瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
金環日食 スカイツリーと天空競演!? ―― 5月21日の朝、九州から本州の太平洋側を中心に、太陽が月に隠され輪のように輝く天文現象「金環日食」が観測できる。日本で同様の規模で金環日食が見られるのは932年ぶり。特に東京23区は、観測できる地域「金環食帯」の中心線に位置。翌22日には東京スカイツリーがオープン。“世紀の2大イベント”を一度に楽しむことはできるのか――。/「世界で金環日食は3年に2回の頻度で観測できます。決して珍しい現象ではありません」と話すのは、天文雑誌「月刊星ナビ」の編集責任者、川口雅也さん。これまで約15回、世界各地に日食観測に出向いた経験を持つ。そんな川口さんも今回ばかりは「日本でこれだけ広範囲で見られるのは驚くべきこと」と、いささか興奮気味だ。金環日食が観測できるのは「金環食帯」と呼ばれる範囲内。都市部では今回、5月21日午前7時20分すぎに鹿児島で始まる。その後、四国、紀伊半島、東海、関東地方で観測できる。金環食帯は大阪、名古屋、東京の3大都市圏をカバーし、日本の人口の3分の2に当たる約8300万人が体験できる計算になる。/これほどの規模で金環食帯が日本列島を縦断するのは、平安時代だった1080年12月14日以来、932年ぶり。次回は300年後の2312年4月8日だ。/5月21日はまさに一生に一度のチャンス。特に東京は金環食帯の中心線に位置し、きれいな金環日食が観測できる。その翌日には、東京スカイツリーのオープンという一大事まで控えている。東京は午前6時19分4秒に太陽が欠け始め、金環日食は午前7時32分1秒から約5分間続く。スカイツリーのそばに太陽の輝く輪が見られれば最高の“前日イベント”になる。/東京では太陽は、午前7時30分ごろ東の空の約35度にある。「月刊星ナビ」ではスカイツリー越しの太陽の動きをシミュレーション。隅田川に架かる吾妻橋、駒形橋の付近できれいに観測できることを確認した。ただし川口さんは「絶対に太陽を肉眼で見ないでください」と警告する。太陽光は有害。わずか数秒でも日食網膜症という目の病気になる可能性が高い。今回の金環日食にあたり、日本眼科医会、日本眼科学会は「注意してほしい」と呼び掛けている。/そこで必要なのは、観測専用のプレートや眼鏡。これらを通して見ると、太陽が欠けていく様子や、輪になった瞬間などが鮮明に観測できる。炭素など特殊な素材でできているため、太陽以外に周辺の景色や建物は見えない構造になっている。「逆にスカイツリーまで見えたら、その観測グッズは危険ということ」という。2つを同時に見るためには、太陽の部分に大きめの観測プレートをかざしながらスカイツリーをチラ見するほかないのだ。その状態なら通常のデジタルカメラや携帯電話のカメラで撮影することも可能。スカイツリー周辺は、開業前日から大にぎわいしそうだ。
後漢書 獨行列傳 より 范式(1)
范式字巨卿,山陽金鄉人也,一名氾。少遊太學,為諸生,與汝南張劭為友。劭字元伯。二人並告歸鄉里。式謂元伯曰:「後二年當還,將過拜尊親,見孺子焉。」乃共剋期日。後期方至,元伯具以白母,請設饌以候之。母曰:「二年之別,千里結言,爾何相信之審邪?」對曰:「巨卿信士,必不乖違。」母曰:「若然,當為爾醞酒。」至其日,巨卿果到,升堂拜飲,盡歡而別。
「二年したらまた戻って来るが、そのおり、君の家に立ち寄って、親御さんにご挨拶し、坊やの顔も見せてもらおう」
そこで期日を打ち合わせた。その後、約束の日がちょうどやってきた。張劭は詳しくははに事情を述べ、客が来るまでにご馳走をよういしてほしいという。母はいった。
「二年も別れていて、それも千里の遠方の人との約束だよ。お前はまあなんと真っ正直に相手を信用するのだね!」
劭「巨卿〔范式の字〕どのは義理堅い人。きっと約束を違えることはありません」
母「それなら、お前のために酒を作っておこう」
そのひになった。范式は約束通りやってきた。座敷に上って挨拶し、酒を飲み、歓を尽くして別れた。
式仕為郡功曹。後元伯寢疾篤,同郡郅君章、殷子徵晨夜省視之。元伯臨盡,歎曰:「恨不見吾死友!」子徵曰:「吾與君章盡心於子,是非死友,復欲誰求?」元伯曰:「若二子者,吾生友耳。山陽范巨卿,所謂死友也。」尋而卒。式忽夢見元伯玄冕垂纓屣履而呼曰:「巨卿,吾以某日死,當以爾時葬,永歸黃泉。子未我忘,豈能相及?」式怳然覺寤,悲歎泣下,具告太守,請往奔喪。太守雖心不信而重違其情,許之。式便服朋友之服,投其葬日,馳往赴之。式未及到,而喪已發引,既至壙,將窆,而柩不肯進。其母撫之曰:「元伯,豈有望邪?」遂停柩移時,乃見有素車白馬,號哭而來。其母望之曰:「是必范巨卿也。」巨卿既至,叩喪言曰:「行矣元伯!死生路異,永從此辭。」會葬者千人,咸為揮涕。式因執紼而引,柩於是乃前。式遂留止冢次,為脩墳樹,然後乃去。
