当分の間、「難読漢字」に挑戦してみましょう。
太字の文字は、人間(性別)に関する難読漢字です。それぞれヒントを付してあります。(解答)は、次回のブログでお知らせします。
1 偉丈夫 立派な身体つきの男性
2 好々爺 優しいおじいさん
3 益荒男 勇気のある男性
4 良人 夫のこと。これで普通に「おっと」とも読みます
5 倅 自分の息子を謙って言う言葉
6 貴公子 身分も気品もあるイケメンさん
7 男鰥 妻に先立たれた男性。「鰥夫(やもお)」とも
8 幇間 宴会を盛り上げる人のこと。太鼓持ち
9 太夫 吉原の幇間のことをこう呼んだそうな
10 尼 仏門に入った女性
11 海女 海に潜って魚や貝を獲る女性。じぇじぇじぇ……
12 貴婦人 高貴な女性
13 女傑 男顔負けの勇ましい女性
14 別嬪 美人さん
15 細君 自分の妻を謙って言う言葉
16 寡婦 夫と死別した女性。未亡人
17 御内儀 他人の妻を敬って言う言葉
18 美人局 ハニートラップ的な
19 手弱女 姿や形などがしなやかな女性
ウェブニュースより
【スピードスケート】高木美帆金メダルで最高の涙 内臓悲鳴も「500mと同じ感じ」で五輪新 ―― <北京オリンピック(五輪):スピードスケート>◇女子1000メートル決勝◇17日◇国家スピードスケート館
高木美帆(27=日体大職)がついに個人種目で金メダルを獲得した。
前回銅メダルの女子1000メートルで五輪記録を0秒37更新する、1分13秒19で優勝。500、1500メートル、団体追い抜きの銀に続く4個目のメダルは、18年平昌五輪の自身と98年長野五輪のジャンプで3個を獲得した船木和喜を上回り、1大会としては冬季五輪の日本最多。通算7個目のメダルも夏冬合わせた日本女子最多を更新した。
内臓が悲鳴を上げている。限界を超えた7レース目。最後だからと高木美は奮い立つ。1周400メートルのリンク。「4周なら怖いけど、2周なら行ける」と自己暗示をかけた。
「胃で食事がうまく消化できない」という体調で、イメージしたのは500メートルの滑り。短中長、全ての距離を長年滑ってきた財産がある。2倍の距離を500メートルのスピードで閃光(せんこう)のように駆け抜けたゴールラインは、五輪最速だった。
バチンとたたいた両手を体いっぱい突き上げた。右拳を放り投げるようなガッツポーズ。そこから半周進み、15日の団体追い抜きで姉が転んでしまったコーナーでも小さく拳を握った。ヨハン・デビッド・ヘッドコーチと抱き合うと互いに「ありがとう」とだけ言い、後は涙だけで語り合った。
つらすぎる姉菜那の転倒からわずか2日。「気持ちの整理はついていない」。最終種目に向けて「他のことを考える余裕がなかった」ことが逆に奏功した。選手村では団体追い抜きのメンバー4人が同部屋。最終レースに向かう時、姉に「銀メダル4つでも快挙らしいよ」と言われ、少し笑えた。
失意のどん底にいた15日の夜。選手村へのバスで小平奈緒に言われた。「日本のパシュート(団体追い抜き)チームがいたから世界のレベルがここまで上がった。誇れることだよ」。高木美は「最後まで滑りきれなかった思いを前へ向けてくれる手助けになった」とライバルのひと言に感謝した。
10年バンクーバー五輪に中学3年で初出場してから「出られるレースには全て出る」のモットーを貫いた。しかし五輪で5種目は想像以上のダメージを受けた。団体追い抜きの後、それを如実に感じた。
「私、中堅なんで」
日体大1年の初め、スケート部でそう答えた。中学3年で五輪に出るも高校では国内外で秀でた成績は出せなかった。「出世争いに疲れた中年のようだった」と青柳徹監督は振り返る。14年ソチ五輪で落選。そこで生まれ変わる。「つらい練習はできればしたくない」と言いつつも、理想のオールラウンダーになるために苦しみ抜いた。
そしてたどり着いた五輪個人種目での金メダル。銀は3つも取った。記録ずくめにも「チームがあるからこそ最後まで戦えた。メダル数に特別な思いはありません」。女王は静かにほほ笑んだ。
◆高木美帆(たかぎ・みほ)1994年(平6)5月22日、北海道中川郡生まれ。5歳からスケートを始め、09年バンクーバー五輪代表選考会で、1500メートルを中学新で初優勝。1000、1500メートル、団体追い抜きの代表となり、スピードスケート史上最年少代表となった。17年世界スピードスケート選手権で総合銅メダル。18年平昌五輪団体追い抜き金メダル、1500メートル銀メダル、1000メートル銅メダルと3個のメダルを獲得した。18年世界スピードスケート選手権総合優勝。7歳で始めたサッカーでも、U-15代表合宿に参加した腕前だった。164センチ、58キロ。
◆冬季五輪スピードスケート日本女子で短距離と中長距離の種目を兼ねた選手 500、1000、1500、3000、5000メートル個人5種目に出場したのは橋本聖子ただ1人。88年カルガリー、92年アルベールビル五輪と、2大会連続で5種目に出場。カルガリー五輪では全種目で日本新をマークして入賞。アルベールビル五輪の1500メートルでは銅メダルを獲得した。84年サラエボ五輪では、女子に5000メートルがなかったが、橋本は全4種目に出場している。ほかに全4種目に出場した日本女子は、60年スコーバレー五輪で鷹野淑子、高見沢初枝ら5人。06年トリノ五輪では、田畑真紀が、500メートルを除いた個人4種目と団体追い抜きの5種目に出場した。 [日刊スポーツ 2022年2月17日22時4分]
山橘(やまたちばな)を詠める歌
山橘(やまたちばな)は、現在のヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑低木の藪柑子(やぶこうじ)にあたります。夏に数個の花を咲かせ,秋から初春にかけて赤い実をつけます。葉が橘(やまたちばな)の葉に似ていることから、山橘(やまたちばな)と呼ばれたようです。
万葉集には5首に詠まれています。白い雪(ゆき)と赤い実のコントラストが素敵な歌があります。
巻4-0669:あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ
※春日王(かすがおう、生年不詳~天平17年4月28日〈745年6月2日〉)
奈良時代の皇族です。二品・志貴皇子の子です。元正朝の養老7年(723年)二世王の蔭位により无位から従四位下に直叙されます。聖武朝において、天平3年(731年)従四位上、天平15年(743年)正四位下と昇叙されました。天平17年(745年)4月28日卒去します。最終官位は散位正四位下。
巻7-1340:紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
巻11-2767:あしひきの山橘の色に出でて我は恋なむを人目難みすな
巻19-4226:この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む
巻20‐4471:消残りの雪にあへ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な
以上で、万葉植物(万葉集で詠まれた植物)を終わります。
ウェブニュースより
【フィギュア】運営も前代未聞の混乱、ワリエワ3位以内の場合はメダル授与式実施せず ―― 北京五輪フィギュアスケート女子で昨年末のドーピング検査により陽性反応が出たROC(ロシア・オリンピック委員会)カミラ・ワリエワ(15)が、15日のショートプログラム(SP)で始まる個人戦に出場できることになった。
14日、スポーツ仲裁裁判所(CAS)が裁定を下した。16歳未満で「要保護」の対象であることが考慮された。国際オリンピック委員会(IOC)はワリエワが3位以内に入った場合はメダル授与式を実施しないと発表し、前代未聞の混乱が続く。
現地時間午後1時58分、首都体育館の練習用リンクに集った各国メディアがざわついた。CASからワリエワが個人戦に出場できることが発表された。練習を終え、無言で去った金メダル最有力候補は守られた。
