瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  本日のウェブニュースより
 
61012c42.jpeg 一体改革:自民 解散確約ない限り採決に応じず ―― 自民党は6日、谷垣禎一総裁ら幹部が消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連法案の参院採決へ向けた対応を協議し、野田佳彦首相が衆院解散・総選挙を確約しない限り採決に応じない方針を決めた。7日にも内閣不信任決議案と首相問責決議案を提出する構えで、最終的な対応は谷垣氏に一任した。/参院採決をめぐり、お盆明けの20日以降に先送りする日程を提示していた民主党は6日、自民党が求めていた8日の採決を受け入れることを自民党側に伝えた。しかし、自民党は解散確約を採決の条件とする強硬姿勢に転じ、8日採決の民主党提案を拒否した。/政権を否定する不信任案と問責の提出は消費増税をめぐる民主、公明との3党合意の破棄を意味する。野党が多数の参院で問責が可決されれば、法案審議がストップする。「解散か、合意破棄か」の二者択一を迫る自民党と解散を回避したい民主党の攻防は緊迫の度を増し、法案成立は不透明となっている。  〔毎日新聞 2012年08月06日 21時51分(最終更新 08月06日 23時43分)〕
 
64762e72.jpeg 民主党 「ステルス造反予備軍」20人超 7日にも提出 不信任案 可決の公算高まる ―― だらけきっていた政局が、一気に緊迫してきた。参院での増税法案採決を前に、7日にも野田内閣不信任案が提出される可能性が高まっている。だが、野田官邸は直前まで危機感ゼロだったという。
 <鳩山Gだけじゃない>  官邸関係者が明かす。/「当初は不信任の否決に自信満々で、『自助と公助でしのげる』と余裕の構えでした。ちなみに、『自助』は自民党、『公助』は公明に助けてもらうという意味。3党合意がある以上、少なくとも増税法案が成立するまでは、協力体制が続くとタカをくくっていたのです。ところが、ここへきて自民党が独自での不信任案提出を公言するなど強硬姿勢に転じ、『どこまでブラフなのか、はたまた本気か?』と慌てています」
 自民党が本気で倒閣に動けば、公明党もなんだかんだ言って、最後は付いてくる。可決の公算が大きいのに、ここで自民党が不信任案を提出しなければウソだ。民主党から15人が造反すれば、可決するのである。/民主党内には、衆院での増税法案採決で反対・棄権した(造反予備軍)が30人以上も残っている。鳩山元首相ら23人は、消費増税に反対する「消費税研究会」を設立。その中のひとりが「官邸には正しい情報が入っていないのではないか」と、こう言う。/「不信任案が出れば、私は賛成します。増税法案に反対しておいて、これを阻止するための不信任案に乗らないのでは、筋が通らない。有権者に対して説明がつきません。執行部やマスコミは鳩山グループの動向ばかり気にしているようですが、党内には他に“ステルス造反部隊”も相当います。増税法案には賛成していても他の理由で野田総理に不信感を持っていたり、離党して無所属になった方が選挙に有利だと考えている人たちです。民主党の看板では、とても次の選挙は戦えませんから。今のところ、野党が提出する不信任案に同調する考えの同志は党内に20人はいますよ」
 実際、原発再稼働に反対して離党した平智之衆院議員や、参院で亀井亜紀子議員と新会派「みどりの風」を立ち上げた女性3議員の動きは「まったくノーマークだった」(党幹部)という。増税、原発、オスプレイ、TPP……。火種には事欠かない。選挙が近いとなれば、タイミングを見計らっていた離党予備軍も勝負に出る。/現在、衆院で民主党の議席数は250。過半数の240議席割れは目前だ。万が一、自民が不信任案を出さず、野党7党の共同提出による不信任案を「自助と公助」で否決できたとしても、民主党内から10人以上が造反した場合に処分できるのかという問題もある。民主党は断末魔。袋小路にハマり込んでいく一方だ。   〔日刊ゲンダイ 2012年8月6日 掲載〕
 
 K女史からメールが入った。曰く、
「日高先生/こんにちは。/先日はとても楽しいひと時をありがとうございました。/先生ご夫妻をはじめ、諸先輩方とも久しぶりにお会いすることができ嬉しかったです。ところで最近『Kの新訳ことわざ』というものを考えて楽しんでいます。先生がプッと笑ってくだされば光栄です。
 ・湯水のように使う・やたらめったら使うという意味ではありません。日本は幸運なことに、水の豊かな国ですが、天からの恵みである事を忘れずに、感謝しながら大切に使いたいものです。人は水なしでは生きられないのですから。しかし必要以上にケチケチすることはありません。
 ・島国根性・日本は小さな島国であるがゆえ、工夫と努力をひたすら重ね、互いに思いやる心がなければ生きてこられなかった民族で、その心意気をさします。
 ・寝耳に水・このまま自然を冒涜し続けると寝耳に水どころではなく、睡眠時に津波のような、また悲しい天災が起きるかもしれません。戦争したり、軍備に予算をさいている場合ではありません。人類が一丸となり真剣に地球という星を守らなければ絶滅は近いでしょう。私達の英知が試される時がまさに来ました。
 ・とうだいもとくらし・東大という立派な大学を卒業した人でさえ、もとのような貧しい暮らしに戻ってしまう事があります。
 ・猫にこんばんは・夜、猫ちゃんに出会ったときにでさえ、こんばんはと挨拶出来るような心のゆとりを持ちましょう。
 ・急がばまわれ・人生にはいくつかの巨大で分厚い壁が立ちはだかることがあります。乗り越えようとしてもツルツル滑ったり、撃ち抜こうとしても弾が跳ね返されたり、、、 でも希望を握りしめトコトコてくてく壁に沿って歩んでいくと永遠に続くかと思われていた壁がふと途切れることがあります。
 ・猿も木から落ちる・まさにその通りです。慢心したり傲慢な態度をとったり、欲張ったりすると神様に叱られます。(バチが当たります)謙虚な心を忘れずに精進したいものです。
 ・「のれんに腕押し」「糠に釘」だ、、、と弱気になる事が多々あったとしても、あきらめずに努力を重ねていけば、必ず一筋の光が見えてくるはずです。
 ・瓢箪から駒・例えどんな事が起きようとも希望さえ捨てずにみんなで協力しあえば、本当に瓢箪から駒が出る事があるはずです。
 ・スネに傷の一つや二つ・失敗、間違い、勘違いをしない人間なんて存在しません。スネに傷が千や二千あったとしても、あまりくよくよせずに、自分に負けることなく、勇気を持ち続けたいものです。(注)勇気と無謀は違います。
7e6cbdc8.jpeg ・犬猿の仲・頭が良く、忠実で走るのが大好きなワンチャンの上に利口で器用なお猿さんが乗っているという最高コンビという意味です。
 ・月とスッポン・あの強情なすっぽんでさえ「ああ今日は満月かぁキレイだなぁ」と月を眺める事があります。お月様を愛でる気持ちを大切にしたいものです。
 ・豚に真珠・外見は大切かもしれません。お世辞にも見た目が美しいといえない人であっても、心の美しさを追い求める姿勢のある人は、自然に高価な真珠が似合うようになってくるはずです。
 ・テンサイハワスレタコロニヤッテクル・天才は忘れた頃にやってくる。
 ・言うは易し行うは難し・レンホウさんをはじめ、野田君達、がんばりましょう!
駄文を最後まで読んで下さり、ありがとうございました。  K (*^_^*) 」
 
