帰宅後、ブログを書こうと思っていて、いつの間にか忘れてしまった。そういえば昨日7月16日は閻魔の斎日。地獄の釜の蓋が開いて、閻魔様も鬼どもも休日。娑婆世界も薮入りで休日。爺もボケ忘れでブログもお休みと相成ったのだろう。
夜、N兄より、東京江戸博物館で催される特別展に行かないかと誘いを受ける。後日返事をすることにした。
浅草見附
今朝は5時に家を出ると、江戸通りを浅草橋まで南下、両国橋を渡るべく、地下横断道に入った所出口を間違えて、横山町の方へ出てしまった。あちうろうろこっちうろうろしているうちに川崎大師東京別院の「薬研堀不動院」の前に出た。ビルの谷間の裏庭に入ってみると、弘法大師のご遍路姿の像が立っていた。
薬研堀不動院
講談由来碑
薬研堀不動院は講談とゆかりが深く、昭和57年5月に一龍斎貞花師匠による第1回奉納講談「山内一豊の妻」がおこなわれて以来、毎月28日のお不動様のご縁日には奉納講談がおこなわれているという。
薬研というのは、薬草を細かく粉砕するための道具の名前であるが、薬研堀というのは、江戸時代に薬種問屋が多く集まっていた場所なので、こういう名前がついたのであろう。
七味唐辛子は江戸両国の薬研堀で「からし家徳兵衛」が寛永2(1625)年に薬の調合にヒントを得て、売り出したのが最初といわれており、それが今の「薬研堀七味唐辛子」につながっているという。爺のポン友ヤント君は、浅草に来たときは新仲見世の「やげん堀」で七味唐辛子を求めて帰ると聞いている。
トールちゃんと愛犬コアラ
隅田公園の駐輪場入口の所では、体操が始っていた。白鬚橋にかかろうかという所で、ワンさん夫妻と出会い、1・2分小火(ぼや)について話す。
朝の体操
最近はあっちでもこっちでも花火花火で余り珍しくはない。しかし、浅草の人では例年とかわりはないだろうね。
今日は、盂蘭盆会、道教においては中元といい、人間贖罪の日として1日火を焚いて神様を祝う日であるという。日本の盆はこの中元と盂蘭盆会が習合したものらしい。
徘徊の道筋は決めているわけではない。玄関を出て、足の向くままに歩く。今朝は、気が付くと江戸通りを南に向っていた。何故に朝から車の行き交いの多いこんな道を歩いているのだろう。いつの間にか、蔵前1丁目の交差点を渡っていた。ここに、蔵前の下町しるべと、その横に天台跡の説明板が並んで建っている。江戸時代後期、鳥越神社の東に天文屋敷測量所があり、葛飾北斎が富嶽36景の一つ「鳥越の不二」で描いている。頒暦調所ともいい、暦や測量、地誌編纂や洋書翻訳を行っていたという。江戸城や大名屋敷など幕府施設の絵は軍事機密のためか浮世絵などに描かれていないのだが、ここは大丈夫だったのじゃろか? 手前の屋根の上に蛎殻がおいてあるが、板葺き屋根の防火のために蛎殻を屋根に並べることが推奨されていたのだそうだ。
早朝の蔵前橋
ワンさん夫妻
桜橋を渡って、帰宅する。
内部は法要の人たちでかなり込み合っていた。シアトルママの兄(あに)さんと会ったので、カメラに収めようと思ったが、内部は撮影禁止のようである。2階を1巡りそれぞれのご先祖様の挨拶を終えて、内テラスの祭壇前で、ここは内部でなくて外だからいいだろうと、S氏夫妻と爺と並んで婆様にシャッターを押してもらうが、見事に失敗。写っていない。いやいやこれも確認しなかった爺が悪かったのじゃ。ご勘弁を。
宝蔵門のところで、S氏夫妻と別れ、地下鉄で上野に出る。上野駅の構内を上野公園に向けて出た所に「ああ、上野駅」のレリーフ碑がある。この歌が流行ったのは、ちょうど爺が浅草に塾を開いた頃で、東京はオリンピック景気で浮かれていた。
不忍池の蓮
と入場チケット
不忍池の弁天堂
外に出るとちょうど正午。腹も減ったし、不忍通りの向かい側のとある中華料理店で昼飯に冷やし中華を食らって、弁天堂付近を散策、天龍橋を渡りきった所に台東区の東西メグリンバスの停留所があったので、メグリンにのって、浅草松屋まで帰った。ここのところ、毎日この夏の最高温度を更新しているが、今日もこの夏一番の暑さを記録した1日であった。