〔訳〕式は仕えて郡の人事係になった。その後、張劭は病気で寝ついて危篤に陥った。同じ郡の郅君章(しつくんしょう)・殷子徴(いんしちょう)が、朝晩見舞う。張劭は死に際に嘆いて言った。
「私の死友〔死後まで切れぬ友〕にあえぬのが心残りだ」
子徴「私と君章とは、君に精いっぱい尽くしている。われわれが死友でなければ、外にだれがいるというのかね?」
劭「ご両所などは私の生友〔生きている間の友〕でしかない。山陽の范巨卿だけが、死友というものだ」
間もなく死んだ。
范式はふと夢の中で張劭に会った。黒い冠に紐を垂らし、下駄をはいて〔死者の服装〕、呼びかけた。
「巨卿どの、私はこれこれの日に死んだ。これこれの日に葬られるはず、永久に黄泉の国に往くことになる。君がまだ私の事を忘れずにいるなら、葬式にまにあわせてくれるかね?」
式は夢か現(うつつ)かさだかでないままに、眼を覚まし、涙を流して悲しんだ。詳しく太守に告げ、葬式に駆けつけたいと願った。太守は心中信ぜられぬものの、式の気持ちに逆らうことも憚られ、許可した。式はすぐ友人のための喪服〔麻の着物に縄の帯〕を着け、葬式の日に間に合うよう、馬を走らせてその地に赴いた。
范式が到着しないうちに、張劭の葬列はすでに出発し、墓場までやってきた。棺を吊り降ろそうとする。ところが棺がどうしても動かない。劭の母が棺を撫でていった、
「元伯〔劭の字〕や、何か心残りがあるのかえ?」
そのまま棺を止め、しばらく待った。ふと見ると、白い馬車に白い馬をつけ〔白は喪のいろ〕大声で泣きながら駆けつけてくる人がある。劭の母が望み見て言った。
「これはきっと范巨卿どのじゃ」
范式は到着すると、棺をたたいていった。
「さらば、元伯どの。死者と生者とで路が分かれる。これで永久におわかれじゃ」
千人の会葬者は皆、もらい泣きした。范式がそこで棺の引き綱を取って引くと、棺は始めて動き出した。式はそのまま墓の傍に寝泊りし、劭のために塚に植木〔松柏を塚に植える〕をととのえてから、立ち去った。
三社祭も今日はクライマックス。本日のウェブニュースより、
浅草・三社祭 「宮出し」復活 ―― 東京に初夏の訪れを告げる浅草の「三社祭」は、最終日の20日、神社から3つのみこしを担ぎ出す勇壮な「宮出し」が行われました。/去年は震災の影響で中止になった祭り最大の見せ場だけに、浅草のまちは最高潮の盛り上がりを見せています。/東京・台東区にある浅草神社の三社祭は18日から始まり、最終日の20日は朝6時から神社に奉納されている3基の本社神輿(ほんしゃみこし)を担ぎ出す「宮出し」が行われました。/金ぱくで彩られた重さ1トンほどのみこしをそろいの袢纏に鉢巻き姿の人たちが担ぎあげ、「ソイヤ、ソイヤ」と威勢のいい声を掛けながら仲見世通りを練り歩きました。/700年の歴史がある三社祭りは去年は、東日本大震災の影響で、部の式典を除いて中止になりましたが、祭り最大の見せ場が2年ぶりに復活し、浅草のまちは熱気に包まれています。/沿道には大勢の見物客が訪れ、粋な担ぎ手に声をかけたり、カメラに収めたりして、楽しんでいました。/神輿を担いだ女性は「去年は神輿を担げず街も寂しかったので、ことしは喜びがひとしおです」と話していました。/三社祭りを運営している浅草神社奉賛会の吉岡暢久総代は「今年はスカイツリーの開業とほぼ同じ時期の開催で、浅草は一気に盛り上がっています。日本全国が元気になるような祭りにしたい」と話しています。/三社祭りは20日午後8時ごろまで行われます。 (NHK News Web 5月20日 12時9分)
今年はここ東部地区へは一の宮が来る。9時40分花川戸より言問交差点で受け、聖天町会を巡回猿若町へ渡すのだという。
三社祭の軒提灯の絵柄は毎年変わるのだという。「左三巴」紋、「三社祭」の草書としめ縄、「三網」の社紋を基本形として、紋の色を変えたり、〆縄の代わりに胴帯(提灯の中央に赤い太線を引く)・天地赤(提灯の上下を赤く塗る)・総赤(提灯全体を赤く塗る)等で変化を付けのだという。三社祭では毎年工夫を凝らし、その年だけの三社祭軒提灯を作っているのだそうだ。
范巨卿については、六朝時代の怪奇小説「捜神記」、もっと古くは後漢書「獨行列伝」にある。
過故人莊 孟浩然
故人具鷄黍 故人(こじん)鷄黍(けいしょ)を具(そろ)え
邀我至田家 我(われ)を邀(むか)えて田家(でんか)に至(いた)らしむ
綠樹村邊合 綠樹(みどりき)村邊(そんぺん)に合(あわ)し
青山郭外斜 青山(ちんさん郭外(かくがい)に斜(なな)めなり
開筵面場圃 軒(けん)を開(ひら)きて場圃(じょうほ)に面(めん)し
把酒話桑麻 酒(さけ)を把(と)りて桑麻(そうま)を話(はな)す
待到重陽日 重陽(ちょうよう)の日(ひ)を待(ま)ち到(いた)り
還來就菊花 還(ま)た來(きた)りて菊花(きくか)に就(つ)かん
昔なじみが、鶏と黍(きび)の料理のもてなしを準備して、
わたしを農家に招いてくれたので行った。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさって、
青い山々が、郊外に斜めに連なって見えている。