 今日は廣島へ原爆が投下されて67年目の日。朝のNHKテレビで、「語り始めたセーラー服の少女」という題で、広島に原爆が投下された時の3時間後に撮られた写真の女性である河内光子さんが、原爆の記憶を話すニュースが放映されていた。早速、ウェブニュースでその記事を探し当てた。
0a514bef.jpeg 写真「セーラー服の少女」 原爆忌に体験語る ―― 原爆投下直後の広島で撮影された写真に写る「セーラー服の少女」が原爆忌の6日、広島市安佐南区の市立山本小学校で被爆体験を語る。同市中区の河内(こうち)光子さん(80)で、これまでほとんど人前で話してこなかったが、自らの半生を本に描いた同小教諭の思いに心を動かされた。「あの写真のような惨めな世界にしないで」。未来を託す子どもたちにそう訴えるつもりだ。/広島女子商(現・広島翔洋高)2年の時、爆心地の南約1.6キロにあった学徒動員先の広島貯金支局で被爆。「窓から炎の塊が飛び込んできた」という。
 近くで働いていた父が大やけどを負いながら駆け付け、炎とがれきの中を逃げた。その途中、皮膚が垂れ下がった人たちが言葉にならない叫び声を上げていた。約3時間後、南東約500メートル先の御幸橋西詰めにある臨時救護所に着くと、何十人もが倒れ、息のない赤ん坊を抱いて名前を呼び続ける女性もいた。/この時、治療を待つ人々の列を元中国新聞カメラマンの松重美人さん(2005年に92歳で死去)が撮影。同紙が後日掲載し、河内さんはセーラー服の後ろ姿が自分と気付いたが、終戦の混乱で写真の存在は記憶から遠のいていたという。
5f58a4b6.jpeg 被爆直後の状況を残す貴重な1枚は1952年、米国の雑誌「ライフ」に掲載され、その後、広島平和記念資料館に収められた。/父は66年に77歳で死去。73年になって報道で写真を見た兄から「お父さんの横顔だ」と聞かされた。河内さんは「父の面影が残る写真がほしい」と、同資料館に「セーラー服の少女は私」と名乗り出た。/だが自宅などに取材が殺到し、「家族に迷惑がかかる」と口をつぐんできた。
 転機は昨年だった。旧知の同小教諭大西知子さん(62)から「原爆のむごさを伝えたい」と説得され、被爆の経験など自身の半生をつづった本の出版に同意。反響は大きく、先月には地元中学校で体験を証言した。/ 大西さんからも「写真の中の出来事を語ってほしい」と頼まれ、6日、同小の子どもたちの前に立つ。「戦争では必ず人が死に、食べ物もなくなるんよ。その悲惨さを忘れないでほしい」と伝えたいという。   (2012年8月4日  読売新聞)

5b5076ce.jpeg 元大統領の孫、核廃絶尽力は責任 広島、長崎訪問前に会見 ―― 【ニューヨーク共同】1945年の広島、長崎への原爆投下を命じたトルーマン米大統領(当時)の孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん「55」が、8月2日から日本を訪れる。訪日を前に、核兵器が二度と使用されないように尽力することが同大統領の子孫としての「(道義的)責任」だと感じていると述べた。米シカゴの自宅で共同通信のインタビューに答えた。/ダニエルさんは同6日に広島、9日に長崎の平和式典にそれぞれ参加し、被爆者や学生らと交流、原爆資料館も訪れる予定で「興奮と同時に緊張している」という。/トルーマン大統領の家族が両式典に参加するのは初めてという。  2012/07/30 10:35   【共同通信】

トルーマン米大統領の孫、広島で語る ―― 広島、長崎への原爆投下を命令したトルーマン米大統領(1884~1972年)の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)が4日、初訪問中の広島市で読売新聞の単独インタビューに応じた。ダニエルさんは「広島に来て初めて、原爆の被害について多くのことを学んでいる。核兵器廃絶の努力をなす上で、大切な道しるべを与えてくれた」と述べた。/ダニエルさんは2010年、被爆後に白血病を患い、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの兄雅弘さん(71)らとニューヨークで出会い、雅弘さんに誘われて広島訪問を決意した。この日、広島市中区の平和記念公園を訪問して原爆死没者慰霊碑に献花。広島平和記念資料館を見学し、被爆者から体験を聞いた。/その後のインタビューで、ダニエルさんは終始、穏やかな表情で、時には真剣に考え込みながら記者の質問に答えた。
 祖父が原爆投下を命令したことについて、ダニエルさんは「私は米国の教育を受け、原爆投下は早期終戦のためと教わった。家族や友人を亡くした被爆者が放射線を浴びて今も苦しんでいることは、広島に来て知った」と話した。/祖父から原爆投下について直接、話を聞いたことはないとしたうえで、「祖父は広島と長崎への原爆投下を決断したが、残された手紙や手記から、その後は絶対に核兵器は使ってはいけないという強い思いを持ち、一生懸命取り組んでいたことがわかる」と語った。
 広島訪問はダニエルさんの心境に大きな変化をもたらした。「被爆者の話を聞いて悲しい気持ちになったが、(核兵器廃絶に向けた)行動を起こしていることに深い尊敬を持った。被爆者の真剣な思いを感じるようになった」と語った。
 「オバマ大統領が掲げる『核兵器なき世界』はとても力強いメッセージだ」と評価するダニエルさんは、「我々が核兵器廃絶を実現できるかどうかわからないが、そうなればいい。互いを理解しあうことで、違いを乗り越えることができる。それが核兵器廃絶へのステップになる」と訴えた。
 ダニエルさんは広島市の平和記念式典(6日)と長崎市の平和祈念式典(9日)に参列する。  (2012年8月5日  読売新聞)
  今朝のウェブニュースより
 
 他国なら退陣即逮捕となる怪しさ芬々 ―― 自棄で暴走を始めた野田首相<献金87人の職業を「虚偽記載」の重大疑惑>
f69a4cfb.jpeg なぜ、国会や大マスコミが騒がないのか不思議だ。ドジョウ首相の「政治とカネ」「黒い疑惑」が次々に発覚しはじめている。/「野田首相 前後援会長は21億円を詐取していた」――という週刊文春のスクープは衝撃的だ。/首相の有力スポンサーである医療グループのオーナーが、診療報酬を不正請求し、年間21億円も騙(だま)し取っていたという。患者の保険証を無断でコピーするなどして不正請求していた。不正請求はレッキとした犯罪である。/首相とオーナーは相当、深い関係だ。分かっているだけでも905万円を献金している。献金の見返りなのだろう。野田も、彼が園遊会に出席できるように、総理枠で推薦するなど便宜を図っている。/よほど義理があるのか、総理就任後も、オーナーが創立した「政経倶楽部」という団体にまで顔を出している。野田は「政経倶楽部」についてこう語っている。/〈私が、今、定期的に毎月出席している例会は、唯一「政経倶楽部」だけです。月に1回ですと、もうブレーンに近い存在でしょうね〉/ここまで肩入れするのは異常だ。いったい、2人の間になにがあるのか。相手は21億円を詐取したとされる人物である。
 まだ明らかになっていない「癒着」があるのではないか。
 「黒い疑惑」は、それだけじゃない。長年にわたってデタラメな「政治資金収支報告書」を提出していたことも明らかになってきた。/虚偽記載の時効(5年)が過ぎていない2007~2010年だけでも、「報告書」に載っている個人献金者87人の職業を偽って記載していた。たとえば、首相の地元・船橋市の選挙管理委員会の事務局長は「会社役員」とされていた。100人近くも職業を偽るのは、単純なミスじゃない。意図的なのは明らかだ。隠さなければならない理由があったのは間違いない。/野田首相をよく知る人物が言う。/「ああ見えて首相は、“黒いカネ”にまみれているのが実態です。つい最近も、暴力団関係者に便宜を図って逮捕された葬儀会社の社長から140万円のカネを受け取っていたことが発覚しています。県議時代から貧乏だった首相は、ダボハゼのようにどんなに怪しいカネでも平気でもらっていた。もし、大手メディアが本気で調べたら、仰天する『政治とカネ』のスキャンダルが出てくると囁かれています」
 ありもしない小沢一郎の「政治とカネ」を騒ぎたててきた大手メディアと東京地検は、ドジョウ首相の「疑惑」こそ追及すべきだ。/どんなにダーティーな首相でも、韓国などと違って、日本では辞めた後に逮捕されることはまずない。しかし、ドジョウ首相の「疑惑」は、他国なら検察が動いておかしくないものだ。   〔日刊ゲンダイ 2012年8月4日 掲載〕
 
573e4367.jpeg 浜田幸一さん:5日、心不全のため死去 83歳 ―― 「ハマコー」の愛称で知られ、政界引退後はテレビ出演などをしていた元衆院議員の浜田幸一氏が5日朝、心不全のため千葉県富津市大堀2003の自宅で死去した。83歳。千葉県出身。葬儀・告別式は未定。
 千葉県議を経て、1969年に衆院議員に初当選。ラスベガスでバカラ賭博をし大敗していたことが80年に発覚し議員辞職、83年に返り咲いた。/87年には衆院予算委員長に就任したが、88年2月、委員会で当時の宮本顕治共産党議長を「殺人者だ」と発言。引責辞任するなど、たびたび物議を醸し“政界の暴れん坊”の異名を取った。(共同)  〔毎日新聞 2012年08月05日 12時15分(最終更新 08月05日 13時33分)〕
 
