瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今夕は7時過ぎより、隅田川花火大会が開催される。
隅田川花火大会は、1732年に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733年7月9日(旧暦、享保18年5月28日)両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる。この当時は20発前後の花火で、かなりのんびりとしたものであった。打ち上げは最初期は鍵屋が担当したが、1810年に鍵屋の分家の玉屋(創業者は玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は1843年に火災を起こし、江戸処払いを命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。
両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年から1977年まで、交通事情の悪化等により中断するが、1978年に現在の名称「隅田川花火大会」として復活し、以後毎年続けられている。
毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。今回はスカイツリーのライトアップの競演もあり、話題となっている。
今朝は起き抜けに、桜橋~言問橋を一周する。桜橋の下流に花火打ち上げのための浮桟橋が設けられた。桜橋を渡って、向島の遊歩道を南下する。遊歩道は、今夕の花火見物のための場所取りの人たちで占領されごったがえしている。酒を飲んで大声で放吟しているもの、麻雀やトランプを楽しんでいるもの、はたまた道に見っともない寝姿を曝け出している男女等で、所狭しと歩く場所すらない始末。言問橋を渡り、川沿いの遊歩道を北上。ここもまた、場所取りの人々が、大勢屯している。なかには、夏休みに入るとすぐから、1週間あまりも同じ場所に釘付けになっている若者のクループもある。こんな中の間を抜けて、再び桜橋手前から山谷掘水門広場を突っ切って帰宅した。
昨夕はロンドンで第30回夏季オリンピックの開会式が開かれたという。今朝のウェブニュースより
ロンドン五輪:開幕 204ヵ国・地域の1万500人参加 ――【ロンドン井上英介】五輪史上初めて同一都市3度目の開催となる第30開花期オリンピック大会は、27日羐「日本時間28日未明」~開会式を実施、28日は柔道、水泳、体操など19競技が行われる。今大会には、204の国・地域から選手約1万500人が参加。女子ボクシングの開催により、初めて実施全競技に女性参加種目が設けられ、史上初めて全参加国・地域から女性アスリートが出場する予定。ロンドン五輪組織委員会は、地球環境を守る「サステナビリティー(持続可能性)」を運営方針に掲げ、経済発展などを示す従来型とは違った新しい五輪を目指す。/今大会で実施されるのは、26競技302種目。前回の北京五輪28競技から野球とソフトボールが消えた。女性の肌の露出がイスラムの教えに反するとして出場を認めてこなかったサウジアラビア、カタール、ブルネイ3カ国が初めて女性選手を送る。 〔毎日新聞 2012年07月28日 05時00分(最終更新 07月28日 08時20分)〕
隅田川花火大会は、1732年に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733年7月9日(旧暦、享保18年5月28日)両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる。この当時は20発前後の花火で、かなりのんびりとしたものであった。打ち上げは最初期は鍵屋が担当したが、1810年に鍵屋の分家の玉屋(創業者は玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は1843年に火災を起こし、江戸処払いを命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。
両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年から1977年まで、交通事情の悪化等により中断するが、1978年に現在の名称「隅田川花火大会」として復活し、以後毎年続けられている。
毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。今回はスカイツリーのライトアップの競演もあり、話題となっている。
今朝は起き抜けに、桜橋~言問橋を一周する。桜橋の下流に花火打ち上げのための浮桟橋が設けられた。桜橋を渡って、向島の遊歩道を南下する。遊歩道は、今夕の花火見物のための場所取りの人たちで占領されごったがえしている。酒を飲んで大声で放吟しているもの、麻雀やトランプを楽しんでいるもの、はたまた道に見っともない寝姿を曝け出している男女等で、所狭しと歩く場所すらない始末。言問橋を渡り、川沿いの遊歩道を北上。ここもまた、場所取りの人々が、大勢屯している。なかには、夏休みに入るとすぐから、1週間あまりも同じ場所に釘付けになっている若者のクループもある。こんな中の間を抜けて、再び桜橋手前から山谷掘水門広場を突っ切って帰宅した。
昨夕はロンドンで第30回夏季オリンピックの開会式が開かれたという。今朝のウェブニュースより
ロンドン五輪:開幕 204ヵ国・地域の1万500人参加 ――【ロンドン井上英介】五輪史上初めて同一都市3度目の開催となる第30開花期オリンピック大会は、27日羐「日本時間28日未明」~開会式を実施、28日は柔道、水泳、体操など19競技が行われる。今大会には、204の国・地域から選手約1万500人が参加。女子ボクシングの開催により、初めて実施全競技に女性参加種目が設けられ、史上初めて全参加国・地域から女性アスリートが出場する予定。ロンドン五輪組織委員会は、地球環境を守る「サステナビリティー(持続可能性)」を運営方針に掲げ、経済発展などを示す従来型とは違った新しい五輪を目指す。/今大会で実施されるのは、26競技302種目。前回の北京五輪28競技から野球とソフトボールが消えた。女性の肌の露出がイスラムの教えに反するとして出場を認めてこなかったサウジアラビア、カタール、ブルネイ3カ国が初めて女性選手を送る。 〔毎日新聞 2012年07月28日 05時00分(最終更新 07月28日 08時20分)〕
「決めるべきことを先送りしないで、決めるときに決める政治を行う。これが日本において最大の政治改革だ」 大隈重信にでもなったつもりか? 母校・早大で講演したドジョウ首相に、「何を言ってるんだ」と呆れた国民も多かったはずだ。 日刊ゲンダイの記事2つ。
共通の敵 小沢一郎が去り 激化する民主党の内ゲバオスプレイ配備では前原VS玄葉 ―― 在日米軍基地へのオスプレイ配備をめぐって政府と党の対立が露呈した民主党政権。政府批判の急先鋒が前原誠司政調会長(50)だった。前原は「国民の納得」を盾に配備延期を主張。これに「地元の民意を軽く見ているということはない」と真っ向反論したのが玄葉光一郎外相(48)だった。/前原VS玄葉の構図に、民主党内からは「また始まった」と呆れる声が上がっている。この2人、もともと犬猿の仲なのだ。/「前原と玄葉は共に1993年の初当選組で松下政経塾でも8期生の同期。安保・外交を志向する前原さんが先に出世しましたが、昨秋の野田内閣発足で玄葉さんが外相に就任し、2人のライバル意識がますます強まりました」(民主党関係者)
前原は政調会長なのにやたらと外遊し要人に会う。今年のゴールデンウイークには、ロシアのラブロフ外相とモスクワで北方領土について会談。今月16日にはソウルを訪問し、韓国の金外交通商相らと会談した。前原は「オレの方が外交は上だ」と言いたいのだろうが、外交にシャシャリ出てくる行動が玄葉の感情をさらに逆なでする。/「前原さんが“言うだけ番長”と批判された時は、玄葉さんは『オレは“言ったらやる番長”だ』とバカにしていたそうです」(前出の民主党関係者)/ま、この2人に限らず松下政経塾出身者は、野田、樽床、原口といずれも自分が一番と思っているから、結局、いがみ合う。これまでは「反小沢」というキーワードの下、共通の敵がいたが、小沢離党でそれがなくなれば、お互いにライバルを蹴落としにかかる。オスプレイをめぐる一幕は、民主党の「内ゲバ」の序の口。これからますます激しくなりそうだ。 〔2012年7月25日掲載〕
米軍2兆円回収の悪巧み ウソ八百並べ宙に飛ぶ オスプレイ配備 <言いなりの日本に売りつけ元を取る> ―― 防衛省は25日、「MV22オスプレイ」の事故調査チームを設置、8月に米国に派遣することを決めた。調査といっても、米軍から説明を聞き、操縦シミュレーターで確認する程度だから、とても期待できない。
だいたい、オスプレイについての日米両政府の説明はデタラメばかりだ。特にヒドイのは「事故率は低い」というウソ。防衛省は米側の言い分をうのみにし、10万飛行時間当たりの事故率を「1.93」と説明。普天間基地の現行機〔CH46〕の事故率(1.11)と同レベルか、むしろ「老朽化するCHを使い続ける方が危ない」(森本防衛相)と強調しているが、イカサマだ。/「この数字は、損害額200万ドル(約1億5600万円)以上か、死者発生の『Aクラス事故』に限ったもの。200万ドル未満やケガ人発生程度の『B、Cクラス事故』は含めず、意図的に低く見せている疑いが濃厚です」(沖縄県政担当記者)/フザケたことに、同型機の「CV22オスプレイ」の事故率は(13.47)と突出して高い。MVは海兵隊、CVは空軍が使用。CVは特殊作戦機のため、事故が多いのはやむを得ない――というのが、日本政府のスタンスだが、両機の違いは「CVだけには夜間飛行に備えた地形追随レーダーが装備されている程度。もちろん、レーダーの有無と事故は関係ありません」(軍事ジャーナリストの神浦元彰氏)/こんなポンコツCVを米軍は2016年までに嘉手納基地に9機も配備する計画なのだ。/「『騒音は低い』という説明もマヤカシです。あくまで、固定翼モードで高度飛行している際の話で、周辺住民に影響する着陸時の最大騒音は現行機よりはるかに大きい」(前出の県政担当記者)/米軍はなぜ、ウソ八百を並べ立てて「オスプレイ」を日本に配備したいのか。/「すでに米国は80年代からオスプレイ開発費に2兆円以上を費やしています。この間、カネだけでなく、多くの兵士が命を失った。今さら、製造、配備を中止するわけにはいかないのです」(神浦元彰氏=前出)/自分たちに言いなりの日本に持っていけば、開発費を回収できる――。米国の魂胆はそんなところだろう。事実、7月上旬に英国で開かれた航空ショーで、米海兵隊幹部は海外の通信社に「日本の海上自衛隊はオスプレイを買う」と漏らしたという。日本が欠陥ヘリ購入なんて悪夢である。 〔2012年7月26日 掲載〕
共通の敵 小沢一郎が去り 激化する民主党の内ゲバオスプレイ配備では前原VS玄葉 ―― 在日米軍基地へのオスプレイ配備をめぐって政府と党の対立が露呈した民主党政権。政府批判の急先鋒が前原誠司政調会長(50)だった。前原は「国民の納得」を盾に配備延期を主張。これに「地元の民意を軽く見ているということはない」と真っ向反論したのが玄葉光一郎外相(48)だった。/前原VS玄葉の構図に、民主党内からは「また始まった」と呆れる声が上がっている。この2人、もともと犬猿の仲なのだ。/「前原と玄葉は共に1993年の初当選組で松下政経塾でも8期生の同期。安保・外交を志向する前原さんが先に出世しましたが、昨秋の野田内閣発足で玄葉さんが外相に就任し、2人のライバル意識がますます強まりました」(民主党関係者)
前原は政調会長なのにやたらと外遊し要人に会う。今年のゴールデンウイークには、ロシアのラブロフ外相とモスクワで北方領土について会談。今月16日にはソウルを訪問し、韓国の金外交通商相らと会談した。前原は「オレの方が外交は上だ」と言いたいのだろうが、外交にシャシャリ出てくる行動が玄葉の感情をさらに逆なでする。/「前原さんが“言うだけ番長”と批判された時は、玄葉さんは『オレは“言ったらやる番長”だ』とバカにしていたそうです」(前出の民主党関係者)/ま、この2人に限らず松下政経塾出身者は、野田、樽床、原口といずれも自分が一番と思っているから、結局、いがみ合う。これまでは「反小沢」というキーワードの下、共通の敵がいたが、小沢離党でそれがなくなれば、お互いにライバルを蹴落としにかかる。オスプレイをめぐる一幕は、民主党の「内ゲバ」の序の口。これからますます激しくなりそうだ。 〔2012年7月25日掲載〕
米軍2兆円回収の悪巧み ウソ八百並べ宙に飛ぶ オスプレイ配備 <言いなりの日本に売りつけ元を取る> ―― 防衛省は25日、「MV22オスプレイ」の事故調査チームを設置、8月に米国に派遣することを決めた。調査といっても、米軍から説明を聞き、操縦シミュレーターで確認する程度だから、とても期待できない。
だいたい、オスプレイについての日米両政府の説明はデタラメばかりだ。特にヒドイのは「事故率は低い」というウソ。防衛省は米側の言い分をうのみにし、10万飛行時間当たりの事故率を「1.93」と説明。普天間基地の現行機〔CH46〕の事故率(1.11)と同レベルか、むしろ「老朽化するCHを使い続ける方が危ない」(森本防衛相)と強調しているが、イカサマだ。/「この数字は、損害額200万ドル(約1億5600万円)以上か、死者発生の『Aクラス事故』に限ったもの。200万ドル未満やケガ人発生程度の『B、Cクラス事故』は含めず、意図的に低く見せている疑いが濃厚です」(沖縄県政担当記者)/フザケたことに、同型機の「CV22オスプレイ」の事故率は(13.47)と突出して高い。MVは海兵隊、CVは空軍が使用。CVは特殊作戦機のため、事故が多いのはやむを得ない――というのが、日本政府のスタンスだが、両機の違いは「CVだけには夜間飛行に備えた地形追随レーダーが装備されている程度。もちろん、レーダーの有無と事故は関係ありません」(軍事ジャーナリストの神浦元彰氏)/こんなポンコツCVを米軍は2016年までに嘉手納基地に9機も配備する計画なのだ。/「『騒音は低い』という説明もマヤカシです。あくまで、固定翼モードで高度飛行している際の話で、周辺住民に影響する着陸時の最大騒音は現行機よりはるかに大きい」(前出の県政担当記者)/米軍はなぜ、ウソ八百を並べ立てて「オスプレイ」を日本に配備したいのか。/「すでに米国は80年代からオスプレイ開発費に2兆円以上を費やしています。この間、カネだけでなく、多くの兵士が命を失った。今さら、製造、配備を中止するわけにはいかないのです」(神浦元彰氏=前出)/自分たちに言いなりの日本に持っていけば、開発費を回収できる――。米国の魂胆はそんなところだろう。事実、7月上旬に英国で開かれた航空ショーで、米海兵隊幹部は海外の通信社に「日本の海上自衛隊はオスプレイを買う」と漏らしたという。日本が欠陥ヘリ購入なんて悪夢である。 〔2012年7月26日 掲載〕
