瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
東京では今日から盂蘭盆会が始るようだ。
安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ullambana(ウランバナ)」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味であり、亡くなった魂は中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にいると考えられていたのである。
釈迦の弟子の中で、神通第一とされる目連がある日、先に亡くなった実母である青提女(しょうだいにょ)が天上界に生まれ変わっているかを確認すべく、母の居場所を天眼で観察したところ、青提女は天上界どころか餓鬼界に堕ちいり、地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きてしまい、困り果てた目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法(一説には施餓鬼の秘法)を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天したという。しかしながら、釈迦の当時の教説には極楽浄土や地獄といった概念は登場していなかったし、インドにはもともと盂蘭盆の風習はないのである。よって、この逸話は中国で偽経である『盂蘭盆経』が成立した時にできあがったものであるとされる。ただ、民間伝承の世界では、現在行われる盆踊りは目連の母親が天へ昇る姿を象形したものであるとされている。なお、日本においては、盆踊りは一遍の念仏踊りが発祥のもととする説もあるらしい。
早朝4時30分桜橋~水神大橋の隅田川周辺をひと回りする。橋場のテラスには紅色のムクゲが、遊歩道に出ると白のムクゲが咲いている。木槿は朝顔と同じように朝咲いて夕方にはしぼんでしまうものらしい。白居易はこれを「槿花一日を自ら榮と爲す」と詠じている。
放言 其の五 白居易
泰山不要欺毫末 泰山(たいざん)は毫末(がうまつ)を欺(あざむ)くを要せず
顔子无心羡老彭 顔子(がんし)は老彭(らうはう)を羨(うらや)むに心無(な)し
松樹千年終是朽 松樹(しようじゆ)千年(せんねん)終(つひ)に是れ朽ち
槿花一日自爲榮 槿花(きんくわ)一日(いちじつ)自(みづか)ら栄(えい)と為す
何須戀世常憂死 何ぞ須(もち)ゐむ 世を恋(した)ひて常に死を憂(うれ)ふるを
亦莫嫌身漫厭生 亦(ま)た身を嫌ひて漫(みだ)りに生を厭(いと)ふなかれ
生去死來都是幻 生去(せいきよ)死来(しらい) 都(すべ)て是れ幻
幻人哀樂繋何情 幻人(げんじん)の哀楽 何の情(じやう)にか繋(か)けむ
【通釈】泰山は偉大だからといって小さなものを侮る必要は無いし、/顔回は短命だからといって彭祖の長寿を羨む心は無かった。/松の木は千年の寿命があるといっても、最後には朽ち、/木槿〈むくげ〉の花は一日の寿命であっても、それを栄華とする。/されば、どうして現世に恋着し常に死を気に病む必要があろう。
さりとてまた、我が身を嫌ってむやみに生を厭うこともない。/生れては死ぬ、これはすべて幻にすぎぬ。
幻にすぎぬ人たる我が身、哀楽などどうして心に懸けよう。
瑞光橋下の荻の繁みのところで小鷺が遊んでいた。東白鬚公園に入ると蝉の声も聞かれた。蘇軾の詩にこんな夏の風景を詠ったのがあったけ。
〈訳〉 澄んだ谷川の水がみなぎり流れるところへ二羽の鷺が降り立ち/青々と茂る 槐(えんじゅ)の梢で一匹の蝉が鳴いている/夕べの酒がそろそろ醒めるころ、門の外はもう日が高くのぼっているが
/私はまだ床の中にいて、谷川の南、十畝(じつぽ)ほどの木陰をのんびりと眺めているのだ。
安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ullambana(ウランバナ)」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味であり、亡くなった魂は中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にいると考えられていたのである。
釈迦の弟子の中で、神通第一とされる目連がある日、先に亡くなった実母である青提女(しょうだいにょ)が天上界に生まれ変わっているかを確認すべく、母の居場所を天眼で観察したところ、青提女は天上界どころか餓鬼界に堕ちいり、地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きてしまい、困り果てた目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法(一説には施餓鬼の秘法)を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天したという。しかしながら、釈迦の当時の教説には極楽浄土や地獄といった概念は登場していなかったし、インドにはもともと盂蘭盆の風習はないのである。よって、この逸話は中国で偽経である『盂蘭盆経』が成立した時にできあがったものであるとされる。ただ、民間伝承の世界では、現在行われる盆踊りは目連の母親が天へ昇る姿を象形したものであるとされている。なお、日本においては、盆踊りは一遍の念仏踊りが発祥のもととする説もあるらしい。
早朝4時30分桜橋~水神大橋の隅田川周辺をひと回りする。橋場のテラスには紅色のムクゲが、遊歩道に出ると白のムクゲが咲いている。木槿は朝顔と同じように朝咲いて夕方にはしぼんでしまうものらしい。白居易はこれを「槿花一日を自ら榮と爲す」と詠じている。
放言 其の五 白居易
泰山不要欺毫末 泰山(たいざん)は毫末(がうまつ)を欺(あざむ)くを要せず
顔子无心羡老彭 顔子(がんし)は老彭(らうはう)を羨(うらや)むに心無(な)し
松樹千年終是朽 松樹(しようじゆ)千年(せんねん)終(つひ)に是れ朽ち
槿花一日自爲榮 槿花(きんくわ)一日(いちじつ)自(みづか)ら栄(えい)と為す
何須戀世常憂死 何ぞ須(もち)ゐむ 世を恋(した)ひて常に死を憂(うれ)ふるを
亦莫嫌身漫厭生 亦(ま)た身を嫌ひて漫(みだ)りに生を厭(いと)ふなかれ
生去死來都是幻 生去(せいきよ)死来(しらい) 都(すべ)て是れ幻
幻人哀樂繋何情 幻人(げんじん)の哀楽 何の情(じやう)にか繋(か)けむ
【通釈】泰山は偉大だからといって小さなものを侮る必要は無いし、/顔回は短命だからといって彭祖の長寿を羨む心は無かった。/松の木は千年の寿命があるといっても、最後には朽ち、/木槿〈むくげ〉の花は一日の寿命であっても、それを栄華とする。/されば、どうして現世に恋着し常に死を気に病む必要があろう。
さりとてまた、我が身を嫌ってむやみに生を厭うこともない。/生れては死ぬ、これはすべて幻にすぎぬ。
幻にすぎぬ人たる我が身、哀楽などどうして心に懸けよう。
瑞光橋下の荻の繁みのところで小鷺が遊んでいた。東白鬚公園に入ると蝉の声も聞かれた。蘇軾の詩にこんな夏の風景を詠ったのがあったけ。
〈訳〉 澄んだ谷川の水がみなぎり流れるところへ二羽の鷺が降り立ち/青々と茂る 槐(えんじゅ)の梢で一匹の蝉が鳴いている/夕べの酒がそろそろ醒めるころ、門の外はもう日が高くのぼっているが
/私はまだ床の中にいて、谷川の南、十畝(じつぽ)ほどの木陰をのんびりと眺めているのだ。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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