 自民、7日にも不信任・問責=民主、条件付き盆前採決容認 ―― 自民党の田野瀬良太郎幹事長代行は5日のNHK番組で、社会保障と税の一体改革関連法案について、8日の参院での採決を求めた上で、それが見送られた場合、「われわれ独自の内閣不信任決議案を出すことも視野に入れなければならない」と述べた。/同党は、民主党が8日採決の要求に応じなければ、7日にも野田佳彦首相に対する問責決議案を提出する方針。田野瀬氏の発言は、共産党など野党7党とは別の不信任案と、参院での問責案を同時提出する可能性を示唆したものだ。/田野瀬氏は「(6、7両日の)中央公聴会をやれば即採決というのが常識だ。8日に必ず採決すべきだ。ここは首相がリーダーシップを発揮して局面を打開する以外にない」と強調した。/ただ、同番組に出演した公明党の斉藤鉄夫幹事長代行は「自民党には、今は政局優先ではなく(法案を)いかに成立させるかが最も大切だと言いたい」と述べ、慎重な対応を求めた。/一方、民主党の樽床伸二幹事長代行は、「特例公債法案と衆院選挙制度改革を一緒に進めるなら(採決は)いつでもいい」として、条件付きで盆前採決を容認する考えを示した。 [時事通信社 2012年 8月 5日  13:06 JST]
 
494234dd.jpeg  シアトルママことHitoちゃんが息子・娘の日本での体験入学を兼ね一時帰国した。時を同じくしてタイに出向中のsekiちゃんが本社にタイの現状報告のため一時帰国した。好い機会だということでnaruちゃんが「hitoちゃん・sekiちゃんを囲む会」を企画してくれた。
 午前中にhitoちゃんから電話があり、会の始る前に家族と共にこの爺婆の住む元塾舎を訪ねたいという。午後にはkanamiちゃんから電話があり、一緒に会に行きたいというので、hitoちゃん一家と合流してもらうことにする。
fc84aea5.jpeg まず、夕刻5時にkanamiちゃんが来訪、kanamiちゃんには子がいないので、妹の娘が余程可愛いと見え、専ら姪の話になる。6時近くになって、hitoちゃん一家が、訪ねてくれた。Hitoちゃん一家は明日はシアトルに帰るという。聞くところによると、この爺と同い年の父上の容態があまり芳しくないとのこと。気がかりを残しての帰国だと言う。旦那も先だってお会いした時よりもずっと日本語が上手くなり、ある程度会話も弾んだ。それよりも驚いたのは、息子・娘は親父様よりは数段日本語がよく理解できるらしく、普通の日本人の子供と全く変わりない。「日本語と英語とどっちが放しやすい?」とありきたりのことを訊ねると、やはり「英語のほう」と答える。みんなの写真を撮ろうと、カメラを取り出すと、兄妹でみんなを写したがり、二人共同作業でシャッターを押してくれた。
 6時30分過ぎに、ひさご通の会場に向かう。定刻より少し遅れて会場の「TAKEYA」に着く。ウィークディなので各人の仕事の都合等もあって、ほぼ全員が集まったのは8時を過ぎていた。Sekiちゃんが来たところで、何回目かの乾杯があり、会が盛り上がってきた。
1e258f2d.jpeg Yukieちゃん{(写真左端)など久し振りの顔もあって、話題の中心はどうしても仁科での臨海学校での思い出話になる。いやいや、このメンバーの中にはいまだに、仁科を懐かしがって、未だに西伊豆を訪ねる塾友もいるらしい。話によると、西伊豆町の様子もかなり変わったとのこと。キャンプ地であった大滝ランドも若者無機に新装開店し山びこ荘と組んで、営業を始めたということである。
f82033af.jpeg 午後10時に中締めをして、記念の全体写真を撮ったあとで、harunoriくんが駆けつけ、そのあとさらに話が弾み、散会したのは11時をかなり過ぎていた。
 Kijimaくんとkanamiちゃんが爺婆を家で送り届けてくれた。シャワーを浴びて就寝したのは0時を過ぎていた。
 本日は昨夜のアルコールがいくらか残っており、徘徊は取り止め、午前7時に起きて、このブログを作成した。
 珍しい名字の人は、自分の名字をいやがる人も多いようであるが、珍しい名字には必ず謂れがあるものだ。謂れがなければ、他の人と違う珍しい名字にはなりはしないから、珍しい名字の人はそれだけ由緒正しいともいえる。由緒ある珍しい名字のうち、実在するものをいくつかたずねてみることにしよう。先人の智恵やセンスを感じさせるものもある。
A.一字数字の名字
 :にのまえ(いち、かず、はじめ の読みもある。全国順位14、577位、約400件)
  語源一の前の数字は二であることから。一の村、一の坪、一の庄などの当て字とされ諸説ある。近年、熊本県や福岡県、新潟県などに多数みられる。地名も各地にみられる。一は縁起の良い数とされる。
 :したなが(新潟県等4件あるというが、くわしいことは判らぬ。もしかしたら幽霊苗字か?)
  上の横棒より、下の横棒のほうが長いので、「シタナガ」と言うのだそうだ。
 :いちじく(いちのく、く のよみもある。全国順位49、812位、およそ40件ほど)
  「一字でク」であるから「イチジク」。現在、新潟県や長野県に少数みられる。村内や軒数などの地名に由来するとおもわれる。
 :つなし(幽霊名字か?)
  一つ、二つ、三つ …… 八つ、九つ 十(とお)は「つがつかない」→ すなわち「つなし」
  じゅう、つじ、つなし、もげき、よこたて、など読み多数みられる
88b316f7.jpeg :もげき、もぎき、もげき(全国順位75、656位、およそ10件ほど)
  「木」の両側の払いがもげていることから。正しくは、十の縦線が跳ねている常用外の漢字を用いる。新潟県、北海道など少数みられる。
 
B.日付の名字
 四月一日(朔日):わたぬき(全国順位90、150位、およそ10件)
  綿貫と語源をともにする。現千葉県北部である下総国葛飾郡発祥ともいわれる、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)千葉氏族。
 五月七日:つゆり(大阪市、神戸市など、全国に少し)
  昔あるところに、水無瀬殿(みなせどの)という大臣(おとど)がいた。彼は露姫という摂津国第一の美女を娶ったが、露姫は一年も経たぬうちに亡くなった。大臣は悲しみのあまり、庭先に一宇(いちう)の堂を建て、妻の霊を祀った。栗の花の落ちる頃なので、露姫の代りに栗花落姫と当てた。妻の遺言により堂脇に井戸を掘り、朝夕、水を汲んでは飲んだ。水はどんな時でも涸れることなく、評判になり、水をもらいに来る者も出た。堂宇はいつの間にか栗花落(つゆり)神社と呼ばれ、霊水は雨乞いの呼び水として知られるようになったという。そして旧暦五月七日に栗花落祭りという雨乞いの祭りを行うので、この読み方のになったとのこと。
 六月一日(朔日)うりわり(大阪に少し)
  「瓜破(うりわり)」とも表記する。六月は夏の始まりで瓜の実がわれる頃。昔、三蔵法師に学んだ道昭という僧侶が河内・丹比で天神像を見つけ、これを祀り、近くで採れた瓜を供えたと言われる。現在の大阪市平野区瓜破だ。ここは今も瓜の大産地という。
 八月一日(朔日)ほずみ、はっさく(全国順位32、865位、全国におよそ100件ほど)
  「ほずみ」の読み、この日に稲の新穂を積み始めるから。「はっさく」は「八朔」の音読みだろう。穂積氏、源氏などにもみられる。穂積氏の異形であり、旧暦8月1日に実る稲の穂を摘み贈る風習が語源といわれる。群馬県、千葉県、岐阜県などにみられる。
 八月十五日:なかあき、あきなか(今のところ実在例はなし、幽霊名字かもしれぬ)
  昔は、旧暦7・8・9月「現在の暦の8・9・10月頃」を「秋」としていた。そして、7月を孟秋(孟は「はじめ」の意味」、8月を仲秋、9月を季秋「季は「末」のこと)と呼んでいた。このように、「旧暦8月)を表すときには、「仲秋」と書き、「仲」の文字を使うが、「中秋」と「中」の文字を使うと、秋の丁度真ん中の日(旧暦8月15日)だけをさすことになるのである。
 十一月二十九日:つめづめ(実在の人を見つけることはできなかった。幽霊名字か?)
 「十一月二十九日」と書いて「つめづめ」と読む姓があるという話があるが、残念ながらその由来を示す資料はない。この爺が察するに物事の終わりを「大詰め」というから、1年の内十二月は大詰めの月、十一月は詰めの月。その十一月の内三十日は大詰めの日、二十九日は詰めの日ということで、一年の「つめ」と十一月の「つめ」をかさねて「つめづめ」となったものか?
 十二月一日(朔日):しわすだ(之も実在の人を見つけることができなかった。幽霊名字らしい)
  十二月一日(朔日)から「師走だ」ということだろう。
 十二月三十一日:ひづめ(これも幽霊名字か?)
年末で日がつまっているから
 