昨夜、夜中に雨が降ったらしい。公園のベンチはどこも濡れていて、休む場所もない。花火の場所取りの若者が酒を飲んで大声で喚いている。桜橋~言問橋を歩いただけで帰宅し、新聞もまだ来ていないようなので、パソコンのニュースを見る。
ここ数日のオスプレイについてのウェブニュースより
オスプレイ抗議に1100人 岩国で集会や行進 ―― 垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米海兵隊岩国基地への先行搬入が近づいた22日、搬入などに反対する集会が地元岩国市の市役所前広場であった。中国5県のほか、四国や沖縄などから約1100人「主催者発表」が参加し、×印を付けたオスプレイの写真を掲げて、絶対反対の意思をアピールした。/真夏日となったこの日の集会で、実行委員会の吉岡光則委員長が「地元の反対の声を無視した行為に満身の怒りを込めて抗議する」と声を上げた。米軍機の騒音被害が及ぶ岩国市由宇町の大学3年喜良紗也香さん(20)らも登壇し「日本のどの地域でも飛んでほしくない」と訴えた。/集会には、岩国に先行搬入後に配備が予定される沖縄県からも住民団体のメンバーらが続々と詰めかけ、「全国で危険な低空飛行が繰り広げられることになる。何とか力を合わせてオスプレイを阻止したい」などと共闘を呼び掛けた。/岩国搬入と国内配備撤回を求めるアピール案を採択。参加者全員で×印を付けたオスプレイの写真を頭上に掲げ、反対の意思を示して閉会。周辺約1キロをデモ行進した。/オスプレイを積んだ民間輸送船は22日よる、関門海峡を抜けた。23日朝にも岩国沖に姿を現すとみられる。/基地に近い岩国市尾津町の主婦布施里美さん(39)は3歳の長男を連れて参加し「小さい子がいる親としては安心して住める町であってほしい。一人の声は小さいがみんなで反対の意思を伝えたい」と話していた。 (中国新聞 '12/7/23)
オスプレイ安全策を協議へ=日米合同委 ―― 日米両政府は26日、地位協定に基づく日米合同委員会を都内で開催する。米軍岩国基地(山口県岩国市)に一時駐機のため陸揚げされた米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイについて、運用上の安全確保策を協議する。/日本側は外務省の秋葉剛男北米局参事官や防衛省の鈴木良之地方協力局次長が、米側は在日米軍司令部の担当者が出席する予定。/合同委について玄葉光一郎外相は25日、外務省を訪れた二井関成山口県知事に対し、「運用ルールや低空飛行の問題をしっかり協議する」と語った。日本政府は、配備先の米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)での運用や日本国内各地で計画する低空飛行訓練について、住民の安全に配慮した飛行ルートや高度設定を求める方針だ。/オスプレイをめぐり日米両政府は、4月以降にモロッコと米フロリダで起きた墜落事故に関する米軍の調査で機体の安全性が確認されない限り、日本では飛ばさないことを申し合わせている。 (jijicom 2012/07/26-05:16)
Osprey(オスプレイ)とはアメリカ軍の最新鋭輸送機(ティルトローター機)の愛称。米国防省のJVX(統合垂直離着陸機)計画の下、ベル社とボーイング社が開発した。現在、海兵隊用「MV22」と空軍用「CV22」の2機種が製造されている。初飛行は1989年で、正式配備は2007年。イラク、アフガニスタン、リビアでの実戦にも投入されている。日本の米軍基地にも、老朽化が指摘されているCH46(輸送用ヘリ)の後継機として配備が計画され、12年7月23日に「MV22」12機が岩国基地(山口県)に搬入された。点検作業等を経たのち、同年10月、「世界一危険な基地」とされる普天間基地(沖縄県)に移される。今後、更に12機が導入される予定。オスプレイは、左右の固定翼にそれぞれ回転翼(ローター)を備えている。その角度を97.5度から0度まで(垂直方向から水平方向まで)変えることにより、ヘリのように垂直離着陸や空中停止することも、飛行機のように水平に高速飛行することも可能。また、中間の60~75度で、短距離離着陸 (STOL)もできる。時速は約500キロメートルで、CH46の2倍近い。航続距離は約3900キロメートルで、CH46の5倍以上。作戦行動半径(人員・物資を搭載して、目的地と往復できる距離)も約600キロメートルで、CH46の約4倍。空中給油も可能で、1回の補給で行動半径は1000キロメートルを超える。これは、沖縄を中心にすると、朝鮮半島、中国大陸東部、南シナ海までを含む範囲。輸送兵員も24人でCH46の2倍、貨物の搭載量も約3倍。飛行高度も最高約7500メートルで、他機からの攻撃も受けにくい。こうした点から政府内では、北朝鮮や中国に対する軍事抑止力としての期待が高まっている。しかし、ヘリと航空機の「良いとこどり」のシステムは複雑で、操縦にも高度な技術を要する。開発段階から計8回(配備後は4回)も重大事故を起こしており、犠牲者数は36人に及んでいる。米国では「ウィドウ・メーカー」(未亡人製造器)の汚名が付けられ、最近も12年4月にモロッコで、6月に米国フロリダ州で事故を起こしている。いずれも事故原因が解明されておらず、とりわけ基地周辺での安全性が懸念されるが、「海兵隊の資料によると、10万飛行時間当たりのオスプレイの事故率は1.93であり、海兵隊戦闘機の平均2.45と比べて低く、またCH46の1.11とも大差ない」という反論もある。ただし、これには空軍用機の事故は含まれておらず、また、09年に海兵隊が事故認定の基準を引き上げたこと、事故隠蔽(いんぺい)の疑いも指摘されていることなどから、数値の信憑性(しんぴょうせい)を疑問視する声は強い。
ここ数日のオスプレイについてのウェブニュースより
オスプレイ抗議に1100人 岩国で集会や行進 ―― 垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米海兵隊岩国基地への先行搬入が近づいた22日、搬入などに反対する集会が地元岩国市の市役所前広場であった。中国5県のほか、四国や沖縄などから約1100人「主催者発表」が参加し、×印を付けたオスプレイの写真を掲げて、絶対反対の意思をアピールした。/真夏日となったこの日の集会で、実行委員会の吉岡光則委員長が「地元の反対の声を無視した行為に満身の怒りを込めて抗議する」と声を上げた。米軍機の騒音被害が及ぶ岩国市由宇町の大学3年喜良紗也香さん(20)らも登壇し「日本のどの地域でも飛んでほしくない」と訴えた。/集会には、岩国に先行搬入後に配備が予定される沖縄県からも住民団体のメンバーらが続々と詰めかけ、「全国で危険な低空飛行が繰り広げられることになる。何とか力を合わせてオスプレイを阻止したい」などと共闘を呼び掛けた。/岩国搬入と国内配備撤回を求めるアピール案を採択。参加者全員で×印を付けたオスプレイの写真を頭上に掲げ、反対の意思を示して閉会。周辺約1キロをデモ行進した。/オスプレイを積んだ民間輸送船は22日よる、関門海峡を抜けた。23日朝にも岩国沖に姿を現すとみられる。/基地に近い岩国市尾津町の主婦布施里美さん(39)は3歳の長男を連れて参加し「小さい子がいる親としては安心して住める町であってほしい。一人の声は小さいがみんなで反対の意思を伝えたい」と話していた。 (中国新聞 '12/7/23)
オスプレイ安全策を協議へ=日米合同委 ―― 日米両政府は26日、地位協定に基づく日米合同委員会を都内で開催する。米軍岩国基地(山口県岩国市)に一時駐機のため陸揚げされた米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイについて、運用上の安全確保策を協議する。/日本側は外務省の秋葉剛男北米局参事官や防衛省の鈴木良之地方協力局次長が、米側は在日米軍司令部の担当者が出席する予定。/合同委について玄葉光一郎外相は25日、外務省を訪れた二井関成山口県知事に対し、「運用ルールや低空飛行の問題をしっかり協議する」と語った。日本政府は、配備先の米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)での運用や日本国内各地で計画する低空飛行訓練について、住民の安全に配慮した飛行ルートや高度設定を求める方針だ。/オスプレイをめぐり日米両政府は、4月以降にモロッコと米フロリダで起きた墜落事故に関する米軍の調査で機体の安全性が確認されない限り、日本では飛ばさないことを申し合わせている。 (jijicom 2012/07/26-05:16)
Osprey(オスプレイ)とはアメリカ軍の最新鋭輸送機(ティルトローター機)の愛称。米国防省のJVX(統合垂直離着陸機)計画の下、ベル社とボーイング社が開発した。現在、海兵隊用「MV22」と空軍用「CV22」の2機種が製造されている。初飛行は1989年で、正式配備は2007年。イラク、アフガニスタン、リビアでの実戦にも投入されている。日本の米軍基地にも、老朽化が指摘されているCH46(輸送用ヘリ)の後継機として配備が計画され、12年7月23日に「MV22」12機が岩国基地(山口県)に搬入された。点検作業等を経たのち、同年10月、「世界一危険な基地」とされる普天間基地(沖縄県)に移される。今後、更に12機が導入される予定。オスプレイは、左右の固定翼にそれぞれ回転翼(ローター)を備えている。その角度を97.5度から0度まで(垂直方向から水平方向まで)変えることにより、ヘリのように垂直離着陸や空中停止することも、飛行機のように水平に高速飛行することも可能。また、中間の60~75度で、短距離離着陸 (STOL)もできる。時速は約500キロメートルで、CH46の2倍近い。航続距離は約3900キロメートルで、CH46の5倍以上。作戦行動半径(人員・物資を搭載して、目的地と往復できる距離)も約600キロメートルで、CH46の約4倍。空中給油も可能で、1回の補給で行動半径は1000キロメートルを超える。これは、沖縄を中心にすると、朝鮮半島、中国大陸東部、南シナ海までを含む範囲。輸送兵員も24人でCH46の2倍、貨物の搭載量も約3倍。飛行高度も最高約7500メートルで、他機からの攻撃も受けにくい。こうした点から政府内では、北朝鮮や中国に対する軍事抑止力としての期待が高まっている。しかし、ヘリと航空機の「良いとこどり」のシステムは複雑で、操縦にも高度な技術を要する。開発段階から計8回(配備後は4回)も重大事故を起こしており、犠牲者数は36人に及んでいる。米国では「ウィドウ・メーカー」(未亡人製造器)の汚名が付けられ、最近も12年4月にモロッコで、6月に米国フロリダ州で事故を起こしている。いずれも事故原因が解明されておらず、とりわけ基地周辺での安全性が懸念されるが、「海兵隊の資料によると、10万飛行時間当たりのオスプレイの事故率は1.93であり、海兵隊戦闘機の平均2.45と比べて低く、またCH46の1.11とも大差ない」という反論もある。ただし、これには空軍用機の事故は含まれておらず、また、09年に海兵隊が事故認定の基準を引き上げたこと、事故隠蔽(いんぺい)の疑いも指摘されていることなどから、数値の信憑性(しんぴょうせい)を疑問視する声は強い。
《昨日の続き》
文月は陰暦7月をさす。短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った七夕の行事に因み、「文披月(ふみひらきづき)」が転じたとする説が有力とされる。/その他、陰暦七月が稲穂が膨らむ月であるため、「穂含月(ほふみづき)」「含月(ふくみづき)」からの転とする説。/稲穂の膨らみを見る月であるため、「穂見月(ほみづき)」からの転とする説もある。/英語での月名、Julyは、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、Julius Caesar (ユリウス・カエサル)にちなむ。Caesarは紀元前45年にユリウス暦を採用するのと同時に、7月の名称を「Quintilis(クィンティリス)」から自分の家門名に変更したという。
葉月は陰暦8月の和名。新暦では九月上旬から十月上旬の秋にあたるため、葉の落ちる月「葉落ち月」が転じて「葉月」になったとする説。/北方から初めて雁が来る月なので、「初来月」「初月」から「葉月」になったとする説。/稲の穂が張る月「穂張り月」「張り月」から、「葉月」になったとする説がある。/「葉落ち月」の説が有力にも思えるが、必ずしも漢字がそのまま残るとは限らず、当て字の可能性もあるため、正確な語源は未詳。/英語名Augustは、ローマ皇帝Augustus(アウグストゥス)に由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「Sextilis」から自分の名に変更した。
長月は陰暦9月の和名。語源は諸説あり、新暦の十月上旬から十一月の上旬にあたり、夜がだんだん長くなる「夜長月(よながつき)」の略とする説。/その他、雨が多く降る時季であるため、「長雨月(ながめつき)」からとする説。/「稲刈月(いなかりづき)」「稲熟月(いなあがりつき)」「穂長月(ほながづき)」の約や、稲を刈り収める時期のため、「長」は稲が毎年実ることを祝う意味からといった説。/「名残月(なこりのつき)」が転じたとする説などがある。/この中でも「夜長月」の略とする説とする説は、中古より広く信じられている説で最も有力とされている。/英語での月名、Septemberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、BC46年に、それまで3月を年の始めとしていたのを1月を年の始めとすると改めたにもかかわらず、名称を変えなかった為である。
