瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
4時45分、隅田川畔を徘徊。
タチアオイは小アジア、中国の原産。日本へは古く薬用として渡来した。唐代以前は、蜀葵(しょくき)の名前で一番の名花とされた。
日本では、平安時代は「唐葵」と呼ばれたが<江戸時代に今の「立葵」と呼ばれるようになったという。
「葵」とはふつうこの「立葵」のことを指すらしい(葉がどんどん太陽の方に向かうのところから「あうひ(仰日)」の意)。
京都で毎年5月15日に行われる「葵祭り(あおいまつり)」の「葵」はこの立葵ではなくて、江戸徳川家の紋所として知られる「双葉葵(ふたばあおい)」という名の草のことだという。
万葉集の巻16の3834に「よみ人知らず」のただ一つ葵を詠った和歌がある。
意味: 梨(なし)、棗(なつめ)と続くように、あなたに会いたい。葛(くず)のつるが別れてまたつながるように、またあなたに会いたい。あなたに逢う日は花咲くようにうれしい。
* 掛詞:黍に粟嗣ぎ → 君に逢はつぎ、 葵→ 逢う日
杞の国に、天地が崩れ落ち、身の置き所が無くなるのを心配して、寝食を廃した男がいた。その男の心配していることをさらに心配する男がいて、そのために出かけて行って彼に説得した。
「天は気の集まりでしかない。気は至る所に存在し、したがって人間が体を屈伸したり、呼吸したりするといった日常の動作も、一日中天の中で行っているのだ。それをどうして君は、天が崩れ落ちるなどと心配するのか」
するとその男は訊ねた。
「天がもし気の集まりであるとすれば、太陽や月や星は、きっと落ちないといえるのか? 」
彼を説得する男が「太陽や月や星も気の集まりの中で輝きを持つものに過ぎない。たとい落ちてきたとしても人間に危害など加えっこないのだ」と答えると、その男は更に「大地がこわれたらどうするか」と言う。説得する男が、
「大地は土の塊でしかなく、世界の四方の果てまで充ちふさいでいて、至るところが土の塊である。人間が立ち止まったり歩いたり、足で踏んづけるといった日常の動作も、一日中大地の上で行っているのだ。それをどうして君は、どうして大地がこわれるなどとしんぱいするのか?」
というと、その男はさばさばとした気持ちになってすっかり喜んだ。
ところがその話を聞いた長盧子という哲人が笑っていった。
「虹蜺(にじ)や雲や霧、風雨や四季の推移は気の集まりが天界で成した現象である。また、山岳(やま)や河や海、金や石、火や木などは、形(もの)が集まって地上で成した現象である。もしこれらが気の集まりであり物塊の集まりであることを知れば、集まったものは必ず散(わか)かれるから、天地が崩壊しないなどとどうしていえようか.いったい天地というものは広大な宇宙空間の中の一つの微小な存在でしかないが、形地あるものの中ではもっとも巨大なものである。その本質が尽くし難く究め難いのも、もとより当然であり、その正体が測り難く識り難いのも、もとより当然である。とはいえ天地が崩壊すると心配するのは、いかにも遠大すぎ、崩壊しないと主張するのは、必ずしも正しいとは言えない。天地が崩壊せざるを得ぬとすれば、最後には崩壊してしまうのであり、その崩壊する時にめぐり合わせれば、憂い悲しまずにはおれないのだ。」
さて長盧子らの議論を聞いてわが列禦寇先生は笑いながら行った。
「天地が崩壊すると主張するものも間違っているし、天地が崩壊しないと主張する者も間違っている。崩壊するしないかは、己に分らないことだからである。しかしながら崩壊するというのも一つの見識であり、崩壊しないというのも一つの見識である。かくて、生きている者には死者のことは分らないし、死んだ者には生者のことは分らない。将来の人間には過去のことは分らず、過去の人間には将来のことは分らない。天地が崩壊しようと崩壊すまいと、そんなことに心を乱されない無心の境地こそ大切なのだ」