C.クイズまがいの名字
 小鳥遊:たかなし(全国順位50、362位、全国に40件ばかり)
  高梨からの転化。清和源氏井上氏流の名族。信濃国高井郡高梨邑を領した高梨盛光が、長男に高梨、次男に鳥楽(たかなし)、三男に小鳥遊、四男に仁科の姓を与えたことから。意味は読んで字のごとくである。なお、次男の鳥楽氏は文献によっては鳥遊氏であったり、あやふやなところがある。小鳥が遊ぶ=天敵(鷹)がいない=タカナシ
 月見里:やまなし(全国順位18、806位、全国に300件ばかり)
  月を見るには山がない方がよく見える。だから、「月見里」と書いて「やまなし」と読む。なお、漢字通りに「つきみさと」と読むこともある。もともとは清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)(現山梨県である甲斐国山梨郡)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)(現千葉県北部である下総国千葉郡山梨郷)などにもみられる。静岡市の旧清水地区と、千葉県の松戸市付近の名字で、清水には「月見里神社/やまなしじんじゃ」という神社もある。
 鶏冠井:かいで、かえで、かえでい(全国順位36,597位、およそ80件)
  ニワトリの冠といえば「トサカ」のこと。真っ赤なトサカは、紅葉したカエデの形に似ているので、「鶏冠」を「カエデ」と読ませものか。現京都である山城国乙訓郡鶏冠井村発祥ともいわれる。南部藩にもみられる。現在、岐阜県や愛知県などに少数みられる。語源は楓の葉形が鶏のとさかに似ていることからきている。古代の長岡京跡が、四方八方に路がのび、拡がっている所からつけられたと思われる。本来は「かえでい」だったと思うのだが、いつの間にか末尾の「い」がなくなり、今では「かえで」と読んでいるそうだ。
 部田:へた、とりた(全国順位10,781位、およそ700件)
  「ぶた」などと読む勿れ。女性ならなおされの子と。この名字の秘密を解く鍵は「服部」にある。「服部(全国順位134位、153000件)」も充分難読ではあるが、これは誰でも「はっとり」と読める。「服部=はっとり」ならば、「部=とり」だろう、と考えた人がいるという。鳥田と起源をともにする。現三重県である伊勢国部田御厨起源とも言われる。近年、北海道や岐阜県、島根県にみられる。この系統に「日下=くさか」から生まれた「日馬=くさま」などがある。
 日下: くさか,にちか,にちした,にっか,ひしも,ひした,ひのした,ひもと,ひか,ひかげ,ひげ(全国順位764位、およそ26,800件)
  日下連、日下宿禰、日下部氏(古代日下部の職名から起こり、多くはその部民の末。草壁ともいう)、安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)などにもみられる。徳島藩の士族にみられる。「下」は上や中に対し、低いところやふもとを表す。
 日馬:くさま(全国順位9,456位、およそ850件)→ 詳細はよく判らない
 臥龍岡:ながおか(全国順位80,099位、およそ10件)→ 詳細跛不明
 「龍」が「臥」せている「岡」。龍とはいうまでもなく、中国の想像上の動物。この龍が地面に寝ていたらどんな感じだろうか。おそらく、長~く地面が丘のように盛り上がっているように見えるに違いない。だから、「臥龍岡」と書いて「ながおか」と読むのだという。本来の名字は「長岡」だったのだろう。
 :かながしら(実例は存在しないようだ。幽霊名字か)
  ひらがな一文字「い」で「かながしら」と読む。いろは48文字の最初の字ということだろう。
 
D.エロっぽい名字
 十八女:さかり(今も徳島県阿南町に町名が現存している)
  「鬼も十八、番茶も出花」というくらいで、18歳は女性が一番美しくなる年齢だとされています。「女ざかり」という意味で「十八女=さかり」と読ませるのかな。
  壇ノ浦の戦いで海に沈んだとされている安徳天皇(ここでは姫宮とされている)は実は生きていて、この地に落ち延びていた(この手の話は九州・四国各地の残されている)。18歳になられた姫宮安徳天皇は「十八女(さかり)」と名乗るようになったのたという。この「さかり」は「盛」、すなわち清盛以下、知盛・敦盛・重盛など平家一門の男性に与えられた一字を表しているのだという。
 十六女:いろつき(詳細不明)
  女性としての色のつきはじめ、というのが読みの語源。古代人は和語に対し意味の近い文字を当てたりしたので、このような姓ができた。ししめがもともとであり四×四=十六のことという説もある。関連は獅子目で鹿児島県に地名もあった。
 十八娘:ねごろ(どうも作り話臭い。幽霊苗字か?)
  紀州根来(ねごろ)寺の僧が織田信長にそむいて滅ぼされそうになった。逃げ延びた僧が、カモフラージュとして、「十八娘」と名乗ったそうな。根来寺の再起を誓った合言葉のようなものだったという。なぜ、この当て字をしたのだろう? 単純にこの僧は18歳の尼僧だったのか?
 このほか、「交楽:まずら」はまだよいとして、「男女重:おめしげ」なんて、赤面するような苗字もあるというが、これらもどうやら創作くさい。幽霊苗字か? いずれも実例を見つけることは出来なかった。
 
E.伝説のある名字
 肥満:ひまん、こえみつ(全国順位54,894位、30件ぐらい)
かつて、ある村で村人が旅のお坊さんを家に泊めた。お坊さんはそのお礼として石をくれたという。この石、なぜかどんどん肥え太るように大きくなっていったのだが、それと同時に村も栄えるようになったとか。あとで聞くと、実はその旅のお坊さんとはかの弘法大師だったので、村人は、この石にあやかって名字を「肥満」にしたという言い伝えが残っている(三重県津市・滋賀県)。全国各地に伝わる“弘法大師伝説”の一つであるが、「石が大きくなる」→「肥満」という飛躍がなんとも面白い。その背景には、中世以前では「太っている=裕福」という概念が一般的にあったのだろう。
薬袋:みない(全国順位6,516位、1500件ほど)
  現山梨県である甲斐国巨摩郡薬袋村が起源(ルーツ)である、和気延成が皆井村を賜り薬袋を名のったとされる。熊本藩にもみられる。武田信玄が薬袋を落として届けた際「中身を見たか」と問うたところ、見ていないといったことからとか、薬袋を持っているのを見たことがない(くらい元気)といった具合の話が由来の出所として多数残されている。実際、山梨県では有名な長寿村もあり、もっともらしい説ではある。この発展型の名字として「御薬袋/みない」というのもあるという。「武田信玄の薬袋だ」と主張しているようである。。
:ぜつ(全国順位27,818位、およそ100件)
 京都の貴船神社に神様が降臨した際、牛鬼というおしゃべりな神が、他言無用の天上の秘密をぺらぺらと喋ってしまい、舌を八つ裂きにされて追放されたという。牛鬼は、その後貴船に戻り、自ら戒める意味で「舌」を名字として、貴船神社の神官になったと伝えている。
玉虫:たまむし(全国順位13,358位、山形県米沢市、東京都、宮城県などに500件ばかり)
  現新潟県である越後国古志郡玉虫(位置不祥)が起源(ルーツ)である。984年(永観2年)に戦いに敗れた城氏が自刃しようとした際に助けた老婆が玉虫となったことからという伝承がある。桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)城氏流、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)多田氏流などにもみられる。
風呂:ふろ(全国順位12,191位、およそ600件)
「風呂」という名字は実は各地のあちこちにある。今と違って、昔は家に風呂がある、というのはとても贅沢なことだった。そうした風呂家のうち、岩手県遠野市の風呂家にはすごい由来がある。頼朝に追われている源義経に風呂を貸したところ、義経から「風呂」という名字をもらったというのがある。ただ、この話の問題は、遠野は義経主従が打ち取られた平泉よりもさらに北にあり、義経はそこまでたどり着いてはいないはず。
小粥:おかい/こがゆ(全国順位6,361位、おおよそ1600件ほど)
  織田家などを輩出した現愛知県である尾張国の藤左衛門が源義朝落去時、粥を捧げたことから名乗るようになった。近年、静岡県浜松市に多数みられる。徳川家康は若いころ、武田信玄の前に木っ端みじんに敗れたことがあり、ほうほうのていで逃げた来た家康は、ある家でお粥をごちそうになった。ほっと一息ついた家康は家の主人に「小粥」という名字を送り、今では、「こがゆ」か「おかい」と読むことが多いが、本来の「おかゆ」を名乗っている家もあるという。なお、小粥家では家紋も、お椀に箸を一膳乗せた形であるという。 