長い廊下の窓を開けて、穀類を乾燥させる庭に面して、
酒をとっては、桑や麻のことなどの農事を話題にしている。
九月九日の重陽の節を待って、
また訪れて、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいものだ。
※具鶏黍 鶏を絞め、黍飯を炊いてもてなすのは農家のご馳走であるが、一般に貧しい中でも客をもてなす場合の表現として用いられる。ことに後漢の范式と張劭が都で友人となり、別れるときに范が二年後の某日に張の家を約束したので、劭が鶏を絞め、黍飯を炊いて待っていると、式がはたして千里の道を訪ねてきたという故事があるところから、固い信義に結ばれた友人間を象徴するものとして用いられる。
今日から3日間は三社祭、昨年は東日本大震災で、取り止めとなったが、本年はスカイツリー効果と相俟って、かなりの人出が期待できるという。
推古天皇の三十六 (628) 年三月十八日、檜前浜成・檜前竹成という兄弟が宮戸川(今の隅田川)で漁をしていたところ、その日は魚は一匹もかからず代わりに金の像のようなものがかかるばかり。何度海中に投げてもまた網にかかってくるので仕方なくその像を持ち帰った。当時の学識者ともいうべき土師眞中知に見せると、それが聖観世音菩薩の尊像でありありがたい仏様の像であるということで、浜成と竹成の兄弟はどうか魚が捕れますようにとその像にお祈りをしたところ、翌日はうって変わって大豊漁。
中知は自宅内に堂を設けて、その観音像を祀った。後に中知と浜成・竹成の子孫がこの三人を神様としておまつりしたのが浅草神社の起源であり、後世この三人が浅草寺の開創者・浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ祭祀される様になりそれが三社祭の起こりだという。だから浅草神社の神紋は漁網をあしらった〝丸に三つ干網〟というわけ。
本日のウェブニュースより
2年ぶり三社祭…18日から ―― 下町に初夏の訪れを告げる台東区浅草の三社祭が、きょう18日から3日間の日程で始まる。今年は祭りの起源とされる「舟祭(ふなまつり)」が始まって700年の節目に当たる。昨年は、東日本大震災に配慮して中止されたため、2年ぶりの開催となり、開業目前の東京スカイツリー効果で、前回2010年の約162万人を上回る人出が見込まれている。/祭りの主な予定は、18日午後1時から、様々な装束の一行が、仲見世通りなどを歩く「大行列」が行われた後、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する「びんざさら舞」が浅草神社の境内で奉納される。19日は正午から、地元町会の神輿(みこし)約100基が街を巡る。/ 最終日の20日は、午前6時に3基の本社神輿を担ぎ出す「宮出し」で始まり、勇壮な担ぎ手たちの威勢のいいかけ声とともに、神輿が街を練り歩く「本社神輿各町渡御」が行われるほか、地元芸者衆による奉納舞踊も披露される。 (2012年5月18日 読売新聞)
推古天皇の三十六 (628) 年三月十八日、檜前浜成・檜前竹成という兄弟が宮戸川(今の隅田川)で漁をしていたところ、その日は魚は一匹もかからず代わりに金の像のようなものがかかるばかり。何度海中に投げてもまた網にかかってくるので仕方なくその像を持ち帰った。当時の学識者ともいうべき土師眞中知に見せると、それが聖観世音菩薩の尊像でありありがたい仏様の像であるということで、浜成と竹成の兄弟はどうか魚が捕れますようにとその像にお祈りをしたところ、翌日はうって変わって大豊漁。
本日のウェブニュースより
宝塚市在住のKA氏より、久し振りに封書が届いた。曰く、




前略 先日、YK兄から大谷美術館で開かれたトラモンティ展絵葉書の便りを頂きました。
文面があまりにも懐かしく感じられましたので、当方の写真とともに、KD兄の奥様から愚妻宛に送られてきた四月二四日・読売新聞地方版の切り抜きも同封しました。
当方のチューリップは「母ちゃんに感謝する会」で、毎年YO兄の主催でSO・HS・JT・KD各兄が送ってくれるものです。二ヶ月間ほど、この綺麗な花が友情の証かのように思え、慰められております。楽しみの一助となればと送らせて頂きました。電話で友と話す時は、いつも「ここまで生きているはなぁ…」と、一日一日が未知の世界散歩を、喜びともつかぬ不可思議とも感じる口調で喋り合っております。ただ私達が戦時・終戦ならびに一時の繁栄の積み重ねの歩みを、一つでも現在の人達に反映することが出来ず、残念の極みに思えてなりません。この様に思える事こそ、年寄の為せる業でしょうかね。
変動の激しい、おかしな季節ですが、方々体調に留意されますことを念じております。
最後になりましたが奥様によろしくお伝え下さい。
これと同じものをYK兄にも送っておきました。
平成二四年五月一五日 KS
日高節夫 学兄
東坡志林 巻三 記先夫人不殘鳥雀
