本日は3月3日「上巳(じょうし)の節句)である。
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行うようになったとされる。 中国古代、周公(周王朝の政治家、生没年不詳)の時代に始まったとも秦の昭襄王(しょうじょうおう、BC325~251年、戦国時代秦の28代の王)の時代に始まったとも伝えられている。そして、上巳の水辺の祓(みそぎ)と曲水の宴が日本に伝わったとされている。
353(永和9)年3月3日に、王羲之は名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴を開いた。その時に作られた詩集の序文の草稿が『蘭亭序(らんていじょ)』である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。いわゆる28行324字からなる「率意」の書であるという。本蘭亭序は、王羲之が書いた書道史上最も有名な書の作品であったという。
太宗皇帝が王羲之の書を愛し、その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子である弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に他の作品とともに副葬させた話は、唐の何延之の『蘭亭記』に載っている。したがって、王羲之の真跡は現存せず、蘭亭序もその例にもれない。しかし、太宗の命により唐代の能筆が臨摸したと伝えられる墨跡や模刻が伝えられている。
2・3年前、今北京故宮にあるを国外不出の国宝の書の何点が展示された「北京故宮・書の名宝展」が東京・江戸東京博物館開催されたとき、横浜在住のIN氏と連れ立って、この蘭亭序(八柱第三本)を見に行ったことがあるのを思い出す。
《蘭亭序 書き下し文》
永和九年、歳(とし)は癸丑(きちう)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩(をさ)むるなり。群賢(ぐんけん)畢(ことごと)く至り、少長(せうちやう)咸(みな)集まる。此の地に、崇山(すうざん)峻領(しゆんれい)、茂林(もりん)脩竹(しうちく)有り。又、清流(せいりう)激湍(げきたん)有りて、左右に暎帯(えいたい)す。引きて以て流觴(りうしやう)の曲水と為(な)し、其の次(じ)に列坐す。糸竹管弦の盛(せい)無しと雖(いへど)も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙(ちやうじよ)するに足る。/是の日や、天朗(ほが)らかに気清く、恵風(けいふう)和暢(わちやう)せり。仰いでは宇宙の大を観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆゑん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。/夫(そ)れ人の相与(あひとも)に一世(いつせい)に俯仰(ふぎやう)するや、或いは諸(これ)を懐抱(くわいはう)に取りて一室の内に悟言(ごげん)し、或いは託する所に因寄(いんき)して、形骸の外(ほか)に放浪す。趣舎(しゆしや)万殊(ばんしゆ)にして、静躁(せいさう)同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、蹔(しばら)く己(おのれ)に得るに当たりては、怏然(あうぜん)として自(みづか)ら足り、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らず。其の之(ゆ)く所既に惓(う)み、情(じやう)事(こと)に随ひて遷(うつ)るに及んでは、感慨(かんがい)之(これ)に係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎやう)の閒(かん)に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為(な)る。猶(な)ほ之(これ)を以て懐(おも)ひを興(おこ)さざる能はず。況んや脩短(しうたん)化(か)に随ひ、終(つひ)に尽くるに期(き)するをや。古人云へり、死生も亦(また)大なりと。豈(あ)に痛ましからずや。/毎(つね)に昔人(せきじん)感を興(おこ)すの由(よし)を攬(み)るに、一契(いつけい)を合(あは)せたるが若(ごと)し。未(いま)だ甞(かつ)て文に臨んで嗟悼(さたう)せずんばあらず。之(これ)を懐(こころ)に喩(さと)ること能はず。固(まこと)に死生を一(いつ)にするは虚誕(きよたん)たり、彭殤(はうしやう)を斉(ひと)しくするは妄作(まうさく)たるを知る。後(のち)の今を視るも、亦(また)由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しいかな。故に時人(じじん)を列叙し、其の述ぶる所を録す。世(よ)殊に事(こと)異(こと)なりと雖も、懐(おも)ひを興(おこ)す所以(ゆゑん)は、其の致(むね)一(いつ)なり。後(のち)の攬(み)る者も、亦(また)将(まさ)に斯(こ)の文に感ずる有らんとす。
訳文: 『蘭亭詩集』の序 王羲之
永和九(353)年、癸丑(みずのとうし)の年、晩春三月の初め、会稽郡山陰県(浙江省紹興)の蘭亭に集まった。禊の行事を行うためである。優れた人物たちはすべて着き、老いも若きも皆集まった。この地には、高い山、険しい峰、茂った林、丈高い竹があり、また清らかな流れに激しい早瀬があって、あたりに照り映えている。この流れを引いて、觴(さかずき)を流す曲水とし、人々は順次並んで岸に坐る。琴や笛の賑わいはないが、一杯の酒ごとに一首の詩と、自然を愛でる情(こころ)をのびのびと示すには十分である。
この日、空は晴れ渡り空気は澄んで、微風はなごやかにのどかであった。宇宙の広大さを振り仰ぎ、万物の賑わいを見下ろす。自由に見渡し、心を解き放つこの眺めは、耳目の歓びを存分に味合わせてくれる。真に楽しい限りである。
そもそも人がお互い一生を送るについては、胸に抱く思いを大切にして、一室の中で友と語り合う人もあれば、この身は仮のものという訳で、束縛を離れて奔放に生きる人もある。その選択は様々で、静と動の違いはあれ、境遇に歓びを感じ、暫時おのれの意に適ったときには、心楽しくひとり満足し、老いが訪れようとしていることにも全く気付かぬ。やがてその気持ちも倦み疲れ、感情が事の推移と共に変化してゆけば、それにつれて感慨を催すようになるのだ。以前の歓びは、瞬く間に古びた記憶のあとと化す。人はこれしきのことでさえ、物思いに耽られずにはおれぬ。まして長寿短命の別なく、造化の意のままに、最後は必ず滅びてしまうことを思えばなおさらである。古人は言った、「生と死はまこと人生の一大事なり」と。何と心痛むことではないか。
昔の人々が感懐を催したその理由(わけ)を知るたびに、それらがまるで符牒を合わせたように同じなので、私は古人の前にしてはいつも嘆き痛まずにおれず、胸の中で悟りすますわけにもゆかぬ。もちろん死と生を同一視するのは嘘であり、不老の仙人と若死した者とを同じに扱うのがでたらめなことは私も知っているし、後世の人の今に対する見方は、やはり今の人の昔に対する見方と同じであろう。悲しいことよ。かくて今の人々の名を列記して、その心を述べた詩を書きとどめる。世を異にし事態は変わっても、人が感懐を催す理由は、結局一つである。後世これを見る人々は、やはりこれらの作品に心を動かされるであろう。
sechin@nethome.ne.jp です。
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