神無月は陰暦10月をさす。語源は、神を祭る月であることから「神の月」とする説が有力とされ、「無」は「水無月」と同じく「の」を意味する格助詞「な」である。/中世の俗説には、10月に全国の神々が出雲大社に集まり、諸国に神がいなくなることから「神無月」になったとする説があり、出雲国(現在の島根県)では反対に「神有月・神在月(かみありづき)」と呼ばれる。/その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じたとする説や、新穀で酒を醸す月なので「醸成月(かみなしづき)」が転じたとする説がある。/英語での月名、Octoberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の「octo」の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、BC46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、(そのため年末の2月は日数が少ない)3月から数えて8番目という意味である。
霜月は陰暦11月の和名。「霜降り月・霜降月(しもふりつき)」の略とする説が有力とされる。/その他、十は満ちた数で一区切りなので上月になり、それに対して下月とする説や、「神無月」を「上な月」と考えて「下な月」とする説など、上下の「下」とみる説。/「食物月(をしものつき)」の略とする説や、「摺籾月(すりもみづき)」の意味など諸説あるが、いずれも有力とはされていない。/英語での月名、Novemberは、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem」の語に由来している。
師走は陰暦12月の和名。当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。/師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」がある。この説は、平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に、「しはす」の注として説明されている。/現代の「師走」と漢字の意味も近く、古い説であるため有力に思えるが、「師馳す」説は民間語源で、この説を元に「師走」の字が当てられたと考えられる。/その他、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとする説。/「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説。/「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがある。/英語での月名、Decemberは、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。
文月は陰暦7月をさす。短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った七夕の行事に因み、「文披月(ふみひらきづき)」が転じたとする説が有力とされる。/その他、陰暦七月が稲穂が膨らむ月であるため、「穂含月(ほふみづき)」「含月(ふくみづき)」からの転とする説。/稲穂の膨らみを見る月であるため、「穂見月(ほみづき)」からの転とする説もある。/英語での月名、Julyは、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、Julius Caesar (ユリウス・カエサル)にちなむ。Caesarは紀元前45年にユリウス暦を採用するのと同時に、7月の名称を「Quintilis(クィンティリス)」から自分の家門名に変更したという。
葉月は陰暦8月の和名。新暦では九月上旬から十月上旬の秋にあたるため、葉の落ちる月「葉落ち月」が転じて「葉月」になったとする説。/北方から初めて雁が来る月なので、「初来月」「初月」から「葉月」になったとする説。/稲の穂が張る月「穂張り月」「張り月」から、「葉月」になったとする説がある。/「葉落ち月」の説が有力にも思えるが、必ずしも漢字がそのまま残るとは限らず、当て字の可能性もあるため、正確な語源は未詳。/英語名Augustは、ローマ皇帝Augustus(アウグストゥス)に由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「Sextilis」から自分の名に変更した。
長月は陰暦9月の和名。語源は諸説あり、新暦の十月上旬から十一月の上旬にあたり、夜がだんだん長くなる「夜長月(よながつき)」の略とする説。/その他、雨が多く降る時季であるため、「長雨月(ながめつき)」からとする説。/「稲刈月(いなかりづき)」「稲熟月(いなあがりつき)」「穂長月(ほながづき)」の約や、稲を刈り収める時期のため、「長」は稲が毎年実ることを祝う意味からといった説。/「名残月(なこりのつき)」が転じたとする説などがある。/この中でも「夜長月」の略とする説とする説は、中古より広く信じられている説で最も有力とされている。/英語での月名、Septemberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、BC46年に、それまで3月を年の始めとしていたのを1月を年の始めとすると改めたにもかかわらず、名称を変えなかった為である。
神無月は陰暦10月をさす。語源は、神を祭る月であることから「神の月」とする説が有力とされ、「無」は「水無月」と同じく「の」を意味する格助詞「な」である。/中世の俗説には、10月に全国の神々が出雲大社に集まり、諸国に神がいなくなることから「神無月」になったとする説があり、出雲国(現在の島根県)では反対に「神有月・神在月(かみありづき)」と呼ばれる。/その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じたとする説や、新穀で酒を醸す月なので「醸成月(かみなしづき)」が転じたとする説がある。/英語での月名、Octoberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の「octo」の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、BC46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、(そのため年末の2月は日数が少ない)3月から数えて8番目という意味である。
霜月は陰暦11月の和名。「霜降り月・霜降月(しもふりつき)」の略とする説が有力とされる。/その他、十は満ちた数で一区切りなので上月になり、それに対して下月とする説や、「神無月」を「上な月」と考えて「下な月」とする説など、上下の「下」とみる説。/「食物月(をしものつき)」の略とする説や、「摺籾月(すりもみづき)」の意味など諸説あるが、いずれも有力とはされていない。/英語での月名、Novemberは、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem」の語に由来している。
師走は陰暦12月の和名。当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。/師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」がある。この説は、平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に、「しはす」の注として説明されている。/現代の「師走」と漢字の意味も近く、古い説であるため有力に思えるが、「師馳す」説は民間語源で、この説を元に「師走」の字が当てられたと考えられる。/その他、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとする説。/「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説。/「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがある。/英語での月名、Decemberは、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。
暦法における月齢(げつれい)とは、直前の朔の瞬間からの経過時間を日を単位として表したものである。特に、ある日の正午の月齢をその日の月齢と呼ぶこともある。概ね、月の満ち欠け(月相)と連動するが、必ず一致するわけではない。例えば、望(満月)の瞬間の月齢は13.8から15.8の間で変動する。すなわち、月齢14の日が満月とは限らない。これは月の軌道が楕円であるため、満ち欠けの速度が一定にはならないからである。また、朔の瞬間を含む日が旧暦の月始め(1日)だったので、月齢の値と旧暦の日付は関連があることになる。
月齢(数字)と月名、月相(写真)
1:朔(さく)/新月(しんげつ) | 2:既朔(きさく) | 3:三日月(みかづき) | 7/8:上弦(じょうげん) | 13:十三夜(じゅうさんや) | 14:小望月(こもちづき)/幾望(きぼう) | 15:望(ぼう)/満月(まんげつ)/望月(もちづき) | 16:十六夜(いざよい)/既望(きぼう) | 17:立待月(たちまちづき) | 18:居待月(いまちづき) | 19:寝待月(ねまちづき)/臥待月(ふしまちづき) | 20:更待月(ふけまちづき) | 22/23:下弦(かげん) | 29/30:晦(つごもり)
時間単位の「月」は、日次経過を知る際に天体の月の相(満ち欠け)の様子を見ることで容易に認識できることから生じた。新月から次の新月までの周期を指す1朔望月である約29.53日から30日(大の月)もしくは29日(小の月)を1か月としていた。この周期単位を用いる太陰暦では、1年は約354.4日となってしまい、季節の循環を司る太陽が天球を一巡する周期である365.2422日と、三年で1か月程度ずれが積み重なるため、閏月を適宜加える太陰太陽暦が作られたのである。
日本では伝統的に、現代暦の各月に太陰暦で使われた呼称を引き継いだ和名(和風月名)が置かれている。一方で、「一月」「二月」という表記も古代から使用され、最古の例は奈良時代の720年に編纂された『日本書紀』(神武紀)に見られる漢字「二月」に片仮名の訓で「キサラギ」など、数字表記と和風月名が併記された部分がある。なお11月は「十有一月(シモツキ)」、12月は「十有二月(シハス)」である。また、各月には様々な異称がある。
太陰暦で使われた呼称の語源について、調べてみた。ちなみに、暦の語源は「日読み(かよみ)」が転じた言葉であるという。「日」を「か」と読むのは、「二日(ふつか)」「三日(みっか)」などと同じ「ひ」の交替形。「読み」は「数える」を意味し、「日読み」で「日を追って数える」ことを意味する。「かよみ」から「こよみ」の転は、「よ」の母音が「か」の母音に影響を与えたことによるものだという。720年の『日本書紀』には、朝鮮半島から渡来した暦博士によって暦が初めて作られ、持統四年の勅令で暦法が公式に採用されたと記されている。
睦月とは、陰暦正月(1月)をさす。/睦月は、親類知人が互いに往来し、仲睦まじくする月からとする説が有力とされる。/その他、稲の実をはじめて水に浸す月で、「実月(むつき)」が転じたとする説。/元になる月で、「もとつき」が「むつき」に転じたとする説がある。/英語のJanuaryは、ローマ神話の出入り口とドアの神Janus(ヤヌス)にちなむ。年の入り口にあたることから、Janusの月となった。
如月とは、陰暦2月をさす。/寒さで着物を更に重ねて着ることから、「着更着(きさらぎ)」とする説が有力とされる。/その他、気候が陽気になる季節で「気更来(きさらぎ)」「息更来(きさらぎ)」とする説。
草木が生えはじめる月で「生更木(きさらぎ)」とする説。/草木の芽が張り出す月で「草木張り月(くさきはりづき)」が転じたとする説がある。/Februaryはローマ神話のFebruus〔フェブルウス、古代ローマにおいて、毎年2月に執り行われた慰霊祭Februaria(フェブルアーリア) の主神〕をまつる祭りから取ったと言われている。
弥生とは、陰暦3月をさす。/「弥生(いやおい)」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る」と使われるように草木が芽吹くことを意味する。/
草木がだんだん芽吹く月であることから、弥生となった。/英語のMarchはローマ神話のMars〔マルス、戦と農耕の神〕の月を意味するMartius(マルティウス)から取ったもの。
卯月とは、陰暦4月をさす。/卯の花が咲く季節なので、「卯の花月」の略とする説が有力とされ、卯月の「う」は「初」「産」を意味する「う」で、一年の循環の最初を意味したとする説もある。/その他、稲を植える月で「植月」が転じたとする説もあるが、皐月の語源と近く、似た意味から別の月名が付けられたとは考え難い。/また、十二支の四番目が「卯」であることから、干支を月に当てはめ「卯月」になったとする説もあるが、他の月で干支を当てた例がないため不自然である。仮に、卯月だけに干支が当てらたとしても、月に当てられる十二支は一月から順ではなく、陰暦の四月が「巳」、「卯」は陰暦の二月である。/英語での月名、Aprilはラテン語のAprilis 〔Venus(ウェヌス)相当するギリシャの女神Aphrodītē(アフロディーテ)のエトルリア名Apruより〕に捧げられた月。
皐月は陰暦5月をさす。耕作を意味する古語「さ」から、稲作の月として「さつき」になった。/早苗を植える月「早苗月(さなえづき)」が略され、「さつき」になったとする説もあるが、「早苗」の「さ」も耕作の「さ」が語源とされる。/漢字「皐」には「神に捧げる稲」の意味があるため、皐月が当てられたと思われる。/英語名などのMayはローマ神話で豊穣を司る女神Maia (マイア) の名に因むといわれている。12か月で唯一英語名に略称が存在しない(英語名の略称は3文字で表すため、もともと3文字の5月は略称が無い)。
水無月は陰暦6月をさす。水の無い月と書くが、水が無いわけではない。水無月の「無」は、神無月の「な」と同じく「の」にあたる連体助詞「な」で、「水の月」という意味である。陰暦六月は田に水を引く月であることから、水無月と言われるようになった。/旧暦の六月は梅雨が明けた時期になるため、新暦に当てはめて解釈するのは間違いで、水無月は「水の無い月」とするものもある。/しかし、「水の月」説は新暦以前から伝えられており、新暦に合わせたものではない。/「水の無い月」の説は梅雨を基準にされているが、梅雨の時期である旧暦五月「皐月」が梅雨に関係していないため不自然で考え難い。/英語名であるJuneはローマ神話のJuppiter(ユピテル、ジュピター)の妻Juno(ユノ、ジュノー)から取られた。Junoが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁を「June bride」(ジューン・ブライド、6月の花嫁)と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれる。