吾昔少年時、所居書室前、有竹、柏、桃、雜花、叢生滿庭、眾鳥巢其上。武陽君惡殺生、兒童婢僕、皆不得捕取鳥雀。數年間、皆巢於低枝、其鷇可俯而窺也。又有桐花鳳四五、日翔集其間、此鳥羽毛至為珍異難見、而能馴擾、殊不畏人。閭里間見之、以為異事。此無他、不忮之誠、信於異類也。有野老言、「鳥雀巢去人太遠、則其子有蛇、鼠、狐、貍、鴟、鳶之憂;人既不殺、則自近人者、欲免此患也。」由是觀之、異時鳥雀巢不敢近人者、以人為甚於蛇、鼠之類也。「苛政猛於虎」、信哉!
〔訳〕《鳥と人》私がむかし子供の頃に使っていた書斎の前には竹柏(なぎ)などのいろんな花が庭にいっぱい植わっていて、鳥が沢山その上に巣くっていた。しかし武陽公(蘇軾の父蘇洵の諡号)が殺生を忌まれたので、子供も召使たちも鳥を捕ることができなかった。そのため数年の間に、鳥たちはみな低い枝に巣を作って、その雛をのぞき見ることさえ出来た。また桐の花には鳳凰が四、五羽、毎日飛んできてとまった。鳳凰の羽毛(はね)は非常に珍しくてなかなか見られないのである。ところがこれはよくなれて、少しも人を畏れなかったので、郷里の人々は時々見に来て、珍しいことだといった。これはほかでもない。決して害を与えないというこちらのまごころが異類にしんじられたからである。
「小鳥は人からあまり遠くに離れていると、その子を蛇や鼠や狐や狸や鷹やとんびなどに取られる心配がある。だから人間が殺しさえしなければ、そうした被害を免れるために、自然に人に近づいてくるものだ」
というのを聞いたことがある。してみると、鳥が人の近くに巣を作ろうとしないのは、人が蛇や鼠などよりもこわいと考えているからであろう。「苛政は虎より猛し」というが、たしかにそのとおりである。
※中国からの伝えでは、鳳凰は桐の木に棲み、竹の実を食べたとのことから桐と竹、想像上の瑞鳥である鳳凰(ほうおう)を組み合わせた文様がつくられている。鳳凰は想像上の霊鳥とされる。
前略 先日、YK兄から大谷美術館で開かれたトラモンティ展絵葉書の便りを頂きました。
文面があまりにも懐かしく感じられましたので、当方の写真とともに、KD兄の奥様から愚妻宛に送られてきた四月二四日・読売新聞地方版の切り抜きも同封しました。
当方のチューリップは「母ちゃんに感謝する会」で、毎年YO兄の主催でSO・HS・JT・KD各兄が送ってくれるものです。二ヶ月間ほど、この綺麗な花が友情の証かのように思え、慰められております。楽しみの一助となればと送らせて頂きました。電話で友と話す時は、いつも「ここまで生きているはなぁ…」と、一日一日が未知の世界散歩を、喜びともつかぬ不可思議とも感じる口調で喋り合っております。ただ私達が戦時・終戦ならびに一時の繁栄の積み重ねの歩みを、一つでも現在の人達に反映することが出来ず、残念の極みに思えてなりません。この様に思える事こそ、年寄の為せる業でしょうかね。
変動の激しい、おかしな季節ですが、方々体調に留意されますことを念じております。
最後になりましたが奥様によろしくお伝え下さい。
これと同じものをYK兄にも送っておきました。
平成二四年五月一五日 KS
日高節夫 学兄
東坡志林 巻三 記先夫人不殘鳥雀
吾昔少年時、所居書室前、有竹、柏、桃、雜花、叢生滿庭、眾鳥巢其上。武陽君惡殺生、兒童婢僕、皆不得捕取鳥雀。數年間、皆巢於低枝、其鷇可俯而窺也。又有桐花鳳四五、日翔集其間、此鳥羽毛至為珍異難見、而能馴擾、殊不畏人。閭里間見之、以為異事。此無他、不忮之誠、信於異類也。有野老言、「鳥雀巢去人太遠、則其子有蛇、鼠、狐、貍、鴟、鳶之憂;人既不殺、則自近人者、欲免此患也。」由是觀之、異時鳥雀巢不敢近人者、以人為甚於蛇、鼠之類也。「苛政猛於虎」、信哉!
〔訳〕《鳥と人》私がむかし子供の頃に使っていた書斎の前には竹柏(なぎ)などのいろんな花が庭にいっぱい植わっていて、鳥が沢山その上に巣くっていた。しかし武陽公(蘇軾の父蘇洵の諡号)が殺生を忌まれたので、子供も召使たちも鳥を捕ることができなかった。そのため数年の間に、鳥たちはみな低い枝に巣を作って、その雛をのぞき見ることさえ出来た。また桐の花には鳳凰が四、五羽、毎日飛んできてとまった。鳳凰の羽毛(はね)は非常に珍しくてなかなか見られないのである。ところがこれはよくなれて、少しも人を畏れなかったので、郷里の人々は時々見に来て、珍しいことだといった。これはほかでもない。決して害を与えないというこちらのまごころが異類にしんじられたからである。
「小鳥は人からあまり遠くに離れていると、その子を蛇や鼠や狐や狸や鷹やとんびなどに取られる心配がある。だから人間が殺しさえしなければ、そうした被害を免れるために、自然に人に近づいてくるものだ」
というのを聞いたことがある。してみると、鳥が人の近くに巣を作ろうとしないのは、人が蛇や鼠などよりもこわいと考えているからであろう。「苛政は虎より猛し」というが、たしかにそのとおりである。