決め手は「15歳」という年齢だった。昨年12月25日に採取された検体から、持久力向上の効果があるとされる禁止薬物トリメタジジンが検出されたのが、団体戦金メダル翌日の今月8日。即時の暫定資格停止処分を受けたが、ロシア反ドーピング機関に異議を申し立て解除された。それを不服としたIOCなどがCASに提訴したが、この日、CASのリーブ事務局長は「16歳未満であり、規定の下では要保護の人物。昨年12月に行われた検査でアスリートを出場禁止にするということは、この選手に対して、害をもたらすと判断した」と出場停止を避けた。
この決定により、競技の運営そのものが前代未聞の混乱に陥った。IOCはワリエワが3位以内に入った場合にメダル授与式を実施しないと発表。13日の公聴会に参加した国際スケート連盟も、ワリエワがSPでフリー進出圏の24位以内に入った時には「公平性の観点」で25位の選手もフリーに進ませる意向を表明した。仮に今後の調査で「失格」等の結論が出た際に、SP25位の選手の権利を守るためといえる。
米国オリンピック・パラリンピック委員会も、WADAも「失望している」と声明を出すなど、余波は大きい。渦中のワリエワは午後2時半から40分間の調整で4回転からの3連続ジャンプなどを決め、同8時55分から本番リンクで行われた2度目の練習にも姿を見せた。皮肉にも競技以外の面で全世界から注目を集め、金メダルを目指す個人戦が幕を開ける。 [日刊スポーツ 2022年2月14日22時24分]
松を詠める歌18
巻20‐4375:松の木の並みたる見れば家人の我れを見送ると立たりしもころ
※物部真嶋(もののべのましま、生没年未詳)
下野国の人。火長(兵士の小集団の長)。天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣されました。
巻20‐4439: 松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ
※石川郎女(いしかわのいらつめ)
『万葉集』の歌人です。万葉集の中で、石川郎女(女郎)と表記される人物が多く、それぞれ同一かどうか古来論議の的となってきましたが、
(1)天智(てんじ)朝(661~671)に久米禅師(くめのぜんじ)と贈答した人、
(2)持統(じとう)朝(686~697)に大津(おおつ)皇子、草壁皇子と贈答した人、
(3)文武(もんむ)朝(697~707)に大伴田主(おおとものたぬし)、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)と贈答した人、の3人に分ける説が穏当ででしょう。(1)には恋の掛け合いの巧みさがみられ、(2)には政治的な抗争を背景とする両皇子への恋物語的な興味が寄せられ、(3)には歌のやりとり自体の社交的なおもしろみが込められています。(1)(2)(3)はそれぞれの時代の恋歌表現の典型を示しているとみられます。
※水主内親王(みぬしのひめみこ、?~天平9年8月20日〈737年9月22日〉)
天智天皇の皇女です。母は栗隈首徳万の娘、黒媛娘です。名前はもいとりともいいます。天智天皇の皇子女の中で一番最後まで生き残りましたが、他の皇女とは違い、彼女に関する詳細な記録はほとんどなく、どのような人生を送ったかは不明な点が多い。晩年元正天皇に仕えていたらしく、病気で宮中に出仕できずにいた水主皇女を慰めるため、雪を詠った歌を作るよう元正天皇が命じ、石川郎女が奉上した歌が『万葉集』巻20-4439に残されています。熱心な仏教信者だったようで、天平6年(734年)に大和国広瀬郡の水陸田を購入し、弘福寺に施入しています。彼女が作成した「水主宮経」は写経のために各所に貸し出され、目録も作られたほどであるといいます。天平9ねん(737年)2月14日、三品に昇進し、その年の8月20日に薨去しました。
※大原真人今城(おおはらのまひといまき、生没年不詳)
奈良時代の皇別氏族出身の官僚で、歌人てもあります。姓は真人で、もと今城王といいました。穂積皇子と大伴坂上女郎の子です。天平11(739)年高安王らと共に大原真人の氏姓を与えられました。同20年兵部少丞正七位下などを経て,天平勝宝9(757)年、従五位下、治部少輔となります。天平宝字7(763)年左少弁に任じられましたが、藤原仲麻呂の乱に連座して官職位階を奪われたようです。宝亀2(771)年従五位下に復し兵部少輔になり、翌年駿河守に任じられたとあるのが史料にみえる官歴の最後です。『万葉集』に18首の歌を残し、大伴家持と親交のあったことが知られます。
巻20‐4457:住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね
20‐4464:霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ
巻20‐4498:はしきよし今日の主人は礒松の常にいまさね今も見るごと
巻20‐4501:八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな
※中臣清麻呂(なかとみのきよまろ、702~788年)
奈良時代の公卿(くぎょう)で、神職をつかさどりました。大宝2年生まれです。中臣意美麻呂(おみまろ)の7男です。神祇大副(じんぎのたいふ)、式部大輔(たいふ)などをへて、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年参議となります。神護景雲(じんごけいうん)3年大中臣朝臣(あそん)の氏姓をあたえられ、のち大納言にすすみます。宝亀(ほうき)2ねん右大臣、3年正二位となります。延暦(えんりゃく)7年7月28日死去。87歳でした。名は清万呂、浄万呂とも書きます。
ウェブニュースより
藤井聡太竜王、異次元の強さで最年少5冠「恐ろしいですね」解説の深浦九段声を震わせる ―― 将棋の藤井聡太竜王(王位・叡王・棋聖=19)が渡辺明王将(名人・棋王=37)に挑戦する、第71期ALSOK杯王将戦7番勝負第4局(主催 毎日新聞社・スポーツニッポン新聞社・日本将棋連盟)は11、12日、東京都立川市で行われ、114手で後手の藤井が勝って開幕4連勝で王将を初奪取し、最年少5冠になった。19歳6カ月の5タイトル保持は最年少で史上4人目。将棋界にある8つのタイトルのうち、過半数の5冠を獲得し、前人未到の全冠制覇が視野に入ってきた。
史上最年少4冠の偉業の達成からわずか3カ月。藤井が再び将棋史を塗り替えた。「4冠×3冠」の頂上決戦。最高峰の名人のタイトルを持つ渡辺に4連勝のストレート勝ち、史上最年少5冠を達成した。インターネット中継で解説を務めた深浦康市九段は異次元の強さに「恐ろしいですね」と声を震わせた。
史上初の「10代5冠」に藤井は「今回の7番勝負は持ち時間が8時間と長く、あらためて勉強になった。(5冠は)自分の実力を考えると、出来過ぎの結果です。今後それに見合う実力をつけていきたい」。自分に厳しい姿勢は変わらない。
大記録のかかった第4局は先手の渡辺が角道を開けて矢倉に誘導。タイトル通算29期を誇る「魔王」が練りに練った作戦をぶつけてきた。バランスを重視した藤井は、急戦でも持久戦でも対応できる雁木(がんぎ)の陣形で応じた。
勝負の分かれ目は2日目午前。藤井が後手4四銀(76手目)と指すと、渡辺は1時間49分の大長考に沈む。一直線に斬り合う局面になりそうだったが、流れをせき止め、緩やかにする妙手。「後手4四銀、後手4三金(78手目)で、少しこちらの玉に耐久力がある形なのかなと思った」と振り返った。
常識にとらわれない柔軟な一手に人工知能(AI)の将棋ソフトが示す評価値は、渡辺の優勢から藤井に傾いた。野球に例えるなら、打者のタイミングを外すチェンジアップに、渡辺の攻めは“空振り”した。その後、リードを少しずつ広げて勝ちきる横綱相撲だった。
https://www.youtube.com/watch?v=GxS5fOtxAho&list=RDCMUCwNxufgy9QYZd0agIBLblDA&start_radio=1&rv=GxS5fOtxAho&t=1