駒形橋の土の遊歩道
厩橋袂から蔵前橋を撮る
蔵前橋に架かった標示
蔵前橋~総武線鉄橋
総武線鉄橋~両国橋
隅田公園を抜けると吾妻橋を渡り親水テラスへ降りる。
駒形橋を潜ると、厩橋までは土の遊歩道となる。コンクリートの道ばかり歩いていると、この土の道は妙に心地よい。ざくざくと土の音が腹に染み渡るようだ。
厩橋袂からまた、コンクリートの道になる。
蔵前橋の橋桁にも昨日の白鬚橋と同じ標示が架かっている。
蔵前橋から両国橋の間は、隅田川ギャラリーになっていて、葛飾北斎・安藤広重などの浮世絵が掲示してある。遊歩道の手摺欄干には相撲48手の決まり手がレリーフとして飾られている。今日は土曜日とあって、手摺欄干に凭れて釣りをしている人も見かけた。
両国橋を渡ると靖国通りを江戸通りまで出ると、そのまま隅田川寄りの歩道を真っ直ぐに北上して帰宅した。
都道府県の高校野球の代表が競い合う甲子園大会は郷土愛による応援が盛んで、テレビ放送によって現在もアマチュアスポーツ屈指の人気を誇っているようじゃが、甲子園大会への出場と優勝を目的にした「甲子園至上主義」の過熱はさまざまな弊害をもたらしているようじゃ。中学選手のスカウトや野球留学が横行し、不祥事による出場辞退、不祥事の密告などがおこなわれているというじゃないか。肩、肘(ひじ)などの酷使によるスポーツ障害も問題化してようじゃのう。もっとも、こんなこたぁ、今に始まったことじゃなく、昔からあったことじゃがのう。
花火大会のための掲示
白鬚橋の橋桁に7月26日の花火大会の周航禁止の掲示がでかでかと掲げられた。
汐入公園の遊歩道への人出が多くなったようである。瑞光橋の上から白鬚方面への遊歩道をカメラに収めた。
ご祭神は、
天照大御神(あまてらすおおみかみ): 「天(あめ)の下(した)すべての根源をなし、天地四方を照らす太陽神で、わが国ご祖神としてまつられ、この世と万物の秩序安泰をお守りくださいます(伊勢の内宮のご祭神)」。
豊受姫神(とようけひめのかみ): 「天の下のすべてに必要な作物・食物を産み出され、お守り下さる神としてまつられます(伊勢の外宮のご祭神)」。
であるとのことじゃ。
福寿院
安藤東野墓の説明板
江戸通りに続く石浜河岸を北上すると、今戸と橋場の境に「今吉柳通り」がある。今戸と吉野町(現在は東浅草)を結ぶ柳通りということであろう。ここから2つ目の路地を左に入った所に福寿院というお寺がある。朝早いので固く締められた門扉から覗くと本堂の両脇には対の狛犬が置かれていた。これも本地垂迹によるものなのだろうか。
門の横に安藤東野という人の墓についての説明板があった。この爺はこの人についての知識は皆無であったが、荻生徂徠の門弟にして、犬公方様に講義をしたというのだから大した学者であったのだろう。早朝とて墓地に入ることは出来なかった。
舛田山靖仁
この福寿院の隣は元は小錦全盛時代の高砂部屋であったが、今は千賀ノ浦部屋になっている。おそらく千賀の浦部屋が高砂部屋から買い取ったものだろう。
千賀ノ浦部屋は、出羽海一門に属する相撲部屋で、平成16年に、元関脇舛田山靖仁が春日野部屋より独立して(一時中絶していたものを)再創設したものであるという。
そんなこんなで、デジカメに福寿院と千賀ノ浦部屋を収めた。アリャリャ、またしてもバッテリー切れの警告。昨日、デジカメの映像をマイピクチャに取り込む際、デジカメとパソコンを接続したままカメラの電源を切らずに朝飯を食らい、カメラが熱くなっていたのを思い出した。この間にバッテリの充電が消費されたものと思われる。まあ、半呆けの爺じゃ、しょんあるめえ。
白鬚橋を渡り、桜橋手前のところで、後(うしろ)から「お早うございます」と声を掛けられる。ふと見ると、横にワンさん夫妻が、追いついている。しばらく並んで歩きながら2・3言葉を交わすが、爺の足に付き合っていたのではまだるっこいだろうと思い、お先に行って頂く。後を追いかけるように急いでみたが、いつの間にか見失ってしまった。駒形橋を渡り、本日は何時もの逆周りで徘徊してみた。
