現代社会は、知性が尊ばれ、また知識のある人が重用される世の中 ―― 情報化社会とか、知識社会ともいわれ、とかく知識偏重になりがち。問題が入り組んで拗(こじ)れてくると、これを丹念に解きほぐさないで、断ち切ろうとする。世の中が万事スピードを尊重し、あまり丁寧な仕事はやっておられないという事情にあるからなのか、根本問題を丹念に解きほぐそうとはしない。
今日でも農村の稲荷社が関東地方をはじめ多くは田の叢林(そうりん)、もしくは田を見おろす丘陵の突端に営まれているのは農民のもつ田の神は、春は農耕の折に山から下って田に下り、秋は収穫の折をもって山を登って山の神となるとする普遍的な信仰によるものであるとされる。こうした農耕的な性格から、稲荷神を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ―倉稲魂神)にあて、また大宜都比売神(おおげつひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、御饌神(みけつかみ)、もしくは豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)、宇迦売神(うかめかみ)とも同神と解かれるに至るのである。
稲荷信と狐との関係は何時ごろ始ったかは明らかではないが、荼枳尼天(だきにてん)の別号を白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)などと称して稲荷神と習合させたというが、狐が冬に発情してしきりにキツネ鳴きを発し食べ物をもとめて里近くにさまよい出ることや、その挙措習性が古くから農民に神秘的な印象を与えてきたことが、外来文化とも結びついて、広く民衆に伝播土着するに至ったとも想像される。
奈良時代末期以来狐を神秘動物とする思想が仏者、陰陽師の間に見られ、狐霊を駆使霊とする術者、幻術者などが民間に存したらしいことが、この時代の文献にみられる。稲荷神を奉ずる巫女・術者が真言密教や道教の影響の下に憑依(ひょうい)託宣を行い、これを「稲荷下げ)「稲荷おろし」と称するようになって、稲荷の使わしめから、次第に稲荷そのものと見られるようになったのではなかろうか。
近世にはこのような呪術的な稲荷信仰が都会地にも齎され、除災招福の神として、卜占・祈祷・予言その他の機能を発揮したという。とくに江戸では18世紀以降、田沼意次の信仰が評判になって隆盛を極め、いろいろな俗信も付け加わって武家や商家の屋敷神として勧請される風が広く行われたという。田沼意次が紀州藩の小姓(こしょう)から5万7000石の大名、ひいては老中にまで出世したのは、邸内に稲荷を祀ったからだという話が広まった。そのため明和・安永年間(1764~81年)に、居宅に小祠(しょうし)をもうけて稲荷を勧請する武家が多くなり、のちには町民の家にもまつられるよう になった。江戸の稲荷神社は、「町内に伊勢屋稲荷に犬の糞(くそ)」といわれるほど多くなったのだそうだ。
江戸時代末期には翁稲荷、太郎稲荷、三囲稲荷、妻恋稲荷、瘡守稲荷、真崎稲荷などは一代の流行神となって、主として開運出世、商売繁盛が祈られたという。神名に人名に似せた名をつけて呼ぶのは、稲荷信仰の全国的な特徴で、地方の霊狐を人名に似た名をもって呼ぶのと関係があり、古来憑霊として著しい活躍をしてきた跡の一つとして見られるのだろう。
そも、雪隠(せっちん)とは「その昔、雪竇禅師(せっちょうぜんし)が中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどった」という故事から便所のこと云う様になったといい、鎌倉時代に禅宗とともに日本に入ってきた言葉だという。
厠(かわや)とは「川屋」でいわば、自然の水洗トイレということ。弥生時代の遺跡には下水道のような構造が見られることから遅くともこの辺りには便所を造り使われ始めていたとされる。
「手水(ちょうず)」とは手や顔を洗う手水(てみず)がなまったもので、「手水場(ちょうずば)」という。「手水所(ちょうずどころ)」となると、神仏を拝むときに手や顔を清め口をすすぐ所。
「御手洗(おてあらい)」は今では一番よく用いられている語で「トイレ(もともとは化粧室の意)」とトップを争っているようだ。何々「御手洗団子(おてあらいだんご)」とは、いかにも不味そうな団子のように思えるが、これは「みたらしだんご」と読むのだそうだ。「御手洗(みたらし)」とは、「手水所(ちょうずどころ)」と同じく、神社で手や口を清める所で、京都の下鴨神社の境内には御手洗川が流れている。そしてここ糺の森で売っている団子が御手洗(みたらし)団子なのである。今は全国的に行き渡り、1串に3~5個の団子が刺してあり、醤油で味付けした葛餡がまぶしてあるもので、元々は下鴨神社の御手洗池の水泡を模して作られたものだという。