月齢(数字)と月名、月相(写真)
1:朔(さく)/新月(しんげつ) | 2:既朔(きさく) | 3:三日月(みかづき) | 7/8:上弦(じょうげん) | 13:十三夜(じゅうさんや) | 14:小望月(こもちづき)/幾望(きぼう) | 15:望(ぼう)/満月(まんげつ)/望月(もちづき) | 16:十六夜(いざよい)/既望(きぼう) | 17:立待月(たちまちづき) | 18:居待月(いまちづき) | 19:寝待月(ねまちづき)/臥待月(ふしまちづき) | 20:更待月(ふけまちづき) | 22/23:下弦(かげん) | 29/30:晦(つごもり)
時間単位の「月」は、日次経過を知る際に天体の月の相(満ち欠け)の様子を見ることで容易に認識できることから生じた。新月から次の新月までの周期を指す1朔望月である約29.53日から30日(大の月)もしくは29日(小の月)を1か月としていた。この周期単位を用いる太陰暦では、1年は約354.4日となってしまい、季節の循環を司る太陽が天球を一巡する周期である365.2422日と、三年で1か月程度ずれが積み重なるため、閏月を適宜加える太陰太陽暦が作られたのである。
日本では伝統的に、現代暦の各月に太陰暦で使われた呼称を引き継いだ和名(和風月名)が置かれている。一方で、「一月」「二月」という表記も古代から使用され、最古の例は奈良時代の720年に編纂された『日本書紀』(神武紀)に見られる漢字「二月」に片仮名の訓で「キサラギ」など、数字表記と和風月名が併記された部分がある。なお11月は「十有一月(シモツキ)」、12月は「十有二月(シハス)」である。また、各月には様々な異称がある。
太陰暦で使われた呼称の語源について、調べてみた。ちなみに、暦の語源は「日読み(かよみ)」が転じた言葉であるという。「日」を「か」と読むのは、「二日(ふつか)」「三日(みっか)」などと同じ「ひ」の交替形。「読み」は「数える」を意味し、「日読み」で「日を追って数える」ことを意味する。「かよみ」から「こよみ」の転は、「よ」の母音が「か」の母音に影響を与えたことによるものだという。720年の『日本書紀』には、朝鮮半島から渡来した暦博士によって暦が初めて作られ、持統四年の勅令で暦法が公式に採用されたと記されている。
睦月とは、陰暦正月(1月)をさす。/睦月は、親類知人が互いに往来し、仲睦まじくする月からとする説が有力とされる。/その他、稲の実をはじめて水に浸す月で、「実月(むつき)」が転じたとする説。/元になる月で、「もとつき」が「むつき」に転じたとする説がある。/英語のJanuaryは、ローマ神話の出入り口とドアの神Janus(ヤヌス)にちなむ。年の入り口にあたることから、Janusの月となった。
如月とは、陰暦2月をさす。/寒さで着物を更に重ねて着ることから、「着更着(きさらぎ)」とする説が有力とされる。/その他、気候が陽気になる季節で「気更来(きさらぎ)」「息更来(きさらぎ)」とする説。
草木が生えはじめる月で「生更木(きさらぎ)」とする説。/草木の芽が張り出す月で「草木張り月(くさきはりづき)」が転じたとする説がある。/Februaryはローマ神話のFebruus〔フェブルウス、古代ローマにおいて、毎年2月に執り行われた慰霊祭Februaria(フェブルアーリア) の主神〕をまつる祭りから取ったと言われている。
弥生とは、陰暦3月をさす。/「弥生(いやおい)」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る」と使われるように草木が芽吹くことを意味する。/
草木がだんだん芽吹く月であることから、弥生となった。/英語のMarchはローマ神話のMars〔マルス、戦と農耕の神〕の月を意味するMartius(マルティウス)から取ったもの。
卯月とは、陰暦4月をさす。/卯の花が咲く季節なので、「卯の花月」の略とする説が有力とされ、卯月の「う」は「初」「産」を意味する「う」で、一年の循環の最初を意味したとする説もある。/その他、稲を植える月で「植月」が転じたとする説もあるが、皐月の語源と近く、似た意味から別の月名が付けられたとは考え難い。/また、十二支の四番目が「卯」であることから、干支を月に当てはめ「卯月」になったとする説もあるが、他の月で干支を当てた例がないため不自然である。仮に、卯月だけに干支が当てらたとしても、月に当てられる十二支は一月から順ではなく、陰暦の四月が「巳」、「卯」は陰暦の二月である。/英語での月名、Aprilはラテン語のAprilis 〔Venus(ウェヌス)相当するギリシャの女神Aphrodītē(アフロディーテ)のエトルリア名Apruより〕に捧げられた月。
皐月は陰暦5月をさす。耕作を意味する古語「さ」から、稲作の月として「さつき」になった。/早苗を植える月「早苗月(さなえづき)」が略され、「さつき」になったとする説もあるが、「早苗」の「さ」も耕作の「さ」が語源とされる。/漢字「皐」には「神に捧げる稲」の意味があるため、皐月が当てられたと思われる。/英語名などのMayはローマ神話で豊穣を司る女神Maia (マイア) の名に因むといわれている。12か月で唯一英語名に略称が存在しない(英語名の略称は3文字で表すため、もともと3文字の5月は略称が無い)。
水無月は陰暦6月をさす。水の無い月と書くが、水が無いわけではない。水無月の「無」は、神無月の「な」と同じく「の」にあたる連体助詞「な」で、「水の月」という意味である。陰暦六月は田に水を引く月であることから、水無月と言われるようになった。/旧暦の六月は梅雨が明けた時期になるため、新暦に当てはめて解釈するのは間違いで、水無月は「水の無い月」とするものもある。/しかし、「水の月」説は新暦以前から伝えられており、新暦に合わせたものではない。/「水の無い月」の説は梅雨を基準にされているが、梅雨の時期である旧暦五月「皐月」が梅雨に関係していないため不自然で考え難い。/英語名であるJuneはローマ神話のJuppiter(ユピテル、ジュピター)の妻Juno(ユノ、ジュノー)から取られた。Junoが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁を「June bride」(ジューン・ブライド、6月の花嫁)と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれる。
今朝も早くから小雨模様。徘徊はやめて、パソコンに向かう。
ホトトギスの名は「ホトホト」と聞こえる鳴き声からで、「ス」はカラス・ウグイスなどの「ス」と同じく、小鳥の類を表す接尾語と考えられる。漢字で「時鳥」と表記されることから「時(とき)」と関連付ける説もあるが、ホトトギスの仲間の鳴き声を「ホトホト」と表現した文献も残っているため、鳴き声からと考えるのが妥当であろう。江戸時代に入ると、ホトトギスの鳴き声は「ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)」「ウブユカケタカ(産湯かけたか)」、江戸時代後期には「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」などと表現されるようになり、名前が鳴き声に由来することが解りづらくなった。ホトトギスの漢字表記は吃驚するほど多く、全部はとても憶え切れない。ホトトギスについて調べてみた。
ホトトギス〔杜鵑、学名 Cuculus poliocephalus〕は、カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られていて、日本では古来から様々な文書に登場し、いろいろな漢字表記や異名が多い。
漢字表記は杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑・霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥・黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・時鳥〉・山時鳥・沓手鳥・山郭公など20種以上あり、 また、異名には、文目鳥(あやめどり)・妹背鳥(いもせどり)・卯月鳥(うづきどり)・勧農鳥(かんのうちょう)・早苗鳥(さなえどり)・子規(しき)・死出田長(しでのたおさ)・蜀魂(しょっこん)・黄昏鳥(たそがれどり)・橘鳥(たちばなどり)・偶鳥(たまさかどり)・夜直鳥(よただどり)・魂迎鳥(たまむかえどり)・杜宇(とう)・時鳥(ときつどり)など15種ぐらいはある。
常璩〔じょうきょ、生卒年不祥、西晋~五胡十六国時代の蜀国の役人〕が著した「華陽国志」巻3「蜀志」冒頭に描かれた古代蜀の項に次のような話が書かれている。
蜀の国が衰退して荒れ果てていたのを見かねた杜宇(とう)が農耕を指導して蜀を再興し、彼は帝王の座に着き望帝と称した。望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男を取り立て宰相にした。やがて、彼は帝位を譲られ叢帝となり、望帝は山中に隠居した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスとなり、生前、得意とした農耕を始める季節(春~初夏)が来ると、それを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったと云う。時が流れて、蜀は秦に攻め滅ぼされた。それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ“不如帰去(帰り去くに如かず:帰ることが出来ない)”と鳴きながら血を吐いたので、口が赤く染まった。
ホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記されるようになったのは以上のような故事によるものといわれている。
ホトトギスは全長は28cmほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある。
アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する。インドから中国南部に越冬する個体群が5月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では5月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである。カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス等に托卵する習性がある。オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッキョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる。
日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古来ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに万葉集にも見ることができる。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い。
宇能花毛 未開者 霍公鳥 佐保乃山邊 来鳴令響 大伴家持 〔万葉集 八巻 1477〕
卯(う)の花も、いまだ咲かねば、霍公鳥(ほととぎす)、
佐保(さほ)の山辺(やまへ)に、来鳴(きな)き響(とよ)もす
〔訳〕卯(う)の花もまだ咲いてもいないのに、霍公鳥(ほととぎす)は佐保(さほ)の山辺(やまべ)にやってきて鳴いている。
他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。枕草子ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれている。
小学唱歌『夏は来ぬ』の冒頭部も「卯(う)の花の、匂う垣根に時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ」ではじまる。
平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。芭蕉もこの字を用いている。其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指すのだという
鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が川柳で言い表している〔これらの川柳は本人の自作ではなく、江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える〕。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」→織田信長の短気さと気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」→豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」→徳川家康の忍耐強さを表している。
一説によると、ここでのホトトギスは「前田利家」を著しているとも言う。
ホトトギスというユリ科の植物がある。花びらにある紫色の斑紋がホトトギス(小鳥)の胸の斑紋と似ていることから付けられたとされている.ホトトギス(小鳥)のは横縞模様であるが、野草の斑紋には横縞模様から大小の斑点まで様々なものがある。
ホトトギス属〔杜鵑草属、学名 Tricyrtis〕は、ユリ科植物の属のひとつ。概ね次のような特徴を持つ多年生草本植物である。山野の林下や林縁、崖や傾斜地などの、日当たりの弱いところに自生する。葉は互生し、楕円形で長く、葉脈は縦方向で、表面には毛が生える。花期は初夏から秋にかけてで、雌雄同花で上向きに咲き、花弁が 6枚で直径数cm程度のもので 2〜4日程度咲くことが多い。ジョウロウホトトギス類は黄色く下方向に向く釣鐘型の花を 4〜5日ほどつけるものが多い。