シアトルママからメールが入っていた。曰く、「日高先生、お久しぶりですが、お元気ですか?/ここシアトルは、やっと雨のシーズンも活動がちょっと収まり、春らしい暖かい日が増えてきました。/それでも、三寒四温で、温かい日が続くなぁ~と思うと、急にまた寒かったりと まだジャケットは玄関に置いたままになっています。/今年の夏は、2年ぶりに日本に一時帰国します。/6月の21日にアメリカを出発し、22日の夜 日本に到着し、8月4日まで日本に滞在します。/子供達は、両親宅近くの小学校に夏休み前まで体験入学させてもらう予定です。/ジョシュは、7月18日から私達に合流します。/余震がまだ多いと聞き 心配もあるのですが、久しぶりに帰れる日本 今から家族で楽しみにしています。/塾長先生・道子先生のご都合があう日に、また塾にお邪魔させて下さい。/ではまた。~Hitomi」
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやったらしい。ウェブニュースより
【大人のTV】“低迷”NHK平清盛、特番でテコ入れ!★「源平合戦!」(NHK総合、15日午後10時)―― 低視聴率に苦しむ大河ドラマ「平清盛」のてこ入れとして急きょ放送が決まった特番だ。サブタイトルは「宿命のライバルの原点を追う~平清盛vs源義朝~」。保元の乱では同じ陣営に属しながら平治の乱で激突した清盛と義朝はなぜ戦わなければならなかったのか、2人の宿命はどのように子供に継がれたのかを分かりやすく解説していく。源頼朝を演じる岡田将生が武士の都、鎌倉を訪ねたり、これまで放送された「平清盛」を振り返ったりと、涙ぐましい構成となっている。/鳴り物入りで始まった今年の大河だが、視聴率は10%台前半から抜けきれない。6日放送分が13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。これも大河としては危機的水準だが、史上最低の11.3%を2度も記録している。もし1ケタに陥落すれば、栄光の大河ドラマ史にぬぐえない傷をつけてしまう。/なぜこれほど不振なのか。姫様が歴史を動かすという史実とはほど遠い世界を描いた“スイーツ大河”に背を向けた脚本、臨場感を醸し出そうと狙った演出で、お茶の間に挑んだ。/ それがあっさり裏目に出たのだが、清盛という人物自体、敵役で描かれることはあっても主役でクローズアップされることが極めて少ない上、清盛以外の知名度はさらに低く、よほどの歴史ファンでなければキャラクターに感情移入ができないのだ。ここが戦国や幕末と決定的に違う。画面が暗い、人物が汚い、役者の演技に難がある…と低視聴率の原因がいくつも上げられているが、登場人物のなじみの薄さは、今更どうしようもない。/唯一の救いは知名度では申し分ない頼朝や義経が(敵役だが)奮戦する源平合戦だけ。それが今回の特番にも表れている。もっとも、清盛はその途中でこの世を去るのだが…。視聴率押し上げというよりも、何とか2ケタ台を死守しようというせっぱつまった特番の視聴率はいかほどか。〔zakzak 2012.05.15〕
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやったらしい。ウェブニュースより
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
シアトルママからメールが入っていた。曰く、「日高先生、お久しぶりですが、お元気ですか?/ここシアトルは、やっと雨のシーズンも活動がちょっと収まり、春らしい暖かい日が増えてきました。/それでも、三寒四温で、温かい日が続くなぁ~と思うと、急にまた寒かったりと まだジャケットは玄関に置いたままになっています。/今年の夏は、2年ぶりに日本に一時帰国します。/6月の21日にアメリカを出発し、22日の夜 日本に到着し、8月4日まで日本に滞在します。/子供達は、両親宅近くの小学校に夏休み前まで体験入学させてもらう予定です。/ジョシュは、7月18日から私達に合流します。/余震がまだ多いと聞き 心配もあるのですが、久しぶりに帰れる日本 今から家族で楽しみにしています。/塾長先生・道子先生のご都合があう日に、また塾にお邪魔させて下さい。/ではまた。~Hitomi」
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやるらしい。ウェブニュースより