王将を初奪取し、自身最多の5タイトルを同時に保持し、羽生善治九段ら「レジェンド」の仲間入りを果たした藤井は「過去に5冠になられた方は時代を築いた偉大な棋士ばかりなので光栄に思う」と喜びを語った。前人未到の全8冠制覇も視野に入った。23年6月にも「藤井8冠」の可能性があるが「(対局を重ねる)経験を通して実力を高めて、(8冠に)少しでも近づければいいのかなと」と謙虚に話した。
好きな言葉がある。「無極」。プロ入りした際、知人からもらった色紙などに押す関防印に彫られていた。「極まることのない、頂点がないという意味で、その言葉を自分も大切にしていきたい」。どこまでも上へ。名実ともに超一流棋士の仲間入りを果たした19歳は、歩みを止めない。
◆将棋界の5冠と最初の達成時年齢 過去3人。第1号は故大山康晴15世名人。1963年(昭38)2月2日、39歳10カ月で達成した。獲得タイトルは名人・十段・王位・王将・棋聖。次いで中原誠16世名人(引退)が78年2月6日、30歳5カ月で同じタイトルを獲得。93年8月18日に羽生善治九段が史上最年少の22歳10カ月で達成。この時は竜王・王位・王座・棋王・棋聖を保持した。
◆藤井聡太(ふじい・そうた)2002年(平14)7月19日、愛知県瀬戸市生まれ。5歳で祖母から将棋を教わり、地元の教室に通う。杉本昌隆八段門下。16年10月、14歳2カ月の史上最年少でプロ(四段)に。史上5人目の中学生棋士。17年6月、デビューから負けなしの29連勝で、将棋界の連勝新記録を達成。18年2月、朝日杯で史上最年少の公式戦初制覇。20年7月、17歳11カ月の史上最年少で初タイトルとなる棋聖を獲得。翌月王位も奪取。21年7月、棋聖初防衛。タイトル通算3期獲得で九段昇段。王位防衛後、叡王と竜王を奪取。今年2月、王将も奪取して、19歳7カ月で最年少5冠に。21年の獲得賞金と対局料は6996万円で3位(20年は4554万円で4位)。 [日刊スポーツ 2022年2月12日20時9分]
松を詠める歌17
巻19-4169:霍公鳥来鳴く五月に咲きにほふ花橘の.......(長歌)
標題:為家婦贈在京尊母所誂作謌一首并短謌
標訓:家婦(かふ)の京(みやこ)に在(いま)す尊母に贈らむが為に、誂(あとら)へて作れる謌一首并せて短謌
原文:霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須家久奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 (御面謂之美於毛和)
万葉集 巻19-4169
作者:大伴家持
よみ:霍公鳥(ほととぎす) 来鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝暮(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けくなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人(あま)の 潜き取るといふ 白玉の 見が欲し御面(みとも) 直(ただ)向(むか)ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄えいまさね 貴き吾(あ)が君 (御面は「みとも」と謂ふ)
意訳:ホトトギスが飛び来て鳴く五月に咲きほこる花橘のように芳しい母上の御言葉を、朝夕に聞かない日々が多くなり、都から離れた鄙であるので、足を引くような険しい山の峰の谷間に遠くから見るように、遠くから嘆いても気持ちも休まらず、お慕いしても心苦しいのに、奈呉の海人が潜って取ると云う真珠のように、見てみたいと思う貴女のお顔を、直に向かい合ってお会いできる時までは、松柏のようにお元気で居て下さい。貴き私の貴女。
◎奈良時代に越中(富山県)に赴任した大伴家持は、国府があった高岡市伏木から見える富山湾(射水市の奈呉の浦)の景観を、春から夏にかけて吹く「あいのかぜ(あゆの風)」を織り込んで詠んでいます。
2014年10月19日、『世界で最も美しい湾クラブ』に富山湾が加盟することが決まりましたが、富山湾の美しさは、1200年の時空を越えて万葉時代にも通じているのです。富山湾は、日本海最大の外洋性内湾で、表層を流れる暖かい対馬暖流と水深300m以下の一年中2℃前後の冷たい日本海固有水(深層水)により、暖流系と冷水系の両方の魚が生息できる環境になっています。さらに富山湾には、北アルプスの山々から豊富な酸素と栄養分が供給され、美しい景観だけではなく、約500種にものぼる魚が生息する世界でも有数の豊かな海であります。
巻19-4177:我が背子と手携はりて明けくれば.......(長歌)
標題:四月三日、贈越前判官大伴宿祢池主霍公鳥謌、不勝感舊之意述懐一首并短謌
標訓:四月三日に、越前判官大伴宿祢池主に贈れる霍公鳥(ほととぎす)の謌、舊(ふる)きを感(め)づる意(こころ)に勝(あ)へずして懐(おもひ)を述べたる一首并せて短謌
原文:和我勢故等 手携而 暁来者 出立向 暮去者 授放見都追 念鴨 見奈疑之山尓 八峯尓波 霞多奈婢伎 谿敝尓波 海石榴花咲 宇良悲 春之過者 霍公鳥 伊也之伎喧奴 獨耳 聞婆不怜毛 君与吾 隔而戀流 利波山 飛超去而 明立者 松之狭枝尓 暮去者 向月而 菖蒲 玉貫麻泥尓 鳴等余米 安寐不令宿 君乎奈夜麻勢
万葉集 巻19-4177
作者:大伴家持
よみ:我(わ)が背子と 手携(たづさ)はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放(さ)け見つつ 思ひ延べ 見(み)なぎし山に 八(や)つ峯(を)には 霞たなびき 谷辺(たにへ)には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば ほととぎす いやしき鳴きぬ ひとりのみ 聞けばさぶしも 君と我れと 隔(へな)てて恋ふる 砺波山(となみやま) 飛び越え行きて 明(あ)け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめくさ 玉貫くまでに 鳴き響(とよ)め 安寝(やすい)寝(ね)しめず 君を悩ませ
意訳:いとしいあなたと手を取り合って、夜が明けると外に出で立って面と向かい、夕方になると遠く振り仰ぎ見ながら、気を晴らし慰めていた山、その山に、峰々には霞がたなびき、谷辺には椿の花が咲き、そして物悲しい春の季節が過ぎると、時鳥がしきりに鳴くようになりました。しかし、たったひとりで聞くのはさびしくてならない。時鳥よ、君と私とのあいだをおし隔てて恋しがらせている、その砺波山を飛び越えて行って、夜が明けそめたなら庭の松のさ枝に止まり、夕方になったら月に立ち向かって、菖蒲を薬玉に通す五月になるまで、鳴き立てて、安らかな眠りにつかせないようにして、君を悩ませるがよい。
◎砺波山(となみやま)は富山・石川県境にある山地です。北方の宝達丘陵と南方の両白山地との間にあり、標高は 200m前後といわれます。越中と加賀を結ぶ通路が開け、倶利伽羅峠は軍事の要衝でもありました。北陸道は尾根沿いに通っていましたが、JR北陸本線、国道8号線は天田峠の下をトンネルで通ります。倶利伽羅県定公園に指定されています。
巻19-4266:あしひきの八つ峰の上の栂の木の.......(長歌)
標題:為應詔儲作謌一首并短謌
標訓:詔(みことのり)に応じるために儲(あらか)じめ作れる謌一首并せて短謌
原文:安之比奇能 八峯能宇倍能 都我能木能 伊也継々尓 松根能 絶事奈久 青丹余志 奈良能京師尓 万代尓 國所知等 安美知之 吾大皇乃 神奈我良 於母保之賣志弖 豊宴 見為今日者 毛能乃布能 八十伴雄能 嶋山尓 安可流橘 宇受尓指 紐解放而 千年保伎 伎吉等餘毛之 恵良々々尓 仕奉乎 見之貴者
万葉集 巻19-4266
作者:大伴家持
