくると、きまって橋杭にその魚体がぶつかってしまうのです。
 
そのたびに、 立てたばかりの橋杭がグラグラ動いて倒れそうになります。せっかく打ち立てた橋杭を倒されては、 今までの苦労が水の泡になってしまいます。
 
そこで、 橋の普請主は付近の船頭達に頼み、 大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしました。 網に追い込まれた緋鯉は、捕らえられてなるものかと、ものすごい力をだして暴れ回りました。船頭は、自分達の日ごろの腕の見せどころとばかりがんばりましたが、思うようにはいきませんでした。
 
それならばと、網の中の緋鯉を櫓で力いっぱい叩 いたり突いたりしましたが、それでも捕らえることができませんでした。とうとう鳶口まで持ってきて、大緋鯉の目に打ち込んでしまいました。しかし、大緋鯉は目をつぶされただけで、網を破って 逃げ去ってしまいました。
 
それからしばらくの間、緋鯉は姿を見せませんでしたが、たまたまその姿を目にした人の話では、片目がなくなっていたそうです。
 
片目を失った緋鯉は、目の傷が治ると以前にも増して暴れ回り、橋杭にもよくぶつかりました。ぶつかるたびに橋杭は、地震のときのように大きく揺れ動き、今にも倒れそうになりました。
 
こうしたことが、いつまでも続いては困りますので、せっかく立てた橋杭の一本を岸辺に寄せて立て替え、大緋鯉が自由に泳ぎ回れるようにしてやりました。
 
それからというものは、大緋鯉が橋杭にぶつかることもなく、舟の事故や水死人の数が少なくなって、めでたしめでたしの 結果に終わったということです。
 
もちろん、その後も緋鯉の大きく美しい姿が、この川を往き来する人々の目を楽しませたことは言うまでもありません。
※・榛木山 葛飾北斎の“富嶽三十六景”に“武州千住”という絵があります。
 
この絵の富士山の左の方に、三本の立木と林があります。これが明治のころまであった“榛木山”です。現在の荒川区町屋八丁目のあたりです。
 
 
昔は荒川(現隅田川)の洪水の護岸用樹として、榛木が植えられていました。


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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