いつの間にか、本年も半分が過ぎ去った。本日より7月。まこと、歳月人を待たずである。
早朝7時、関西在住のKS氏より、電話が入り、上京してパレスホテルいるという。「本日なら一日空いているから会えるのだが…」ということであるが、本日のっぴきならぬ先約があり、会えず。残念。
天宝元(742)年秋、都長安に出てきた李白(701~762年)は、その文才を認められて玄宗の宮中に召されたが、天宝三載(744年、この正月、年を載に改めた)3月讒言に遇い宮中を追われた。4月洛陽を通った李白に杜甫は初めて会い、この年と翌年にかけて河南や山東の地方を、時には同じく詩名のあった高適(こうせき、707~765年)も交えてともに放浪の生活を送ったことがある。2人が実際に親しく交際したのはこの時限りで、李白が江南の地に去り、杜甫も長安に出て、その後再び会うことはなかったが、杜甫の李白に寄せる友情は終生変ることは無かったと言う。
春の日に李白を思って
李白よ あなたの詩に適うものは居ません
自由自在 発想がずばぬけています
すがすがしく新鮮なことは庾信のようです
優れて俊逸なことは鮑照のようです
渭水の北は いま 春の樹が立ち並んでいます
江南の地には夕暮れの雲が漂っていることでしょう
何時のことでしょう 一樽の酒を酌み交わし
もう一度 あなたとくわしく詩を論じ合えるのは
* 庾信(513~581年)は南朝の梁の人で、梁朝に仕えていたが、北周が梁を滅ぼした後、捕えられて開封
儀同三司という高い官職に就いた。それで庾開府と呼ぶ。彼は同時代の徐陵(507~583年)とともに文学
の才を称えられ、艶麗な詩文は「徐庾体」とよばれている。
* 鮑照(405~466年)は六朝時代の宋の文人。臨海王劉子頊(りゅうしぎょく)に仕え、前軍刑獄参軍事
となったので鮑参軍ともいう。子頊が反乱を起して敗れた骰に、彼もまた殺害された。詩文に家作が多いが、
特に樂府体の子に優れていた。
遠く離れた友の身の上を思うことを「渭樹江雲」とか「春樹暮雲」というのは、この杜甫の詩からを由来とする。
sechin@nethome.ne.jp です。
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