よみ:あしひきの 八峯(やつを)の上の 樛(つが)の木の いや継々(つぎつぎ)に 松し根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代(よろづよ)に 国知らさむと やすみしし 吾(わ)が大皇(おほきみ)の 神ながら 思ほしめして 豊(とよ)し宴(ほあかり) 見(め)す今日(けふ)は 物部(もののふ)の 八十(やそ)伴(とも)の男(を)の 島山に 明(あか)る橘 うずに刺し 紐解き放けて 千年(ちとせ)寿(ほ)き 寿(ほ)き響(とよ)もし ゑらゑらに 仕へまつるを 見るが貴さ
意訳:足を引く険しいたくさんの峰の頂に生える樛の木、その言葉のひびきではないが、一層に継ぎ継ぎに、松の根のように絶えることなく、青葉が照り輝く奈良の都は、万代に国を統治されると、平穏に治められる吾等の先の天皇は、神でありながら、民を慰撫されて、立派な宴を披きご覧になる今日は、朝廷に仕えるたくさんの男たちの、庭園にある光り輝く橘を髪飾りに刺し、上着の紐を解きくつろいで、千年を寿ぎ、寿ぎ歌や楽曲を響かせて、皆が笑顔で御奉仕するのを、このように眺めることは貴いことです。
巻19-4271:松蔭の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に
◎原文の「君伎麻佐牟可」の「君」は聖武太上天皇を指します。表記で「太上天皇」に対して漢文的な「君」の用字を使った特別な事例です。
※藤原八束(ふじわらのやつか、715~766年)
霊亀(れいき)元年生まれです。北家藤原房前(ふささき)の3男です。母は牟漏(むろの)女王。天平20年(748)参議となり、大宰帥(だざいのそち)、中務卿などを歴任しました。正三位,大納言兼式部卿にすすみました。初め八束といいましたが、天平宝字4(760)年ごろ真楯の名を賜ったといいます。公平で度量広く、十分大臣の重責に耐える人物と評され、聖武天皇から寵遇を受けたといいます。和歌が「万葉集」に8首はいっています。天平神護(じんご)2年3月12日死去。52歳でした。
ウェブニュースより
【スノボハーフパイプ】平野歩夢、大逆転金の裏に「2回目の得点納得いかず、怒りを最後に表現」 ―― <北京オリンピック(五輪):スノーボード>◇男子ハーフパイプ(HP)決勝◇11日◇雲頂スキー公園
2大会連続銀メダルの平野歩夢(TOKIOインカラミ)が悲願の金メダルに輝いた。1回目から超大技トリプルコーク1440(斜め軸に縦3回転、横4回転)を成功させた平野歩は3回目で96.00をマーク。逆転で初優勝を果たした。2位はスコット・ジェームズ(27=オーストラリア)だった。
怒りが大逆転の力となった。決勝2回目にトリプルコーク1440を決めるなど、最高難度のトリックを連発したが、得点は91.75で2位。首位のジェームズの92.50に及ばなかった。だが最終演技者となった3回目。2回目と同じルーティン(フロントサイドトリプルコーク1440-キャブダブルコーク1440-フロントサイドダブルコーク1260-バックサイドダブルコーク1260-フロントサイドダブルコーク1440)に再び挑み、それを完璧にこなした。96.00で大逆転での金メダルとなった。
平野歩は「夢が一つかなった。ここを取らずには終われなかった。ずっとやってきたことをここで出し切れた」と話した。続けて「2回目の得点には納得いかなかった。その怒りをうまく最後に表現できた」と胸を張った。
◆トルプルコーク1440 斜め軸に縦3回転、横4回転する大技。技名にある「トリプル」は縦に3回転することを指す。「コーク」とはコルクスクリューの略で、コルク用の栓抜きのように、らせん状に渦を巻く回転形式であることに由来。1440は回転数(360×4)を意味する。昨年12月のデュー・ツアーで、平野歩夢が公式戦では世界で初めて成功させた。 [日刊スポーツ 2022年2月11日12時47分]
松を詠める歌16
巻17-3890:我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ
三野石守(みのの いそもり、生没年不詳)
奈良時代の官吏です。天平2 (730) 年大伴旅人が大宰府から都にもどるとき、別に海路をとった従者らの旅立ちの歌10首のうち1首に名がみえます(「万葉集」巻17)。ほかに巻8にも歌1首があります。
巻17-3899:海人娘子漁り焚く火のおぼほしく角の松原思ほゆる
◎風に吹かれてゆらゆら揺れている漁火を眺めているうちに、炎の中から幻想の如く妻の面影が浮かび上がってきました。「もうすぐ逢える!」と胸を躍らせている男。
船旅でで、都努(つの)は西宮市松原町津門(つと)の海岸のことです(現在はありません)。「都努の松原」を「自分を待つ妻」に譬えています。「当時、この地は妻に見せたい景勝の地として詠われていたらしく、それが妻をさすようになった」のだそうです。
巻17-3942:松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ
※平群女郎(へぐりのいらつめ、生没年不詳)
奈良時代の歌人です。大伴家持をめぐる女性たちのうちのひとりとおもわれます。天平18年(746)以降、越中守であった家持におくった歌12首が「万葉集」巻17におさめられています。
巻17-4014:松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ
◎左注に、「右射水郡古江村取獲蒼鷹 形<容>美麗鷙雉秀群也 於時養吏山田史君麻呂調試失節野猟乖候 摶風之翅高翔匿雲 腐鼠之<餌>呼留靡驗 於是<張>設羅網窺乎非常奉幣神祇恃乎不虞也 <粤>以夢裏有娘子喩曰 使君勿作苦念空費<精><神> 放逸彼鷹獲得未幾矣哉 須叟覺<寤>有悦於懐 因作却恨之歌式旌感信 守大伴宿祢家持 [九月廾六日作也]とあります。
[訓読]右、射水郡の古江村にして蒼鷹を取獲(と)る。形<容>美麗にして雉(きぎし)を鷙(と)ること、群に秀(すぐ)れたり。時に養吏山田史君麻呂、調試節を失ひ、野猟候(とき)に乖(そむ)く。摶風(はくふう)の翅(つばさ)は、高く翔(かけ)りて雲に匿(かく)り、腐鼠(ふそ)の<餌>も呼び留むるに驗(しるし)靡(な)し。是に羅網(らもう)を<張>り設(ま)けて、非常を窺(うかが)ひ、神祇に奉幣して不虞(ふぐ)を恃(たの)む。<粤>(ここ)に夢の裏に娘子有り。喩して曰く、使君、苦念を作して空しく<精><神>を費やすこと忽れ。 放逸せる彼(そ)の鷹は獲り得むこと幾だもあらじといふ。 須叟にして覺(おどろ)き<寤>(さ)め、懐(こころ)に悦(よろこ)び有り。因りて恨(うらみ)を却(のぞ)く歌を作り、式(もち)て感信を旌(あらは)す。守大伴宿祢家持
大意は、「右は、射水郡の古江村で青鷹を捕まえた。姿形は美しく、雉を捕ることは抜群であった。時に鷹飼の山田史君麻呂が、訓練する時を間違え、猟をする時節をはずした。風を打つ翼は空高く飛翔して雲に隠れてしまった。腐鼠の餌も呼び戻すことにはなんの甲斐もない。そこで鳥網を張り設けて、万が一にも懸かるかと窺い、神々に幣帛を奉って奇跡を祈っていた。ここに夢の中に娘子が出てきた。諭して言うのに「国の守よ。心を苦しめて思い悩むことはない。逃げていったその鷹は捕獲することはそう長くはないと言う。しばらくして目が覚めて心中うれしく思った。そこで恨みを除く歌を作って、神に祈って効験のあったことを示す。守大伴宿祢家持」
※山田史君麻呂(やまだのきみまろ、生没年不詳)
奈良時代の鷹師(たかし)です。大伴家持(おおともの-やかもち)につかえました。「万葉集」巻17の家持の歌と注によれば、天平19年(747)主人の自慢の鷹をにがしてしまい、家持をくやしがらせたといいます。
ウェブニュースより
首都圏に積雪の可能性、春はまだ先? ―― ■天気のなぞ 東海や近畿、北海道に大雪をもたらした「立春寒波」が一段落し、天気図のパターンに変化が出てきた。南岸沿いを低気圧が通り、太平洋側で天気が崩れやすくなる。10~11日は関東の平野部でも雪になる可能性があるが、どこでどの程度の雪が降るかは計算モデルによってばらつきがある。上空の寒気、低気圧の発達具合や位置など条件のわずかな違いで結果が大きく異なり、予報官泣かせの天気となる。