【大人のTV】“低迷”NHK平清盛、特番でテコ入れ!★「源平合戦!」(NHK総合、15日午後10時)―― 低視聴率に苦しむ大河ドラマ「平清盛」のてこ入れとして急きょ放送が決まった特番だ。サブタイトルは「宿命のライバルの原点を追う~平清盛vs源義朝~」。保元の乱では同じ陣営に属しながら平治の乱で激突した清盛と義朝はなぜ戦わなければならなかったのか、2人の宿命はどのように子供に継がれたのかを分かりやすく解説していく。源頼朝を演じる岡田将生が武士の都、鎌倉を訪ねたり、これまで放送された「平清盛」を振り返ったりと、涙ぐましい構成となっている。/鳴り物入りで始まった今年の大河だが、視聴率は10%台前半から抜けきれない。6日放送分が13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。これも大河としては危機的水準だが、史上最低の11.3%を2度も記録している。もし1ケタに陥落すれば、栄光の大河ドラマ史にぬぐえない傷をつけてしまう。/なぜこれほど不振なのか。姫様が歴史を動かすという史実とはほど遠い世界を描いた“スイーツ大河”に背を向けた脚本、臨場感を醸し出そうと狙った演出で、お茶の間に挑んだ。/ それがあっさり裏目に出たのだが、清盛という人物自体、敵役で描かれることはあっても主役でクローズアップされることが極めて少ない上、清盛以外の知名度はさらに低く、よほどの歴史ファンでなければキャラクターに感情移入ができないのだ。ここが戦国や幕末と決定的に違う。画面が暗い、人物が汚い、役者の演技に難がある…と低視聴率の原因がいくつも上げられているが、登場人物のなじみの薄さは、今更どうしようもない。/唯一の救いは知名度では申し分ない頼朝や義経が(敵役だが)奮戦する源平合戦だけ。それが今回の特番にも表れている。もっとも、清盛はその途中でこの世を去るのだが…。視聴率押し上げというよりも、何とか2ケタ台を死守しようというせっぱつまった特番の視聴率はいかほどか。〔zakzak 2012.05.15〕
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやるらしい。ウェブニュースより
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
徐陵の「毛永喜にに別る」(五言詩)を記す。
別毛永嘉 徐陵
願子厲風規 願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀 帰来 羽儀を振い
嗟余今老病 嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離 此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭 白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知 黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣 徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝 空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
ああ 今や 老いさらばえて
此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
たとえ 宝剣を腰からはずして
墓前の枝に掛けても せんないこと
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
上九。鴻漸于陸[逵]。其羽可用為儀。吉。《上九。鴻の逵に漸む。其の羽用って儀と為すべし。吉。》
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
〔訳〕季札が諸国歴訪の途についたとき、まず呉の北方徐〔江蘇省〕を通過した。徐の君主は、季札が帯びていた剣を欲しがったが、口には出さなかった。季札も、徐君の希望に気がついていた。しかし、諸国を訪問する儀礼として、剣を帯びていなければならなかったので、献上しなかった。やがて歴訪を終えて、帰途また徐についたとき、徐君はすでに死んでいた。そこでのその宝剣をといて、徐君の墓側の樹にかけて去った。従者が問うた。
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
別毛永嘉 徐陵
願子厲風規 願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀 帰来 羽儀を振い
嗟余今老病 嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離 此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭 白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知 黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣 徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝 空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
ああ 今や 老いさらばえて
此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
