瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日のブログの伊豆半島の仁科の佐波神社に残る棟札に地震の記録の記事が少々気になったので調べてみた。以下、インターネットで「1707年宝永地震震源域の東端位置」という論文から借用した。
宝永四年十月四日(1707年10月28日)の東海一南海地震は日本史上最大規模の地震と考えられている。嘉永七年十一月四日、五日〔1854年12月23日、 24日〕の東海、南海地震はこの順に約32時間の間隔をおいて別々に発生した。宝永東海一南海地震では東海地震と南海地震がほぼ同時に発生した〔白鳳〕地震以来1944年、 1946年〔昭和〕まで9回、東海,南海地震が90年から262年の間隔をおいて発生したことが知られている。その発生間隔および震源過程は複雑である。
宝永四年地震震源域の東端位置はこれまでにも学者の間で議論されているが、この東端位置についての問題はいまだ未解決のように思われる。原因として、伊豆半島西岸での地震史料調査が不十分で、あることが挙げられる。宝永四年地震震源域の東端位置を決定することを目的として,伊豆半島西岸の宝永四年地震および嘉永七年地震に関する地震史料の調査を行った。この地域の神社・寺院に保存されている棟札銘文を主に調査した。この調査結果をこれまでの研究による駿河湾周辺の震度分布および地殻変動と比較して、宝永四年地震震源域の東端位置を推定する。
静岡県賀茂郡西伊豆町:左記のTable 1に西伊豆町の2神社に所蔵きれている棟札の銘文を示す。
史料1(八幡社(佐波神社内))は享保2(1717)年に書かれた。 14年前、つまり元禄16(1703)年11月23日の未明に発生した元禄地震による地震動と津波が西伊豆仁科を襲ったこと、そして同じ伊豆の下回は更に大きな被害を被ったことを示唆している。宝永四年地震は宝永4(1707」年10月4日未刻(午後2時)に発生した.宝永四年地震は元禄地震から4年後、史料1が書かれた享保2年の10年前に発生した。従って八幡宮宝殿所を建立しこの棟札を奉納した人々は、もし仁科が宝永四年地震による地震動・津波により大きな被害を被っていたならば、当然この棟札銘文にそのことを書いていたはずである。しかし、宝永四年地震についての記載はない。
史料2 (金毘羅社)は安政五年(1858) に書かれた.嘉永七年十一月四日朝五ッ時(午前8時)の大地震により地が欠け、山が崩れ、大i章波が発生したことが書かれている。低位の平地に津波が何回も押し寄せ、田子村にて波高4.5~5m、 250戸水漬け、中には流失した家屋もある。仁科正円で波高3m、軒並浸水し仁科川を遡り、浜から2kmの寺川の田畑や住家まで流し込んで、いる。 また同じ伊豆の下回では人家が残らず流失し大きな被害が出たことも史料2には書かれている。
宝永四年十月四日(1707年10月28日)の東海一南海地震は日本史上最大規模の地震と考えられている。嘉永七年十一月四日、五日〔1854年12月23日、 24日〕の東海、南海地震はこの順に約32時間の間隔をおいて別々に発生した。宝永東海一南海地震では東海地震と南海地震がほぼ同時に発生した〔白鳳〕地震以来1944年、 1946年〔昭和〕まで9回、東海,南海地震が90年から262年の間隔をおいて発生したことが知られている。その発生間隔および震源過程は複雑である。
宝永四年地震震源域の東端位置はこれまでにも学者の間で議論されているが、この東端位置についての問題はいまだ未解決のように思われる。原因として、伊豆半島西岸での地震史料調査が不十分で、あることが挙げられる。宝永四年地震震源域の東端位置を決定することを目的として,伊豆半島西岸の宝永四年地震および嘉永七年地震に関する地震史料の調査を行った。この地域の神社・寺院に保存されている棟札銘文を主に調査した。この調査結果をこれまでの研究による駿河湾周辺の震度分布および地殻変動と比較して、宝永四年地震震源域の東端位置を推定する。
静岡県賀茂郡西伊豆町:左記のTable 1に西伊豆町の2神社に所蔵きれている棟札の銘文を示す。
史料1(八幡社(佐波神社内))は享保2(1717)年に書かれた。 14年前、つまり元禄16(1703)年11月23日の未明に発生した元禄地震による地震動と津波が西伊豆仁科を襲ったこと、そして同じ伊豆の下回は更に大きな被害を被ったことを示唆している。宝永四年地震は宝永4(1707」年10月4日未刻(午後2時)に発生した.宝永四年地震は元禄地震から4年後、史料1が書かれた享保2年の10年前に発生した。従って八幡宮宝殿所を建立しこの棟札を奉納した人々は、もし仁科が宝永四年地震による地震動・津波により大きな被害を被っていたならば、当然この棟札銘文にそのことを書いていたはずである。しかし、宝永四年地震についての記載はない。
史料2 (金毘羅社)は安政五年(1858) に書かれた.嘉永七年十一月四日朝五ッ時(午前8時)の大地震により地が欠け、山が崩れ、大i章波が発生したことが書かれている。低位の平地に津波が何回も押し寄せ、田子村にて波高4.5~5m、 250戸水漬け、中には流失した家屋もある。仁科正円で波高3m、軒並浸水し仁科川を遡り、浜から2kmの寺川の田畑や住家まで流し込んで、いる。 また同じ伊豆の下回では人家が残らず流失し大きな被害が出たことも史料2には書かれている。
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