東アジア(日本、台湾、朝鮮半島)に分布し、19種が確認されている。そのうち日本では 13種(変種を除く)が確認されており、うち 10種は日本固有種である。 日本列島を中心に分布していることから、日本が原産であると推定されている。
本日は日曜日、午前10時雨が止んだので、言問橋~桜橋周辺をひと回りしてみる。
言問橋西詰の遊歩道の行き止まりの所〔スカイネットの直ぐ傍〕で青いシートをかぶせその下で宴会を開いている若者の一団が居たので、何をしているのかと、訊ねたところ、今度の日曜日に開催される隅田川花火大会の場所取りだという。どうやら、どこかの大学の部活のグループらしい。勿論、交代ではあろうが、1週間ここに釘付けになるのらしい。
桜橋から山谷掘り水門広場を抜け、聖天様の前の信号を渡ったところで塾友のtoruちゃんがワンちゃんと散歩するのとであった。しばし、立ち話。
ホトトギスの名は「ホトホト」と聞こえる鳴き声からで、「ス」はカラス・ウグイスなどの「ス」と同じく、小鳥の類を表す接尾語と考えられる。漢字で「時鳥」と表記されることから「時(とき)」と関連付ける説もあるが、ホトトギスの仲間の鳴き声を「ホトホト」と表現した文献も残っているため、鳴き声からと考えるのが妥当であろう。江戸時代に入ると、ホトトギスの鳴き声は「ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)」「ウブユカケタカ(産湯かけたか)」、江戸時代後期には「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」などと表現されるようになり、名前が鳴き声に由来することが解りづらくなった。ホトトギスの漢字表記は吃驚するほど多く、全部はとても憶え切れない。ホトトギスについて調べてみた。
ホトトギス〔杜鵑、学名 Cuculus poliocephalus〕は、カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られていて、日本では古来から様々な文書に登場し、いろいろな漢字表記や異名が多い。
漢字表記は杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑・霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥・黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・時鳥〉・山時鳥・沓手鳥・山郭公など20種以上あり、 また、異名には、文目鳥(あやめどり)・妹背鳥(いもせどり)・卯月鳥(うづきどり)・勧農鳥(かんのうちょう)・早苗鳥(さなえどり)・子規(しき)・死出田長(しでのたおさ)・蜀魂(しょっこん)・黄昏鳥(たそがれどり)・橘鳥(たちばなどり)・偶鳥(たまさかどり)・夜直鳥(よただどり)・魂迎鳥(たまむかえどり)・杜宇(とう)・時鳥(ときつどり)など15種ぐらいはある。
常璩〔じょうきょ、生卒年不祥、西晋~五胡十六国時代の蜀国の役人〕が著した「華陽国志」巻3「蜀志」冒頭に描かれた古代蜀の項に次のような話が書かれている。
蜀の国が衰退して荒れ果てていたのを見かねた杜宇(とう)が農耕を指導して蜀を再興し、彼は帝王の座に着き望帝と称した。望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男を取り立て宰相にした。やがて、彼は帝位を譲られ叢帝となり、望帝は山中に隠居した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスとなり、生前、得意とした農耕を始める季節(春~初夏)が来ると、それを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったと云う。時が流れて、蜀は秦に攻め滅ぼされた。それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ“不如帰去(帰り去くに如かず:帰ることが出来ない)”と鳴きながら血を吐いたので、口が赤く染まった。
ホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記されるようになったのは以上のような故事によるものといわれている。
ホトトギスは全長は28cmほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある。
アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する。インドから中国南部に越冬する個体群が5月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では5月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである。カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス等に托卵する習性がある。オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッキョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる。
日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古来ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに万葉集にも見ることができる。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い。
宇能花毛 未開者 霍公鳥 佐保乃山邊 来鳴令響 大伴家持 〔万葉集 八巻 1477〕
卯(う)の花も、いまだ咲かねば、霍公鳥(ほととぎす)、
佐保(さほ)の山辺(やまへ)に、来鳴(きな)き響(とよ)もす
〔訳〕卯(う)の花もまだ咲いてもいないのに、霍公鳥(ほととぎす)は佐保(さほ)の山辺(やまべ)にやってきて鳴いている。
他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。枕草子ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれている。
小学唱歌『夏は来ぬ』の冒頭部も「卯(う)の花の、匂う垣根に時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ」ではじまる。
平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。芭蕉もこの字を用いている。其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指すのだという
鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が川柳で言い表している〔これらの川柳は本人の自作ではなく、江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える〕。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」→織田信長の短気さと気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」→豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」→徳川家康の忍耐強さを表している。
一説によると、ここでのホトトギスは「前田利家」を著しているとも言う。
ホトトギスというユリ科の植物がある。花びらにある紫色の斑紋がホトトギス(小鳥)の胸の斑紋と似ていることから付けられたとされている.ホトトギス(小鳥)のは横縞模様であるが、野草の斑紋には横縞模様から大小の斑点まで様々なものがある。
ホトトギス属〔杜鵑草属、学名 Tricyrtis〕は、ユリ科植物の属のひとつ。概ね次のような特徴を持つ多年生草本植物である。山野の林下や林縁、崖や傾斜地などの、日当たりの弱いところに自生する。葉は互生し、楕円形で長く、葉脈は縦方向で、表面には毛が生える。花期は初夏から秋にかけてで、雌雄同花で上向きに咲き、花弁が 6枚で直径数cm程度のもので 2〜4日程度咲くことが多い。ジョウロウホトトギス類は黄色く下方向に向く釣鐘型の花を 4〜5日ほどつけるものが多い。
東アジア(日本、台湾、朝鮮半島)に分布し、19種が確認されている。そのうち日本では 13種(変種を除く)が確認されており、うち 10種は日本固有種である。 日本列島を中心に分布していることから、日本が原産であると推定されている。
本日は日曜日、午前10時雨が止んだので、言問橋~桜橋周辺をひと回りしてみる。
言問橋西詰の遊歩道の行き止まりの所〔スカイネットの直ぐ傍〕で青いシートをかぶせその下で宴会を開いている若者の一団が居たので、何をしているのかと、訊ねたところ、今度の日曜日に開催される隅田川花火大会の場所取りだという。どうやら、どこかの大学の部活のグループらしい。勿論、交代ではあろうが、1週間ここに釘付けになるのらしい。
桜橋から山谷掘り水門広場を抜け、聖天様の前の信号を渡ったところで塾友のtoruちゃんがワンちゃんと散歩するのとであった。しばし、立ち話。
早朝から、雨。徘徊はお休み。
日本の祭りとその名称の由来について調べてみた。
七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句〔人日《1月7日》,上巳《3月3日》、端午《5月5日》、七夕《7月7日》、重陽《9月9日》〕の一つにも数えられる。
七夕の行事は、中国から伝来し奈良時代に広まった「牽牛星(けんぎゅうせい)」と「織女星(しょくじょ)」の伝説と、手芸や芸能の上達を祈願する中国の習俗「乞巧奠(きつこうでん)」が結びつけられ、日本固有の行事となったものであるという。
七夕が「たなばた」と呼ばれるようになった由来は、織女の伝説を元にした語源説で、「棚機つ女(たなばたつめ)」の下略(「つ」は「の」の意味)とする説が一般的である。しかし、古くから農村地域では、豊作を祈り種を撒く「種播祭り(たなばたまつり)」が存在しているため、宮中で行われた「しちせき」が民間に広まった時に混同され、「たなばた」と呼ばれるようになったとも考えられている。
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれているが、その起源は定かではない。奈良時代(710~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったが、そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢(けが)れを川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈った。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れている。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられている。
だんじりの語源は諸説あり、屋台をじりじりと動かすことから、「台ずり」が転じたか「台躙り(だいにじり)」が転じたとする説、「山車(だし)」が一部方言化されたとする説、道教や密教で「祭場」や「塚」を意味する「壇」を引きづる意味から、「だんじり」になったとする説などあるが、正確な語源は未詳である。その他、後醍醐天皇の孫に当たる尹良(ただよし)親王〔?~1424年、後醍醐天皇の皇孫にあたるとされるが歴史学的には存在に疑問ありとされる〕が信州大川原で自害させられ、その子である良王親王が家臣に命じて仇敵の台尻大隅守を滅ぼし、その時「台尻討った」と皆が喜びはやした言葉が尾張津島天王の祭礼に残り、「台尻」が訛って「だんじり」になったとする説がある。この近郊地域では、主に「山車」が用いられるが、尾張津島天王祭では「だんじり船」と言われ、注目に値する。
漢字は「壇尻」や「楽車」のほか、「台尻」、「地車」、「花車」、「屋台」など多くの漢字が当てられいているため、これらに語源をもとめることは無意味である。
岸和田だんじり祭りの由来は、元禄16年(1703年)、岸和田藩主であった岡部長泰〔1650~1724年、和泉岸和田藩の第3代藩主〕公が、京都伏見稲荷を岸和田城内の三の丸に祀り、五穀豊穣を祈願した稲荷祭が始まりとされる。
当初のだんじりは簡素なもので、現在のようなだんじりが曳かれるようになったのは、文化・文政期頃といわれる。
よさこい祭り(よさこいまつり)は、毎年8月9日の前夜祭、8月10日と11日の本番、12日の全国大会と後夜祭の4日間にわたって高知県高知市で開催される祭り。延べ約100万人の人出があり、四国三大祭り〔阿波おどり、新居浜太鼓まつり、よさこい祭り〕の一つである。
高知県に残る民謡。囃子詞として「よさこい、よこさい」と歌われる。その起源については諸説あり、いまだ特定には至っていない。
慶長年間(1596年-1615年)、山内一豊が入国して高知城を築いたとき、作事場で歌われた木遣り唄のヨイショコイという掛け声が変化したとする説(この場合はヨイショコイという掛け声の意)、正徳年間(1711年-1776年)、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の情話が絵島節となって諸国に流行し、それが土佐に伝わって変化したという説(この場合は夜にいらっしゃいという意)。
他に、鹿児島県の「夜さ来い晩に来い」という囃子詞を持つ民謡が伝えられたとする説(土佐から鹿児島へ伝わったという説もある)、夜這いの風習と関連させて農耕生活の場で歌われていたと推定する説、よってらっしゃいを意味する土佐の昔言葉という説、などがある。