F.その他色々
 一寸八分:かまつか
  一尺八寸姓は、鎌の柄の長さを由来と刷る名字のようだが、一寸八分といえば、鎌の柄にしては短すぎる。
言語道断:てくらだ、てらくだ、てくら
  秋田県雄勝郡東成瀬村手倉、山形県酒田市手蔵田との関係を指摘する説もあるが、なぜ言語道断などという言語道断な字を当てたのか定かでなく、信憑性に欠ける。「大言海」によると、秋田県雄勝郡東成瀬村に「言語道断」と書いて「てこら」や「てくら」と読む地名があり、語源は「照濃 (てこら)」で、色濃く照り映えた景観を指す賞美語と解説しているという。 しかし、なぜ「照濃」が「言語道断」になるか、この解説では判らない。「照濃」が賞美語だとしても、賞美語ではない「言語道断」になぜ結びつくのか?
子子子子:ねこじし、すねこし、すねごし
  子子子子子子子子子子子子は、日本の言葉遊びである。「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。この問題を考え出したのは嵯峨天皇、解いたのは小野篁であると伝えられている。このあたりから、デッチあげられた創作名字か?
 己己己己:いえしき
  古歌に「ミ・シ(巳)は上、ヤム・イはスデニ(已)半ばなり、オノレ・ツチノト・コ(己:漢音「キ」呉音「コ」)は下につく」とあるから、正しくは、已○巳己 となるはず。このあたりからの創作名字らしい?
 東西南北:よもひろ、ひがた
  東西南北を四方(よも)いうことから「四方にひろがる」という意か?
 春夏秋冬:ひととせ
  春夏秋冬で一年(ひととせ)あるから。
 海千山千:ふるて
   海千山千とは、「海に千年、山に住んだ蛇は竜になる」という言い伝えを人間の経験にあてはめたもので、その言い伝え自体は古いが、「海千山千」という形での用例は昭和になってからである。また、竜になるという言い伝えには「立派な(竜になること)」といった意味が含まれているが、海千山千は世の中を知り尽くしたことで、ずる賢くなった者をさすため、褒め言葉としては用いられない。海千山千の同意句には、「海に千年山に千年」がある。これを「ふると」と読む由縁も判りそう。
 百千万億:つもい ??
a72328eb.jpeg 鬮橋:くじはし(全国順位37,989位、およそ70件)
  現兵庫県南西部である播磨発祥ともいわれるが、詳細は不明である。近年、兵庫県に多く、特に小野市葉多町に集中してみられる。「鬮」は28画と画数の多い字であるが籌(ちゅう)に通じ「くじ」の意、「橋」は国の内外を渡す要所を表す。
 画数が多いといえば、


cb6ba901.jpeg 「 (たいと)」は、総画数が84画という最も複雑な漢字(和製漢字→国字)であるという。日本人の苗字であるとされ、他に「だいと」・「おとど」とも読むというのだが、「 」を載せる文献はいずれも苗字として解説しているものの、苗字に関する全国的な悉皆調査が行われた事例がないため、この苗字が現存するのか、あるいはかつて存在したのか、それとも文献に登場しても実際には存在しない幽霊名字であるのかは不明である。1960年代初め、ある証券会社にこの苗字を持つ者が現れ、名刺を残していったともいわれるが、真偽のほどは定かでない。
 
6bbfe67a.jpeg 東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称を姓(かばね、せい)という。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった。
 名字とは平安中期頃から、武士などが「名田(みょうでん)」にちなんだ「字(あざな)」を作るようになったことから、「名田の字」で「名字」となった。「苗字」の表記は江戸時代以降で、「苗」の字は苗裔〔びょうえい、末孫〕の意味からである。江戸時代には「苗字」でほぼ固定してきたが、『苗字帯刀』によって武士と一部の庶民を除き、名乗ることが許されていなかった。平民の使用が許されたのは、明治3年(1870年)の『平民苗字許可令』であるが、当時の国民は政府を信用していなかったため、つけることで余分に課税されるのではないかと警戒し、名乗る者は少なかったという。すべての国民が名乗るようになったのは、明治8年(1875年)、名乗ることが義務付けられた『平民苗字必称義務令』による。
 
 日本には十数万もの種類の名字があるといわれているが、大きくわけて、古来からの姓をそのまま使用しているものと、平安以降に生まれた名字を名乗っているものとにわけるとことができる。
 
A.姓をそのまま名乗っているもの
 日本には数多くの名字が存在するが、これらが古代からすべてあったわけではない。その大部分は、平安後期から室町地代にかけて爆発的に増えた「名字」で、それ以前は韓国や中国同様、「姓」の種類は限られたものであった。明治以降、多くの家は「名字」を戸籍として登録したが、「姓」を登録した家も少なからずあった。こうした姓には大きく次のような種類がある。
1. )賜姓皇族:天皇家には名字がない。従って、天皇家から分家して一家を興す際には、天皇から新しい名字を賜って独立した。これを賜姓皇族といい、「源」「平」「橘」などが有名であるが、他にも「清原」「在原」などがある。江戸時代以前は、家を継がない皇族は分家せずに僧籍に入るのが一般的であった。しかし、明治以降は宮家の分家は新しく家を興すことになった。こうして戦前に新たに12家が新名字で創立さた。さらに、戦後にはGHQの指令で、今度は11家の宮家そのものが皇族を離れ、新しい名字を作っている。この時できた名字が最後の賜姓皇族で、「久邇」「東久邇」「北白川」などがある。
2. 古代豪族:古代においては天皇(大王)家も有力豪族の中で最大の勢力を誇る一族にすぎず、他にも有力な氏族は多数存在していた。日本を統一した大王家は、こうした豪族達に姓を与えることで、その地位や役職をあきらかにしたのである。豪族の多くは、系図も書き換えて、天皇家とつながるようにしている。「蘇我」「物部」「大伴」などの大和地方の有力一族の他に、岡山県の「吉備」や、群馬県の「毛野」など、地方にも多くの豪族がいた。また、藤原氏も古代豪族中臣氏の末裔であった。
3. 渡来人:4世紀以降、日本よりも文明の進んでいた中国や朝鮮半島から、政権争いに敗れた一族など、多くの氏族が移り住んできた。彼らは進んだ技術を持っていたため、中には大和朝廷で重要なポストを占める一族も現れた。当時の大和朝廷は開かれた国家で、出自が外国であることによる差別はなかったようで、たとえば、漢の弓月君の子孫と称する秦氏は、今の京都市太秦に住み、全国に広がっている。土佐の戦国大名・長宗我部氏も秦氏の末裔ということだし、江戸時代の一関藩主の田村家や、室町時代の大名大内家なども、系図上では渡来人の末裔ということになっている。
4. 神官:古代においては、神社は大きな役割をしめていた。全国の有力神社には、それぞれその神事を司る一族があり、独自の発展をしていた。宇佐神宮(大分県)の宇佐氏、阿蘇神社(熊本県)の阿蘇氏、出雲大社(島根県)の出雲氏などがそうで、彼らの中には、鎌倉時代以降は武士化したものもある。たとえば、長野県の諏訪氏はこうした神官から出て、戦国大名となり、江戸時代には高島藩の藩主となっている。
 