禅寺のトイレが僧堂の後ろに後ろに設けた洗面所のそばにあったことから、トイレを「後架」と呼ぶようになった。「総後架」とは共同トイレのことである。
「御不浄(ごふじょう)」「憚(はばかり)」については、今や爺婆が知っているだけで、若者にとっては死語になりつつある。
われわれも時にトイレを「哲学の部屋」など称して、トイレで思考を凝らすことがあるが、戦国の武将かの武田信玄は「山」に行ってくるといって、小半刻(こはんどき)もトイレで作戦を練ることがあったそうな。何ゆえトイレを「山」といったのだろう。その心は「草木(臭き)多き所」という訳。
中東やアフリカなどの紛争地に赴き、DDR(武装解除・動員解除・社会復帰)と呼ばれる国家規模の武装解除を担う、NGO日本紛争予防センター事務局長・瀬谷ルミ子(32)氏。兵士から武器を回収、治安を回復させ、国を復興へと導く。
この2月、アフリカ・スーダンで18万人を扱う史上最大のDDRプロジェクトがスタート。国連からの要請を受け 参加する瀬谷氏は、国連や政府に提言する際、徹底して現地調査を行う。目の前の一人一人の声に耳を傾け、現実の中から答えを見つけ出す。
とにかく、映像で見る限り、スーダンという国は大変な処らしい。よくもこんな所に行く気になったものだ。「Eちゃんは向こう見ずなところがあるからね」という人もいるが、いやいや、どうしてどうして立派なものだと考える。
君の行く道は 果てしなく遠い/だのになぜ 歯をくいしばり/君は行くのか そんなにしてまで(フォークソング「若者たち」)
また、道すがら吟じることがある。
僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守ることをせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため(高村光太郎『道程』)
そも「道」とは恐るべき字で、異族の首を携えて行くことを意味するという。金文(青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字)の道の字は「導」の形にかかれ、首をてに持つ象(かたち)であるという。道は道路の意に過ぎないが、これを仁義・道徳のように実践倫理の意とするのは、字義を内面化したものなのである。「行路」の行が人の行為の義になるとの同じである。「道」を道徳的な実践に結びつけた用義例は金文には現れていないという。道を存在への認識の仕方、さらには実践そのものとする形而上学に発展させたのは老荘の徒だという。荘子大宗師篇に「夫れ道は情有り信有り。爲す无(な)く形无(な)く、受くべきも傳ふべからず。得べきも見るべからず。自ら本となり自ら根となり、未だ天地有らざるも、古へより以て固(もと)より存す」とある。道は感情もあり、信もあるが、無為無形なのである。体得することは出来てもその姿を目で見ることはできない。何ものからも生れず、何ものにも依存しない。根源的な存在であり、天地開闢以来太古から存在するものなのであろう。
真とは顚(たお)れたるひとであり、道傍死者ををいう。この枉死者(おうししゃ)の霊は瞋恚(しんい)に満ちており、これを板屋(ばんおく、殯宮)に寘(お)き、これを道傍に塡(うず)め、その霊を鎭(しず)めなければならない。その怨霊が再び現れてわざわいなからしめること、それが鎮魂なのである。この厭わしくも思われる眞という字を、こともあろうに真実在の世界の表象に用いたのも荘子である。生は有限であるが、有限であるが故に無限への可能性を持つ。永遠とは死を超えることであると荘子先生は考えたのである。
荘子以前の文献にはこの字が見られないというのは、その本来の字義が示すように、人間の最も異常な状態を言う語であったからであろう。究極的な悟りを言う真人・真知というような高い形而上学的意味を与えうるものは死霊の世界に何らかの意味で関与する宗教者でなくてはならない。そのような宗教者の観想が枉死者の死を本然に復(かえ)させ、その絶対否定を通じて永遠なる生への転換をなさしめたのである。
道に合して、天とともにあるものが眞人なのである。顛死者より永遠の生としての眞なるものへという大転換のうちには、弁証法的止揚がはたらいているといわねばならない。