日米欧の数値モデルによる計算結果をみると、この先10~11日と13~14日ごろに南岸低気圧が通る予想だ。特に10日の低気圧は進路や発達の程度、寒気の状態から、首都圏を含む太平洋側で雪が降る公算が大きい。東京では2、3センチの積雪でも転倒する人が出始め、5センチも積もれば交通障害が起きる。10センチなら鉄道のダイヤが乱れることもある。雪に不慣れなだけに、注意が必要だ。
雪が降るには、まず低気圧の雲が広がってこなければならない。南岸低気圧が南海上を離れて通ると、曇るだけで終わる。逆に陸地すれすれだと、降水量は多くても、低気圧が持ち込む暖気の影響で雨になる。陸地からほどよい距離のコースを通る必要があり、経験的には八丈島付近を北東進すると雪になりやすいとされる。今回はそうしたコースを通りそうだ。加えて、1月6日のように関東沖に風が集まる収束帯ができ、局地的な低気圧が発生して雲が発達する可能性がある。
南岸低気圧のコースが多少陸地寄りでも、上空の寒気が強ければ雪になる。寒気の目安として、上空約1500メートルの気温が参考になる。氷点下3度を上回るとほぼ雨だが、これ以下だと雪の可能性があり、同6度程度まで下がると大雪の恐れが強まる。関東南部の場合、ちょうどこの間に入る場合がほとんどだ。今回は、氷点下3度を少し下回るかどうか、という気温が予想されている。
局地的な気温や湿度の分布も重要だ。早めに内陸部で降水が始まると、雪が水蒸気に昇華したり雨が蒸発したりする過程で周りから熱を奪って空気を冷やし、冷気がたまる現象が知られる。この冷気が平野部に向けて流れ出すと、気温が下がる。低気圧が近づけば湿度は上がるが、ある程度気温が下がっていれば雪が降り続く。
低気圧が適度に発達し、北から冷たい空気を十分に引き込めば雪の確率が高まる。低気圧の接近とともに東寄りの風が強まると、比較的暖かい海面の影響を受けて気温が高めになり、途中で雨に変わることがある。北~北北西の風だと、気温が低く保たれて雪として降り続けることが多い。
気温が1度を下回り、0度に近づくと積雪のペースは速まる。氷点下まで下がると乾いた雪となり、平野部でも1時間に3センチ程度積もるケースがある。今回は気圧の谷が東日本に残り、降水期間が長引くと予想されている。その間、ずっと雪として降り続ければ、積雪が10センチを超えてもおかしくない。
コンピューターで局地的な現象まで精度よく予測するのは難しく、最後は予報官の判断に負うところが大きい。雨か、みぞれか、雪か。雪になった場合は注意報・警報級の量になるのか。予報は状況に応じて刻々と変わるので、常に最新の情報を入手する必要がある。2月の雪は降ったあとに気温が上がり、春めくこともあるが、今回はそうはならず低温が続く見通しだ。積雪した場合はしばらくの間、路面凍結の恐れがある。13日ごろに雨や雪を降らせると予想される次の低気圧からも目が離せない。 【日本經濟新聞 2022年2月9日 2:00】
松を詠める歌
15巻15-3621我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる
◎長門(ながと)の島は、現在の広島県呉市の南にある倉橋島(くらはしじま)で、北側の音戸町と南側の倉橋町とで構成されています。倉橋町の桂浜(かつらがはま)には造船歴史館があり、実物大に復元された遣唐使船が展示されています。
巻15-3655:今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ
◎舞鶴公園は、福岡城址周辺の公園で、桜の名所ですが、四季を通じて花を楽しめる公園のようです。また、スポーツ施設も多数あります。福岡城は江戸時代初め、黒田長政が造った城で、舞鶴城ともいわれます。
なお、ここには、上代から外交使節のために建設された「鴻臚館」(当時は、筑紫の館)がありました。現在は、跡地に展示館が公開されています。
さて、歌碑は下の写真です。
巻15-3721:ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ
◎「御津」は大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の東浜一帯を指します。
巻15-3747:我が宿の松の葉見つつ我れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに
中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり、生没年不詳)
奈良時代の歌人です。『万葉集』巻15の目録に、蔵部の女孺(後宮蔵司の女官か)狭野茅上娘子を娶ったときに流罪に断ぜられたとあり、越前国に配流されます。原因は、時の政情に絡むかと推測されますが、禁を犯して娘子と結ばれたためともいいます。天平12(740)年6月の大赦では「赦の限りに在らず」とされており、罪せられたのは同11年2月の大赦以後でしょうか。同13年9月の大赦で帰京した蓋然性が高い。天平宝字8(764)年藤原仲麻呂の乱に連座して除名(重罪の官人から位勲のすべてを剥奪する付加刑)されます。『万葉集』の40首は、配所での、都の娘子との贈答が主だが、娘子の23首をも含め、編者(大伴家持か)の手で再構成されたといわれ、全体が悲劇的な愛の物語の趣を呈します。
※狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ、生没年不詳)
奈良時代の歌人です。蔵部(くらべ)の女嬬(にょじゅ)(後宮の女官)です。中臣宅守(なかとみの-やかもり)の妻でもあります。天平(てんぴょう)11年(739)ごろ夫が越前(えちぜん)(福井県)に流されたとき、ふたりでかわした贈答歌が「万葉集」巻15に63首おさめられています。うち23首が娘子の短歌で、宅守へのはげしい思慕がうたわれています。
ウェブニュースより
【ジャンプ】小林陵侑24年ぶり金「2本ともいいジャンプ」札幌の“金銀銅”からちょうど50年 ―― <北京オリンピック(五輪):ジャンプ>◇男子ノーマルヒル決勝◇6日◇国家ジャンプセンター
ノルディックスキー・ジャンプ男子個人ノーマルヒルで、小林陵侑(25=土屋ホーム)が104.5メートル、99.5メートルの合計275.0点で金メダルを獲得した。ジャンプ日本勢の金メダルは1998年長野大会のラージヒルの船木和喜と団体以来24年ぶり。ジャンプの日本勢として海外開催の五輪では初の頂点だ。
1972年札幌五輪で笠谷幸生ら「日の丸飛行隊」が表彰台を独占したのは同じ2月6日。ちょうど50年後、日本のエースが偉業を達成した。
◇ ◇ ◇
金メダルを確信した。小林陵は着地すると右手でガッツポーズ。得点がアナウンスされ、金メダルが決まると、兄の潤志郎と抱き合い、雄たけびをあげた。1972年2月6日、札幌五輪。笠谷幸生ら「日の丸飛行隊」が表彰台を独占して日本を湧かせた。ちょうど50年後、小林陵が歴史に名を刻んだ。
1回目は不利な追い風ながら最長不倒104.5メートル。1位で迎えた2回目。プレッシャーがかかる中、99.5メートルの確実なジャンプで金メダルを決めた。「2本ともいいジャンプをそろえられてうれしい」。
師匠と弟子の特訓の成果だった。当初、葛西紀明には小林陵の姿に悔しさを感じられなかった。16-17年にW杯にフル参戦。1度も30位以内に入れず、W杯ポイントを獲得できなかった。「ノーポイント」と呼んであえてからかった。ハッパを掛けた。17年夏のスロベニア・プラニツァ。「悔しくないのか」「悔しいです」「強くなりたいか」「なりたいです」のやりとり後、葛西から「じゃあ『葛西メソッド』を教えるから」とコツを伝授された。
「5割の力で飛べ」。曲げた膝の角度を保ちながら、まずは全力を出さずに飛び出す。49歳で現役の葛西でさえ「難しい」という動きを1、2回飛んで成功させた。「100本、1000本飛んでできる選手、何千本飛んでもできない選手って分かれる。陵侑は天才なんじゃないかな」とレジェンドを驚かせた。平昌五輪では未完成で7位。翌19年にW杯13勝の大ブレークを果たした。
