今朝のスーパーモーニング(テレビ朝日)で、カダフィガールズについて放映していた。ネットで調べてみると、どうやらその種本は「日刊ゲンダイ」にあるようだ。
リビアのアマゾネス軍団 カダフィ・ガールズの実態 ―― 【政治・経済】総勢30人~40人の処女集団―― 反体制派が蜂起したリビアで、軍司令官の離反が相次いでいる。追い込まれたカダフィ大佐(68)を守るため、体を張って市民に銃口を向けているのは、実は女性だ。カダフィに絶対服従を誓った女性親衛隊である。
彼女たちは銃器の扱いや格闘技を徹底的に仕込まれた総勢30~40人のエリート武装集団で、欧米メディアに「リビアン・アマゾネス」や「カダフィ・ガールズ」と呼ばれている。厳格なイスラム社会では常識外の西洋式の化粧や髪形、服装やハイヒールを着用できる権限も与えられ、カダフィの海外訪問時もピッタリと寄り添ってきた。/「欧米メディアの過去の報道によると、メンバーは全員処女で、カダフィに純潔の誓いを立てるため、自ら片方の乳房を切り落とした猛者もいるといいます。中東やアフリカ大陸はもちろん、東欧諸国からも容姿端麗の美女を“リクルート”し、普段はテント住まいで転々と移動するカダフィの世話をかいがいしく務めると紹介されています」(中東情勢事情通)
中でもカダフィのお気に入りは、ウクライナ人看護師のガリーナ・コロトニツカ(38)。カダフィの体調管理を受け持つ爆乳のブロンド美女で、外交にも必ず随行。09年の国連総会出席の際に、彼女の出発が遅れると、カダフィは「彼女なしには何もできない」と駄々をコネ、自分も彼女に合わせて出発を遅らせたという。
ウソみたいな話だが、そのコロトニツカがリビアを脱出しウクライナに帰国したと母国のテレビ局第5チャンネルが27日、伝えた。彼女を失ったショックでカダフィが白旗をあげる日も近いかもしれない。 (Gendai Net.2011年2月28日 掲載)
アマゾーン(Amazon)は、ギリシア神話に登場する女性だけの部族。神話上では軍神アレースとニュンペーのハルモニアーを祖とする部族で、当時のギリシア人にとっては北方の未開の地の黒海沿岸に住んでいた。黒海はかつてアマゾン海と呼ばれていたこともある。アマゾーンは黒海沿岸の他、アナトリア(小アジア)や北アフリカに住んでいた、実在した母系部族をギリシア人が誇張した姿と考えられている。
アマゾーンは馬を飼い慣らし弓術を得意とする狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していた。最初に馬を飼い慣らしたともいわれ、騎馬民族であったようだ。アマゾーンは弓の他に、槍や斧、スキタイ風の半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話中多くの戦闘に参加している。後のヘレニズム時代にはディオニューソスもアマゾーン征伐の主人公となっている。
基本的に女性のみで構成された狩猟部族であり、子を産むときは他部族の男性の元に行き交わった。男児が生まれた場合は殺すか、障害を負わせて奴隷とするか、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたという。
絵画では、古くはスキタイ人風のレオタードのような民族衣装を着た異国人として描かれていたが、後代にはドーリア人風の片袖の無いキトンを着た姿で描かれるようになった。
アマゾーンの語源は、弓などの武器を使う時に右の乳房が邪魔となることから切り落としたため、"a"(否定)+"mazos"(乳)=乳無しと呼ばれたことからとされるが、これは近年では民間語源であると考えられており、実際にはすべてのアマゾーンが右乳房を切り落としていたわけではない。アマゾーン、アマゾネスは、強い女性を意味する言葉としてよく使われる。また、南アメリカのアマゾン川もその流域に女性のみの部族がいたという伝説があることからそう名付けられたとする説がある。
隅田川沿いにオープンカフェ スカイツリー開業時に常設めざす ―― 東京都台東区の隅田川沿いでオープンカフェの常設に向けたモデル事業が始まった。同区の委託を受けた民間業者が29日までの期間限定でカフェを開設。来場者は川面に映る東京スカイツリー(東京・墨田)を眺めながらビールなどを飲むことができる。同区は観光客誘致や街のにぎわいづくりのため、スカイツリーが開業する2012年にもオープンカフェの常設を目指している。/隅田公園の敷地内に設置した。月~木曜は午前11時~午後8時、金~日曜は午前10~午後9時に開店。パスタやピザなどを出す店舗と、週替わりでスウェーデン、ドイツ料理などのメニューを提供する店が出店する。ビール、コーヒー、ホットワインなどの飲み物も提供、客席は80席。/台東区はオープンカフェの常設に向けて来場者数や売り上げなどの情報を集めるほか、来場者にアンケート調査を行い、メニューや価格設定などについての意見を聞く。同区は11年度、隅田公園内にオープンカフェを開くことができる広場も整備する方針だ。 (日本経済新聞、2011/3/8 3:19)
情報につられて、午後からオープンカフェに出掛けてみた。天気は好く日溜まりに出ると春の陽気で、大寒桜は5分咲きで、道行く人がカメラを向けていた。だが、日陰は寒く、オープンカフェは客は0状態である。
2月以来、蘇軾をはじめ、唐宋八大家の詩文をあれこれと取り上げて紹介してきた。唐代中葉の安史の乱以降の混乱で門閥貴族の経済的基盤が脅かされるれ、相対的な地位が低下し、新興知識人層との激しい権力闘争が起こったが、これと呼応するかのように中国のルネサンスともいえる古文復興運動がおこり、四六駢儷文に対して秦漢の古文復帰運動となり、士大夫階級の代表として新しい儒学の担い手となったのであろう。
中唐の韓愈は、当時流行の四六駢儷文(しろくべんれいぶん)がいたずらに華美であることを嫌い、文はすべからく漢魏の古文を宗(むね)として、質朴かつその意を尊ぶべしと主張した。いわゆる古文復興運動である。これは同時に、六朝ふうの隠逸(いんいつ)を尊ぶ老荘趣味的な文人の嗜好をあらため、廉士として積極的に社会にまじわり、経世済民(けいせいさいみん)の手段としての文学を行うべしという儒学的文人観の復興、確立でもあり、唐宋を通じて次第に整備される科挙制度の発達とともに、知識人たちのあいだに大いに流行したという。こうした古文復興運動の風潮のなかで、韓愈を筆頭とする名文家八人を集めたものが唐宋八大家にほかならず、唐の韓愈、柳宗元、宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石の八人を指すが、このうち蘇洵、蘇軾、蘇轍は親子(それぞれ父、長子、次子)であり、これを三蘇ということがある。
唐宋八大家の名をはじめに用いたのは明の茅坤(ぼうこん、1512~1601年)が編した『唐宋八大家文鈔』であるといわれるが、さらに清の沈徳潜(しん とくせん、1673~1769年)が『唐宋八家文読本』を編んでよりこれが流行し、特に日本においてはひろく読まれるところとなった。その内容は、主に政治論、国家論、官僚論、人材論などであり、風流韻事の文章についてはあまり重視されないという。
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