よさこい節には数百曲に及ぶ替え歌が残っており、どの歌がどの時代に作られたものかは定かではない。純信(じゅんしん、1819~1888年)は五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、鋳掛屋の娘で20歳年下の大野馬と禁断の恋をする。安政2年(1855年)5月19日深夜、馬と駆落ち、笹口番所の裏道から阿波に入り、讃岐琴平の旅籠に泊まっていたところ、関所破りで捕まり、同年9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になる。伊予の亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていたが、亀吉の死後その地を離れ、晩年は美川村で慶翁徳念和尚を名乗って生活し、その地で死去。この話は後に浄瑠璃となり、よさこい節で、「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌われている。
「くんち」とは、九州北部における秋祭りに対する呼称であり、収穫を感謝して奉納される祭であるという。「おくんち」と称される場合もある。ほとんどのくんち行事に共通する要素として、神社から御旅所まで神輿による御神幸が行われることがある。またそこに大名行列や稚児行列、山車(曳山、山笠など)、囃子、踊り、獅子舞などが加わるが、何が加わるかについてはその地域ごとに大きく異なり、同じ「くんち」と一括りにできないほど多彩なものになっている。現代においては御神幸よりもそれに加わるものの方がイベントとしてメインの扱いを受けており、神事としての意味合いはかなり薄れている。
博多おくんち(はかたおくんち)は、福岡県福岡市博多区にある櫛田神社の秋の例祭。秋の豊穣に感謝する祭りである。長崎くんち(長崎県長崎市)や唐津くんち(佐賀県唐津市)と並ぶ日本三大くんちとされている。
多くのくんちでは平仮名表記の「(お)くんち」を正式名称として使っているが、語源の説により「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの漢字表記がある。
九日説:旧暦の9月9日、重陽の節句に行われた祭であることから「九日(くんち)」という呼び名が定着したという説。長崎など、この説を有力としている地区は多いが、九日は通常「ここのか」や「ここんか」と発声される。9月19日、9月29日を含めた日程で三九日(さんくにち、みくにち)としての祭礼を行っている地域もあり、これが元ともいわれる。現在は参加者の都合から休日などに日程をずらして行われているくんちも多い。この説をとる祭りが多いにもかかわらず漢字表記として「九日」が使われることがほとんどないのは、日程について誤解を与えないためであるとされる。昔から九日に行われていなかったくんちもあるが、これに対しては呼び名だけが伝わったためという説明がされる。
供日説:収穫した作物を神に供える日、「供日(くにち)」から転じて「くんち」になったとする説。漢字表記がされる場合にはこの表記が使われていることも多いが、後から当て字として考えられたものともいわれる。
宮日説;お宮に対して祭を行うため「宮日」ということだが、くんちの呼称が秋祭りに限られることが説明しにくいため、後から当て字として考えられたものともいわれる。
「どんたく」は、オランダ語で「日曜日」「休日」を意味する「Zondag(ゾンターク)」に由来するといわれ、zondagは「土曜日」や「半日休み」を意味する「半ドン」の語源でもあるという。
明治はじめ頃から用いられた語で、慶応4(1868)年から明治9(1876)年にかけ、毎月1と6の日が休日だったことから、「一六のどんたく」「一六休暇(ぞんたく)」とも表現された。
博多どんたくは、冶承3(1179)年小正月の松囃子として始まり、福岡と博多の町が交流する行事ともなったという。明治5(1872)年、新政府下の福岡県知事により松囃子の禁止令が出されたが、明治12(1879)年に松囃子を復活させるため、「どんたく」と呼称を変えて再開された。昭和16(1941)年の太平洋戦争によって一時中止されたが、戦災の町を復興させようと昭和21(1946)年に復活し、昭和37(1962)年には、「博多どんたく港まつり」として、市民総参加の福岡市民の祭りに位置づけられるようになった。年々盛んになり、ゴールデンウィーク中、日本最大の祭りとなった。
日本の祭りとその名称の由来について調べてみた。
七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句〔人日《1月7日》,上巳《3月3日》、端午《5月5日》、七夕《7月7日》、重陽《9月9日》〕の一つにも数えられる。
七夕の行事は、中国から伝来し奈良時代に広まった「牽牛星(けんぎゅうせい)」と「織女星(しょくじょ)」の伝説と、手芸や芸能の上達を祈願する中国の習俗「乞巧奠(きつこうでん)」が結びつけられ、日本固有の行事となったものであるという。
七夕が「たなばた」と呼ばれるようになった由来は、織女の伝説を元にした語源説で、「棚機つ女(たなばたつめ)」の下略(「つ」は「の」の意味)とする説が一般的である。しかし、古くから農村地域では、豊作を祈り種を撒く「種播祭り(たなばたまつり)」が存在しているため、宮中で行われた「しちせき」が民間に広まった時に混同され、「たなばた」と呼ばれるようになったとも考えられている。
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれているが、その起源は定かではない。奈良時代(710~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったが、そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢(けが)れを川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈った。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れている。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられている。
だんじりの語源は諸説あり、屋台をじりじりと動かすことから、「台ずり」が転じたか「台躙り(だいにじり)」が転じたとする説、「山車(だし)」が一部方言化されたとする説、道教や密教で「祭場」や「塚」を意味する「壇」を引きづる意味から、「だんじり」になったとする説などあるが、正確な語源は未詳である。その他、後醍醐天皇の孫に当たる尹良(ただよし)親王〔?~1424年、後醍醐天皇の皇孫にあたるとされるが歴史学的には存在に疑問ありとされる〕が信州大川原で自害させられ、その子である良王親王が家臣に命じて仇敵の台尻大隅守を滅ぼし、その時「台尻討った」と皆が喜びはやした言葉が尾張津島天王の祭礼に残り、「台尻」が訛って「だんじり」になったとする説がある。この近郊地域では、主に「山車」が用いられるが、尾張津島天王祭では「だんじり船」と言われ、注目に値する。
漢字は「壇尻」や「楽車」のほか、「台尻」、「地車」、「花車」、「屋台」など多くの漢字が当てられいているため、これらに語源をもとめることは無意味である。
岸和田だんじり祭りの由来は、元禄16年(1703年)、岸和田藩主であった岡部長泰〔1650~1724年、和泉岸和田藩の第3代藩主〕公が、京都伏見稲荷を岸和田城内の三の丸に祀り、五穀豊穣を祈願した稲荷祭が始まりとされる。
当初のだんじりは簡素なもので、現在のようなだんじりが曳かれるようになったのは、文化・文政期頃といわれる。
よさこい祭り(よさこいまつり)は、毎年8月9日の前夜祭、8月10日と11日の本番、12日の全国大会と後夜祭の4日間にわたって高知県高知市で開催される祭り。延べ約100万人の人出があり、四国三大祭り〔阿波おどり、新居浜太鼓まつり、よさこい祭り〕の一つである。
高知県に残る民謡。囃子詞として「よさこい、よこさい」と歌われる。その起源については諸説あり、いまだ特定には至っていない。
慶長年間(1596年-1615年)、山内一豊が入国して高知城を築いたとき、作事場で歌われた木遣り唄のヨイショコイという掛け声が変化したとする説(この場合はヨイショコイという掛け声の意)、正徳年間(1711年-1776年)、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の情話が絵島節となって諸国に流行し、それが土佐に伝わって変化したという説(この場合は夜にいらっしゃいという意)。
他に、鹿児島県の「夜さ来い晩に来い」という囃子詞を持つ民謡が伝えられたとする説(土佐から鹿児島へ伝わったという説もある)、夜這いの風習と関連させて農耕生活の場で歌われていたと推定する説、よってらっしゃいを意味する土佐の昔言葉という説、などがある。
よさこい節には数百曲に及ぶ替え歌が残っており、どの歌がどの時代に作られたものかは定かではない。純信(じゅんしん、1819~1888年)は五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、鋳掛屋の娘で20歳年下の大野馬と禁断の恋をする。安政2年(1855年)5月19日深夜、馬と駆落ち、笹口番所の裏道から阿波に入り、讃岐琴平の旅籠に泊まっていたところ、関所破りで捕まり、同年9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になる。伊予の亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていたが、亀吉の死後その地を離れ、晩年は美川村で慶翁徳念和尚を名乗って生活し、その地で死去。この話は後に浄瑠璃となり、よさこい節で、「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌われている。
「くんち」とは、九州北部における秋祭りに対する呼称であり、収穫を感謝して奉納される祭であるという。「おくんち」と称される場合もある。ほとんどのくんち行事に共通する要素として、神社から御旅所まで神輿による御神幸が行われることがある。またそこに大名行列や稚児行列、山車(曳山、山笠など)、囃子、踊り、獅子舞などが加わるが、何が加わるかについてはその地域ごとに大きく異なり、同じ「くんち」と一括りにできないほど多彩なものになっている。現代においては御神幸よりもそれに加わるものの方がイベントとしてメインの扱いを受けており、神事としての意味合いはかなり薄れている。
博多おくんち(はかたおくんち)は、福岡県福岡市博多区にある櫛田神社の秋の例祭。秋の豊穣に感謝する祭りである。長崎くんち(長崎県長崎市)や唐津くんち(佐賀県唐津市)と並ぶ日本三大くんちとされている。
多くのくんちでは平仮名表記の「(お)くんち」を正式名称として使っているが、語源の説により「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの漢字表記がある。
九日説:旧暦の9月9日、重陽の節句に行われた祭であることから「九日(くんち)」という呼び名が定着したという説。長崎など、この説を有力としている地区は多いが、九日は通常「ここのか」や「ここんか」と発声される。9月19日、9月29日を含めた日程で三九日(さんくにち、みくにち)としての祭礼を行っている地域もあり、これが元ともいわれる。現在は参加者の都合から休日などに日程をずらして行われているくんちも多い。この説をとる祭りが多いにもかかわらず漢字表記として「九日」が使われることがほとんどないのは、日程について誤解を与えないためであるとされる。昔から九日に行われていなかったくんちもあるが、これに対しては呼び名だけが伝わったためという説明がされる。
供日説:収穫した作物を神に供える日、「供日(くにち)」から転じて「くんち」になったとする説。漢字表記がされる場合にはこの表記が使われていることも多いが、後から当て字として考えられたものともいわれる。
宮日説;お宮に対して祭を行うため「宮日」ということだが、くんちの呼称が秋祭りに限られることが説明しにくいため、後から当て字として考えられたものともいわれる。
「どんたく」は、オランダ語で「日曜日」「休日」を意味する「Zondag(ゾンターク)」に由来するといわれ、zondagは「土曜日」や「半日休み」を意味する「半ドン」の語源でもあるという。
明治はじめ頃から用いられた語で、慶応4(1868)年から明治9(1876)年にかけ、毎月1と6の日が休日だったことから、「一六のどんたく」「一六休暇(ぞんたく)」とも表現された。
博多どんたくは、冶承3(1179)年小正月の松囃子として始まり、福岡と博多の町が交流する行事ともなったという。明治5(1872)年、新政府下の福岡県知事により松囃子の禁止令が出されたが、明治12(1879)年に松囃子を復活させるため、「どんたく」と呼称を変えて再開された。昭和16(1941)年の太平洋戦争によって一時中止されたが、戦災の町を復興させようと昭和21(1946)年に復活し、昭和37(1962)年には、「博多どんたく港まつり」として、市民総参加の福岡市民の祭りに位置づけられるようになった。年々盛んになり、ゴールデンウィーク中、日本最大の祭りとなった。
民主党所属の衆議院議員の細野豪志、自由民主党所属の衆議院議員である後藤田正純など、政治家の不倫記事は絶えないが、はたまた、週刊文春が橋下大阪市長の不倫問題をすっぱ抜いたらしい。本日のウェブニュースより
橋下徹大阪市長の女性問題、ネットの声は? ―― 19日に発売された「週刊文春」(7月26日号)において、橋下徹大阪市長の女性問題が報じられた。/同記事では、2006~07年頃、大阪・北新地の高級クラブで働いていたホステスが、橋下市長と不倫関係にあったことを詳細に伝えており、発売前日となる18日、橋下市長も市庁舎で会見を行い、これを認めている。/「正直、大変な状況だ。親のポカで子供には本当に申し訳ない」「知事になる前までは、聖人君子のような生き方をしていたわけではない」と語った橋下市長。記事では「客室乗務員などのコスプレをリクエストしていた」などと書かれていたが、この真偽を問われると、「娘に制服を着ろと言えなくなっちゃいますよ。私服で学校行ってるんですけどね」と述べている。
一連の報道を受け、ネット掲示板では「謝って済む問題ではない」「公務員に対してはタバコ吸ったくらいでクビだとわめくくせに、自分は愛人を作っても開き直るとは」「自分に甘く、他人に厳しい典型的なクズ」「コスプレ変態プレイしてたあとで、どの面下げて君が代歌うのかな?」と橋下市長を批判する声が相次いだ。/しかし、その一方では、「知事就任前の話だからどうでもいいよ」「昔から橋下は女性関係について潔癖だなんて一言も言ってない。こんな問題でいちいち辞めてたら日本中の公務員の半分くらいがいなくなるぞ」「仕事で結果を出せない聖人君子よりは幾分マシ」と、橋下市長を擁護する書き込みも目立つ。/また、その他にも「維新政治塾の塾生はどう思ってるんだろう? やっぱり擁護しなきゃいけないのかな(笑)」「会費払っちゃった塾生涙目ww」と、橋下市長が主催する維新政治塾塾生の行く末を案じる意見も散見された。 〔livedoorニュース 2012年07月19日12時25分〕