たとえ 宝剣を腰からはずして
墓前の枝に掛けても せんないこと
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
一昨日の夕刻、我孫子市在住のIKUO氏より電話が入り、「メールを入れておいたのですが、明日午後1時過ぎに母と淺草をデートするので、立ち寄ってもよいですか?」ということ。勿論OK返事をしたが、メールを開くと、
「日高先生/お久し振りです。/明日、5月13日(日)の午後一時半頃にお伺いしても良いかお教え下さい。/久し振りに母と浅草をデートする予定です。/来月には、窪田の兄弟で母を喜寿の旅行(日光)に連れ行く予定に成っていますが、ご存知の通り、足並みが揃わず、YOSHIEが苦労をしているようです。/時間がなく申し訳ありませんが、本日中にお教え下さい。/もし時間の都合がつけば、母とお伺いさせて頂きます。/宜しくお願い致します。 I・K」とあった。
おそらく母の日のプレゼントに淺草でご馳走でもするのだろう。
昨日、午後1時過ぎ、IKUO氏が現れたが、母上の姿が見えない。遠慮して外で待っているとのこと、すぐに呼びにいってもらうことにする。家の婆様も交えて、4人で暫し歓談。聞くところに拠れば母上は週に3回の透析を行われているとのこと。1回の透析に4時間かかるということだ。
でも、日頃の生活には差し障りないのだろうか、お見かけする所、お元気のようであった。
今朝ほど写真貼付してメールしておいた。「昨日はお母上と郁夫君にご来訪戴き、お土産まで頂きありがとうございます。/いろいろと話をうかがわせて頂き大変楽しかったです。又、ついでの時にはいつでもお立ち寄り下さい。/来週の土・日は三社祭で淺草は賑わうことでしょう。/写真を貼付送信いたします。/まずは、お礼旁写真貼付まで/日高 節夫」
昨夜、マイチの奥様より携帯にメールが入った。曰く、「日高先生/ご無沙汰しております。/昨日無事に納骨すみました。/その際、墓守の方に『昨日、どなたかがお墓を訪ねて来られましたよ。』と言われました。先生だったんですね。/先生のブログ拝見しました。/写真まで載せて頂きまして、ありがとうございます。/三社祭に間に合って良かったです。/お時間があったら是非お立ち寄り下さい。/前野」
早速返信しておいた。「来週の土日は三社様のお祭り、あの場所ならYUJI君もゆっくり祭りを楽しむことが出来ますね。なにかの時にはお参りさせていただきます。わざわざのメールありがとうございました。日高」
この五月にタイに出向したSEKIチャンから僕の携帯へメールが入った。曰く、「 日高先生/会社のPCからで失礼いたします。/ご連絡が遅くなりましたが、無事にタイに着任できました。/さすがにバンコクの熱気はすさまじいものがあり、毎日が驚きの連続ですが、なんとかやっております。/是非、一度、遊びに来てください。/連絡させていただきます。S」
早速返信メールを出した。「メールありがとう。/無事に着任よかったですね。/今週末は三社祭です。参加出来なくて残念ですね。/このメールは私用であっても使ってよいものなのでしょうかね。/好いのなら、PCでのメールが遣り取りできて、便利なのですがね。写真など貼付送信も出来るしね。/これからは、メールは下記のアドレス宛にPCで送ってくださるとよいでしょう。時にはタイの珍しい写真などもね。/先ずは、メールのお礼まで/日高」
「日高先生/お久し振りです。/明日、5月13日(日)の午後一時半頃にお伺いしても良いかお教え下さい。/久し振りに母と浅草をデートする予定です。/来月には、窪田の兄弟で母を喜寿の旅行(日光)に連れ行く予定に成っていますが、ご存知の通り、足並みが揃わず、YOSHIEが苦労をしているようです。/時間がなく申し訳ありませんが、本日中にお教え下さい。/もし時間の都合がつけば、母とお伺いさせて頂きます。/宜しくお願い致します。 I・K」とあった。
おそらく母の日のプレゼントに淺草でご馳走でもするのだろう。
昨日、午後1時過ぎ、IKUO氏が現れたが、母上の姿が見えない。遠慮して外で待っているとのこと、すぐに呼びにいってもらうことにする。家の婆様も交えて、4人で暫し歓談。聞くところに拠れば母上は週に3回の透析を行われているとのこと。1回の透析に4時間かかるということだ。
でも、日頃の生活には差し障りないのだろうか、お見かけする所、お元気のようであった。
昨夜、マイチの奥様より携帯にメールが入った。曰く、「日高先生/ご無沙汰しております。/昨日無事に納骨すみました。/その際、墓守の方に『昨日、どなたかがお墓を訪ねて来られましたよ。』と言われました。先生だったんですね。/先生のブログ拝見しました。/写真まで載せて頂きまして、ありがとうございます。/三社祭に間に合って良かったです。/お時間があったら是非お立ち寄り下さい。/前野」