2人の出会いは小林陵が高2だった13年夏。札幌・宮の森ジャンプ競技場だった。葛西の目には「シュリーレンツァウアーに似てるジャンプをするやつ」と映った。粗削りだったが、飛び出しから空中にかけて腰がくの字に曲がったスタイルが、W杯男子歴代最多53勝の記録を持つオーストリア人選手と重なった。
この日、師匠・葛西はテレビ局のコメンテーターとして現地で観戦。目の前で最高の恩返しをした。 [日刊スポーツ 2022年2月6日22時35分]
松を詠める歌14
巻14-3433:薪伐る鎌倉山の木垂る木を松と汝が言はば恋ひつつやあらむ
◎鎌倉山という名前がみえる最も古い史料は万葉集に収録された歌とされています。その後も平安時代・鎌倉時代にかけて「鎌倉山」という名称が様々な史料に登場しますが、これらの鎌倉山はあくまでも「鎌倉の山」という意味で使われており特定の山を指す物ではありません。
鎌倉山(かまくらやま)は、神奈川県鎌倉市深沢地域にある大字です。現行行政地名は鎌倉山一丁目から鎌倉山四丁目です。
巻14-3495:巌ろの沿ひの若松限りとや君が来まさぬうらもとなくも
◎「巌(いはほ)」は大きな岩、又は、伊香保の訛り説もあります。
原文は「伊波保呂乃」。「こは略解にも云る如く、上に、伊香保呂乃(いかほろの)蘇比乃波里波良(そひのはりはら)、とよめれば、此の歌も、本は伊香保呂乃(いかほろの)なりけむ、されど昔より、伊波保呂(いはほろ)と歌ひ誤り傳へて、國土未勘の中には入れるなるべし」。
ウェブニュースより
中国、五輪外交を本格化 米英などの首脳級不在 ―― 北京冬季五輪の開会式が開かれた4日、中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は訪中した外国首脳らとの会談を始めた。ロシアのプーチン大統領を筆頭に、6日にかけて相次いで2国間協議や式典を予定する。「五輪外交」で各国との結束を演出し、外交ボイコットに踏み切った米英などに対抗する構えだ。
中国外務省によると、北京五輪の開会式には約30人の首脳級や国際機関のトップが出席し、習氏との会談などを予定する。中国には各国との関係深化を強調し、対立する米国の立場が国際社会を主導するものではないと国内外に印象づけたい考えがある。
今回の北京五輪では米英のほかオーストラリアやインドなどが人権問題などを理由に外交ボイコットを表明。来賓の顔ぶれは日米仏を含む約80カ国が首脳を送った2008年の北京夏季五輪から様変わりした。
中国メディアは「米国が呼びかける外交ボイコットが破綻」(環球時報)と主張するが、首脳級が参加しているのは強権的な統治を敷く国が目立ち、民主主義陣営との溝を映す。
首脳級を派遣した国々には中国からの経済協力を引き出したい思惑も透ける。パキスタンや中央アジア各国などは習指導部が提唱する広域経済圏構想「一帯一路」への支持を改めて表明するとみられる。フェルナンデス大統領が開会式に出席するアルゼンチン政府は1日に原子力発電所の新たな設備建設で中国と合意書に署名したと発表した。
欧米メディアは開催に冷ややかな見方を示す。米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は3日、「中国の人権侵害などをめぐる米中間の政治的緊張の高まりは、普段は心地よい(五輪の)雰囲気に暗雲をもたらしている」と指摘した。米国で五輪の放映権をもつ放送局NBCユニバーサルが広告主に対し「18年の(韓国・平昌)冬季五輪よりも視聴率が下がる見込みと伝えている」と報じた。
英BBCは米英などの外交ボイコットに触れ「最も分断された五輪が始まる」と伝えた。ロイター通信によると、開会式に先立ち、米国やスイスの国際オリンピック委員会(IOC)本部前など各地で、人権侵害が指摘される中国での五輪開催に抗議するデモが開かれた。
都内でも4日、中国大使館前に香港やチベット、新疆ウイグル両自治区の出身者ら数十人が集まって開催に抗議した。参加した新疆ウイグル自治区出身の男性は「現地で兄が強制収容され、音信不通になっている。中国を擁護する国も自由や人権、民主主義を軽視している」と語った。 【日本經濟新聞 2022年2月4日 19:00】
松を詠める歌13
巻13⁻3258:あらたまの年は来ゆきて玉梓の使の来ねば.......(長歌)
原文:荒玉之 年者来去而 玉梓之 使之不来者 霞立 長春日乎 天地丹 思足椅 帶乳根笶 母之養蚕之 眉隠 氣衝渡 吾戀 心中少 人丹言 物西不有者 松根 松事遠 天傳 日之闇者 白木綿之 吾衣袖裳 通手沾沼
万葉集 巻13⁻3258
作者:不明
よみ:あらたまの、年は(き)来ゆきて、玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば、霞(かすみ)立つ、長き春日(はるひ)を、天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし、たらちねの、母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り、息(いき)づきわたり 我(あ)が恋(こ)ふる、心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み、天(あま)伝(つた)ふ、日の暮(く)れぬれば、白栲(しろたへ)の、我(わ)が衣手(ころもで)も、通(とほ)りて濡(ぬ)れぬ
意味:また新しい年がやってきても便りの使いがこないので、霞(かすみ)の立つ長い春の日に、空と地面がいっぱいになるほどにあなた様への想いをたたえて、母が飼っている蚕(かいこ)が繭(まゆ)にこもっているように息を詰まらせ、私が恋する気持ちを人に言ったりしてはいけないので、待ち遠しい気持ちで、天を渡る日が暮れてしまうと、私の衣の袖(そで)は涙で濡れてしまうのでした。
巻13⁻3324:かけまくもあやに畏し藤原の都しみみに.......(長歌)
標題:挽歌
標訓:挽歌(ばんか)
原文:挂纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 羊緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼之秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡芽子乎 珠多次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 (一云、 者) 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付叨不知 雖思 印手無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有
万葉集 巻13⁻3324
作者:不明
よみ:かけまくも あやに恐(かしこ)し 藤原の 王都(みやこ)しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 大(おほひ)に坐(いま)せど 行き向ふ 年の緒長く 仕(つか)へ来(こ)し 君の御門(みかど)を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏(かしこ)けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満(たたは)しけむと 吾が思(も)へる 皇子の命(みこと)は 春されば 植(うゑ)槻(つき)が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負(お)ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲(しの)はし み雪降る 冬の朝(あした)は 刺楊(さしやなぎ) 根張り梓を 大御手(おほみて)に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が王(おほきみ)を 烟(けぶり)立つ 