タチアオイは小アジア、中国の原産。日本へは古く薬用として渡来した。唐代以前は、蜀葵(しょくき)の名前で一番の名花とされた。
日本では、平安時代は「唐葵」と呼ばれたが<江戸時代に今の「立葵」と呼ばれるようになったという。
「葵」とはふつうこの「立葵」のことを指すらしい(葉がどんどん太陽の方に向かうのところから「あうひ(仰日)」の意)。
京都で毎年5月15日に行われる「葵祭り(あおいまつり)」の「葵」はこの立葵ではなくて、江戸徳川家の紋所として知られる「双葉葵(ふたばあおい)」という名の草のことだという。
万葉集の巻16の3834に「よみ人知らず」のただ一つ葵を詠った和歌がある。
意味: 梨(なし)、棗(なつめ)と続くように、あなたに会いたい。葛(くず)のつるが別れてまたつながるように、またあなたに会いたい。あなたに逢う日は花咲くようにうれしい。
* 掛詞:黍に粟嗣ぎ → 君に逢はつぎ、 葵→ 逢う日
杞の国に、天地が崩れ落ち、身の置き所が無くなるのを心配して、寝食を廃した男がいた。その男の心配していることをさらに心配する男がいて、そのために出かけて行って彼に説得した。
「天は気の集まりでしかない。気は至る所に存在し、したがって人間が体を屈伸したり、呼吸したりするといった日常の動作も、一日中天の中で行っているのだ。それをどうして君は、天が崩れ落ちるなどと心配するのか」
するとその男は訊ねた。
「天がもし気の集まりであるとすれば、太陽や月や星は、きっと落ちないといえるのか? 」
彼を説得する男が「太陽や月や星も気の集まりの中で輝きを持つものに過ぎない。たとい落ちてきたとしても人間に危害など加えっこないのだ」と答えると、その男は更に「大地がこわれたらどうするか」と言う。説得する男が、
「大地は土の塊でしかなく、世界の四方の果てまで充ちふさいでいて、至るところが土の塊である。人間が立ち止まったり歩いたり、足で踏んづけるといった日常の動作も、一日中大地の上で行っているのだ。それをどうして君は、どうして大地がこわれるなどとしんぱいするのか?」
というと、その男はさばさばとした気持ちになってすっかり喜んだ。
ところがその話を聞いた長盧子という哲人が笑っていった。
「虹蜺(にじ)や雲や霧、風雨や四季の推移は気の集まりが天界で成した現象である。また、山岳(やま)や河や海、金や石、火や木などは、形(もの)が集まって地上で成した現象である。もしこれらが気の集まりであり物塊の集まりであることを知れば、集まったものは必ず散(わか)かれるから、天地が崩壊しないなどとどうしていえようか.いったい天地というものは広大な宇宙空間の中の一つの微小な存在でしかないが、形地あるものの中ではもっとも巨大なものである。その本質が尽くし難く究め難いのも、もとより当然であり、その正体が測り難く識り難いのも、もとより当然である。とはいえ天地が崩壊すると心配するのは、いかにも遠大すぎ、崩壊しないと主張するのは、必ずしも正しいとは言えない。天地が崩壊せざるを得ぬとすれば、最後には崩壊してしまうのであり、その崩壊する時にめぐり合わせれば、憂い悲しまずにはおれないのだ。」
さて長盧子らの議論を聞いてわが列禦寇先生は笑いながら行った。
「天地が崩壊すると主張するものも間違っているし、天地が崩壊しないと主張する者も間違っている。崩壊するしないかは、己に分らないことだからである。しかしながら崩壊するというのも一つの見識であり、崩壊しないというのも一つの見識である。かくて、生きている者には死者のことは分らないし、死んだ者には生者のことは分らない。将来の人間には過去のことは分らず、過去の人間には将来のことは分らない。天地が崩壊しようと崩壊すまいと、そんなことに心を乱されない無心の境地こそ大切なのだ」
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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