橋下市長、妻とは未解決 不倫報道で2度目の釈明 ―― 週刊誌の不倫問題を受け会見を行った橋下徹大阪市長 大阪市の橋下徹市長(43)は19日、一部週刊誌で“コスプレ不倫”を報じられ、不倫を事実と認めた会見から一夜明け、2度目の釈明会見を行った=写真=。市政だけではなく、大阪維新の会代表として国政にも目を向ける多忙な夫を支え、3男4女を育てる典子夫人(43)に顔向けできないスキャンダル。「まだ、(妻との)話し合いが終わってない」と、問題解決をまたしても持ち越した。/週刊誌によると、兵庫県内のラブホテルで、交際していた大阪・北新地の元ホステスに客室乗務員やOLの服装をさせていたという。前日の会見では「まだ、妻に説明していないので、どこまで説明するか、もう少し考えたい」と発言。この日は「昨日から謝り続けましたが、妻もだいぶショックでしょうから。ペナルティー? 家庭内のことですから。離婚? それも家庭内のことですから」と、妻との話し合いが難航していることをほのめかし、進展なしを強調した。「自らの進退? それ(市長を辞めること)はない」というが、スキャンダルの火を消すことはできなかった。/元ホステスとの情事は、2008年1月の大阪府知事選出馬前のこと。だが、このまま説明を先延ばしにすれば、イメージダウンを招く可能性もある。「市民の信頼が大きく失墜するのは間違いない」と橋下氏も不安げ。次期衆院選をにらみ「自分への処分? 有権者の審判による。これから僕が関与する選挙について、制裁を加えてやろうと思えばするでしょうし」と、自身の不倫問題も選挙の争点とする考えを示した。 〔2012年7月20日06時02分 スポーツ報知〕
橋下徹大阪市長の女性問題、ネットの声は? ―― 19日に発売された「週刊文春」(7月26日号)において、橋下徹大阪市長の女性問題が報じられた。/同記事では、2006~07年頃、大阪・北新地の高級クラブで働いていたホステスが、橋下市長と不倫関係にあったことを詳細に伝えており、発売前日となる18日、橋下市長も市庁舎で会見を行い、これを認めている。/「正直、大変な状況だ。親のポカで子供には本当に申し訳ない」「知事になる前までは、聖人君子のような生き方をしていたわけではない」と語った橋下市長。記事では「客室乗務員などのコスプレをリクエストしていた」などと書かれていたが、この真偽を問われると、「娘に制服を着ろと言えなくなっちゃいますよ。私服で学校行ってるんですけどね」と述べている。
一連の報道を受け、ネット掲示板では「謝って済む問題ではない」「公務員に対してはタバコ吸ったくらいでクビだとわめくくせに、自分は愛人を作っても開き直るとは」「自分に甘く、他人に厳しい典型的なクズ」「コスプレ変態プレイしてたあとで、どの面下げて君が代歌うのかな?」と橋下市長を批判する声が相次いだ。/しかし、その一方では、「知事就任前の話だからどうでもいいよ」「昔から橋下は女性関係について潔癖だなんて一言も言ってない。こんな問題でいちいち辞めてたら日本中の公務員の半分くらいがいなくなるぞ」「仕事で結果を出せない聖人君子よりは幾分マシ」と、橋下市長を擁護する書き込みも目立つ。/また、その他にも「維新政治塾の塾生はどう思ってるんだろう? やっぱり擁護しなきゃいけないのかな(笑)」「会費払っちゃった塾生涙目ww」と、橋下市長が主催する維新政治塾塾生の行く末を案じる意見も散見された。 〔livedoorニュース 2012年07月19日12時25分〕
橋下市長、妻とは未解決 不倫報道で2度目の釈明 ―― 週刊誌の不倫問題を受け会見を行った橋下徹大阪市長 大阪市の橋下徹市長(43)は19日、一部週刊誌で“コスプレ不倫”を報じられ、不倫を事実と認めた会見から一夜明け、2度目の釈明会見を行った=写真=。市政だけではなく、大阪維新の会代表として国政にも目を向ける多忙な夫を支え、3男4女を育てる典子夫人(43)に顔向けできないスキャンダル。「まだ、(妻との)話し合いが終わってない」と、問題解決をまたしても持ち越した。/週刊誌によると、兵庫県内のラブホテルで、交際していた大阪・北新地の元ホステスに客室乗務員やOLの服装をさせていたという。前日の会見では「まだ、妻に説明していないので、どこまで説明するか、もう少し考えたい」と発言。この日は「昨日から謝り続けましたが、妻もだいぶショックでしょうから。ペナルティー? 家庭内のことですから。離婚? それも家庭内のことですから」と、妻との話し合いが難航していることをほのめかし、進展なしを強調した。「自らの進退? それ(市長を辞めること)はない」というが、スキャンダルの火を消すことはできなかった。/元ホステスとの情事は、2008年1月の大阪府知事選出馬前のこと。だが、このまま説明を先延ばしにすれば、イメージダウンを招く可能性もある。「市民の信頼が大きく失墜するのは間違いない」と橋下氏も不安げ。次期衆院選をにらみ「自分への処分? 有権者の審判による。これから僕が関与する選挙について、制裁を加えてやろうと思えばするでしょうし」と、自身の不倫問題も選挙の争点とする考えを示した。 〔2012年7月20日06時02分 スポーツ報知〕
今朝のウェブニュースより
民主党政権、モ~末期的! これが“離党予備軍”74人だ ―― 民主党が溶解し始めた。除名された小沢一郎代表率いる新党「国民の生活が第一」の49人に続き、17日に女性参院議員3人、18日に男性衆院議員1人が相次いで離党届を提出した。野田佳彦首相が「政治生命を懸ける」という「社会保障と税の一体改革」関連法案の参院審議が本格化する直前だけに、政権にとっては大打撃だ。党内にはほかに「74人の離党予備軍」がいるといわれており、民主党政権は末期症状を呈している。/連休明けの17日に離党届を出したのは、舟山康江、谷岡郁子、行田邦子の3氏。舟山氏は記者会見で「原発ゼロ社会の実現、反TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)、増税先行でない本当の意味での一体改革に取り組む」と述べ、野田政権の主要政策を全否定した。/中津川博郷衆院議員も18日午前、離党届を提出した。東京都の石原慎太郎知事が模索している「石原新党」入りを希望している。/女性3人は、国民新党を離党して無所属で活動していた亀井亜紀子参院議員と統一会派「みどりの風」を立ち上げる。/全員が、民主党に追い風が吹いた2007年参院選の初当選組で、来年夏に改選を迎えるため、野田首相に近い民主党議員は「風頼りの選挙しか知らないので『民主党では落選する』と思って逃げ出したのだろう」「ただの『緑のおばさん』の乱だ。大勢に影響はない」などと強がった。/しかし、「参院のドン」でもある輿石東幹事長は「党は危機的な状況。政権が崩壊しかねない」と、狼狽したような危機感を示した。/3人の離党で、参院の民主党会派は88人になる。第2会派の自民党が86人のため、さらに参院議員3人が離党すれば民主党会派は第2会派に転落する。議長は第1会派から出すのが慣例のため、民主党会派は議長ポストを失い、政権運営は一層厳しさを増す。/気になるのは、小沢氏らが今月2日に集団で離党届を出してから、さみだれ式に離党者が続いていることだ。/愛知選出の谷岡氏は原発再稼働に反対、山形選出の舟山氏はTPPに反対する急先鋒として知られ、埼玉選出の行田氏は参院幹事長代理と、党執行部の一員だった。/民主党関係者は「党内の、脱原発や反TPP、執行部にも、離党予備軍がいることが浮き彫りになった。野田首相は『決められる政治』を掲げてこれらを進めようとしているが、進めれば離党者が出るというジレンマに陥った」と話した。/官邸の情報過疎も深刻だ。官邸筋は3人の離党について「寝耳に水だ」と述べ、直前まで把握していなかったことを明らかにした。一方で、小沢新党の幹部は結党直後から「民主党内に離党したがっている『隠れキリシタン』がいる」と述べ、こっそり3人を含む数人を名指ししていた。/現時点で、3人は小沢新党への合流は否定したが、同党の東祥三幹事長は17日の記者会見で、「目標が一致しているなら常に連携、協力は惜しまない」と共闘に意欲を示した。/また、18日に離党届を出した中津川氏のほか、民主党から衆院議員15人が離党すれば、内閣不信任案を与党だけで否決できなくなる。野田首相が内閣総辞職か衆院解散・総選挙に追い込まれる可能性も出てくる。自民党は参院審議で民主党の結束を追及する構えで、波乱のタネは尽きない。/注目は、今後も離党者が増えるかどうかだ。/党執行部が「離党予備軍」として危険視しているのは、党原発事故収束対策プロジェクトチーム(荒井聡座長)らが先月5日に提出した、原発再稼働に慎重な判断を求める文書に署名した117人のうち、民主党に残っている74人(衆院50人、参院24人)だ。渡部恒三最高顧問など、絶対に離党しない議員も多いが、中には、小沢グループの重鎮、山田正彦元農水相や、新党構想が報じられた鳩山由紀夫元首相らも名前を連ねている。/「世論の支持が離れて、次の選挙で勝てない」と離党者が続出し、そのことで政権与党の体をなさなくなり、世論の支持が離れるという、完全な悪循環に陥っている民主党だが、離党者にも展望があるわけではない。残留組にも、離党組にも、国民の厳しい視線を象徴する川柳が、ネット上で広まりつつある。
「気をつけろ その候補者は 元民主」 〔zakzak 2012.07.18〕
民主党政権、モ~末期的! これが“離党予備軍”74人だ ―― 民主党が溶解し始めた。除名された小沢一郎代表率いる新党「国民の生活が第一」の49人に続き、17日に女性参院議員3人、18日に男性衆院議員1人が相次いで離党届を提出した。野田佳彦首相が「政治生命を懸ける」という「社会保障と税の一体改革」関連法案の参院審議が本格化する直前だけに、政権にとっては大打撃だ。党内にはほかに「74人の離党予備軍」がいるといわれており、民主党政権は末期症状を呈している。/連休明けの17日に離党届を出したのは、舟山康江、谷岡郁子、行田邦子の3氏。舟山氏は記者会見で「原発ゼロ社会の実現、反TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)、増税先行でない本当の意味での一体改革に取り組む」と述べ、野田政権の主要政策を全否定した。/中津川博郷衆院議員も18日午前、離党届を提出した。東京都の石原慎太郎知事が模索している「石原新党」入りを希望している。/女性3人は、国民新党を離党して無所属で活動していた亀井亜紀子参院議員と統一会派「みどりの風」を立ち上げる。/全員が、民主党に追い風が吹いた2007年参院選の初当選組で、来年夏に改選を迎えるため、野田首相に近い民主党議員は「風頼りの選挙しか知らないので『民主党では落選する』と思って逃げ出したのだろう」「ただの『緑のおばさん』の乱だ。大勢に影響はない」などと強がった。/しかし、「参院のドン」でもある輿石東幹事長は「党は危機的な状況。政権が崩壊しかねない」と、狼狽したような危機感を示した。/3人の離党で、参院の民主党会派は88人になる。第2会派の自民党が86人のため、さらに参院議員3人が離党すれば民主党会派は第2会派に転落する。議長は第1会派から出すのが慣例のため、民主党会派は議長ポストを失い、政権運営は一層厳しさを増す。/気になるのは、小沢氏らが今月2日に集団で離党届を出してから、さみだれ式に離党者が続いていることだ。/愛知選出の谷岡氏は原発再稼働に反対、山形選出の舟山氏はTPPに反対する急先鋒として知られ、埼玉選出の行田氏は参院幹事長代理と、党執行部の一員だった。/民主党関係者は「党内の、脱原発や反TPP、執行部にも、離党予備軍がいることが浮き彫りになった。野田首相は『決められる政治』を掲げてこれらを進めようとしているが、進めれば離党者が出るというジレンマに陥った」と話した。/官邸の情報過疎も深刻だ。官邸筋は3人の離党について「寝耳に水だ」と述べ、直前まで把握していなかったことを明らかにした。一方で、小沢新党の幹部は結党直後から「民主党内に離党したがっている『隠れキリシタン』がいる」と述べ、こっそり3人を含む数人を名指ししていた。/現時点で、3人は小沢新党への合流は否定したが、同党の東祥三幹事長は17日の記者会見で、「目標が一致しているなら常に連携、協力は惜しまない」と共闘に意欲を示した。/また、18日に離党届を出した中津川氏のほか、民主党から衆院議員15人が離党すれば、内閣不信任案を与党だけで否決できなくなる。野田首相が内閣総辞職か衆院解散・総選挙に追い込まれる可能性も出てくる。自民党は参院審議で民主党の結束を追及する構えで、波乱のタネは尽きない。/注目は、今後も離党者が増えるかどうかだ。/党執行部が「離党予備軍」として危険視しているのは、党原発事故収束対策プロジェクトチーム(荒井聡座長)らが先月5日に提出した、原発再稼働に慎重な判断を求める文書に署名した117人のうち、民主党に残っている74人(衆院50人、参院24人)だ。渡部恒三最高顧問など、絶対に離党しない議員も多いが、中には、小沢グループの重鎮、山田正彦元農水相や、新党構想が報じられた鳩山由紀夫元首相らも名前を連ねている。/「世論の支持が離れて、次の選挙で勝てない」と離党者が続出し、そのことで政権与党の体をなさなくなり、世論の支持が離れるという、完全な悪循環に陥っている民主党だが、離党者にも展望があるわけではない。残留組にも、離党組にも、国民の厳しい視線を象徴する川柳が、ネット上で広まりつつある。
「気をつけろ その候補者は 元民主」 〔zakzak 2012.07.18〕
今日のウェブニュースより
野田首相:一体改革関連法案 参院での修正に柔軟姿勢示す ―― 消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連8法案は18日午前、参院一体改革特別委員会で野田佳彦首相と関係閣僚が出席して質疑を行い、実質審議入りした。首相は参院で法案を修正する可能性について問われ、「今の制度改正に加え、より改善されるならば議論はあってしかるべきだ。予断を持っているわけではない」と述べた。衆院段階の民主、自民、公明3党合意を踏まえつつ柔軟に対応する姿勢を示した。/首相は、将来のエネルギー政策に関する意見聴取会で電力会社の社員が発言したことについて「国民に誤解を生む動きがあった。手直ししながら丁寧に国民的な議論を進めたい」と語った。桜井充氏(民主)の質問に答えた。/桜井氏が今後の原発政策について国民投票の実施を求めたのに対し、首相は「できるだけ多くの国民の意思を確認する工夫は最大限取り入れたい」と述べるにとどめた。/午後は宮沢洋一氏ら自民党の5氏が質問し、首相に対して、最低保障年金創設など民主党のマニフェストは3党合意で実現が不可能になったなどと追及する。首相出席の質疑は19日も行う。 〔毎日新聞 2012年07月18日 11時17分(最終更新 07月18日 11時57分)〕