B.名字を名乗っているもの
  現在、多くの人は、「姓」ではなく、「名字」を使用している。この名字には以下のようなものがある。
63f11f32.jpeg1.地名に由来する名字:日本人の名字で、最も種類が多いのが地名を起源とするものだという。これにはいくつかのパターンがあるが、最も多いのは、都から地方に降った人が、住み着いた地名を名字にしたのものである。さらに、分家した次男や三男も新しい土地に移り住むと、そこの地名を名字としたため、有力な一族ほど、本家の周囲の地名を名字とした分家が多くあることになる。武田家や佐竹家といった鎌倉時代からの名家の系図をみると、本家近くの地名を名乗った人が沢山出てくる。都からの移住者でなくても、ある土地の支配者は、自らがその土地の領主であることを明確に示すために、地名を名字として名乗った。地名に由来する名字は、特定の地名を発祥地としているため、比較的そのルーツを探りやすいが、同じ地名が他にもある、という点に注意が必要。たとえば、「石川」という地名は各地にあるので、いろいろなところから「石川」という名字が生まれている。基本的に、地名を名字にできるのはその土地の有力者のみであることが多く、ルーツとなる地名のところに行っても、その名字が極端に多いというわけではない。地名由来の名字にはもう一つの顔があり、ある土地の出身者が別の土地に行って成功した場合、出身地の地名を名字とすることがよくあった。よその土地とは行っても、江戸時代以前にそんなに遠くに行くことはなく、多くはルーツとなった土地から少し離れている、という程度のことが多い。そのため、地名由来の名字の場合は、発祥地となる地名から少しだけ離れた所にその名字が固まっていることがよくある。
2.地形や風景に由来する名字:地名由来についで多いのが、地形や土地の様子、自然の風景などを名字にしたものである。ある土地に住んでいる人が、皆地名を名字とすると、集落中すべて同じ名字になってしまう。これでは、他家と自家を区別するためという名字の本来の意味が失われてしまうので、自分の家の場所の特徴を名字とした。日本は山と川が多く、平地は可能な限り開墾して田畑にしたため、「山」「川」「田」などのつく名字は、数が非常に多くなっている。この他では、「池」「林」「森」「原」「浜」なども地形由来の名字でよく使われる漢字である。こうした名字は、同じような地形があればどこでも同じ名字が発生するわけで、ルーツを探るのは困難となる。地名のルーツも多くは地形であるから、地名由来の名字と地形由来の名字はかなり重なっている。
3.方位や位置関係に由来する名字:文字通り「東西南北」などの方位を表わす名字である。基本的には地形由来の名字と同じで、同じ土地の中での家の位置関係を示したものである。「東西南北」の他にも、「前後奥」「上中下」「右左」などもこの中に含まれる。また複合した名字として「西の方の村」で「西村」や、南東を意味する「巽」などもあり、種類はそれほど多くないが、名乗っている人は非常に多いのが特徴で、これらも通常は発祥地の特定は難しい。沖縄では、新しい分家ができた際、本家との位置関係で、「前」「後」「西」「東」などを名字の頭につけた。そのため、沖縄では、こういった漢字で始まる名字が沢山ある。
4.職業に由来する名字:現代と違って、江戸時代以前は職業は基本的には世襲であった。そのため、自分の職業を名字としたものが多数ある。古代では、犬や鳥を飼っていた「犬養」「鳥飼」、朝廷の大蔵を管理した「大蔵」、荘園の管理をした「荘司」など、公的な職業を名字としたものが主流であった。室町時代以降、貨幣経済が発展してからは、自らの商売を名字としたものが登場した。「○屋」とつく名字がそうで、これには、扱っている商品をつけたもの(鍋屋とか)と、自分の出身地をつけたもの(越後屋とか)がある。明治時代になって名字を届ける際、そのまま「~屋」で届けた家もあるが、「屋」を「谷」に変えたたり(加賀谷など)、「屋」を完全に取ったりしたことも結構多く、これらは一見職業姓とは気づかないこともある。商人の町として栄えた、富山県射水市の旧新湊地区では、ほとんどの家が「屋」をとって名字としたため、この地区には「花」「米」など、ものの名前がそのまま名字となったものが沢山あるという。また、秋田市や大阪府の岸和田市などでは「屋」を「谷」に変えて登録したため、この地方の電話帳をみると、いろいろな種類の「~谷」さんが大量に並んでいるという。
5.藤のつく名字:日本で最も多い名字である佐藤をはじめ、安藤・伊藤・江藤・加藤・工藤・後藤・近藤・斎藤など、下に「藤」のつく名字がいくつかある。いずれも大変ポピュラーなものだが、その大部分が、藤原氏から生まれたものだという。平安時代は藤原氏が朝廷を完全に支配していました。そのため、公家をはじめ、下級官僚なども藤原氏ばかりで区別がつかなくなり、名字(家号)を使用して区別するようになった。しかし、名門「藤原」の名を消し去らないよう、「藤」の漢字を残して、地名や職業と組み合わせた。たとえば、伊勢に所領のある藤原氏は、伊勢の「伊」と藤原の「藤」で「伊藤」、斎宮頭をつとめる藤原氏は「斎藤」という具合である。その後、中央でうだつのあがらない官僚は地方に行って住み着き、全国に「○藤」姓が広がっていったのだという。
6.僧侶の名字:江戸時代以前、僧籍に入ると俗世間を離れるために、公式に名字を捨てた。現在では武士以外も名字があったというのは定説であるが、僧侶は正式に名字のない人達だった。しかし、明治維新後は、彼らも名字を持つことが義務づけられた。僧侶は武士や庄屋階級の出身者が多く、本来の名字もあったのだろうが、あえて仏教用語や経典にある言葉を名字として採用していることが多かったという。そのため、僧侶の名字には、仏教関係の難しい漢字や読み方のものが多くみられる。爺が戦時中疎開していた広島県の三次にも梵(そよぎ)なんて名字があったが、廣島カーブの梵英心(そよぎえいしん、1980年生)選手はその一族かもしれない。
7.主君から賜った名字など、独特の由来を持つもの:戦で功績をあげた時などに、主君から褒美として名字を賜ることがある。たとえば、織田信長が美濃の伊木山城を攻めた際、功をあげた2人の家臣に伊木という名字を与えている。1家はのちに岡山藩の家老となったという。江戸時代になると、借金を引き受けてくれた町人に名字を与える、ということもあった。江戸時代の譜代大名の大河内家や滝脇家のように、将軍家から松平の名字をもらったため、やむを得ず「松平」と名乗ってが、幕府の崩壊とともに本来の名字に戻したというケースもある。この他にも、徳川家康に粥を振るまったことからもらったという静岡県の「小粥」家や、源義経から授かったという岩手県の「風呂」家など、各地にあるという。また、戦で負けた際、二十里逃げたところで無事敵から逃れることができたため、そのまま住み着いて「二十里(つりふじ・いそすり)」を名字にしたなど、名字には色々な由来があるものである。こうした名字の場合、由来はその家だけに代々伝わるものなので、どこかで伝達がもれてしまえば、由来は誰にも解らなくなってしまうもの。自分の名字の由来などもふくめて、各家の起源などは、大切に子孫に伝えていってもらいたいものである。
 