漢字は機械的に教えられるものではない。覚えるものであり、悟るものである。文においては言葉と文字とは、動かしがたいものなのである。文字だけを切り離して教えようとするのは、暗号を覚えさせるようなもので初めから無理な話といわねばならない。もし文字を教える必要があるならば、文字構造のもつ体系を理解させるということであろう。字形の系列的な理解を与えることもせずに記憶せよというのは言うほうが無理なのである。
どこやらの漫画オタクを自称する宰相殿のあまりにも多い漢字の読み間違いで、漢字教育法なるものが巷に氾濫していているという。テレビのクイズ番組でも毎日のように放映しているが教育法なるもので問題を解決しうるとする考え方は誤りといわねばならぬ。教育法には、便宜的なものが多いのである。
江戸時代には「歌字尽(うたじづくし)」のようなものが行われていて、木(キヘン)の字を集めて、「春つばき、夏はえのきに、秋ひさぎ、冬はひいらぎ、同じくはきり」(椿・榎・楸・柊・桐)のように和歌にして字を覚えたらしい。攵(ノブン)の字を集めて、「正しきは政(まつりごと)なり 古き故(ゆえ)救(すく)い求めて己改(あらた)む」というのもあり、尸(シカバネ)の字を集めて「毛は尾にて九は尻なれば水尿、死ねば屍(しかばね)、比ぶるは屁(ヘ)ぞ」というのもある。爺も「ミ・シは上、ヤム・イはスデニ半ばなり、オノレ・ツチノト・イは下につく」と巳、已、己を区別して覚えたものだ。
少年の頃教えられたものに「親は立ち木の横で見ているお方」「努(力)とは女の又? に力を入れること」「東とは木のむこうから日がのぼる方向」「お米には八十八の手がかかる」「次の皿は盗まれる」「戀は糸し糸しと言う心」等々がある。しかし、便宜的な説法ならばその字形解釈に触れないほうが、文字への先入観を与えることが少ないのではないかということで、爺もかつて生徒達にこんな方法で漢字を覚えさせた記憶がある。
Aムツキヒヒチョコマカテンテン(熊) Bクッタヨヨンヒキ(魚) Cウサンタテタテハッチョンチョン(寒)
政治家が字を読み違えたといって非難の対照にされて、マスコミで騒がれるというのはあまり感心しない。もっと政策の中身を検討し、議論してほしいからである。
①踏襲「ふしゅう」、②頻繁「はんざつ」、③破綻「はじょう」、④順風満帆「じゅんぷうまんぽ」、⑤低迷「ていまい」、⑥詳細「ようさい」、⑦未曽有「みぞうゆう」、⑧実体経済「じつぶつけいざい」、⑨焦眉の急「しゅうびのきゅう」、⑩物見遊山「ものみゆうざん」、⑪有無「ゆうむ」、⑫思惑「しわく」、⑬措置「しょち」、⑭詰めて「つめめて」、⑮怪我「かいが」、⑯前場「まえば」
①~⑯までは、この自称漫画オタクと自負?する宰相殿が読み違えた漢字というが、これを完全に読める人は何人いるのだろうか。この爺だってどうかすると読み違えてしまう。
まあ、文章を扱うときは手許から辞書は離せないのである。
①~⑯までの正しい読みは
①とうしゅう ②ひんぱん ③はたん ④じゅんぷうまんぱん ⑤ていめい ⑥しょうさい ⑦みぞう
⑧じったいけいざい ⑨しょうびのきゅう ⑩ものみゆさん ⑪うむ ⑫おもわく ⑬そち ⑭つめて
⑮けが ⑯ぜんば
禍事(まがごと)の起こる源を訊ぬれば、どれもこれも為政者(おえらいさん)が愚かなため。権力と金に眼が眩(くら)み、耳塞(ふさ)がれて、その側近こそが実力者。贔屓(ひいき)にすれば皮に孔(あな)空けてでも羽毛を生やすように、滅多やたらに褒めちぎり、憎いとなると、毛を毟(むし)ってでも、疵(きず)を求めるように欠点(あら)探し。破局が今にも訪れるというのに、欲におぼれる浅ましさ。海を渡(わた)るに舵(かじ)もなく、薪(たきぎ)に坐して燃えるを待つとはご存じない。
江戸の大川の澄むは千年に一度とかや
人の命は短くて、清い世に出遇うは難しい
吹き募る風に日陰の草はいよいよ傷(いた)められ
金持ちどもは、出来が違うと大威張り
誰にも負けぬこの学識も 彼らの財布に勝てぬが口惜(くちお)しい
胡麻擂る輩は、邸宅住まい 正直者は、相も変わらず塀の外
そこで、瘋癲爺はこれに続けて吐(ほざ)いてみせる。
おえらい方は 結構ずくめ
吐(は)いた唾(つば)さえ 真珠(たま)に成る
襤褸(ぼろ)を纏(まと)えば 可惜(あたら)才覚も持腐(もちぐさ)れ
香草(かおりぐさ)さえ 牛馬の餌(えさ)となる
賢い人はとうの昔に悟ってもいられようが 愚かな爺は 救われぬ