東京夢華録 巻十 十二月
十二月、街市盡賣撒佛花、韭黃、生菜、蘭芽、勃荷、胡桃、澤州餳。初八日、街巷中有僧尼三五人、作隊念佛、以銀銅沙羅或好盆器、坐一金銅或木佛像、浸以香水、楊枝洒浴、排門教化。諸大寺作浴佛會、并送七寶五味粥與門徒、謂之「臘八粥」。都人是日各家亦以果子雜料煑粥而食也。臘日、寺院送面油與門徒、卻入疏教化上元燈油錢。閭巷家家互相遺送。是月景龍門預賞元夕於寶籙宮、一方燈火繁盛。二十四日交年、都人至夜請僧道看經、備酒果送神、燒合家替代錢紙、帖竈馬於竈上。以酒糟塗抹竈門、謂之「醉司命」。夜於床底點燈、謂之「照虛耗」。此月雖無節序、而豪貴之家、遇雪即開筵、塑雪獅、裝雪燈雪□、以會親舊。近歲節、市井皆印賣門神、鍾馗、桃板、桃符、及財門鈍驢、回頭鹿馬、天行帖子。賣乾茄瓠、馬牙菜、膠牙餳之類、以備除夜之用。自入此月、即有貧者三數人為一火、裝婦人神鬼、敲鑼擊皷、巡門乞錢、俗呼為「打夜胡」、亦驅祟之道也。
〔訳〕十二月になると、町ではいっせいに撒仏花・ニラ・チシャ・蘭芽(らんが)・ハッカ・クルミ・沢州〔たくしゅう、山西省晋城県〕のあめを売った。八日には、町を僧尼四、五人が並んでお経を唱え、銀や銅でつくった沙羅(さら)あるいは立派な鉢に、一体の金銅か木でつくった仏像を置き、香水にひたして、楊の枝で香水をかけながら門ごとに教化をする。諸大寺では浴仏会(よくぶつえ)を開いて七宝五味の粥(かゆ)を門徒に与え、これを「臘八粥(ようかがゆ)」という。市民もこの日にはそれぞれ家でいろいろな穀物などを入れて粥をたいて食べた。臘日(ろうじつ)には寺院から門徒に小麦粉と油を贈り、上元節の燈油代の布施を募る。町の家々でも互いに贈答しあった。この月に景竜門〔内城の北門〕では元宵の燈篭祭りを宝籙宮〔ほうろくきゅう、景竜門の近くにある大道教寺院〕で一月はやめて行い、この一帯だけは燈篭が賑やかにともされていた。二十四日には「交年」といって、市民は夜になると僧侶や道士を呼んで看経(かんきん)をしてもらい、酒果を供えて、竈の神を送り、一家そろって紙銭紙馬を焼いた。竈の神の神像を描いた絵馬を竈の上に貼り、酒糟を竈の焚口に塗りつけて、これを「酔司命(すいしめい)」といった。夜中には寝台の下に燈火を置いてこれを「照虚粍(むだてらし)」といった。この月には節句はないが、豪家貴家では、雪が降ると宴席を設け、雪で獅子や燈篭をつくって、親戚旧友と打ち集い楽しむのであった。年越しが近づくと、町ではみな門神・鍾馗(しゅうき)・桃板(とうばん)・桃符(とうふ)および財門鈍驢(ざいもんどんろ)・回頭鹿馬(かいとうろくば)・天行帖子(てんこうちょうし)を刷って売ったり、乾茄瓠(かんぴょう)・馬牙菜(ばがさい)・膠牙餳(ねばりあめ)の類を売って除夜の用にそなえた。この月に入ってから、貧乏人が三人あまりで一組となって、婦人やら神鬼などに扮装(ふんそう)して、ドラ・太鼓をたたいて門づけをして歩く。俗にこれを「打夜胡(おにやらい)」といい、やはり邪気をはらう行事であった。
※蘭芽:中国では野菊に似た馬蘭〔紺菊〕という草の新芽を摘んで食用に供する。
※八日:一般に中国・日本では釈迦の誕生は四月八日、成道日(じょうどうび)すなわち悟りを開いた日は十二月八日、入滅の日は二月十五日としている。宋代には釈迦成道日の十二月八日にも浴仏会を行なった。
※沙羅:サラノキすなわち釈迦入滅の時に寝台の四辺に生えていたという木で、その葉の長さは20cmほどもある楕円形のおおきなものである。
※楊の枝:後趙創建者の石勒〔せきろく、274~333年〕の子が瀕死の重病に罹ったとき、西域の僧仏図澄〔ぶつとちょう、232~348年〕がヤナギの枝を取って水に濡らしてこれを注ぎかけたところ蘇生したという故事があるし、インドでは賓客を迎える時は先ずヤナギの枝と香水を贈って健康を祝う風習があるという。
※臘八粥:十二月を臘月といい、同月八日を臘八と呼び、この日は釈迦の成道を祝う。臘八粥はこの日に食べる粥で、モチアワ・白米・モチゴメ・ナツメ・ヒシノミ・クリ・アズキなどに砂糖を入れた甘い粥である。さまざまなものを入れた粥なので七宝五味の粥などともいう。
※臘日:冬至後第三の戌の日か? この日は中国では古代から諸神や先祖とか百物を合わせる祭りをする年末の祭礼「臘祭」の日である。しかし、俗には十二月八日も臘日と呼んでいたようだ。
※交年:俗にいう灶(かまど)祭りである。俗信によると、この日に灶の神が天に上り、玉王大帝の所へ行って各戸の一年間の善悪を報告し、除夕〔じょせき、大晦日のよる〕にまた帰ってくるという。
※酔司命:これは、わが家の運命をつかさどるかまどの神を酔わせてしまおうという意味。酔わせて我が家の悪口を天帝に言わせぬというわけだ。清代になると酒糟ではなくあめを塗って、かまどの神の口を粘らせてしまおうとしたという。
※門神・鍾馗…桃符:これらはいずれも鬼を払う力のあるものばかり。門神は二人の武神の像を描いて門に貼るもの。鬼を捕まえて食べると信じられていた鍾馗の像が年末に用いられるのは、俗に唐の玄宗が除夜の晩に鍾馗を夢に見て画工に描かせたのに始るというが、『周礼』の考工記に出ている終葵〔しゅうき、椎《つち》〕で鬼を打つ椎を神格化したもので南北朝人の人名によく用いられた鍾葵(しょうき)も魔よけの意味でつけられたというから、その起源はかなり古いものであるいえる。桃板・桃符は門にかける魔よけの板や紙のこと。桃板は新年に邪を避ける力があると信じられていた桃の板に神像を書き、その下に右に鬱塁(うつりつ)、左に神荼(しんじょ)〔いずれも鬼を取り締まる神の名〕と書いて、元日に門にかけた。清代には、竜虎・朝官・桃柳などの絵を描いた一対の細長い板を門の左右にかけて桃符と呼んだ。
※財門鈍驢…天行帖子:これらも除夕に戸口などに貼る絵馬や護摩ふうの物であったようだ。例えば天行帖子は、宋では俗に流行病を天行病と呼び多くは天然痘をさしていたから、後世小児が着物のはしに「天花巳花〔疱瘡はもう済み〕」と書いた布切れをつけた類いの護符であろう。日本で鍾馗とか鎮西八郎や桃太郎などを赤刷りにした疱瘡絵を用いたのと同じ意味をもったものと思われる。
※打夜胡:歳末に郷人が相率いて追儺(ついな)をするのを「打野胡」とある。つまり「打夜胡」は鬼やらいの行事。三、五人が一隊となり、神鬼・判官・鍾馗・小妹〔鍾馗の妹〕などに扮して、ドラ・太鼓を打って門ごとに銭を乞うた。
野田首相:一体改革関連法案 参院での修正に柔軟姿勢示す ―― 消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連8法案は18日午前、参院一体改革特別委員会で野田佳彦首相と関係閣僚が出席して質疑を行い、実質審議入りした。首相は参院で法案を修正する可能性について問われ、「今の制度改正に加え、より改善されるならば議論はあってしかるべきだ。予断を持っているわけではない」と述べた。衆院段階の民主、自民、公明3党合意を踏まえつつ柔軟に対応する姿勢を示した。/首相は、将来のエネルギー政策に関する意見聴取会で電力会社の社員が発言したことについて「国民に誤解を生む動きがあった。手直ししながら丁寧に国民的な議論を進めたい」と語った。桜井充氏(民主)の質問に答えた。/桜井氏が今後の原発政策について国民投票の実施を求めたのに対し、首相は「できるだけ多くの国民の意思を確認する工夫は最大限取り入れたい」と述べるにとどめた。/午後は宮沢洋一氏ら自民党の5氏が質問し、首相に対して、最低保障年金創設など民主党のマニフェストは3党合意で実現が不可能になったなどと追及する。首相出席の質疑は19日も行う。 〔毎日新聞 2012年07月18日 11時17分(最終更新 07月18日 11時57分)〕
東京夢華録 巻十 十二月
十二月、街市盡賣撒佛花、韭黃、生菜、蘭芽、勃荷、胡桃、澤州餳。初八日、街巷中有僧尼三五人、作隊念佛、以銀銅沙羅或好盆器、坐一金銅或木佛像、浸以香水、楊枝洒浴、排門教化。諸大寺作浴佛會、并送七寶五味粥與門徒、謂之「臘八粥」。都人是日各家亦以果子雜料煑粥而食也。臘日、寺院送面油與門徒、卻入疏教化上元燈油錢。閭巷家家互相遺送。是月景龍門預賞元夕於寶籙宮、一方燈火繁盛。二十四日交年、都人至夜請僧道看經、備酒果送神、燒合家替代錢紙、帖竈馬於竈上。以酒糟塗抹竈門、謂之「醉司命」。夜於床底點燈、謂之「照虛耗」。此月雖無節序、而豪貴之家、遇雪即開筵、塑雪獅、裝雪燈雪□、以會親舊。近歲節、市井皆印賣門神、鍾馗、桃板、桃符、及財門鈍驢、回頭鹿馬、天行帖子。賣乾茄瓠、馬牙菜、膠牙餳之類、以備除夜之用。自入此月、即有貧者三數人為一火、裝婦人神鬼、敲鑼擊皷、巡門乞錢、俗呼為「打夜胡」、亦驅祟之道也。
〔訳〕十二月になると、町ではいっせいに撒仏花・ニラ・チシャ・蘭芽(らんが)・ハッカ・クルミ・沢州〔たくしゅう、山西省晋城県〕のあめを売った。八日には、町を僧尼四、五人が並んでお経を唱え、銀や銅でつくった沙羅(さら)あるいは立派な鉢に、一体の金銅か木でつくった仏像を置き、香水にひたして、楊の枝で香水をかけながら門ごとに教化をする。諸大寺では浴仏会(よくぶつえ)を開いて七宝五味の粥(かゆ)を門徒に与え、これを「臘八粥(ようかがゆ)」という。市民もこの日にはそれぞれ家でいろいろな穀物などを入れて粥をたいて食べた。臘日(ろうじつ)には寺院から門徒に小麦粉と油を贈り、上元節の燈油代の布施を募る。町の家々でも互いに贈答しあった。この月に景竜門〔内城の北門〕では元宵の燈篭祭りを宝籙宮〔ほうろくきゅう、景竜門の近くにある大道教寺院〕で一月はやめて行い、この一帯だけは燈篭が賑やかにともされていた。二十四日には「交年」といって、市民は夜になると僧侶や道士を呼んで看経(かんきん)をしてもらい、酒果を供えて、竈の神を送り、一家そろって紙銭紙馬を焼いた。竈の神の神像を描いた絵馬を竈の上に貼り、酒糟を竈の焚口に塗りつけて、これを「酔司命(すいしめい)」といった。夜中には寝台の下に燈火を置いてこれを「照虚粍(むだてらし)」といった。この月には節句はないが、豪家貴家では、雪が降ると宴席を設け、雪で獅子や燈篭をつくって、親戚旧友と打ち集い楽しむのであった。年越しが近づくと、町ではみな門神・鍾馗(しゅうき)・桃板(とうばん)・桃符(とうふ)および財門鈍驢(ざいもんどんろ)・回頭鹿馬(かいとうろくば)・天行帖子(てんこうちょうし)を刷って売ったり、乾茄瓠(かんぴょう)・馬牙菜(ばがさい)・膠牙餳(ねばりあめ)の類を売って除夜の用にそなえた。この月に入ってから、貧乏人が三人あまりで一組となって、婦人やら神鬼などに扮装(ふんそう)して、ドラ・太鼓をたたいて門づけをして歩く。俗にこれを「打夜胡(おにやらい)」といい、やはり邪気をはらう行事であった。
※蘭芽:中国では野菊に似た馬蘭〔紺菊〕という草の新芽を摘んで食用に供する。
※八日:一般に中国・日本では釈迦の誕生は四月八日、成道日(じょうどうび)すなわち悟りを開いた日は十二月八日、入滅の日は二月十五日としている。宋代には釈迦成道日の十二月八日にも浴仏会を行なった。
※沙羅:サラノキすなわち釈迦入滅の時に寝台の四辺に生えていたという木で、その葉の長さは20cmほどもある楕円形のおおきなものである。
※楊の枝:後趙創建者の石勒〔せきろく、274~333年〕の子が瀕死の重病に罹ったとき、西域の僧仏図澄〔ぶつとちょう、232~348年〕がヤナギの枝を取って水に濡らしてこれを注ぎかけたところ蘇生したという故事があるし、インドでは賓客を迎える時は先ずヤナギの枝と香水を贈って健康を祝う風習があるという。
※臘八粥:十二月を臘月といい、同月八日を臘八と呼び、この日は釈迦の成道を祝う。臘八粥はこの日に食べる粥で、モチアワ・白米・モチゴメ・ナツメ・ヒシノミ・クリ・アズキなどに砂糖を入れた甘い粥である。さまざまなものを入れた粥なので七宝五味の粥などともいう。
※臘日:冬至後第三の戌の日か? この日は中国では古代から諸神や先祖とか百物を合わせる祭りをする年末の祭礼「臘祭」の日である。しかし、俗には十二月八日も臘日と呼んでいたようだ。
※交年:俗にいう灶(かまど)祭りである。俗信によると、この日に灶の神が天に上り、玉王大帝の所へ行って各戸の一年間の善悪を報告し、除夕〔じょせき、大晦日のよる〕にまた帰ってくるという。
※酔司命:これは、わが家の運命をつかさどるかまどの神を酔わせてしまおうという意味。酔わせて我が家の悪口を天帝に言わせぬというわけだ。清代になると酒糟ではなくあめを塗って、かまどの神の口を粘らせてしまおうとしたという。
※門神・鍾馗…桃符:これらはいずれも鬼を払う力のあるものばかり。門神は二人の武神の像を描いて門に貼るもの。鬼を捕まえて食べると信じられていた鍾馗の像が年末に用いられるのは、俗に唐の玄宗が除夜の晩に鍾馗を夢に見て画工に描かせたのに始るというが、『周礼』の考工記に出ている終葵〔しゅうき、椎《つち》〕で鬼を打つ椎を神格化したもので南北朝人の人名によく用いられた鍾葵(しょうき)も魔よけの意味でつけられたというから、その起源はかなり古いものであるいえる。桃板・桃符は門にかける魔よけの板や紙のこと。桃板は新年に邪を避ける力があると信じられていた桃の板に神像を書き、その下に右に鬱塁(うつりつ)、左に神荼(しんじょ)〔いずれも鬼を取り締まる神の名〕と書いて、元日に門にかけた。清代には、竜虎・朝官・桃柳などの絵を描いた一対の細長い板を門の左右にかけて桃符と呼んだ。
※財門鈍驢…天行帖子:これらも除夕に戸口などに貼る絵馬や護摩ふうの物であったようだ。例えば天行帖子は、宋では俗に流行病を天行病と呼び多くは天然痘をさしていたから、後世小児が着物のはしに「天花巳花〔疱瘡はもう済み〕」と書いた布切れをつけた類いの護符であろう。日本で鍾馗とか鎮西八郎や桃太郎などを赤刷りにした疱瘡絵を用いたのと同じ意味をもったものと思われる。
※打夜胡:歳末に郷人が相率いて追儺(ついな)をするのを「打野胡」とある。つまり「打夜胡」は鬼やらいの行事。三、五人が一隊となり、神鬼・判官・鍾馗・小妹〔鍾馗の妹〕などに扮して、ドラ・太鼓を打って門ごとに銭を乞うた。
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