早速返信しておいた。「来週の土日は三社様のお祭り、あの場所ならYUJI君もゆっくり祭りを楽しむことが出来ますね。なにかの時にはお参りさせていただきます。わざわざのメールありがとうございました。日高」
この五月にタイに出向したSEKIチャンから僕の携帯へメールが入った。曰く、「 日高先生/会社のPCからで失礼いたします。/ご連絡が遅くなりましたが、無事にタイに着任できました。/さすがにバンコクの熱気はすさまじいものがあり、毎日が驚きの連続ですが、なんとかやっております。/是非、一度、遊びに来てください。/連絡させていただきます。S」
早速返信メールを出した。「メールありがとう。/無事に着任よかったですね。/今週末は三社祭です。参加出来なくて残念ですね。/このメールは私用であっても使ってよいものなのでしょうかね。/好いのなら、PCでのメールが遣り取りできて、便利なのですがね。写真など貼付送信も出来るしね。/これからは、メールは下記のアドレス宛にPCで送ってくださるとよいでしょう。時にはタイの珍しい写真などもね。/先ずは、メールのお礼まで/日高」
東坡志林 稗海本巻二 記徐陵語
徐陵多忘、每不識人、人以此咎之。曰:“公自難記、若曹劉沈謝輩、暗中摸索、亦合認得。”誠哉是言。
〔訳〕《徐陵(じょりょう)》徐陵は忘れっぽい人で、人の顔をおぼえていないのが毎々だった。人がこのことで彼を咎めると、彼は言った。
「君の顔をおぼえろといわれたって、無理な注文というもの。これがもし曹(そう)・劉(りゅう)とか沈(しん)・謝(しゃ)といった人々の顔だったら、暗闇で手探りしたって、すぐに見分けがつくんだろうがね」
全く、そのとおりである。
※徐陵(507~583年): 南朝梁、陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく、548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが、江南に侯景の乱が勃発し、555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代、その東宮に父の徐摛(じょち)、および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は、〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。
※曹=曹植(そう しょく、または、そう ち、192~232年)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。曹操の正嫡の三男。
劉=劉楨(りゅう てい、?~217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫。
沈=沈約(しん やく、441~513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。
謝=謝眺(しゃ ちょう、464~499年)は中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。陳郡陽夏(現河南省)の人。同族の謝霊運(385~433年)・謝恵連(394~433年)とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。
徐陵多忘、每不識人、人以此咎之。曰:“公自難記、若曹劉沈謝輩、暗中摸索、亦合認得。”誠哉是言。
〔訳〕《徐陵(じょりょう)》徐陵は忘れっぽい人で、人の顔をおぼえていないのが毎々だった。人がこのことで彼を咎めると、彼は言った。
「君の顔をおぼえろといわれたって、無理な注文というもの。これがもし曹(そう)・劉(りゅう)とか沈(しん)・謝(しゃ)といった人々の顔だったら、暗闇で手探りしたって、すぐに見分けがつくんだろうがね」
全く、そのとおりである。
※曹=曹植(そう しょく、または、そう ち、192~232年)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。曹操の正嫡の三男。
劉=劉楨(りゅう てい、?~217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫。
沈=沈約(しん やく、441~513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。
謝=謝眺(しゃ ちょう、464~499年)は中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。陳郡陽夏(現河南省)の人。同族の謝霊運(385~433年)・謝恵連(394~433年)とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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