0b7a8874.jpeg 日本人の姓(名字)で一番多い姓は何だろう? 或る人が「東北ではでは『佐藤工藤は馬の糞』って言われているよ」 と言っていた。東北地方には、それほどたくさんの佐藤姓、工藤姓が多いということだろう。日本は、他のアジア圏に比べて突出して姓が多い。これは、姓の由来が他のアジア諸国と異なることによるという。しかし、中には幽霊名字と言われる「実在しない姓」がまことしやかに語られている場合があり、正確な数は特定できていない。
 2010年現在日本国内に多い名字〔上位10位まで〕をネットで調べてみると、
1 佐藤(サトウ、サドウ)約1、928、000人 北海道・東北地方をはじめとする東日本(特に秋田県)や東九州に多い名字で、関西圏では大阪府・兵庫県を除きそれほど多くはない。沖縄県ではむしろ珍しい名字。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷の子孫、左衛門尉公清が佐藤を称するに始まる。「藤」は藤原の氏を表す。「佐」は下野国佐野庄、または左衛門尉(さえもんのじょう)の職名を表しています。秀郷流藤原氏流は下野国佐野庄発祥。秀郷流藤原姓波多野氏流、岩代国信夫庄発祥の奥州藤原氏流、ほか、相馬氏流、那須氏流等関東に多い理由でもある。尾張氏流、紀伊氏流などもある。家紋は源氏車や藤などがある。
2 鈴木(スズキ、ススキ、ススギ)約1、707、000人 愛知県(特に三河)・静岡県及び南関東・東北地方に多い。南関東のランキングでは1位。発祥地は和歌山県海南市だが、西日本(特に九州・沖縄地方)にはさほど多くはない。古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族穂積氏の子孫、現和歌山県と三重県南部である紀伊国熊野の豪族で熊野神社勧請で広まる。左記のように紀伊国熊野発祥の族は穂積姓、紀伊国牟婁郡鈴木庄発祥の族は藤原南家がある。桓武平氏千葉氏流、清和源氏松平氏族、美和下流、駿河龍、雑賀流、泡流、関東流、東北流などがある。語源は、田の中の穂積みに立てた一本の棒、稲魂招来用で、鈴木氏はその化身とされる。家紋は竹笹、竹に笠、笠、鷹の羽など。
3 高橋(タカハシ、タカバシ)約1、416、000人 この名字も東北地方をはじめ東日本(とくに岩手県の北上市周辺)や中四国地方に多い傾向がある。古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族の高橋連、伊勢神宮祠官、弥彦大宮司など全国的に様々な流派がみられる。古代高橋邑人の末裔、大和国添上郡高橋発祥の高橋朝臣は安倍氏族、三河国賀茂郡高橋郷発祥の族は藤原北家大森氏族、遠江国城飼郡高橋郷発祥の族は物部氏族と藤原南家狩能氏族と二流ある。駿河国庵原郡高橋発祥の族は大宅氏族、ほか佐々木氏流、彌彦大宮氏流、利仁流藤原姓後藤氏族、丹波の族、伊予国大三島の大祝家で越智氏族などある。語源は、高い橋、高い柱。川に高い橋を架けることにあこがれ、また、天と地を結ぶために柱を立てることは祭祀の一つであり、高橋氏は職掌も司った。それにより氏の名や地名も発生したとされる。
4 田中(タナカ、ダナカ、デンチュウ)約1、336、000 全国満遍なく分布し、大半の都道府県で上位にランクされるが、密度では西日本(沖縄県を除く)の方が多い。大阪府・山陰地方・福岡県のランキングでは1位であり、西日本全体でも1位を誇る。東日本でも関東地方(特に埼玉県入間・比企地域)・甲信越地方(特に長野県)・北海道では密度が高い。蘇我氏族の田中臣、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏などの様々な流派がみられる。大和国高市郡発祥は田中直の末裔、近江国高島郡発祥の族は佐々木氏流愛知族、甲斐国山梨郡発祥の族は清和源氏安田氏族、伊豆国多方郡発祥の族は桓武平氏北条氏族などさまざまみられる。家紋はかたばみ、木瓜など。語源は、田の中、耕作のための田居の語から発生したとされる。
5渡辺(ワタナベ、ワタベ)約1、135、000人 発祥地は大阪市中央区で、沖縄県を除く全国に満遍なく分布するが、密度は山梨県や静岡県など東日本南部または中京地方・九州(特に大分県)に多い。嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)、源融四世の孫、渡辺綱の子孫。現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津国西成郡渡辺が起源(ルーツ)である。他にも秀郷流藤原姓荒木氏族や赤松氏族、賀茂族などがある。家紋は三つ星に一、三つ星、丸に三つ星など。語源は、大阪淀川の渡しのあるあたりの意味。
6 伊藤(イトウ)約1、080、000人 中京地方及び東北地方・関東地方・近畿地方・山陰地方に多い。件数は愛知県が最も多いが、密度では三重県の方が多い。愛知県名古屋市では市町村としては最も件数が多い。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷の子孫、佐藤公清の曾孫基景が現三重県である伊勢に住み称したのに始まる。他にも伊豆国四方郡伊東庄発祥の族は藤原南家河津流であり伊東と記す。ほか相良流、越智流、伊香流などがある。家紋は庵木瓜、横木瓜、藤など。語源は、「伊」が伊勢または伊豆、「藤」が藤原氏を表している。藤原南家の流れであり、仁寿8年(852年)に藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称した工藤氏を源流とする。その後、工藤氏の一部子孫が駿河に移住した駿河工藤に対して、東伊豆に移動した工藤氏の子孫が「伊豆工藤」と称し、この「伊豆工藤」が後に「伊藤」となった。また同じく工藤氏からは、工藤行政という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称した。よって二階堂氏も源流を同じくする。尚、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。またこれとは別に、藤原秀郷流の武士で伊勢国に領地を得て、「伊勢の藤原」を意味する伊藤を名乗った伊藤基景の名字に由来する伊藤氏も存在する。
7 山本(ヤマモト)約1、077、000人 どちらかといえば西日本に多いが、東北地方は多くない。北陸地方・山陽地方では1位、近畿地方・山陰地方では2位。東日本でも埼玉県や静岡県では上位にランクされる。賀茂社神職家、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、日下部氏(古代日下部の職名から起こり、多くはその部民の末。草壁ともいう)など様々な流派がみられる。語源は、山のふもと。山の神との関係で神官が多い。賀茂姓、荒木田姓、度会姓などがある。家紋は巴、州浜、山本字、柏などがある。
8 中村(ナカムラ)約1、058、000人 全国に分布するどちらかといえば西日本に多い。特に近畿・九州地方に多い。中村連、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)など様々な流派がみられる。語源は、小さな村が大きくなると東出村、西出村のように分村ができ、このとき本村を中村ということから来ている。地名も多い。
9 小林(コバヤシ、オバヤシ)約1、019、000人 関東・信越・近畿・中国地方に多い。大神姓、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流など、神官系に多数みられる。語源は、祭りに由来する小囃しや、小さな林、人家に近い林、灌木の茂みなどである。とくに目立つのは上野と信濃の小林氏である。上野の小林氏は桓武平氏の出で、緑野郡小林と多野郡御厨小林を根拠とした秩父氏高山党の分かれという。一方、信濃の小林氏は伊那郡と諏訪郡から発祥した二つの流れがあり、いずれも諏訪神家にゆかりがある。諏訪郡の小林氏は諏訪氏と同族であり、伊那郡の小林氏は知久氏の分かれである。知久氏は 清和源氏満快流だが、諏訪氏と姻戚関係があり諏訪氏とは同族とみなされる。その他、木曽義仲の子孫、藤原氏の流れという小林氏もいる。また、神官も多く見られ、伊勢の度会姓小林氏、大和宇陀郡小林の大神姓小林などがある。これは、木を伐採したのち山の神を祭ることに由来するようだ。さらに上総・下総・相模に平姓小林氏、下総・甲斐・三河・大和に藤原姓小林氏、東北の羽前・飽海郡、岩代・合津郡から発祥した小林氏がある。
10 斎藤(サイトウ)約980、000人 中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原利仁の子、斎宮頭叙用が斎藤を称するに始まる。「斎」は斎宮頭の斎を表し、「藤」は藤原氏を表している。
となっている。
 因みに日高姓の全国順位は344位〔およそ6万3300人〕であった。現鹿児島県である薩摩、現鹿児島県東部である大隅の有名氏族は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、子孫に現鹿児島県である薩摩藩の士族。ほか嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)松浦党などにもみられる。「高」は高い様を表す。わが「日高」は、どうやら『松浦(まつら)党』の系統を引くものらしい。いうなれば、海賊の一統が、瀬戸内海から吉備地方を北上して石見(いわみ)地方に入ったものらしい。
e250f76d.jpeg  桜橋~白髭橋間をひと回りする。橋場の遊歩道沿いのマンションの裏庭に、木槿(むくげ)が溢れ落ちんばかりに咲き誇っている。「槿花一日の栄」というが、誠に人間の一生ははかないものだ。
 