サーモンピンクに熟れる
黄色く熟れるのもある
夕刻、シアトルママのブログを開くと7/10(木)はハイキングに行ったらしい。曰く
…途中、サーモンベリーという、木の実をとって食べたり、池のほとりでスナックを食べたりと、とっても楽しいハイキングだった。
とある。サーモンベリーというのは始めて聞くベリーの名前なので、ちょっくら調べてみた。
サーモンベリー(Salmon berry)
アメリカの野生ベリー。ラズベリーの仲間で実の色がサーモンピンクになるから、または実がイクラに似ているからこの名前が付けられたとか。生食、パイやジャムにして食するそうだ。
桜橋をわたり墨堤通り沿いの堤を南下、吾妻橋の通りを横切って、親水テラスに降りる。厩橋の袂ではT氏がゴルフクラブを振っていらっしゃる。
今日は浅草ほおずき市の日なので浅草寺を回ってみる気になった。ここで、テラスから上がり、厩橋上からT氏を撮る。
春日通りを東進、国際通りに出る。国際通りを北上し、伝法院通りから、裏参道から浅草寺境内に入る。
この「ほおずき市」はもともと芝の愛宕神社の縁日に立っていたという。「ほおずきを水に鵜呑みにすれば、大人は癪を切り、子供は無視の気を去る」と言われるなど、薬草として評判であったからだという。
ところが、その愛宕神社の縁日は観音功徳日にならって、四万六千日と呼んでいた事から、 四万六千日ならば、浅草寺が本家本元とされ、ほおずきの市も浅草寺境内に立つようになり、愛宕神社をしのいで盛大になったものなのであろう。
その昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であった事から、文化年間(1804~1818年)以後に、「雷避け」として、赤とうもろこしが売られるようになったそうだ。ところが明治初年に不作が原因で出店ができなかったことから、これに代わる「雷除け」が人々の要望により、四万六千日の縁日に浅草寺から出されるようになり、今日にいたっているのだそうだ。
柿本人麻呂の歌に
我が宿の、軒(のき)にしだ草、生ひたれど、恋忘れ草、見れどいまずだ生ひ 万葉集巻11 2475
(私の家の軒にはしだ草は生えているけれど、恋を忘れさせてくれる忘れ草はまだ生えてはこない… )
というのがある。
この7月の両日、浅草寺では、終日ご祈祷を行なっており、本堂の扉を開く時刻をはやめ、閉める時刻も遅らせ、普段とは違う黄色の祈祷札を授与するなど、一層の賑わいをみせるのである。
早朝のこととて、まだ人出は少ないが、昼間から夕刻にかけて一層の賑わいが予想される。
お化け地蔵
真偽の程は判らねど、白井権八がこの地蔵の陰に隠れて辻斬りをやり、地蔵に向かって「知らんふりをしろ」といったら「お前こそ人に言うではないぞ」と地蔵が答えたというので、さずがの権八も度肝を抜かれたという伝説もあるという。
今吉柳通りを渡り石浜図書館の裏辺り当たるところに妙亀塚がある
妙亀塚
妙亀塚公園は小さな公園であるが、今朝は宿無しの集会所になっていて、4・5名の親父どもが朝から酒をくらって大声で喋っていた。「ちょっと、お邪魔します」、そそくさと塚をカメラに収めると、辺りを見回し説明板を探した。公園の入口の木の陰にしかも高い場所に備え付けてあったので、アップを効かせなんとかカメラに収めた。今日は久方ぶりにMr.Checkをお供にしたが、9370歩を記録していた。
正午前に大阪のオカッカンから電話があった。みなと外誌が付いたという知らせだった。彼はパソコンを持っているのだか、息子の手助けに無しには扱えないらしい。 ブログについて、一応はメールしておいた。はてさて、この爺のブログを読めるようになってくれるのだろうか?
sechin@nethome.ne.jp です。
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