暫くは 己(おのれ)が分(ぶん)を護り 齷齪するのは 止めにしよう
哀(かな)しいかな! ああ、哀しいかな
これが宿命(さだめ)というものか
むさい姿の爺婆
気候の変り目の祝祭日のことを節日(せちび・せつび)といい、お供え物をしたり行事をおこなって祝ってきたという歴史がある。この節日の供物、「節供(せちく)」という言葉が、節日そのものを指すようになって「節句」ということばになったといわれている。五節句というように、現在にも五つの節句が伝えられている。
春の七草
漢鍾離:正しくは鍾離権(しゅうりけん)といい、漢代(あるいは唐代ともいう)の人で団扇を持っている。道教の一派全真教では「正陽祖師」として尊ばれている。李鉄拐から仙術を学んだ。点金の術を使い石を金に変え貧しい人々を救ったという。死者の魂をよみがえらせる扇を持っているという。
張果老:張果の尊称で、唐代の人。驢馬に跨り(あるいは徒歩で)、漁鼓と簡板(ともに楽器)を持つ。伝説によれば、久しく中条山に、唐の武則天のころには数百歳であったという。武則天が彼を宮中に招こうとしたが、死んだふりをして断った。いつも白いロバに後向きにまたがり、一日に数万里を旅し、休むときにはロバを小さく折りたたんで、小箱にしまっておいたということじゃ。
韓湘子:韓湘子は韓湘の尊称で、唐代の人といわれる。有名な韓文公(韓愈、768~824年)の姪(おい)あるいは姪孫(てつそん)であるといわれている。笛を吹いている。韓愈が潮州に左遷される旅の途中、大雪にあい、そこに韓湘子が現れ藍関の駅舎に泊まった。別れ際に韓愈の将来を予言したが、それがすべてあたったというということじゃ。
李鉄拐:鉄拐李ともいわれ、びっこでいつの世の人か判らない。瓢箪と杖(つえ=拐)を持っている。太上老君(老子)から仙術を授かったという。彼が太上老君に会うために天宮に赴いた時に弟子がその肉体を誤って焼いてしまい、仕方なく乞食の遺体にもぐりこんで行き返ったという。その乞食は足が不自由だったが、李鉄拐はその後をその姿ですごしたという。乞食が持っていた竹の杖を仙術で鉄の杖に変えそれを持っている。
曹国舅:宋の曹太后の弟で紹興4(1134)年に仙人になったという。雲陽板(陰陽版とも言う、一種の楽器でカスタネットのようなもの)を持つ。下の弟が権勢を借りて悪事を働くのを見て、災いが自分に及ぶのを恐れ、私財を散じて貧民を救い、自分は山に入って修道したという。
呂洞賓:呂祖ともいい、唐代の人。背に剣を負い、手に払子(ほっす)を持っている。放浪の途中漢鐘離に出会い、丹薬の製法を教わり、後に終南山に篭って仙術をおさめた。10の誘惑に打ち勝って魔法の剣を授かりそれを背負っている。なぜだか理髪屋の職業神であるという。
藍采和:韓湘子と共にこのグループにおける2人の青年で、花籠を持っている。破れた青い長衣をまとい、片足ははだし、大きな拍板を持ち、物乞いをしていたという。酒に酔えば歌い、天下を巡り歩いた。ある日空から音楽が聞こえてきて、天にのぼったという。
何仙姑:名は瓊(けい)、唐代の人で、グループ中たった1人の女性。手に蓮の花や葉をもつ。広州の雲母渓に住んでいて、14・5歳のときに雲母の粉末を食べ仙人になり、空中を飛ぶように歩き、毎日山中深く入って柔らかい筍を探し病気の母に食べさせたので、人々の尊敬を受けたという。
八仙のメンバーが今のようになったのは、宋末から元初のことだろうということじゃ。
月並みな挨拶で、去年は目出度いことなんていうのはあまり無かった。ニュースは概して暗いものが多く、衆人の不安をそそるものばかりで、うんざりさせられた。毎年毎年念頭には同じようなことを考え、今年こそは今年こそはと思うが、意に沿うようなことはなく、成るようにしか成らぬと半分諦め気分で、爺の頭だけが、年々お目出度くなるようじゃ
エジプトが仲介したハマスとイスラエルの停戦はハマス側が「イスラエルが停戦合意に違反してガザ地区に対する封鎖をほとんど緩和しなかった」として、停戦延長を拒否したためだという。実際、イスラエルはさまざまな“口実”を設け、実質的な封鎖緩和措置は取らず、ハマスだけでなく仲介者のエジプト政府も失望させた。結局、医薬品や食糧など生活必需品の不足は続き、国連や欧州連合(EU)もガザ住民の生活困窮に強い人道上の懸念を示す状況になっているという。
叶わぬ時の神頼りで、浅草名所七福神にでも出掛けることにしようかな。
sechin@nethome.ne.jp です。
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