9c609e85.jpeg 今年は、あの一番の元気者で、明るかったマイチが帰らぬ人となってしまった。最近は何かにつけてはちょっとしたことでマイチの姿が思い出される。帰宅後、古いアルバムからマイチの幼かった日(中学1年)の写真を取り出してスキャンしてみた。 
6cb487d2.jpeg 今年2月2日マイチが帰らぬ人となり、もうすぐに新盆が来る。浅草寺では毎年、8月15日に万霊燈篭供養会が行なわれるが、爺の本名「日高節夫」を施主として、「德譽祐心居士〔マイチの戒名〕」の霊を供養して戴くよう申し込んである。
 塾友諸君で、マイチと関わりある方々には無理のない範囲で、皆さん方がお誘い合わせの上お詣りして戴きたいものである。
 場所 浅草寺本堂  時刻 午後6時30分より
 
 なお、供養会は7時ごろまでには終わると言うことなので、このあと「マイチを肴にして、一杯やろう」と言うことで、現在ナベちゃんにお骨折り願っている。8月に入ったら、参加希望の方は10日までに、ナベちゃんか、もしくはこの爺(プロフィールにあるメールアドレス、または電話03-3874-7808)へご連絡をお願いする。おそらく、
 場所 ひさご通の「タケヤ」  時刻 午後7時30分ごろ  会費 四・五千円ぐらい
詳しいことが知りたい方は申し込みの際にお尋ね戴きたい。
 
 なお、マイチの思い出など、追悼文の書ける方はこの爺のブログに掲載させてもらいたいものだ。爺のメールへその旨を添えて送信してくだされば、掲載させて戴く。数が多ければ、追悼文集にしてもよいと思っている。
 
泰山不要欺毫末、 泰山(たいざん)は毫末(ごうまつ)も欺くを要せず、
顔子無心羨老彭。 顔子(がんし)は老彭(ろうほう)を羨(うらや)む心無
             し。
松樹千年終是朽、 松樹(しょうじゅ)千年、終に是れ朽ち、
槿花一日自為栄。 槿花(きんか)一日(いちじつ)、自ら栄を為す。
何須戀世常憂死、 何ぞ須(もち)ひん世を恋(した)ひ常に死を憂ふる
             を、
亦莫嫌身漫厭生。 亦た身を嫌(いと)ひ漫(みだ)りに生を厭ふこと莫
             れ。
生去死来都是幻、 生去(せいきょ)死来(しらい)、都(すべ)て是れ
             幻(げん)、
幻人哀楽繁何情。 幻人(げんじん)哀楽(あいらく)、何情(かじょう)に
             繁(かか)る。 
〔訳〕あの雄大な泰山は少しも拘泥するところなく、
   夭折した顔回は彭祖の長寿を羨む心無し。
   松の木も千年すれば終には朽ち、
   むくげの花は一日にして自ずからその生を全うする。
   いたずらに世を恋(こい)しみ死を憂う必要はなく、
   いたずらに身を嫌い生を厭う必要もない。
   生死の去来はすべて幻、
   されば幻なる人が哀楽するは果たして何の情なのか。
 
  昨日の朝、宝塚のS氏に送信したご来光の写真のお礼のメールが、携帯に入っていた。曰く、「FW:御礼 相変わらず早朝の散歩には感心しております。この暑さに花火見物を楽しみにする江戸っ子ならぬ人々の多さに驚いています。多分、江戸っ子は斜に構えて花火を楽しんでいるのかも…。今晩の隅田川の花火は何か想定外・今までに経験したことのない松下流花火であれば面白いかもしれませんね。「花火の明るさも電気料金に加算されるのかな…」とも言いたい今日この頃です。皮肉だとしても、この様な事を言えば江戸っ子に叱られるかもしれませんね。当方、猛暑の連日 マンションの狭さと腰痛のため行き場なし。なにはともあれ、体調に留意されますことを念じております。写真有難う御座いました。はっきり見たいので、パソコンから打ち出しました。そのため返事が遅れ申訳けありませんでした。
 
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 昨夜は、花火が終って、ついつい話し込み就寝したのは夜中の0時過ぎ。朝起きるとまだアルコールが残っており、朝の徘徊は取り止めた。撮影した花火の写真を見たが、どれもピンボケ。花火の写真は三脚無しでは到底無理。
 
 ウェブニュースから花火の記事2つ。
 
6a53e03b.jpeg ツリー展望台からも大輪に歓声 隅田川花火、2万発 ―― 東京・下町の夏の風物詩、隅田川花火大会が28日、東京都台東区と墨田区にまたがる会場で開かれ、5月に開業した東京スカイツリー(墨田区)の展望台でも2万発を超える花火に歓声が上がった。/高さ450メートルの「天望回廊」と同350メートルの「天望デッキ」が特別営業され、約186倍の抽選に当たった客ら計約750人が入場。眼下に次々と広がる花火の大輪を楽しんだ。/浴衣姿で妹と訪れた千葉県印西市の会社員近藤紀子さん(38)は「抽選に当たってびっくりした。上から見下ろす花火なんて初めてなので感動しました」とうれしそうだった。(Doshin 07/28 21:36)
 
a3e4767a.jpeg 展望台から隅田川花火=スカイツリー、700人楽しむ ―― 高さ世界一の電波塔、東京スカイツリー「東京都墨田区、634メートル)の展望台で28日夜、「隅田川花火大会」にあわせ、入場者700人限定の特別営業が行われた。打ち上げられた花火は約2万発。入場者は花火が彩った夜空を楽しみ、連続して何発も打ち上げられたフィナーレでは一斉に歓声を上げた。/抽選方式で売り出された入場券は倍率186倍の「プラチナチケット」となっていた。千葉県松戸市の主婦小栗理恵さん「39」は家族4人で来場。スカイツリーの展望台に来たのは2度目だが「ここから花火を見るチャンスは一生に一度。きれいに見えて良かった」と満足そうに話した。(jijicom 2012/07/28-21:17)
 
  昨日の朝、宝塚のS氏に送信したご来光の写真のお礼のメールが、携帯に入っていた。曰く、
FW:御礼 相変わらず早朝の散歩には感心しております。この暑さに花火見物を楽しみにする江戸っ子ならぬ人々の多さに驚いています。多分、江戸っ子は斜に構えて花火を楽しんでいるのかも…。今晩の隅田川の花火は何か想定外・今までに経験したことのない松下流花火であれば面白いかもしれませんね。「花火の明るさも電気料金に加算されるのかな…」とも言いたい今日この頃です。皮肉だとしても、この様な事を言えば江戸っ子に叱られるかもしれませんね。当方、猛暑の連日 マンションの狭さと腰痛のため行き場なし。なにはともあれ、体調に留意されますことを念じております。写真有難う御座いました。はっきり見たいので、パソコンから打ち出しました。そのため返事が遅れ申訳けありませんでした。
 
 昨夜は、花火が終って、ついつい話し込み就寝したのは夜中の0時過ぎ。朝起きるとまだアルコールが残っており、朝の徘徊は取り止めた。撮影した花火の写真を見たが、どれもピンボケ。花火の写真は三脚無しでは到底無理。
 
 ウェブニュースから花火の記事2つ。
 
ツリー展望台からも大輪に歓声 隅田川花火、2万発 ―― 東京・下町の夏の風物詩、隅田川花火大会が28日、東京都台東区と墨田区にまたがる会場で開かれ、5月に開業した東京スカイツリー(墨田区)の展望台でも2万発を超える花火に歓声が上がった。/高さ450メートルの「天望回廊」と同350メートルの「天望デッキ」が特別営業され、約186倍の抽選に当たった客ら計約750人が入場。眼下に次々と広がる花火の大輪を楽しんだ。/浴衣姿で妹と訪れた千葉県印西市の会社員近藤紀子さん(38)は「抽選に当たってびっくりした。上から見下ろす花火なんて初めてなので感動しました」とうれしそうだった。(Doshin 07/28 21:36)
 
展望台から隅田川花火=スカイツリー、700人楽しむ ―― 高さ世界一の電波塔、東京スカイツリー「東京都墨田区、634メートル)の展望台で28日夜、「隅田川花火大会」にあわせ、入場者700人限定の特別営業が行われた。打ち上げられた花火は約2万発。入場者は花火が彩った夜空を楽しみ、連続して何発も打ち上げられたフィナーレでは一斉に歓声を上げた。/抽選方式で売り出された入場券は倍率186倍の「プラチナチケット」となっていた。千葉県松戸市の主婦小栗理恵さん「39」は家族4人で来場。スカイツリーの展望台に来たのは2度目だが「ここから花火を見るチャンスは一生に一度。きれいに見えて良かった」と満足そうに話した。(jijicom 2012/07/28-21:17)
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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