春の日を暮らし 真澄鏡(まそかがみ) 見れど飽かねば 万歳(よろづよ)に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く吾(わ)れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うち日さす 宮の舎人(とねり)も (一云 はく、は) 栲(たへ)の穂(ほ)の 麻衣(あさぎぬ)着れば 夢かも 現(うつつ)かもと 曇り夜の 迷(まと)へる間(ほと)に 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の道ゆ 角(つの)さはふ 磐余(いはれ)を見つつ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)り奉(まつ)れば 行く道の たづきを知らに 思へども 験(しるし)を無(な)み 嘆けども 奥処(おくか)をなみ 大御袖(おほみそで) 行き触れし松を 言問(ことと)はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天(あま)の原 振り放け見つつ 玉(たま)襷(たすき) 懸けて偲(しの)はな 畏(かしこ)くあれども
意訳:言葉に表すのもとても恐れ多い藤原の宮は王都として多くの人々で満ちていて、貴い御方はたくさんいらっしゃるが、去り来る年月を長くお仕えして来た、貴い貴方の宮殿を天空を見るように仰ぎ見ながら、恐れ多いことではありますが、貴い貴方を思いお頼り申し上げて、いつごろには成長なされて満月のように満ちたりなされるのでしょうと私が思っていた皇子の尊は、春になると植槻のほとりの、遠くに出かけた人を待つ松の下道を通って山にお登りになって国見をなされて、九月の時雨の秋には御殿の砌に一面に露が着いて、風に靡く萩の花を玉のたすきのように紐に貫いて飾って秋をお楽しみになり、美しい雪が降る冬の朝には挿し木の楊の根が張るように弦を張った梓弓を御手にお持ちになられて的当てを為された我々の王を、民のかまどに煙が立ち、春霞の春の一日を穏やかに過ごし、願うものを見せると云う真澄鏡を見ていても飽きることがないと、万代にまでこのようにあるでしょうと、大船のように頼もしく思っていた時に、泣いている私。その私の目も間違ったのでしょうか、御殿を振り返って見ると、葬送の白栲に飾り付けられて、日の射し込む御殿に仕える舎人も栲の立派な麻衣を着ているので、夢でしょうか、現実でしょうかと、曇った夜に道を迷うように戸惑っている間に、麻の裳が良い城上の道を通って、でこぼこ道の磐余の里を横に見ながら、貴い貴方を神として葬送を行い申し上げると、今後の生き方を知らないので、貴方を思ってみてもどうしようもなく、それを嘆いてみても、御姿はない。貴方の立派な御袖が行き触れた松を名残として、言葉を語らぬ木ではあるが、あら魂の月が代わるたびに、貴方が登られた天の原を仰ぎ見上げて、玉のたすきを懸けて偲びましょう。恐れ多くはあるが。
◎亡くなられたのは、どの皇子でいらしたのでしょうか。草壁皇子でも、高市皇子でもありません。一説に弓削皇子説もありますが、歌で「何時可聞 日足座而(いつしかも 日足らしまして)」と詠うように年若い皇子でなければならない条件から、現在まで該当する皇子は不明です。また、万葉集の歌が示す藤原京時代に大嘗祭を迎える前の皇太子が亡くなられているとする歴史と日本書紀や続日本紀が示す歴史とが違うため、実に不思議な挽歌となります。
巻13⁻3346:見欲しきは雲居に見ゆるうるはしき鳥羽の松原.......(長歌)
原文:欲見者 雲居所見 愛 十羽能松原 小子等 率和出将見 琴酒者 國丹放甞 別避者 宅仁離南 乾坤之 神志恨之 草枕 此羈之氣尓 妻應離哉
万葉集 巻13⁻3346
作者:不明
よみ:見欲(ほ)しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽(とば)の松原 小子(こども)ども いざわ出で見む 琴(こと)酒(さけ)は 国に放(さ)けなむ こと避(さ)けは 家に離(さ)けなむ 天地の 神し恨めし 草枕 この旅の日(け)に 妻離(さ)くべしや
意訳:見たいと思うのは雲の彼方に見える愛しい鳥羽の松原よ。供の者たちを率いて出て見よう。琴を奏でるような風雅な宴会は故郷で開こう、もの忌みならば家でお籠りしよう。天と地の神が恨めしい。草を枕とするこの旅路の中での、この日に妻と死出の離別をするべきでしょうか。
◎この歌は「さけ、さく」の音の言葉を集めた歌ですが、宴会を示す「琴酒(ことさけ)」、物忌みを示す「別避(ことさ)け」、宴会を開催する「放(さ)け」、塗り籠に籠り隔離する意味の「離(さ)く」、死出の離別である「離(さ)く」等と、それそれで意味が違います。このように歌の表現に非常に技巧を凝らしていますが、その分だけ自分の妻の死去に対する挽歌の歌としてはどうでしょうか。少し、不思議に感じます。
およそ、作歌者の想いは色々な「さく」で表現される動作を伴う物事は旅の途中ではしない(物忌む)から、天神地祁は一族郎党を率いてのこの旅の途中で、私と妻とを「離(さ)く」ことをするべきでないとするのでしょう。それで、「妻の死」を直接に表す言葉が、一つも長歌や反歌にもない理由なのでしょう。もし、そうですと、この歌は二重に難解です。
ところが、この物忌みの言霊の世界の難解さを感じる前に、普段の解説では歌の内容への不思議さが先に来ます。そして、この歌の内容への不思議さを避けるために、普段の解説では「さけ、さく」の音の言葉をすべて異字同義語としていて、別れる意味合いで「離(さ)く」の意味を取ります。その結果、筋の通った和歌としての現代語訳には苦労します。
ウェブニュースより
藤井聡太竜王のA級持ち越し 首位キープも2位が勝利「自力で昇級できるのでしっかり」最終局へ ―― 将棋の史上最年少4冠、藤井聡太竜王(王位・叡王・棋聖=19)が3日、東京・千駄ケ谷「将棋会館」で行われた第80期順位戦B級1組、阿久津主税八段(39)戦で快勝し、対戦成績9勝2敗とトップをキープした。
午前10時から藤井の先手で始まった対局は、横歩取りから飛車角を交換して打ち合う展開になった。「構想の立て方が難しかった」と振り返ったが、午後8時52分に81手で勝利した。
https://www.youtube.com/watch?v=ohat5tfJBwU
同日、大阪市「関西将棋会館」で行われた松尾歩八段(41)対稲葉陽八段(33)は午後10時35分、2位追走の稲葉が松尾に94手で勝ち、8勝3敗とした。
このため、藤井のA級昇級は、3月9日に行われる最終局の佐々木勇気七段(27)戦に持ち越された。佐々木を下せば、初のA級入りが決まる。「(あと1勝で)自力で昇級できるので、しっかり集中して臨みたい」と話していた。
A級は10人総当たりで22年6月あたりから23年3月まで、ほぼ月1局ペースで行うリーグ戦。成績最上位者は23年4~6月開催予定の名人戦7番勝負の挑戦者となる。藤井がここに登場して来年、名人を獲得すれば、遅くとも20歳11カ月。谷川浩司現九段(59)が1983年(昭58)に達成した21歳2カ月の史上最年少記録を上回る。 [日刊スポーツ 2022年2月3日23時8分]
松を詠める歌12
巻12-2861:礒の上に生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひわたるかも
巻12-3047:神さびて巌に生ふる松が根の君が心は忘れかねつも
巻12-3130:豊国の企救の浜松ねもころに何しか妹に相言ひそめけむ
◎企救は現在の北九州市あたりの昔の地名で、明治以降も行政区画として企救郡があったり、町制施行後に企救町がありましたが、第二次大戦後に小倉市に編入されて消滅しました。
門海峡に突き出た企救半島や企救山地にその名が残ります。歌枕としては、企救の長浜、企救の高浜として、現在の小倉から門司にかけての海岸が詠まれました。長い砂浜海岸が続き、根上がりの松があって、さぞかし風光明媚な情景が広がっていたことでしょう。
ウェブニュースより
石原慎太郎氏が死去、89歳 都知事、運輸相を歴任―芥川賞受賞、保守論客 ―― 元東京都知事で、運輸相、旧日本維新の会共同代表などを務めた石原慎太郎(いしはら・しんたろう)元衆院議員が1日死去した。89歳だった。神戸市出身。葬儀は近親者のみで実施し、追って「お別れの会」を執り行う予定。
一橋大法卒。在学中の1956年、若者の無軌道な生き方を描いた「太陽の季節」で芥川賞を受賞。その後、保守の立場からの評論活動を展開するとともに、国会議員、都知事としても活躍し、2015年に旭日大綬章を受章した。
政界デビューは68年。自民党公認で参院全国区に立候補し、300万票を超える得票でトップ当選を果たした。72年に衆院にくら替えし、75年に辞職して都知事選に出馬したが、現職の故美濃部亮吉氏に敗れた。その後、国政に復帰し、環境庁長官、運輸相を歴任。89年には自民党総裁選に立候補するなど衆院通算8期を務め、95年に再び辞職した。99年に都知事選に再挑戦し初当選。以後、2011年に4選を果たすまで、いずれの知事選でも他候補を圧倒した。
都知事としてディーゼル車の排ガス規制に取り組んだほか、中小企業支援を目的に「新銀行東京」を設立するなど存在感を示したが、12年10月に突然辞任。当時の橋下徹大阪市長率いる日本維新の会に合流し、同12月の衆院選に比例代表東京ブロックから立候補して当選、17年ぶりに国会に戻った。
13年1月には橋下氏とともに共同代表となったが、「東京勢」と「大阪勢」の路線対立もあり、同党は分裂。石原氏は次世代の党を結成し、最高顧問に就任したが、14年12月の衆院選で落選し、政界を引退した。
保守派ながら、米国とは一線を画す立場を取り、現行憲法の破棄と日本の核保有を主張。また、自衛隊式典のあいさつで差別的表現を用いたり、東日本大震災に関連し「天罰」と発言、後に撤回したりするなど、配慮を欠く発言で物議を醸すことも多かった。
戦後の国民的スターで俳優の故裕次郎氏は実弟。長男は自民党元幹事長の伸晃氏。次男はタレントの良純氏で、三男の宏高氏は同党衆院議員。 (JIJI.COM 2022年02月01日20時21分)
「イナズマ純也」右足一閃!4戦連発伊東純也 サウジにリベンジ「相手が強い方が自分は生きる」 ―― <ワールドカップ(W杯)アジア最終予選:日本2-0サウジアラビア>◇B組◇1日◇埼玉ス
サッカー日本代表(FIFAランク26位)が、リベンジに成功した。昨年10月7日の前回対戦で、0-1と敗れたサウジアラビア(同51位)に2-0と快勝。
FW南野拓実(27=リバプール)の最終予選初得点で先制し、アシストした「イナズマ純也」ことMF伊東純也(28=ゲンク)が、4試合連続得点となるボレーシュートで追加点をマークした。これでチームは5連勝。B組2位の座をキープし、首位サウジアラビアに勝ち点1に迫った。
「イナズマ純也」が、後半5分に降臨した。ペナルティーエリア外の右で、長友からのパスを胸トラップ。右に軌道を変えると、右足一閃(いっせん)。対角線上のゴール左上へ、追加点となるライジングシュートを突き刺した。「半分ラッキー。行ったところもラッキーだった」と謙遜した金色のイナズマさん。「自分のゴールで勝ったのはうれしいし、チームが勝てたことが一番うれしいです」。これで4試合連続得点。止まらない。どよめきに近いため息も鳴りやまない。
光り輝いていたのは、前半から。32分。右サイドバックのDF酒井から、右サイド深くのスペースにロングボール。「ヨーイどん」で始まった相手DFとの競り合いも、稲妻のようなスピードで置き去りにした。マイナス気味に、グラウンダーのクロスを供給。ピッチで転がりながら、MF南野の先制点を見届けた。「最後きつかったけど、チームのために走って勝てればいいと思って、最後までみんな集中切らさずにできたと思います」。1ゴール1アシストで全てを出し切った。
“裏方”として見ていた光景を絶景に変えた。サウジアラビア・ジッダでの前回対戦は、累積警告でピッチに立つことはかなわなかった。それでも、遠征に帯同していた。「個人的には出たい気持ちがあったけど、しょうがないというか。何が出来るかなと思って」。チームの応援、裏方業務に回った。アップ後のボールの片付け、声掛けに従事。そんな中、目の前で起きた0-1。「チームとして戦っているので、負けたのは非常に悔しい」の1日から、待ちに待った1日。「今日は絶対に勝たなきゃいけない試合だった」。チームに笑顔を照らした。
「自分はあまりプレッシャーを感じるタイプではない。緊張感を楽しんで結果を出したい」とマイペースを貫く。負ければ、サウジのW杯出場が決まっていた試合でも「相手が強い方が自分は生きるタイプ」と言葉通りに、相手に衝撃を食らわせた。
ホーム2連戦を2勝で締め、これで5連勝。「最初3試合で2敗してしまって、難しい状況でしたけど、みんなが諦めず一丸となってやったから、近づいてきているのかなと思います」。次は敵地で3月24日に3位のオーストラリア戦。W杯切符は見えている。「W杯出るのは簡単じゃないけど、絶対に出なきゃいけない」。イナズマ純也が、オーストラリアの地でもエースとして君臨する。 [日刊スポーツ 2022年2月1日22時48分]
松を詠める歌11
巻11-2484:君来ずは形見にせむと我がふたり植ゑし松の木君を待ち出でむ
巻11-2485:袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり
巻11-2486:茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
◎「茅渟(ちぬ)の海」は大阪湾のことです。
巻11-2487:奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ
◎奈良山は奈良市北方の山、橘諸兄(たちばなのもろえ)の旧宅のあった所とされます。
巻11-2653:馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つるけだし君かと
巻11-2751:あぢの住む渚沙の入江の荒礒松我を待つ子らはただ独りのみ
◎あぢはアジガモのことといいます。
「渚沙(すさ)の入江」は和歌山県有田市に鎮座する須佐神社のあたりとも、愛知県南知多町の須佐湾ともいわれます。
ウェブニュースより
藤井聡太竜王が渡辺明王将に3連勝、両者長考の接戦制す 最年少5冠に王手 ―― 将棋の藤井聡太竜王(王位・叡王・棋聖=19)が、30日、栃木県大田原市「ホテル花月」で行われた第71期ALSOK杯王将戦7番勝負第3局で、渡辺明王将(名人・棋王=37)を下した。これで3連勝として、タイトル奪取と史上最年少での5冠獲得まであと1勝とした。
29日午前9時からの2日制で始まった対局は、相掛かりの出だしから初日こそ61手進んだが、すでに戦いは始まった状態だった。30日午前9時から再開されると、午後0時30分の昼食休憩までわずか8手とペースが落ちた。午後1時30分の再開後、おやつが出される午後3時までもたった5手と、両者が長考を繰り返して膠着(こうちゃく)状態に陥った。終盤までもつれ合う展開から抜け出した藤井が、渡辺玉を攻略した。
https://www.youtube.com/watch?v=K57xqnZ22ZI
かど番の渡辺がしのぐか。藤井が一気に決めるか。第4局は2月11、12日、東京都立川市「SORANO HOTEL」で行われる。
◆将棋界の5冠と最初の達成時年齢 過去3人。第1号は故大山康晴十五世名人。1963年(昭38)2月2日、39歳10カ月で達成した。獲得タイトルは名人・十段・王位・王将・棋聖。次いで中原誠十六世名人(引退)が78年2月6日、30歳5カ月で同じタイトルを獲得。93年8月18日に羽生善治九段が史上最年少の22歳10カ月で達成。この時は竜王・王位・王座・棋王・棋聖を保持した。 [日刊スポーツ 2022年1月30日19時19分]
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